てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

もうひとつの「おにまい」:『お兄ちゃんはおしまい!』について(1)

 ひとりのお兄ちゃんの話から始めたい。

 2019年6月1日、東京都練馬区で一件の殺人事件が起こる。農林水産省の元事務次官・熊澤英昭(当時76)が、長男の英一郎(44)を自宅で殺害したのだ。英昭は息子の首と胸を包丁で何度も刺し、やがて動かなくなったことを確認すると、みずから警察に通報した。父親は「引きこもりがち」の息子から家庭内暴力を受けており、逮捕当時、彼の身体には殴られたとみられるアザがいくつもあったという。

 英昭は警察の取り調べに対し、息子の殺害にいたった直接的な動機として、その直前に起こった別の殺傷事件を引き合いに出している。孫引きのかたちになるが、磯部涼によるルポルタージュ『令和元年のテロリズム』(2021)から引用しよう。

〔…〕犯行当日は熊澤邸に隣接する練馬区立早宮小学校で朝から運動会が行われていた。英一郎はその音に対して、「うるせえな、ぶっ殺すぞ」などと発言したという。英昭は「怒りの矛先が子供たちに向かってはいけない」と考え、台所の包丁を使って英一郎を殺害。その際、意識したのが、4日前に起こった川崎殺傷事件だった。「息子も他人に危害を加えるかもしれない。周囲に迷惑をかけたくなかった」。*1

 英昭が息子を手にかける4日前、練馬から25キロほど離れた川崎市多摩区では、児童ら20人が死傷する通り魔事件が発生していた。両手に包丁を持った男が、停留所でスクールバスを待つ小学生とその保護者の列に背後から近づき、次々と刺したのだ。通り魔はそのまま現場から走り去ると、数十メートル先の路上でみずからの首に包丁を突き刺し、自死した。動機にはいまなお不明な点が多いが、他者を合意なく巻き添えにして自殺するという意味では、典型的な「拡大自殺」といえる。

 川崎の凄惨な事件は連日報道され、英一郎の激しい暴力にさらされていた英昭も、テレビや新聞を通じて目にすることになった。老いた父親は、やがて息子が同様の通り魔になることを恐れるあまり、みずからの手で殺害することを決意したのだろうか*2

 磯部のルポによると、川崎通り魔事件の犯人・岩崎隆一(51)は幼少期に両親が離婚し、事件を起こすまでのおよそ20年間、伯父夫婦の家に引きこもっていたという。一方、実父に刺殺された熊澤英一郎は、典型的な引きこもりというわけではないものの、実質的にはそれに近い状態にあったようだ。『令和元年のテロリズム』を参考に、彼の半生を駆け足でたどってみよう。

 エリート一家の長男として生まれた英一郎は、難関で知られる中高一貫進学校駒場東邦中学校に入学する。ところが「空気が読めない」ために学校でいじめに遭い、家庭では母親に暴力を振るうようになっていく。このころ統合失調症(のちにアスペルガー症候群)と診断され、服薬を続けながら日本大学に進学するが、授業になじめず中退。代々木アニメーション学院に入り直し、アニメ制作会社への就職を試みるも不採用に終わる。流通経済大学への編入を経て、同大学院の修士課程を修了。それでもアニメ関連の仕事には就けず、いくつかの職とアパートを転々としたのち、母親が所有する豊島区目白の一軒家で自宅警備ならぬ「不動産管理」を始める。ひとり暮らしではあったが定職には就かず、生活費はすべて両親が送金し、父親が定期的に部屋の掃除に訪れていたらしい。オンラインゲーム『ドラゴンクエストⅩ』(2012)に没頭する日々を2年あまり送るが、しだいに精神状態が悪化。自宅はゴミ屋敷と化し、SNSの投稿にはヘイトスピーチや罵詈雑言が目立ち始める。やがてオンラインでのトラブルをきっかけにパニック状態となり、医療保護入院の末、ついに両親のいる実家へと戻った。事件のおよそ一週間前のことだ。

 就職をあきらめ、部屋で一日中ゲームをしていた英一郎は、事実上の引きこもり状態にあったといっていい*3。オンラインでの交流や発信は活発だったものの、トラブルを引き起こすことも多かったようだ。SNSの投稿履歴からは、強烈な劣等感と被害者意識に苛まれていたことがうかがえる。また、発達障害の影響によりゴミを捨てられないなど、生活能力にも大きな問題を抱えていた。精神を病んだ英一郎が実家に帰ってきたとき、裏返った肌着の襟元は汚れ、髭や爪は伸び放題で、母親に「浮浪者」*4扱いされるほどだったという。いわゆる「セルフネグレクト(自己放任)」の傾向があったのだろう。

 事件当時、磯部は周辺住民からの聞き取りをもとに、英一郎には9歳離れた妹がいると記していた。それからおよそ6カ月後、東京地方裁判所の証言台に立った母親の口から、熊澤家の妹の消息が明かされる。「私は息子がああなんで、娘が可愛くて仕方がなかったんです。でも変な兄がいるということで、縁談が駄目になり自殺してしまった。あまりにも悲しくて自分もヘリウムガスを使って死のうとしたんだけど、難しくて出来なくて」*5。母親の口ぶりには、娘の自死の原因が、ひいては家庭崩壊の責任が、息子の英一郎にあったとの思いが滲んでいる。

 一方、被告人・英昭は弁護側の質問に対し、涙ながらに反省と後悔の言葉を口にした。だが、息子の家庭内暴力に耐えかね、命の危険を感じていた父親にとって、殺害はほとんど不可避だったとも語っている。「どのようにすれば事件は避けられたのでしょうか?」と弁護士に問われた英昭は、こう答えたという──「息子にもう少し才能があれば良かった。そうすればアニメの道に進めたのに」*6

 奇しくも事件の翌月には、遠く離れた京都市伏見区のアニメ制作会社で、戦後史上最悪の放火殺傷事件が起こっている。京都アニメーションの第1スタジオに男が侵入し、ガソリンを撒いて放火。160名あまりのスタッフのうち36人が死亡、犯人を含む34人が重軽傷を負う大惨事となった。凶行におよんだ青葉真司(当時41)の家族もまた、祖父と父、それに妹が自死していたと報じられている。

 

 東京都練馬区の住宅で、引きこもりがちの長男が父親に刺されて死んだ。その翌年、やはり練馬区を舞台とするテレビアニメの企画がスタートする*7。ひとりのお兄ちゃんがおしまいになったこの場所で、もうひとりのお兄ちゃんが、そしてもうひとりの妹が、おしまいの物語をやり直そうとするかのように。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。もうひとつのおしまいのかたちが、きっとありえたはずだと信じて。〈続く〉

 

 

 

追記(2024/2/26)

2023年5月開催の「文学フリマ東京36」で頒布した低志会の会報第1号に本記事の解題を、11月の同37で頒布した第2号に続編を寄稿しています。関心のある方はぜひ。

worldend-critic.booth.pm

 

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*1:磯部涼『令和元年のテロリズム』、新潮社、2021年、57頁。

*2:『令和元年のテロリズム』で指摘されているように、逮捕当時の英昭の主張はのちの裁判での証言と食い違っている箇所があり、検察から発言の矛盾や曖昧さを追及されている。詳しくは同書の第4章「元農林水産省事務次官長男殺害事件裁判」を参照してほしい。

*3:磯部自身は前掲書のなかで、厚生労働省による引きこもりの定義を参照しつつ、英一郎がそこから外れていることを指摘している(71頁)。だが、裁判での父母の証言を見るかぎり、彼が引きこもりにきわめて近い状態にあったのは間違いないように思われる。

*4:同書、152頁。

*5:同書、152−153頁。

*6:同書、167頁。

*7:アニメプロデュース会社「EGG FIRM」の公式アカウントによると、2023年1月に放送を開始した『お兄ちゃんはおしまい!』は、企画から放送まで約3年かかったとされる。以下のツイートを参照。

EGG FIRM on Twitter: "★ねことうふ先生(@nekotou) 描き下ろしイラスト公開☆ 企画から約3年、無事完走出来ました! 制作中ずっとコロナで大変でしたが、 藤井監督以下スタッフの皆さんが 本当に頑張ってくれました🙇 ファンの皆さんも完走ありがとうございます! 皆さんの応援がスタッフの支えでした😭 #おにまい https://t.co/g9gpRYL0YO" / Twitter