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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(9):初期言語論における自然の沈黙

 ベンヤミンが目指す自然と人類との共演は、自然に言語を与えることと言い換えられる。これはどのような事態を指すのだろうか。彼は1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」(以下「初期言語論」)のなかで、きわめて神学的・形而上学的な言語論を展開している。

 ベンヤミンによると、生物と無生物とを問わず、あらゆる事物は言語を持っている。そして、それらの言語において自らの「精神的本質」を伝達するのだという。人間による事物の表象は、この伝達によって初めて成立する。「自らの精神的本質を表現において伝達しないようなものを、私たちは何ひとつ表象することができない」(US: 3, 141)と彼は述べている。

 つまり、ここでベンヤミンは、そもそも人間による「認識」を可能にする条件として、人間側の知覚や理解の枠組みを前提とするのではなく、事物の側に精神的本質の伝達可能性、すなわち言語の存在を認めているのだ。

 この精神的本質は、言語によってdurchではなく、言語においてin自らを伝達する、そのような自己であるとされる。ベンヤミンは精神的本質にあって伝達可能なものを「言語的本質」と呼び、そしてそのかぎりでの精神的本質が、言語において伝達されると述べている(ただし、後にこの二つは同一視されることになる)。

 たとえばランプの言語が伝達するものは、いま・ここにあるランプそれ自体ではなく、伝達可能なかぎりでのランプの精神的本質、つまり表現となった「言語―ランプ」(ランプの言語)である。したがって、事物の言語的本質とは、その事物の言語そのものなのだが、そうなると「どの言語も自分自身を伝達する」(US: 3. 142)[強調原文]ということになる。

 つまり、ベンヤミンにとって言語とは、自分自身において「自らを伝える=伝わる」もの、すなわち能動的であると同時に受動的でもあるような、いわば「中動態的なもの」にほかならない。

 ベンヤミンは言語を伝達の手段として、事柄を伝達の対象として、そして人間を伝達の受け手としてとらえる一般的な言語観を「市民的言語観」と呼んで批判する。彼にとって言語とは、たんなる伝達の手段ではなく、そこにおいて伝達そのものが生じる「媒質」なのだ。

 このように言語を定義づけたうえで、ベンヤミンは「人間の言語」をそれ以外の言語から区別する。人間の言語は他の言語とは異なり、「名づける言語」なのだという。

 ベンヤミンによれば、人間の言語的本質、すなわちその言語は名づけることであり、人間は事物を名づけることによって自らの精神的本質を伝達する。このとき精神的本質は、「名」において完全に言語そのものになっている。というのも「名とは、それによってdurchはもはや何ものも自己を伝達せず、それにおいてin自己が自ら、そして絶対的に自己を伝達するもの」(US: 3, 144)[強調原文]とされるからだ。

 したがって、人間が事物を名づけうるということは、人間の精神的本質があますところなく伝達可能であること、それゆえ人間の精神的本質が言語そのものであることを意味している。

 これに対して事物の精神的本質は、人間のそれとは異なり、完全に伝達可能なものにはなっていない。なぜなら、ベンヤミンの考えでは、事物は「純粋な言語的形成原理」としての「音声」を欠いているために、精神的本質を伝達する媒質として不完全だからである。

 事物は音声言語によってではなく、「魔術的」な「物質的共同性」によって互いに自己を伝達し合う。さしあたってこれが、ベンヤミンのいう自然の沈黙である。

 さらに、ベンヤミンは彫刻や絵画の言語といったものが、事物の言語、すなわち「名を欠いた非音響的な言語、物質からなる言語」に基礎づけられていることを指摘する。つまり、彼がファシズムによる大衆の表現を「芸術」と同一視するのは、それがより高次の音声言語へと翻訳されないまま、大衆を物質的・魔術的共同性のうちに呪縛するためにほかならない。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、人間と事物とのより解放的な関係、すなわち言語的・精神的共同性を打ち立てることである。したがって「複製技術論」における「政治の美学化」と「芸術の政治化」、あるいはファシズムコミュニズムの対立は、「初期言語論」における二つの共同性をそれぞれ変奏したものと考えることができるのだ。