ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(3):ファシズムと大衆の表現

 これまでの繰り返しになるが、ベンヤミンコミュニズムによる「芸術の政治化」を主張したのは、ファシズムによる「政治の美学化」に対抗するためだった。とすれば、ファシズムの戦略についての彼の分析を参照することで、コミュニズムに期待していたものを明らかにすることができるはずだ。

 では、ファシズムによる「政治の美学化」とは具体的に何を意味するのか。ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、次のように説明している。

 

大衆は所有関係の変革に対する権利をもっている。ところがファシズムは、所有関係を保存しつつ、大衆に表現を与えようとする。ファシズムは一貫して、政治的な生の美学化を目指している。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる「政治の美学化」とは、一言で言えば、大衆に「権利」ではなく「表現」を与えることである。これはどういうことだろうか。

 まず、ここで言われている大衆の権利とは、引用箇所にもあるように、マルクス主義的な「所有関係」を変革する権利のことだ。これは言い換えれば、革命によって資本主義的な経済秩序を打倒することを意味している。というのも、この大衆とは、ベンヤミンの考えでは、貧しい賃金労働者からなる「プロレタリア大衆」だからである。

 ベンヤミンは「複製技術論」の別の箇所で、現代社会では「大衆がますます増大していること、そして大衆の運動がますます強力になっていること」(KZ: 7, 355)を指摘しているが、これは「現代人のプロレタリア化の進行」(KZ: 7, 382)と表裏一体の出来事であるという。そして彼の考えでは、ファシズムは従来の所有関係を保存したまま、新たに生み出されたプロレタリア大衆を組織しようと試みている。しかしそのためには、所有関係を変革しようとする大衆の正当な要求、つまりは「権利」を抑え込まなければならない。そこで要請されたのが、大衆の「表現」である。

 では、ファシズムによる大衆の表現とは具体的にどのようなものか。ここではほとんど説明されていないが、先の引用箇所に関連した注のなかで、「大がかりな祝賀パレードやマンモス集会、スポーツ大会、そして戦争」(ibid.)といったものが挙げられている。さしあたって大衆の表現とは、大衆を動員して盛大に行われる国家的規模のイベントを指す、と考えていいだろう。

 このときベンヤミンが念頭に置いていたのは、おそらく、ニュルンベルクで毎年開催されていたナチスの党大会だと思われる。ドイツ史研究者の田野大輔が指摘するように、それはまさに「壮大な規模で上演されたスペクタクル、メディアを動員したアウラの祭典」であり、そこでは「整然と行進する隊列、大量のハーケンクロイツの旗、サーチライトの照明効果など、視覚に訴える象徴的・祭儀的演出が利用されただけでなく、ファンファーレや「ハイル」の斉唱、ドラムの連打といった聴覚的な演出手法もふんだんに導入されて、ナチズムの提唱する「民族共同体」がオーディオ・ヴィジュアルに表現された」*1

 ナチスの党大会は、視覚や聴覚に訴えかけるさまざまな趣向を通じて、集められた大衆を「民族共同体」として演出する。ベンヤミンが「大衆の表現」と言い表したのは、具体的にはこのような事態である。

 ところで、ここで用いられている「表現」という言葉は、ベンヤミンの初期言語論においても重要な役割を持っている。この点については後述するが、彼がファシズムによる大衆の表現と言うとき、そこで含意されているのは、大衆をあたかもひとつの事物であるかのように、魔術的に「呪縛」することである。ベンヤミンは書記言語論のなかで、このような結びつきを「言語」に基づいた精神的共同性と対置し、「類似性」による魔術的共同性と呼んでいた。

 いずれにせよ、ここで重要なのは、政治の美学化が「大衆の表現」によって引き起こされるということだ。では、それがなぜファシズムに有利に働くのか。次回は「複製技術論」の第二稿と同年に発表された「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年)を参照しつつ、政治の美学化がいかにしてファシズムを強化すると考えられるのか、ベンヤミンの思考過程をたどることにしよう。

*1:田野大輔『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』名古屋大学出版会、2007年、30頁。