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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(4):ファシズム芸術と大衆の彫刻

 政治の美学化は、ナチスの党大会に代表されるような「大衆の表現」によって実現する。ベンヤミンは「複製技術論」の第二稿と同年に発表した「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年、以下「パリ書簡」)のなかで、そうした大衆のあり方をさらに詳しく分析している。

 「パリ書簡」では、大衆の表現という言い方ではなく、より直接的に「ファシズム的芸術」(PB: 3, 487)と言い換えられる。ベンヤミンファシズムによる政治の美学化の試みを、一種の「芸術」として、それも大衆に働きかける「プロパガンダ芸術」(PB: 3, 488)としてとらえているのだ。

 大衆の表現=ファシズム的芸術においては、「大衆の自己了解」(ibid.)の可能性が排除されている。たしかに「ファシズム的芸術は、大衆のためにだけではなく、また大衆によって実行される」(ibid.)[強調原文]のだが、にもかかわらず大衆は、そうした芸術において自分自身を対象とし、自分自身と了解し合うことができない。

 これは言い換えると、自らの表現を通じて、プロレタリア大衆としての「自己認識」を獲得することができないということだ。なぜなら「もしそうなったら、この芸術はプロレタリア階級芸術であらざるをえず、そうした階級芸術を通じて、賃金労働と搾取という現実は正当に扱われることに、つまりそれが廃絶される道にいたるだろう」(ibid.)からである。

 ファシズム的芸術は、動員された大衆の正当な自己認識を阻害し、現実の変革を不可能にする。ベンヤミンはこのような作用を、ファシズム的芸術における「記念碑的造形」(PB: 3, 489)のうちに見ている。彼の考えでは、ナチスは政治を国家の造形芸術としてとらえ、大衆から民族を、民族から国家を造形することを目指していたという。ニュルンベルク党大会の壮麗なスペクタクルは、そのことをよく表している。全国各地から動員され、会場を埋めつくす大衆が「民族共同体」の記念碑へと造形される。

 ベンヤミンは「パリ書簡」のなかで、この点について次のように述べている。

 

ファシズムは自らの記念碑を堅固なものと見なしており、その記念碑を製作するのに用いる素材がとりわけ、いわゆる人間素材である。エリートは彼らの支配を、それらの記念碑において永遠化する。そしてこれらの記念碑こそ、人間素材が造形されうる唯一の手段である。(ibid.)

 

 ファシズムによる大衆の表現とは、ベンヤミンによれば、大衆そのものを「人間素材[人的資源]」として造形される記念碑的芸術のことである。そしてこの記念碑は、二重の仕方でファシズムの目的に役立つという。

 ひとつは、資本主義的な経済秩序の記念碑として、現在の所有関係が永遠に続くものであるかのように表象すること。そしてもうひとつは、記念碑的造形の実行者と受容者をともに「呪縛」することで、彼らから自律的に行動する能力を奪うことである。これは、芸術が本来もっているはずの「知的・啓蒙的エネルギーを犠牲にして、その作用の暗示的エネルギーを強化する」(ibid.)ことだという。

 ファシズム的芸術においては、大衆は芸術を通じて自己認識を獲得するどころか、逆に自律的な能力を持たない人間素材に変えられてしまう。こうして暗示にかけられた大衆は、所有関係を変革する権利を骨抜きにされ、総統の前で自ら「かたまり」を形成することになる。

 ひとつのかたまりとしての人間素材を加工し、永続的な記念碑を作り出すこと。この彫刻的な隠喩こそが、ベンヤミンのいう「政治の美学化」の核心なのだ。