良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか ──『羅小黒戦記』についての考察

 先日、日本語吹き替え版が公開されて話題になっている映画『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ)を観てきた。もともとは2019年に中国で制作されたアニメ映画で、先に公開された日本語字幕版もSNSなどで評判になっていたから、個人的にとても楽しみにしていた。

 結論から言うと、私はこの中国産アニメ映画をたいへん楽しむことができた。ディズニーや日本アニメに負けずとも劣らない高度に洗練されたアニメーションが、日本とは微妙に異なった中国の文化背景や生活描写と違和感なくミックスされていて、ふだん日本の深夜アニメばかり観ている私にはとても新鮮に感じられた。とくにさまざまな「目」の表現によるキャラクターの豊かな表情と、ダイナミックな戦闘シーンの描き方には、日本アニメの色濃い影響がうかがえつつも、それをほぼ完全に消化して独自に進化させつつある中国アニメの勢いが現れているように思えた。

 しかしながら、この作品を楽しめたことが果たして本当によいことだったのかどうか、私には判断がつかない。というのも、『羅小黒戦記』の物語にはかなりきわどい、言ってしまえば中国共産党の「プロパガンダ」的な側面があるようにも感じられたからだ。そこで提示されていたのは、ある意味で徹底して現状肯定的・体制維持的な価値観だった。以下では、この点について私が感じたことをかいつまんで述べてみたい。なお重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 さしあたって『羅小黒戦記』は、妖精と人間の共生可能性をめぐる物語である。主人公の妖精・小黒(シャオヘイ)は人間によって森から追い出され、同じく妖精である風息(フーシー)らに救われる。しかし、風息を追ってきた強力な術者である人間の無限(ムゲン)に捕まり、道中をともにするうちに、憎んでいたはずの人間やその社会への理解を深めていく。妖精たちは館(やかた)という独自組織を中心に人間と共生しているのだが、これに反発する風息らの一派は、小黒の秘められた力を利用して人間を駆逐し、故郷を取り戻そうと企んでいた。しかし、最終的に小黒は風息ではなく、無限をはじめとする館の勢力と協力し、風息一派を打倒することになる。これが『羅小黒戦記』のあらすじである。

 一見すると、この物語はたんによくできているだけではなく、政治的にも正しい(ポリティカリー・コレクト)ように思える。妖精の分離独立を唱える過激派を倒し、人間との共生を目指す穏健派が勝利する物語だからだ。いわゆる「多文化共生社会」のスローガンを地で行くような展開である。たいていの日本人を含め、それなりの教育を受けてきた現代人は、この結末におおむね満足するのではないかと思う。だが、ここには罠がある。

 まず確認しておくべきなのは、物語のなかですでに、妖精と人間の共生社会がある程度実現されているということだ。妖精たちは正体を隠して人間社会に溶け込み、あるいは人間の立ち入れない館で他の妖精とともに暮らしている。人間嫌いの妖精も少なくないが、それでも風息らのように人間と対決しようとする勢力はごく一部にすぎない。作中のこうした事情を踏まえると、風息一派の企みは、せっかく築いてきた共生社会を文字通り破壊するものとして映る。主人公が彼らを止めようとするのも、また観客がそれを応援するのも当然かもしれない。

 しかしながら、ここには重大な倫理的問題が隠れている。その問題とは、妖精と人間の共生社会が実現しているという前提そのものが、多数派である人間にとってきわめて都合のよいものであるということだ。そもそも妖精たちが人間社会に溶け込み、あるいは館というバーチャルな共同体で暮らしているのは、彼らが人間に住処を奪われ、そのように生きることを強いられたからである。人間には、つまり多数派である私たち観客には、妖精の居場所を奪ったという明確な「罪」がある。にもかかわらず、作中では妖精の側から現状を肯定的に描くことで、人間=観客を免罪してしまう。彼らだっていまの社会に満足しているんだからいいじゃないか、というわけだ。

 その一方で、風息らの目指す故郷の奪還は、手段はともかく主張としてはまったく正当であり、本来であれば人間社会の側が(妖精居住地を設けるなどして)適切に対応すべき事柄である。にもかかわらず、本作では彼らを同じ妖精に鎮圧させることによって、いまある社会を維持していくことが(私たち人間にとってはもちろん)妖精にとっても最善である、というメッセージを発してしまう。妖精の一方的な犠牲に上に成り立っている「多文化共生社会」を、ほかならぬ妖精の側から擁護させているのだ。これによって、人間=観客は安心して自分の罪を忘れることができる。妖精が住処を追われたのはたしかに不幸なことだったが、いまでは彼らも現代文明の恩恵を受けてそれなりに幸せにやっているらしい、よかったよかった──。『羅小黒戦記』を観終わったときのすがすがしい気持ちは、罪を赦された犯罪者のそれと同じである。

 このように言うと、たかがアニメに対して何を熱くなっているのか、と白い目で見られるかもしれない。実際、私自身もフィクションの解釈に倫理や道徳を過度に持ち込むのは好きではない。しかし、曲がりなりにも多文化共生をテーマとする作品が、最終的に多数派の免罪という結末にいたるのは、いささかグロテスクと言うべきではないだろうか。もちろん、エンターテインメントとしては完全に正しい。観客は自分の罪と向き合わずに済み、それどころか免罪までしてくれるのだから。この作品を「楽しめた」ことがよいことだったのかわからない、というのはこのような意味である。

 わざわざ言うまでもないことだが、本作の「妖精」という存在には、各地の少数民族をはじめとする中国社会の少数派が仮託されていると考えられる。その意味で『羅小黒戦記』には、中国の多数派の人々が自国の少数派をめぐる問題をどのように捉えているか、または捉えたいと思っているか、というきわめてアクチュアルな問いが含まれている。そして、この作品の出した答えは、多数派にとって都合のよい現状肯定と体制維持という、まさに中国共産党プロパガンダそのものだった。私はチベット自治区ウイグル自治区で実際に何が行われているのか、正確に知っているわけではない。報道されていることのどこまでが真実なのかもわからない。しかし、私が抱いたスクリーン上の妖精たちへの共感が、現実に弾圧されている少数民族に対する憐れみや同情へと開かれるのではなく、現体制の暗黙の支持へと物語的に滑り落ちていくことに、違和感を覚えずにはいられなかった。これはあまりにも「リベラル」すぎる見方だろうか。一党独裁の中国では受け入れられない価値観を押し付けているのだろうか(日本でも一般的とは言いがたいが)。そうかもしれない。しかし、本作を手放しで絶賛する声が多いことを考えると、私にはどうしても言うべきことのように思える。

 最後にもうひとつ、作品の細部についても書いておきたい。人間でありながら強大な術を駆使して並みいる妖精を圧倒し、畏怖と敬慕を集める無限は、まさに人間=観客の理想像である。彼は「多文化共生社会」の守護者であり、私たちの理想的なアバターとして配置されている。だが、法と秩序の執行者がこのように強力に、また魅力あふれる存在として描かれる点にも、どこかプロパガンダ的な匂いが感じられる。無限は、言ってみれば中国共産党の自画像のようなものだ。しかし、そうだとすれば、彼と対になる「悪人」もまた作中に登場させるべきだったのではないか。つまり、妖精を支配し、追放し、虐待する悪しき存在としての人間をこそ執拗に描くべきだったのではないか──少数民族自治区中国共産党が行っているように、とは言わないまでも。

 人間が無限のような善人だけではないことがわかれば、風息一派の正当性はもとより、無限と協力して彼らと対決する小黒の決断にももっと重みが出てくるだろうし、何より、観客が自分の罪を忘却して気持ちよくなることもない。実際、同じような多文化共生のテーマを扱った日本のアニメ作品、たとえばいま放送中の『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかⅢ』などには、しばしばこうした悪人が登場する。なぜ『羅小黒戦記』には悪人が出てこないのだろうか。それは、私たち多数派の人間が例外なく善良であると信じたい、それによって自分の罪を否認したいからではないか。繰り返しになるが、これはエンターテインメントとしては大正解である。プロパガンダとしてもそうかもしれない。しかし、アニメはその先まで行けると私は信じている。

 

 

追記:もうひとつの結末

 

 この記事を書き終えた後、『羅小黒戦記』を観て感じたことをもう一度自分のなかで反芻していたのだが、本作のテーマに深く関係する重要なポイントについて書き忘れていたことに気づいたので、ここに追記しておきたい。そのポイントとは、物語のクライマックスで無限と対決する風息が口走った、ある台詞である。正確な言い回しは覚えていないが、それは「小黒が自分たちに協力してくれる可能性もあった」という趣旨の台詞だった。この台詞は小黒本人によってただちに否定されてしまうが、しかし、現状肯定と体制維持へと収束する『羅小黒戦記』の「別の可能性」を暗示しているという点で、じつはきわめて重要な意味を持っていたのではないかと思う。

 風息は、無限の影響で人間との対立に懐疑的になった小黒の説得に失敗し、故郷の奪還という自らの目的のために、任意の空間を支配する小黒の力を無理やりに奪う。これによって風息は、それまで小黒と無限に寄り添って物語を追ってきた観客にとっての明確な「敵」となり、最終的な敗北へといたる。しかし、本記事にも記しているように、風息の主張そのものには十分な正当性があり、二人が最初に出会った経緯を考えても、小黒が無限ではなく風息に協力していた「世界線」を思い描くのはまったく難しくない。その世界では、おそらく小黒の能力によって風息の故郷が取り戻され、妖精の、妖精による、妖精のための「独立国家」が誕生していただろう。妖精の事実上の抑圧の上に成り立つ「多文化共生社会」とは異なる、オルタナティブな社会が実現していただろう。

 こうした「別の可能性」は、もしかしたらいまの中国社会ではタブーとされているのかもしれない。中国共産党による検閲で、そもそも発表することさえできないという事情もあるかもしれない。だが、物語がいよいよ現状肯定的・体制維持的な展開へとなだれ込んでいくなかで、それとは別の未来、別の世界を暗示する台詞が差し挟まれていることに、私はもっと早く気づくべきだった。たとえそれが、風息のたんなる負け惜しみにすぎなかったとしても、彼の思い描いたもうひとつの結末は、いわばフィクション内フィクションというかたちで、あるいは二次創作的な想像力というかたちで、私たち観客へとひそかに告げ知らされている。いまある現実とは別の、ありえたかもしれない可能性を、歴史=物語のなかで敗れていった者たちの夢として描き込むこと。私はそこに、中国のアニメ制作者の矜持が現れているように思う。

フィクションvs.フェミニズム:『宇崎ちゃんは遊びたい!』について

 2019年10月、日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボレーションした献血PRポスターがSNS上で「炎上」した。胸の大きさを強調した(しばしば「乳袋」と呼ばれる)衣装を身にまとった女性キャラクター(宇崎ちゃん)のイラストが、主にフェミニストから「女性を性的にモノ化している」と批判され、これに対してポスターを擁護したいオタクが反発するという、近年ではあまりにもよく見かけるようになった「フェミニストvs.オタク」案件のひとつである。この炎上自体はSNSを大いに賑わせたあと、ポスターの掲示期間終了とともにある程度沈静化したが、2020年8月現在も宇崎ちゃんと同じ体型だという女性アカウントがフェミニストと個別にやり合っていたり、宇崎ちゃんの大きな胸の形はリアルではなく男性の陰嚢と同じだ、という斬新な切り口で罵り合ったりしている。

 私自身は炎上当時、原作漫画を読んだことがなかったので、「これは女性の性的モノ化ではなく、むしろ胸の大きな女性をエンパワーメントするものだ(したがって問題ない)」という主張を唱えていた。大きな胸を誇らしげに突き出してみせる宇崎ちゃんの姿は、男性オタクの性的なまなざしに一方的にさらされるだけのたんなる「モノ」ではなく──あるいは「モノ」であると同時に──、もっと主体的で自立した存在として描かれているように思えたからだ。

 2020年7月、満を持してTVアニメ『宇崎ちゃんは遊びたい!』の放送がスタートする。相変わらず原作を読んでいない私は毎回とても楽しみに見ているのだが(声優さんの演技が大変素晴らしいと思う)、そのなかで、献血ポスター炎上問題をめぐるそれなりに重要そうな気づきを得たので、何番煎じかはわからないがここに記しておきたい。

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、基本的に「ぼっち」とされるセンパイが、彼を慕う後輩の宇崎ちゃんから執拗にからかい半分のアプローチを受けるという構造になっている。例のポスターには「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?」という挑発的なセリフが書き込まれていたが、アニメのほうも万事だいたいこの調子で、「センパイ、○○なんスか?」という宇崎ちゃんの「煽り」を受け続けるセンパイが、それに対して「うるせー」とかなんとか言いながら、結局は彼女のペースに巻き込まれていく様子がコミカルに描かれる。dアニメストアやニコニ動画でも配信しているので、未見の方はぜひ一度見てほしい。

 私がこのアニメを見てまず驚いたのは、宇崎ちゃんがどうやら自分の胸の大きさを自覚していないように見える、ということだ。宇崎ちゃんはしばしば、ちょうど胸の位置に「SUGOI DEKAI」とプリントされたラグランスリーブTシャツを着ているのだが、にもかかわらず、彼女の言動からは自分の胸が周囲の人とくらべてもいかに「でかく」、また男性からの性的なまなざしを集めやすいか、ということについての自己意識が欠落している(もしかしたらわざとそう振る舞っているのかもしれないが、そうだとすると、これは作品解釈上かなり重大な問題である)。この点で、例のポスターが「胸の大きい女性をエンパワーメントする」という私の主張はもろくも崩れ去ってしまった。残念ながら私は男性であり、いわば加害者側なので偉そうなことは言えないが、現実の胸の大きな女性がいかにそのことについて悩み、苦しんできたかを考えると、宇崎ちゃんの態度はまったく驚くべきものである。宇崎ちゃんのキャラクター造形には、彼女たちの苦しみに寄り添ったうえで、なおそれを自分の個性として力強く肯定してみせるという内面の屈託は感じられない。「SUGOI DEKAI」というコピーからは、むしろ、鑑賞者である男性オタクの性的なまなざしを「ネタ」として免罪するような意図さえ透けて見える。

 他方で、私がアニメを見て考えさせられたのは、宇崎ちゃんというよりもセンパイの描き方に対してだった。宇崎ちゃんに執拗につきまとわれるセンパイは、彼女に対して、基本的にたんなる大学の後輩か、せいぜい異性の友人として接しようとしている。言い換えれば、宇崎ちゃんを性的な対象としては見ていない、あるいは意識的にそう見ないようにしている。宇崎ちゃんのあまりにも天真爛漫な言動には、あからさまに性的な誘惑と受け取られかねないアプローチ(たとえば「センパイの家に泊まりたい」という発言など)が多数含まれており、センパイはその都度赤面したり動揺して口ごもったりする──そして鑑賞者はそれを見てニヤニヤすることが期待されている──のだが、それでも、彼は彼女をあえて邪険に扱うことで、性的な対象として見ることを一貫して拒否しているように見える(原作ではもっと仲が進展しているのかもしれないが、少なくともアニメではいまのところそうである)。要するに、センパイは例のポスター問題でフェミニストが批判するところの「女性の性的モノ化」を、なんとか避けようとしているように見えるのだ。

 これはかなり重要なポイントである。というのも、センパイというキャラクターはその言動を見るかぎり、フェミニズム的な価値観をある程度(完全にではないにせよ)内面化していると考えられるからだ。センパイは女性(宇崎ちゃん)を、自分の性的欲求を充足するためのたんなる道具や手段──つまりは性的な「モノ」──とはまったくみなしていない。それどころか、おそらく「女性の性的モノ化」を良くないことだと考え、意識的にそれを避けようとさえしている(たんに関心がないだけかもしれないが、少なくとも、彼の同期である金髪男性キャラのセクハラ発言とは対照的である)。宇崎ちゃんの大きな胸に思わず視線が行ってしまうことはあるが、センパイができるだけそういう目で彼女を見ないようにしているということは、実際に作品を見れば明らかである。だからこそ、すぐに二人が結ばれてめでたしめでたしとはならず、『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品自体がコメディとして成立する。

 逆にいえば、宇崎ちゃんは、センパイのそのようなフェミニズム的に正しい態度に挑戦する存在として描かれている。自分の胸の大きさを自覚せず、にもかかわらず「SUGOI DEKAI」などとアピールしてつきまとってくる小学生のような背丈の異性の後輩という設定は、現実的には(そういう体型の女性が実際にいるとしても)なかなか考えにくい。むしろ、宇崎ちゃんは徹底的にフィクショナルな存在であり、センパイが回避している「女性の性的モノ化」をアフォードするようなキャラクターとして造形されていると考えるべきだろう。つまり、彼女の「○○なんスか?」という煽りは、センパイに向けられたものであると同時に、フィクションからのフェミニズムに対する挑発でもあるのだ。

 このように考えると、例のポスターに対するフェミニストの批判は、まったく正当なものであるように思えてくる。そもそも宇崎ちゃん自身が、センパイのフェミニズム的な正しさを揺るがすためのフィクショナル・キャラクターなのだとしたら、当然、フェミニストは批判的に応答せざるをえない。彼ら/彼女らが見落としていることがあるとすれば(ポスターに描かれていないので仕方ないのだが)、少なくとも原作漫画やアニメには、宇崎ちゃんの「性的モノ化」への誘惑に耐える、あるいは受け流すセンパイというカウンターパートが存在することであり、さらにその様子をニヤニヤしながら眺める第三者としてのキャラクター(カフェのマスターとその娘)まで存在することだろう。例のポスターには、残念ながら、原作の持つこうした複雑な構造や文脈がまったく反映されていない。とくに問題なのは、宇崎ちゃんのアピールする相手がセンパイではなく、ポスターを見る鑑賞者自身になってしまっていることだ。

 アニメでも繰り返し強調されているように、鑑賞者はたんにセンパイに同一化するのではなく、宇崎ちゃんとのやりとりを第三者視点で「見守る」ことが期待されている。宇崎ちゃんが挑発するのはあくまでセンパイ相手であって、鑑賞者ではない。この構図にはフェミニズムに対するそれなりに辛辣な、屈折した見方がある。というのも、これは「女性の性的モノ化」を回避しようとするセンパイが、彼を挑発し誘惑し陥落すべく造形された宇崎ちゃんのような女性キャラクターに迫られても、果たしてフェミニズム的に正しい態度を維持できるのか──その顛末を鑑賞者はニヤニヤしながら眺めてほしい、というある意味で趣味の悪い実験だからだ。しかし、この趣味の悪さは『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品が、たんに「女性の性的モノ化」を肯定したり促進したりするためだけのポルノグラフィではない、ということの裏返しでもある。そこにはもっと高度な戦略がある。フィクションの力によってフェミニズム的な正しさを揺るがすという、悪趣味でしたたかな戦略が。

魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、『プリキュア』や『ONE PIECE』など、さまざまなアニメが新作の放送を延期している。私が今期楽しみにしていた『放課後ていぼう日誌』も、4話以降の放送を休止するという。これは同作を含む「日常系」と呼ばれるジャンルのアニメ作品にとっては、とくに危機的=批評的(critical)な事態だ。というのも、日常系アニメとは、まさにそのような危機が起こらないこと、つまりは「日常」を前提としてつくられてきたからである。

2011年に出版された『“日常系アニメ”ヒットの法則』(キネマ旬報映画総合研究所編)では、日常系の特徴について次のように語られている。

 

世間を揺るがすような大きな事件が発生するわけでも、超能力を持ったキャラクター同士が戦うわけでもない。それどころか、学園ドラマでは不可避とも言える「恋愛」に関する描写も皆無だ。小さな出来事に一喜一憂する「(その作品世界では)ごくごく普通の学生」の「当たり前の日常」が描かれていく。(26頁)

 

日常系アニメでは、多くの犠牲者を出すような大事件は、それが人為的なものであれ自然災害であれ、決して起こらない。したがって当然、コロナ禍もない。『放課後ていぼう日誌』に登場する個性豊かなキャラクターたちは、ウイルス感染のリスクにおびえることもなく、のびのびと釣りにいそしんでいる。彼女たちが通う学校も例年どおり入学式を開き、教室で授業を行う様子が描かれる。これは現実とは違う、フィクションなのだから当然といえば当然だ。けれども、在宅勤務のかたわら、パソコンの画面に小さなウィンドウを開き眺めていると、どこか落ち着かない気分にさせられる。

外出自粛要請が続く4月26日に放送された『サザエさん』は、主人公の磯野家がゴールデンウィークの旅行の計画を立てたり、動物園に出かけたりする話だった。これにネットの一部では「不謹慎だ」とクレームがついたという。多くのひとは「現実とフィクションの区別がついていない」と苦笑いするにちがいない。だが、たしかにこのふたつの関係は、それほど単純ではないのかもしれない。『サザエさん』もまた、日常系アニメと同様に「当たり前の日常」を描き、長らく「国民的アニメ」として私たちに寄り添ってきた。そこには単純な二分法ではなく、入れ子状の構造がある。フィクションをフィクションとして、この現実とは切り離された世界として鑑賞するという態度のほうが、じつは例外的なのかもしれない。

日常系アニメが流行し始めた2000年代後半、現実とフィクションはいまほど截然と切り分けられてはいなかった。アニメのなかのキャラクターは「俺の嫁」であり、作品は現実にある場所を背景として採用し、「聖地巡礼」によってそれらは地続きになった。一部のオタクたちは、あたかも現実よりもフィクションのほうが存在論的に優位であるかのように振る舞いさえした。もちろん、彼らが現実とフィクションを混同していたわけではないだろう。そうではなく、そもそもフィクションをフィクションとして割り切って鑑賞することの必然性が、いまよりもずっと小さかったのだ。そこに描かれていたのは、私たちのそれと同じ「当たり前の日常」だった。

2011年の東日本大震災福島第一原発事故のあと、日常系アニメはふたつの課題を背負い込んだように見える。ひとつは、「当たり前の日常」がいかに脆く、壊れやすいかということ。そしてもうひとつは、この日常が誰かの「犠牲」のもとに成り立っている(ことが誰の目にも明らかになった)ということ。震災前後の一部のアニメ(たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』『とある科学の超電磁砲S』『結城友奈は勇者である』など)が、日常をたんに謳歌するものとしてではなく、命がけで守るべきものとして描いたのは、前者に対するアンサーだろう。その一方で、後者の課題は重い。それは日常を守ることそのものの根拠を揺るがす、倫理的な問いだからだ。福島に原発を押し付け、あるいは沖縄に基地を押し付けることで成立してきた「当たり前の日常」に、守るべき価値などあるのか。私たちの一見おだやかな日常は、つねに彼らの犠牲の上に成り立ってきたのではなかったか。哲学者の高橋哲哉は、これを「犠牲のシステム」と呼んだ。

日常系アニメが、震災も疫病もない「当たり前の日常」を描くかぎり、私たちはそれを当然フィクションとして受け取らざるをえない。そんなものはもはや存在しないこと、存在すべきではないことを知っているからだ。かくして日常系はアニメのたんなる一ジャンルとなり、フィクションを文字通り現実とは別の世界と見なす「異世界転生」ものに取って代わられる。現実と地続きの「日常」から、現実と切り離された「異世界」へ。異世界転生とは、いってみれば、聖地巡礼に対する異議申し立てだ。ひとはトラックに轢かれることなしに、異世界に巡礼することはできない。現実とフィクションが重なり合っていた幸福な時代は終わりを迎えた。

『放課後ていぼう日誌』は、海沿いの田舎町に引っ越してきた主人公が高校の「ていぼう部」に入部し、先輩や同級生とともに釣りを始める物語だ。一見すると、同作は震災以後あらわになった日常の壊れやすさにも、あるいはそれが前提としている犠牲のシステムにも、とくだん注意を払っていないように見える。このアナクロニックな作品は、すでに述べたとおり、ウイルスの世界的な蔓延によって放送休止に追い込まれた。あたかもそのこと自体が、日常系アニメの抱える困難を象徴的に表しているかのようだ。

けれども、『放課後ていぼう日誌』は、時勢の変化に無自覚な旧態依然とした日常系アニメではない。それは日常の描写を通じて日常を問い直す、いわば「ポスト日常系アニメ」だ。放送された3話までの内容をつぶさに見ていくと、同作には切り離されてしまった現実とフィクションの関係が、釣りというモチーフを通じて巧妙に織り込まれていることがわかる。

もともと手芸部に入部する予定だった主人公は、魚を含め生き物全般が苦手で、釣った魚に対しても「気持ち悪い」と繰り返す。たしかに作中では、デフォルメされた平面的なキャラクターやふわふわしたぬいぐるみとは対照的に、魚は独特の光沢を放つリアルな存在として描かれている。他方で、魚に対するこの生理的な嫌悪感の表明は、言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版ラストシーンの「気持ち悪い」に通じるものだ。『放課後ていぼう日誌』の主人公にとって、魚とはそもそもコミュニケーション不可能な「異物」であり「他者」なのだ。

さしあたって同作は、主人公が釣りを通じて、このまったき他者としての魚とある種の関係性を構築する(=釣る/釣られる)物語として進行する。ただし、ここで注目したいのは、この「釣る」という行為そのものが、広く「消費者をひっかける」という意味のジャーゴンとしても機能しているということだ。この点で『放課後ていぼう日誌』は、魚だけではなく、私たち視聴者を「釣る」ことを目的とした、きわめて自己言及的な作品として理解できる。

視聴者は作品に「釣られる」存在であり、また作中のキャラクターにとっては根本的な異物でもある。したがって、この作品における魚とは、まさに私たち視聴者自身のことだ。私たちは魚として、つまりはキャラクターにとっての他者として『放課後ていぼう日誌』の世界に入り込む。実際、第1話では、釣り上げられたタコが主人公の足元にへばりつき、スカートのなかに触手を伸ばす。主人公は卒倒する。この性的なニュアンスの強い出会いの描写は、それを喜んで見るオタク、ひいては私たち視聴者一般の「気持ち悪さ」を的確に表している。

キャラクターと対等の存在としてではなく、物言わぬ魚の化身として作中に描き込まれること。もはや地続きではない、切断されてしまった現実とフィクションの関係、視聴者とキャラクターの非対称的な関係がそこには暗示されている。私たちは「俺の嫁」どころか、いまやキャラクターにとって「気持ち悪い」存在であり、拒絶の対象である。

『放課後ていぼう日誌』は、震災や疫病によってすれ違ってしまったこの両者を、再び和解させようとする試みといえるかもしれない。それは具体的には、断絶したコミュニケーションに代えて、「釣る/釣られる」という新たな関係を導入することを意味する。キャラクターは釣り、私たちは釣られる。第3話で、主人公は疑似餌を操り、あたかもそれが生きているかのように不規則に動かすことで、目当ての魚に食いつかせた。これはアニメーションそのものの隠喩ではないか。アニメもまた、静止画を連続的に表示することで運動の錯覚を生み出し、たんなる絵にすぎないものに生命を吹き込む(animate)。小魚のかたちをした疑似餌、それにまんまと釣られる私たち……。

「気持ち悪い」異物としての私たちは、釣られる存在としてようやくフィクションの世界に居場所を得る。初めて自力で大物を釣り上げた主人公は「怖かった」と涙するが、それはやがてレジャーへと変わるだろう。私たちはキャラクターとの駆け引きを通じて、キャラクターに喜びや楽しみを与え、そして最終的には釣り上げられ食べられるべき存在なのだ。主人公は釣った魚に「とどめ」を刺す。魚としてフィクションのなかに迎え入れられた私たちは、キャラクターの手で再びそこから放逐される。それは釣ったことの「責任」であるといわれる。

視聴者は作中での代理的な死をもって、キャラクターの血肉となる。作品から退場し、そのことによってキャラクターに生の喜びを与える。これは一種の代償、いや褒章ではないか。私たちがフィクションのなかに束の間受け入れられ、そして結局は排除されること、それそのものがキャラクターの糧となるのだから。そこでは死が意味づけられる。私たちのフィクショナルな死は、魚を釣り上げて喜ぶキャラクターの笑顔と引き換えなのだ。

『放課後ていぼう日誌』は、もはや現実とフィクションが地続きではない時代の、視聴者とキャラクターのありうべき関係を描いている。私たちは魚として、震災も疫病もないユートピアの海を泳ぎ回る。

失われた過去の可能性:『映像研には手を出すな!』について

 2020年1月から放送されているアニメ『映像研には手を出すな!』の第1話には、宮崎駿監督が手がけた『未来少年コナン』(1978)を思わせるアニメが登場する。主人公の浅草みどりは、幼少期にこの作品を見たことがきっかけで、アニメーション制作の道を志すことになる。実際にアニメ関係の仕事に就くかどうかは別にして、かつて似たような思いを抱いていた視聴者も少なくないはずだ。

 けれども『映像研』には、それを見る私たち視聴者とは根本的に相容れない特徴がある。浅草氏をはじめとする主要キャラクターもまた、アニメであるということだ。彼女たちは「実写」ではない。私たちのように生身の肉体を持っているわけではない。『映像研』のおもしろさの一端は、アニメのキャラクターがアニメをつくるという、この自己言及的な構造にある。

 しかし、そうだとすれば、第1話の『コナン』は、はたして私たちがふつう考えるような「アニメ」なのだろうか。それ自身アニメであるキャラクターにとってのアニメとは、むしろ、私たちにとっての「実写」と同じ意味を持つのではないか。すべてがアニメーションで表現されるこの作品のなかでは、原理的に、実写とアニメの区別は成立しない。『映像研』の第2話では、映像研の活動方針をめぐって「実写をやれ」「やらない」という教師とのやりとりが描かれるが、そもそもこの作品がアニメとしてつくられている以上、作中で実写とアニメを厳密に描き分けることはできない。このやりとりは、したがって『映像研』の本質的なパラドックスに触れている。

 実際、浅草氏の外見は、シンプルな描線で漫画的にデフォルメされているという点で、コナンとたいして変わらない。アニメキャラクターとしての浅草氏と、彼女が見るアニメのキャラクターとのあいだに、表現上の、あるいはこう言ってよければ、存在論的な区別は存在しない。二人はともに、アニメキャラクターとしての身体を所有している。つまり、浅草氏が見る『コナン』は、彼女にとっていわば「実写」の、現実と地続きの『コナン』なのだ。

 これに対して、私たち生身の視聴者とアニメキャラクターとのあいだには、はっきりとした存在論的な区別がある。デフォルメされたアニメキャラクターを、生身の人間と混同することはふつうありえない。したがって、私たちは浅草氏が「実写」として『コナン』を見るのとは別の仕方で、つまりは「アニメ」としてそれを見る。生身の肉体に縛られた私たちは、アニメキャラクターとしての身体、すなわちアニメ的身体を欠いている。この欠如こそが、私たちにとってのアニメ視聴の前提となる条件だ。それは言ってみれば、他なるものの経験である。

 浅草氏は、自分でスケッチしたイメージボードの設定画を想像のなかで実体化し、さまざまなマシンに乗り込み、自由自在に空を駆ける。想像と現実の境目はかぎりなく曖昧にされ、わずかに水彩画風のタッチでその区別が示唆されるにとどまる。これは浅草氏がアニメキャラクターだから、つまりはアニメ的身体を持っているからこそなしえる表現だ。生身の肉体を持たない彼女は、まさにそのおかげで、自分が描いた設定画のマシンにそのまま搭乗することができる。そこには存在論的な区別がない。紙の上のスケッチと、自分の身体とのあいだに齟齬がない。

 けれども、これは私たちがアニメを見る経験とは異なる。私たちは欠如を抱えている。アニメをアニメとして見ることは、私たちがそこから存在論的に遠ざけられていること、原理的に区別されていることを承認することだ。アニメのなかではすべてが可能になる。一人乗りのプロペラスカートで空を飛ぶことも、邪魔なビルを爆破して風車を回すこともできる。だが、それを見る私たちは、いまやその可能性のほとんどを奪われている。どうしてこうなってしまったのだろう。いつから私たちは、このほろ苦い認識とともにアニメを見るようになったのか。

 かつて私たちは、生身の肉体とともに、アニメ的身体を所有していた。アニメキャラクターに憧れ、ごっこ遊びのなかで彼らを模倣するとき、私たちはたしかにアニメ的身体を生きていた。アニメは他なるものの経験ではなく、この私の、現実と地続きの世界として現象していた。肉体はキャラクターの生が息づく舞台であり、想像と現実の境界を超えて、コナンのように、あるいは浅草氏のように自由に飛び回ることができた。成長するにしたがい、いつしかこの身体は失われてしまったけれども、私たちはそれが『映像研』のなかに、浅草氏の無邪気で奔放な想像力のなかに居場所を得たことを、かすかな疎外感とともに感じ取る。『映像研』のアニメーションの快楽は、同時に、私たちのノスタルジックな感傷をかき立ててやまない。

京都アニメーション放火事件へのアーティストの応答

 東京駅近くのTODA BUILDINGで開催されているTOKYO 2021美術展「un/real engine──慰霊のエンジニアリング」に、アーティスト集団「カオス*ラウンジ」による京都アニメーション放火事件への応答とも言うべき作品が展示されている。

www.tokyo2021.jp

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 藤城嘘をはじめとする計15名の「絵師」が、パネルを何枚もつなげた横長の画面に、東京と京都を結ぶ「東海道」を旅する「善財童子」をさまざまなタッチで描いた大作だ。

 会場で配られるハンドアウトには、次のように記されている。

……現実と虚構(アニメ)を橋渡しすることに尽力した京都アニメーションに対して、虚構のなかに、現実の暴力(危険物)が持ち込まれてしまった。現実の暴力によって壊されてしまった虚構を回復し、虚構と現実の関係を問い直すために、東京と京都をつなぐ「東海道」と「善財童子」を描いた。……

 善財童子は、仏教経典のひとつである『華厳経』に登場する子どものキャラクター。インドの長者の家に生まれたが、ある日仏教に目覚め、菩薩や医者、遊女、商人といった53人の「善知識」(善き友、指導者)を訪ね歩いて修行を積み、悟りを開く。

 一説によると、江戸時代に整備された「東海道五十三次」の53の宿駅は、善財童子のエピソードに登場する善知識の人数に基づいている。華厳経に感銘を受けた徳川家康が、江戸と京都を結ぶ道を善財童子仏道修行の旅になぞらえ、53の宿駅を整備したという。江戸の庶民は、東海道を西に歩いて物見遊山と寺社仏閣をめぐる巡礼の旅に出かけた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の『東海道五十三次』のように、東海道は当時の文学や美術を通じて虚構化され、人びとの想像のなかに定着していった。

 他方で、東海道は「セキュリティ」の道でもあった。幕府は江戸城防衛のために各地に関所を設け、河川の渡船を禁じ、ヒトやモノの流通を取り締まった。江戸に「危険物」が持ち込まれることを防ごうとした。

 観光と巡礼をめぐる虚構の道。その裏側にある、セキュリティの道。展示会場のすぐ目の前を通る旧東海道は、そのような二重の道としてある。だからこそ、作家らは、「現実の暴力(危険物)が持ち込まれてしまった」京都アニメーションへの放火事件を受けて、「現実の暴力によって壊されてしまった虚構を回復し、虚構と現実の関係を問い直すために」東海道とそこを走る子ども──善財童子の姿を描いた。作中に書き込まれた現実の地名は左右が反転され、それが虚構へといたる道であることを示している。

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 髪型やポーズから見て、キャラクターの直接のモデルになったのは、奈良の安倍文殊院にある快慶作の国宝・善財童子像だろう。なかには、京都アニメーションのアニメ作品に登場するキャラクターに似せて描かれたものもある。巡礼の道を旅する彼らの姿を描くことは、文字通り、現実から虚構へといたる道をかけることだ。彼らの走ってゆく後に、虚構の道が出来上がる。

 けれども、私は同時に、それが放火事件の犯人のたどった足跡でもあることを思い出さずにはいられなかった。報道では、彼は東京から東海道新幹線で京都に向かったといわれている。この符合をどう考えたらいいのだろう。犯人もまた、同じ虚構の道、巡礼の道を通って西へと向かった。作品の右端、反転した虚構の京都には、彼が降り立った新幹線の駅のホームと思われる描写がある。江戸城を守るセキュリティが、京都アニメーションとその人びとを犯人の狂気から守ることはなかった。

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 会場の別室には、黄金に光り輝く京都アニメーション第1スタジオと、その前で祈りを捧げる善財童子を描いた作品が展示されている。虚構の東海道、再構築された巡礼の道の終着点だ。しかし現実には、この道をたどってやってきたのは善財童子ではなく、悪意と狂気に駆られた人間だった。黄色いスタジオは焼け焦げて真っ黒になり、35名もの命が失われた。善財童子はその道をたどり直し、理想化された輝かしい虚構の伽藍としてスタジオを復興させる。

 現実と虚構の関係を考えるとき、アニメーターの死は、たんなる現実の死にとどまらない。かといって、彼らの死が虚構だったというわけでもない。そうではなく、現実から虚構を生み出すという一次創作的な働きが破壊されたのだ。作家らは、これに対して、再び虚構を立ち上げることを選択した。それは二次創作的に生み出されるキャラクターによる、アニメーターへの「慰霊」だ。彼らが生み出したキャラクターが別の誰かによって二次創作され、それによって失われた魂が慰撫されうるということ──それが、カオス*ラウンジの「慰霊のエンジニアリング」なのだろう。

『まちカドまぞく』、あるいは震災後の日常について

 「日常系」と呼ばれるアニメのジャンルがある。1999年に連載が開始された『あずまんが大王』を嚆矢とし、『らき☆すた』(2004~)や『けいおん!』(2007~)などに代表されるアニメ作品の総称で、2000年代中盤から後半にかけて隆盛した。その多くは『まんがタイムきらら』系列雑誌に連載される「萌え四コマ」を原作とする。

 日常系アニメでは、世界の命運を左右するような大きな出来事が起こらない。そのかわりに、女性キャラクター同士の会話を中心としたありふれた日常が描かれることから、日常系という名前が付けられた。空気系と呼ばれることもある。

 2019年7月から9月にかけて放送されている『まちカドまぞく』も、そうした日常系アニメのひとつだ。けれどもこの作品には、2000年代の日常系とは微妙に異なる特徴がある。その特徴とは、作中で描かれる日常が、たんに謳歌されるものとしてではなく、守られるべきものとしてあるということだ。日常は維持され、保守されなければならない。そうではなければ、それはたやすく壊れてしまう。

 便宜的に、2000年代の日常系アニメを「日常系1.0」、2010年代のそれを「日常系2.0」と呼ぶことにしよう。日常系1.0は、社会学者・宮台真司のいう「終わりなき日常」と深く結びついている。1995年のオウム事件以後、私たちはフィクショナルな「世界の終わり」によって人生を意味づけることができなくなった。もはやこの日常を超える、超越的なものにすがることはできない。日常系1.0は、そんな私たちに寄り添い、内在的に生を意味づける処方箋として登場した。なにも特別な出来事が起こらなくても、少女たちのたわいない会話のなかに、私たちはこの過酷な日々を生きる喜びを見出すことができる。日常系1.0は、終わりなき日常を精一杯、楽しく生きるためのツールだった。

 けれども、2011年に発生した東日本大震災は、日常系1.0のよって立つ基盤ともいうべき日常の脆弱さを私たちに突きつけた。終わりなき日常は、たんなるフィクションにすぎない。日常は唐突に終わる。そして日常系1.0は、日常の終わりという問題系を原理的に扱えない。なぜならそれは、終わらないことの苦悩を癒やすものだったからだ。その唯一の例外が『けいおん!』シリーズだが、これについては、拙稿「ツインテールの天使」で詳しく論じたので、関心のある方はこちらを読んでほしい。

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 震災が突きつけた問題はもうひとつある。それは「この日常は守られるに値するものなのか」という倫理的な問いだ。福島第一原発の事故は、東京と地方との非対称的な関係、植民地主義的な構造を露呈させた。この日常がつねに誰かの犠牲のもとにあるのだとしたら、それを維持することは倫理的に正しいといえるのか。これは日常系の存立そのものに関わる根本的な問いであり、かんたんには解決できない。

 日常系2.0は、震災を契機とするこうした問題に対し、日常系1.0を引き継ぎながら、それらに応答しようとする試みとして理解できる。具体的には、日常が無自覚に生きられるものとしてではなく、自覚的に守られるべきものとして描かれる。しかしだからといって、ありふれた日常を危機に陥れるような大事件が起こるわけではない。そうなってしまったら、それはそもそも「日常系」ではないからだ。この相矛盾する設定が、日常系2.0にはねじれたかたちで現れている。

 『まちカドまぞく』の主人公である吉田優子は、ある日魔族の血に目覚め、シャドウミストレス優子(シャミ子)として魔法少女と戦う使命を課せられる。同級生の魔法少女・千代田桃に挑んだシャミ子だったが、まったく歯が立たず、なぜか一緒に河川敷をランニングするはめになる。その後も桃は、修行と称してシャミ子にさまざまなトレーニングを課す。桃は魔法少女として町の平和を守っており、物語の途中からは、シャミ子もその役割を分担することになる。

 『まちカドまぞく』の主要な登場人物には、この町を守るという目的が設定されている。けれども、東京都多摩市をモデルにした郊外の住宅街に、具体的な危機が訪れる気配はない。むしろ作中で描かれるのは、学校生活やバイト、買い物など、女子高生の平穏な日常そのものだ。にもかかわらず、そこには「町を守る」という不釣り合いなモチベーションがある。そして、そのためのトレーニングもまた執拗に描かれる。

 『まちカドまぞく』のこうした描写には、終わりなき日常ではなく、この日常もまた終わりうるという、日常系2.0の意識が反映されているように思われる。じっさい桃には、かつて魔法少女として世界を救ったという設定がある。これはつまり、そこから世界が救われるほどの大きな危機が過去に生じたということだ。震災の3年後に連載が開始された『まちカドまぞく』に、震災の影響を見てとらないほうがむずかしい。

 興味深いのは、町を守るという目的が、光(魔法少女)と闇(魔族)のバランスを調整することに置き換えられていることだ。当初、シャミ子一家は光の封印によって貧乏生活を強いられており、魔法少女の生き血を捧げることでその封印が破られる。しかし、それは同時に桃の弱体化と町の不安定化をもたらし、シャミ子は桃に協力して町を守っていくことになる。ここには、日常がすべてのキャラクターを包摂する大きな枠組みとしてではなく、さまざまなエージェンシーによって織り成される多元的で流動的な力のバランスとしてあることが示唆されている。『まちカドまぞく』の日常は決して一枚岩ではない。ほつれたり揺らいだりする、いびつな織り物のようなものなのだ。

 日常系2.0がどこに着地するのか、それはまだよくわからない。少なくともいえるのは、震災前の日常系1.0のようには、私たちの生をシンプルに意味づけてはくれないということだ。そこにはもっと複雑で、精妙な配慮と倫理的な態度が要求される。私たちの日常は終わりうる。それがひとつの救いでもありうるということの意味について、私たちはまだ考え始めたばかりだ。

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈3〉

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 丸く切り抜かれたあずにゃんの顔写真が、第一期『けいおん!』の集合写真が象徴する「終わりなき日常」を地として浮かび上がる。私たちはそれが最初から二重化されていたこと、遍在する天使に見守られていたことに気づく。断片化され、重ね合わされたあずにゃんのイメージは、逃れられない「終わり」を「永遠の放課後」へと反転させる、そのような「救済」の可能性を指し示している。それはもはやシミュラークルではなかった。たんなる感情移入の対象でも、コミュニケーションのためのネタでもなかった。そうではなくて、それは救済の寓意であり、永遠のアナグラムであり、天使の横顔が隠された判じ絵だったのである。動物的な没入ではなく、ひらめくような解読の対象としてあるもの。私たちはそれを「アレゴリー[=寓意]」と呼ぶことにしよう。

 アレゴリーとは何だろうか。『美学辞典』によれば、「普遍」と「特殊」の絶対的な一致が「象徴」と呼ばれるのに対して、アレゴリーとは「特殊」が「普遍」を意味する、あるいは「普遍」が「特殊」を通して直観される、そのような表現のことである*1。有名なところでは、剣と天秤をもった女性像で「正義」の概念を、また狐で「狡猾」を表現する例などが挙げられる。それらは慣習や約束事によって結びつけられており、両者のあいだに必然的なつながりは存在しない。他方で象徴とは、たとえば神の像が(何らかの概念に回収できない)神それ自体として出現することを言う。

 要するに(たんなるシミュラークルではなく)アレゴリーとして経験するということは、「特殊なもの」としてのさまざまな断片を通じて、それ自体救いであるような「普遍的なもの」としてのキャラクターを直観することを意味している。したがってそれは、もろもろのキャラクター・グッズや二次創作をシミュラークルとして——とはつまりキャラ萌えの対象として——受容することとは根本的に異なった経験である。それどころか正反対の試みとさえ言うことができる。何度も述べたように、キャラ萌えが「コピーにアウラを宿らせる」ことであるとすれば、これに対してアレゴリー的経験は、「有機的なもの、生あるものの破壊——仮象[=アウラ]の消去」によって特徴づけられるからだ*2。それはすなわち「感性的な美しい自然[肉体]に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めること」にほかならない*3

 アレゴリー的経験の内実についてこのように語ったのは、ほかならぬベンヤミンである。彼は1928年に刊行された『ドイツ悲劇の根源』のなかで、やはり象徴と対比しながら、アレゴリーのもつ破壊的・断片的な性質を繰り返し強調している。「芸術象徴、つまり有機的な総体性をもった像である彫塑的な象徴に対して、アレゴリー的文字像のこの無定形な断片ほど鋭く対立するものはない」*4。あるいは「人物的なものに対する事物的なものの優位、総体的なものに対する断片の優位によって、アレゴリーは象徴の対極をなしつつ、しかしまさにそれゆえに同じように強大なものとして、象徴に対抗する」*5。人間的・有機的な総体性(象徴)に対する、事物的・無機的な断片性(アレゴリー)の優越。キャラ萌えのアウラを破壊し、散乱する無数の断片へと変容させること。倒壊したフィギュアは四肢に欠損を抱え、はがれ落ちたイラストは肝心な部分が破られている。あずにゃんの顔写真は遠慮なく切り抜かれ、別の写真の上に無造作に貼りつけられる。それはベンヤミンのいう「継ぎはぎ細工であるアレゴリー的形成物」でなければ何だろうか*6

 アレゴリー的直観の前では、シミュラークルが仮構する「総体性という偽りの仮象は消え去ってしまう」だろう*7。キャラ萌えのアウラは破壊されてしまうだろう。だがそのようにして私たちは、後に残された断片のなかに、アウラを失って「枯渇した判じ絵」のうちに、本来それが指示するものとは異なった意味を読み解くことができる。「アレゴリカーの手のなかで、事物は己れ自身ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物そのものではない他のなにかについて語ることになる」*8。私たちは憂鬱な「アレゴリカー」として、『けいおん!!』最終回について語った。「永遠の放課後」について、天使による救済について語った。唯があずにゃんにプレゼントしたマルチレイヤーな合成写真は、「終わり」を予感する彼女の、そして私たち自身のまなざしの下で、永遠を暗示するアレゴリーへと変容する。

 しかしながら「無定形な断片」がアレゴリー的に暗示するものとは、むしろ永遠や救済とは対照的に、いずれは何もかもが滅び去っていくという「はかなさ」のほうであり、避けられない「終わり」そのものではないだろうか。それは断片が散乱する「廃墟」の光景である。「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない」とベンヤミンは述べている*9。けれどもそのような廃墟のなかにこそ、永遠と救済をもたらす「奇跡」の可能性が息づいているのだ。

瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである。バロックの文士たちは芸術作品を、この意味でのひとつの奇跡と見なしていたにちがいない。[…]バロックの詩人たちの試みは、錬金術の達人たちの手つきに似ている。古典古代が遺したものは彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである。つまり、この新しいものの完璧なる幻影が、廃墟にほかならなかった。*10

 ベンヤミンが17世紀のドイツ・バロック悲劇において見出したものを、私たちは現代のオタク文化に見てとることができるだろうか。彼は「子供部屋」や「亡霊の部屋」、そして「魔術師の部屋や錬金術師の実験室の、断片的なもの、無秩序なもの、積み重ねられたもの」に、アレゴリーとの深いかかわりを見出していた*11。私たちはそこに、現代の混沌としたオタクの部屋をつけ加えずにはいられない。シミュラークルの終わりなき横滑りに押し流され、無数のフィギュアやイラストや二次創作で埋めつくされた部屋のなかで、私たちは孤独な「終わり」の予感に浸透される。シミュラークルを覆っていた仮象の輝きが消え、非人間的・無機的な断片へと姿を変える。「きわめて意味のある破片、断片」が散らばる廃墟に踏みとどまり、ひたすら瓦礫を積み上げながら「奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすこと」——それは来るべき救済の予兆に導かれながら、私たちの日常を拡張しようとする錬金術的なプロセスである。

 やがて訪れる「終わり」の日に、私たちは薄れゆく意識のなかで、散乱した無数の断片がひとつの像を結ぶのを見るだろう。膨大なキャラクター・グッズや二次創作の瓦礫の山は、最後の瞬間に「復活のアレゴリー」へと反転するからだ。「その慰めなき混乱したありさまのうちに、はかなさが意味され、アレゴリー的に表現されているというよりも、むしろ、このはかなさそれ自身が意味するものであり、[復活を暗示する]アレゴリーとして提示されている」*12シミュラークルの残骸が散らばった破局的な光景は、こうして「背信的に復活へと寝返る」ことになる。

 このように考えるなら、キャラ萌えに特化し、おびただしい数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を二重化する空気系アニメの戦略は、いまや「終わり」におけるアレゴリー的復活への準備段階として位置づけられるだろう。放課後の穏やかな光に照らされて、シミュラークルアウラが脱落し、断片的なアレゴリーへと変容する。ツインテールの長い影がどこまでも延びる。ただそのようにして私たちは、断片の彼方に遍在するキャラクターを直観する——すなわち「天使にふれる」のである。「神の世界で、アレゴリカーは目覚める」とベンヤミンは述べている*13

 

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 現代のオタク文化におけるアレゴリー的復活の可能性を探求する試みは、それが外部と接する地点において、とはつまりキャラクターに対する動物的な感情移入が阻害される領域において、よりはっきりとした輪郭線をともなって立ち現れる。それはしばしばキャラ萌えの不可能性に由来する強烈な違和感として経験され、ときには激しい摩擦を引き起こすこともあるだろう。

 現代アート集団「カオス*ラウンジ」の中心的なメンバーのひとりであり、一連の騒動の発端となった梅ラボ(梅沢和木)の平面作品は、三人組のアートユニット「three」の彫刻作品とならんで、アレゴリー的経験を定着しようとする優れた試みとして理解することができる。絵画と彫刻という表現形式のちがいこそあれ、両者の手法はきわめて似通っている。梅ラボはネットで収集したキャラクターの画像をばらばらに分解し、それらの断片をコラージュすることで、不定形で無意味なイメージの集積を生成するスタイルで知られている。

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大人気同人ゲーム『東方Project』のキャラクターを中心としたコラージュ作品。『CHAOS*LOUNGE OFFICIAL WEB』(http://chaosxlounge.com/artists/umelabo)より引用。

 他方でthreeは、大量の美少女フィギュアを同じように分解し、それらの断片を溶かして圧縮することで、さまざまなかたちを模した立体物を作り上げる。

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美少女フィギュアを解体・圧縮して直方体に固めたシンプルな作品。重量をタイトルにすることで、フィギュアを無機質な数字に還元し、脱アウラ化を押し進めている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/1998g.html)より引用。

 前者がイメージの自動的な生成——ネットという「アーキテクチャの生成力」*14——を強調し、作家が介入した痕跡をできるかぎり消去しようとするのに対して、後者はよりコンセプチュアルで洗練されたアプローチを志向するというちがいはあるが、しかし私たちにとって重要なのは、一見してそれとわかる両者の明らかな共通点である。

 この二組のアーティストに共通しているのは、美少女キャラクターのフィギュアやイラストといったシミュラークルを容赦なく解体し、自らの作品を構成する「断片」として利用しているという点だ。先の引用箇所で「バロックの詩人たち」についてベンヤミンが述べていたように、現代のオタク文化が生み出したさまざまなシミュラークルは、いまや「彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである」。すなわち一方はコラージュされた雑多なイメージの集積として、他方は圧縮された抽象的なオブジェとして、シミュラークルの人間的・有機的な総体性を破壊し、断片的・無機的なアレゴリーへと変容させること。そのようにして彼らは、シミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを暴力的に剥奪する。

 したがって少なからぬオタクたちが、梅ラボの、あるいはthreeの作品に強い拒否反応を示す——とは言わないまでも、ぬぐいがたい違和感を覚えるのは、いわゆる「現代アート」に対する理解が不足しているためだけではない。そうではなくて、これまで私たちがキャラ萌えによって回避してきた問いに、あらためて向き合うことを迫られるからだ。それは愛(の不可能性)をめぐる問題である。

 何度も見てきたように、私たちは動物的な欲求と人間的な欲望を切り離し、それぞれ別の水準で処理することで「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にしてきた。けれども梅ラボとthreeの作品を前にしたとき、私たちは自らの解離的なふるまいに無自覚ではいられない。ばらばらに分解・圧縮され、人のかたちをとどめていないイラストやフィギュアの断片は、もはや動物的な没入の対象ではありえないからだ。私たちが夢中になっている「それ」は、人間ではない。分解可能で反復可能なシミュラークルにすぎない。梅ラボが自身のブログで書いているように、そもそもキャラクターとは、「匿名の想像力によって無限にn次創作され、増殖し、改変され、遍在する幽霊のようなもの」だからである*15

 だからこそ私たちは、お気に入りのキャラクターの「なれの果て」をそこに見つけたとしても、どこか本気で怒ったり悲しんだりすることがためらわれるのではないだろうか。そうだとすれば、この居心地の悪さの正体は、愛するものを亡くした「喪失」の悲しみなどでは決してない。むしろ逆である。つまりこの空っぽの悲しみは、キャラ萌えが強引にキャンセルされたことによって、愛することの不可能性——すなわち「喪失の喪失」——が露呈してしまったことに由来するのだ。こうして彼らの作品は、私たちがキャラクターに萌えることの自明性を問い直し、その暗黙の前提を揺るがせる。綾波の問いの前に立ち止まらせる。

 しかしだからといって、おそらく梅ラボには——そしてもちろんthreeにも——オタクの解離的な生のあり方を非難し、キャラクターをおとしめようとする露悪的な意図はなかったにちがいない。むしろそこまで読み込んでしまうとすれば、それは私たちの後ろめたさの現れか、あるいは不幸なすれちがいの結果と言うほかない*16。それよりも彼らは、ビジュアルとしての視覚的な新しさやおもしろさ、あるいは気持ち悪さを入り口にして、私たちに考えることを促しているように思われる。キャラクターとは何か、キャラクターに萌えるとはどういうことなのか——キャラ萌えの果てしない往復運動を一時停止することなしに、そのような問いに向き合うことは不可能である。というよりキャラ萌えが破綻する地点で、とはつまり「終わりなき日常」が終わる場所で、私たちは否応なくこの問いの前に連れ戻される。それはひるがえって、私たち自身について問うことでもあるだろう。分解されたシミュラークルはデータベースへと還元されることなく、いまや無数の断片となって、私たちの周りに散らばっている。

 だがそうだとするなら、救済の可能性はどこにあるのか。梅ラボやthreeの作品は、私たちの暗い欲求を認識の強い光で照らし出し、そのようにしてただ反省することを、「はかなさ」を暗示する廃墟のなかに立ちすくむことだけを要求しているのだろうか。おそらくそうではない。瓦礫の山と化したシミュラークルの残骸は、やがて訪れる「終わり」の光景そのものである。私たちは奇跡の到来を待ち望みながら、散乱する無数の断片をひたすら積み上げていく。午後の穏やかな光を浴びて、積み重ねられた断片がひとつの影を形作る——復活を暗示する女神の姿が浮かび上がる。

 

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 「終わりなき日常」が終わったあの日。梅ラボはその日を境にして、自らの表現のスタイルを大きく変えている。大量の断片がコラージュされた無意味なイメージの集積から、人のかたちをしたキャラクターを画面の中央に配置した、宗教的な意味合いの強い構図への転換。まるで天から降臨するかのように描かれたキャラクターには、「救済と天罰の女神」というきわめて寓意的な役割が与えられている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70843472105586689)に添付されたURL(http://lockerz.com/s/102665850)より引用。実際の作品は現在非公開となっている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70840097221771264)に添付されたURL(http://instagr.am/p/EZYF-/)より引用。画像は依然としてアップロードされているものの、当該ツイートはすでに削除されている。

 「キメこなちゃん」という愛称で親しまれているそのキャラクターは、『らき☆すた』の主人公である泉こなたをベースに、さまざまなキャラクターの特徴を寄せ集め、文字通り「キメラ」的に合成され生み出された存在である。

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キメこなちゃんを描いたものとしては一番有名な画像。同じポーズでさまざまなバリエーションが存在する。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)より引用。

 キメこなちゃんは匿名の画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」で誕生し、同じく海外の画像掲示板「4chan」に転載されて人気を博した後(4chanでは「Moetron」と呼ばれる)、再びふたば☆ちゃんねるに逆輸入されて愛されてきた*17。おそらく梅ラボは、それ自体コラージュの産物である——とはいえ個々のイラストには、それを描いた「絵師」が存在するわけだが——彼女に自らの創作手法と似通ったものを見出し、新作の主要なモチーフとして採用することを決めたのだろう。彼はブログのなかで、キメこなちゃんが「ただただ無名の創作意欲が拡散し集合した結果生まれ」たキャラクターであること、そして自らの作品もまた「匿名集合知の成果物」であることを強調している*18

 しかしながら、梅ラボ自身がアーティストとして活動し、自らの名前で作品を発表している以上、ここには明らかな矛盾があると言わざるをえない。たとえ梅ラボが言うように、匿名の利用者に支えられたネットの生成力こそがキメこなちゃんを作り出したのだとしても、彼の作品はそうではない。アーティスト自身がひとつの「アーキテクチャ」であるというのは、レトリックにすぎない*19マルセル・デュシャンの『泉』を引き合いに出すまでもなく、それはあくまでも梅ラボの名において、とはつまり強い作家性を帯びた作品として流通してしまうからだ。この非対称性に無自覚であるということは考えられない。そうでなければ彼の作品は、ネット上の無償の表現に対する、アートの側からの一方的な「収奪」や「搾取」として受け取られてしまうだろう。「アーキテクチャの生成力」は空疎な責任逃れの言葉に堕してしまうだろう。

 キメこなちゃんの帰属と商業利用をめぐって、ふたば☆ちゃんねるの住人とカオス*ラウンジ側の対立が表面化したのは、したがって当然の成り行きだったと言うべきかもしれない。両者の主張は平行線をたどり、やがて不信感を募らせた匿名掲示板の住人たちは、カオス*ラウンジの活動に対するさまざまな疑惑を追及・告発していく。詳しい経緯は省略するが、梅ラボ作品の著作権侵害問題や、「破滅*ラウンジ」の偽札疑惑にはじまり、最終的には大手イラスト・コミュニケーションサイト「pixiv」を巻き込んだ大騒動へと発展することになる*20

 カオス*ラウンジ騒動の顛末や、それに対する評価はひとまず措こう。むしろここで問題にしたいのは、著作権侵害の是非をめぐる論争に隠れて、すっかり影が薄くなってしまった事柄——すなわち梅ラボの作風が劇的に変化した(ように見える)理由についてである。

 梅ラボは騒動のきっかけとなった作品が、「今までの自分の作品からすればかなりイレギュラー」であることを認めている*21。そこには「震災後のキャラクターの在り方について一貫した考えを示す」という——これまでの彼の作品には見られない——明確な意図が込められているためだ。被災地を訪れた梅ラボは、そこで目にした「ガレキや砂にまみれて打ち捨てられた多くのぬいぐるみ」に衝撃を受け、たとえ「遍在する幽霊のようなもの」にすぎないキャラクターでも、「ある形をとれば一人の人間に大切にされ、かけがえのないものになる」ことに気づかされたのだという*22

 しかしそうだとすれば、梅ラボはこれまでのアレゴリー的手法を捨て、シミュラークルに宿る人間的なアウラ復権へと180度「転向」したのだろうか。決してそうではない。この作品に託されているのは、長い年月を経て「かけがえのないもの」になってしまったシミュラークルの「喪失」を嘆き、あたかもそれが人間であるかのように追悼することではない。梅ラボがこれまで一貫して取り組んできたのは、人間とキャラクターを隔てる本質的な差異であり、そしてそのことを明らかにするために、彼はシミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを解体し続けてきたのだった。したがって問題となっている作品も、その延長線上に位置していると考えられる。

 梅ラボが人のかたちをしたイメージに固執したのは、キャラクターを擬人化し、その「かけがえのなさ」をロマンチックに強調するためではなかった。それはキメこなちゃんが「救済と天罰」の寓意として描かれていることからも明らかである。「救済」であると同時に「天罰」でもあるような、人知を越えた一撃——それがこの作品の中心的なテーマであって、そこに人間的な感傷が入り込む余地は一切ない。

[…]この作品は津波の画像、ガレキの画像と現地で自分の目でみたぬいぐるみと、インターネットに散らばる無数の画像をごちゃごちゃにまぜて全体が構成されています。かつての日常であったキャラクター達と、打ち捨てられたキャラクター達が、一緒くたになって地に流されている構成です。

そして真ん中の天から一体のキャラクターがまるで女神のように、地に打ち捨てられた者たちを救済するかのように降臨しています。

すべては見守られているように見えますが、見方を反転させればこの地の惨状をすべて女神が天罰のごとく起こしたようにも見えるでしょう。*23

 梅ラボが自らの作品についてこのように語るとき、私たちはそこに、アレゴリー的復活を暗示する両義的なヴィジョンを読み解くことができる。彼は「かけがえのないもの」になってしまったキャラクターを解放するためにこそ、「救済と天罰の女神」を召還する必要があった。つまりこの作品においては、打ち捨てられた「かけがえのない」シミュラークルを慰撫することではなく、逆に「人間的な固有性」の獲得によって隠蔽されていたもの、すなわち「幽霊的な遍在性」の暴力的な回復が問題になっているのである。壊れたシミュラークルを嘆くにはおよばない。それは本来あるべき姿——遍在するキャラクターを暗示する断片——へと帰ったにすぎないのだから。

 キャラクターから人間的な固有性のアウラを剥奪し(天罰)、それによって本来の幽霊的な遍在性を取り戻してやること(救済)。梅ラボのいう「救済と天罰の女神」とは、キャラクターを人間的なるものから浄化する、そのような神的な暴力の顕現である。無数の断片へと解体されたシミュラークルの残骸は、所有者の記憶や感傷の呪縛から解き放たれ、遍在するキャラクターの一部として新生する。いまやキメこなちゃんが「女神」に選ばれた理由は明らかだ。つまりそれ自体コラージュの産物であるキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルアレゴリー的断片へと変え、そのようにして彼女自身「復活」を暗示するアレゴリーとして降臨するのである。

 以前の梅ラボの作品が、断片的なイメージの集積を提示することでキャラ萌えのアウラを破壊し、人間的な愛の不可能性を暴露するものだったとすれば、キメこなちゃんを描いた作品は——モチーフの選択が法的・道義的に適切だったかどうかは別にして——破壊が同時に救済を含意するという点で、さらに一歩進んでいる。なぜならそれは、私たちを廃墟のなかに置き去りにすることなく、最後の日におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示しているからだ。つまりこの作品は、「天使にふれる」経験を図解しているのである。

 

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 梅ラボは震災をきっかけとして、断片的で無機質なコラージュ作品から、よりメッセージ性の強い作品へと自らの作風を深化させた。キャンバスの中央に配置されたキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルを破壊しつつ救済する、復活のアレゴリーとして出現する。これに対してthreeのいくつかの作品は、すでに梅ラボの試みを先取りしていたと言うことができるかもしれない。というのも彼らのスタイルは、無数の美少女フィギュアを溶解・圧縮してさまざまなかたちに成型するというものだが、そのなかに大きな美少女キャラクターの姿をかたどったものが含まれているからである。

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ダミアン・ハーストのあまりにも有名な作品『母と子、分断されて』(ホルマリン漬けにされた牛の親子を真っ二つにしてガラスケースに入れた作品)を踏まえたものだと思われる。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/7825g.html)より引用。

 threeの作品に近づいてよく眺めると、数えきれないほどのフィギュアの顔や腕や脚や胸や尻が表面をびっしりと覆い、異様な光景を作り出してはいるものの、同時にきわめて清潔で洗練された印象を受ける。それはおそらく、カオス*ラウンジの混沌とした展示手法とは対照的に、彼らが現代アートの文脈を比較的折り目正しく参照していることに由来するのだろう*24。とりわけ震災後(2011年8月6日から28日まで)に「トーキョー・ワンダーサイト本郷」で発表されたインスタレーション『24bit』は、梅ラボとはまったく異なった仕方で、アレゴリー的復活の可能性を具現化しようとする画期的な試みだった*25

 そこでは従来のように、大量の美少女フィギュアの断片を溶解・圧縮するのではなく、フィギュアを一体ずつ(おそらく専用の型に入れて)圧縮し、手のひらに乗るほどの小さな直方体にして展示するという手法が採用されていた。かつて人のかたちをしていた無機質なキューブが、まるで墓標のように整然と並べられ、肌色と原色の混ざった複雑なマーブル模様をさらしている。

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情報の最小単位「bit」に還元された二四体のフィギュアが並べられている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/24bit.html)より引用。

 直方体の上面にひとつだけ残された大きな「目」が、美少女フィギュアだった頃の面影をかろうじて偲ばせている。だがそれだけではない。規則正しく配置されたそれぞれの台座には、圧縮されたフィギュアの名前と重量が記され、そして四角いキューブからは長い「影」が延びている——キャラクターのかたちをした影が。

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同サイトより引用。キューブの上面に目が配置されている。

 ここにおいてthreeのインスタレーションは、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動を中断し、キャラクターの遍在を暗示する「復活のアレゴリー」として立ち現れる。圧縮される前の美少女フィギュアの影が、放課後の光に照らされて長く延びる。人の姿を失い、もはや動物的な感情移入の対象ではありえない色鮮やかな墓碑は、しかし自らを断片と化すことによって、特殊から普遍へといたるアレゴリー的な通路を切り開く。私たちは台座に刻まれた名前を手がかりにして、明確な実体をもたない——それゆえいたるところに存在する——影法師としてのキャラクターを直観するよう促されるのだ。ここには梅ラボが描き出そうとしていたキャラクターの「幽霊的な遍在性」と同じものが、より抽象的で洗練されたかたちで提示されている。つまり無機質な直方体に変えられた美少女フィギュアは、むしろそのことによってキャラクター本来の遍在性を回復し、把握しがたい影となって復活するのである。

 さらにthreeの作品において重要だと思われるのは、影とならんで、巨大な目のイメージだけが原形をとどめている点である。かつて東は、アニメやマンガのキャラクターにおける「視線を交錯させない目の機能」について論じていた*26。一般的に透視図法的な西洋絵画の場合、私たちは描かれた人物像と見つめ合い、視線を交わすことによってリアリティを感じる。ところがアニメやマンガのデフォルメされた記号的な目は、まなざしを交換することなく感情移入することを可能にする。私たちはキャラクターの目を見つめ、そしてたしかに感情移入するのだが、にもかかわらずそこで「目が合う」ことは決してないのだという。

 そしてこの「幽霊的」なまなざしにリアリティを感じ、アウラを宿らせることを可能にしているのが、動物的な欲求と人間的な欲望を解離的に共存させる、ポストモダンな主体のあり方である。前者を後者から切り離し、シミュラークルのレベルで処理するというオタクのふるまいは、キャラクターの「「見る」側と「見られる」側の空間的な連続性を脱臼させてしまう不思議な視線」によって担保されている*27。つまりキャラクターと目が合わないからこそ、私たちは何のためらいもなく、動物的な快楽を一方的に享受することができるのだ*28

 しかしそれは逆に言えば、キャラ萌えの往復運動が停止する地点において、キャラクターの視線が前景化することを意味している。シミュラークルシミュラークルであることをやめたとき、見返すことのないキャラクターの幽霊的なまなざしは、突如としてアレゴリーの暗い光を帯びる。私たちはあいかわらずキャラクターと目を合わせることはできないが、瓦礫のなかに散乱する無数の目の背後に、遍在する何ものかの視線を感知する。

 斎藤は東の議論を念頭におきながら、「僕たちはキャラクターを見ているが、キャラクターも僕たちを見ている」ことに注意を促している*29。斎藤に言わせれば、「それは必ずしも「目が合う」といったことだけを意味しない」*30。あるいは黒瀬も、たとえばアニメを見る経験において、私たちがキャラクターに「見られている」ことを強調している*31。いずれにせよ彼らは、シミュラークルに対する動物的な感情移入とは異なった経験の領域を指し示していると言えるだろう。それは私たちの考えでは、キャラクターをその遍在性において直観することであり、散らばった断片の彼方から見つめる巨大なまなざしに身をさらすことである。キャラクターと一対一で視線を交わすことができないのは、彼女たちがあらゆる場所から私たちを見つめているからだ——あずにゃんカメラがそうであったように。

 そうだとするなら、threeが圧縮された直方体に美少女フィギュアの目だけを刻印したのは、それがキャラクターの遍在を暗示する特権的なアレゴリーとして機能しうるからではないだろうか。コミュニケーションのざわめきが遠ざかり、孤独な「終わり」の予感のなかで、私たちはいたるところから見られていることに気づく。だがそれは決してひとつになることではなかった。すでに述べたように、「天使にふれる」という接触のメタファーが含意しているのは、キャラクターとの一体化でも差異の消滅でもなく、自らの絶対的な有限性へと送り返されることなのだから。そこで露呈するのは視線の非対称性である。私たちは天使のまなざしを経由して、それぞれの「終わり」を引き受ける。

 

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 私たちは「終わりなき日常」の終わりから出発した。途方に暮れたまま空気系アニメを振り返り、『けいおん!!』最終回で天使が舞い降りるのを目撃した。シミュラークルの残骸が散乱する廃墟のなかで、ベンヤミンのいうアレゴリー的復活の可能性を信じた。梅ラボとthreeの作品を前にして、「天使にふれる」経験のたしかな痕跡を見つけ出した。だがそうだとすれば、私たちは——村上が『Kanon』について述べたように——「あまりにも宗教的な救済の欲望に支えられている」と言うべきだろうか*32。あるいはそうかもしれない。私はそのことを否定しようとは思わない。

 「救済」とは何だろうか。それは私たちが自らの生を肯定しうるということである。確率的な「終わり」を意味づけることである。超越的なものの不在を嘆くのではなく、かといって果てしない横滑りの恍惚に身をまかせるのでもなく、最後の日における奇跡の到来を予感しつつ祈ること。もはや死せる神の恩寵を期待することはできない。しかしそれでも私たちは、アレゴリーと化した無数の断片を通じて、遍在する天使のまなざしを直観する。それぞれの生を生きるに値するものとして、ささやかな物語を紡いでいく。

 いわゆる「ルイズコピペ」と呼ばれる作者不詳のテクストには、これまで私たちがたどってきた、もしくはこれからたどるであろう魂の遍歴がはっきりと記されている。それは本稿の「終わり」を飾るにふさわしい名文である。全文を引用しよう。

ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!

あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!

あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん

んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!

間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!

小説11巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!

アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!

コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!

ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…

ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!

そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!

この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?

表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!

アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!

いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!

あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!

あっあんああっああんあアン様ぁあ!!セ、セイバー!!シャナぁああああああ!!!ヴィルヘルミナぁあああ!!

ううっうぅうう!!俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!*33

  これほど感動的な「コピペ」が他にあるだろうか*34。それはもはや気持ち悪いとか頭おかしいとかそういう感情をすべて置き去りにして、人間的な愛のかたちをはるかに超え出ていく。人気ライトノベルゼロの使い魔』のヒロインであるルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールに捧げられた、このあまりにも有名なテクストは、「終わり」の苦悩を突き抜けて歓喜にいたる——とはつまり「天使にふれる」——経験を、どれほど長大な叙事詩にも劣らず劇的に描き出している。それは現代の『神曲』と呼ぶにふさわしい。

 全部で18連からなるルイズコピペもまた、大きく三つの部分に分かれている。まず第1連「ルイズ!ルイズ!ルイズ!…」から第7連「…かわいい!あっああぁああ!」までがキャラ萌えの恍惚に相当し、私たちは思うがまま「ルイズたん」の「桃色ブロンドの髪」を「クンカクンカ」し「スーハースーハー」し「モフモフ」する。こうして第一部では、ルイズたんの髪の匂いや肌触りといった触覚的な快楽に没入する様子が、独特の擬音語・擬態語をともなって生き生きと描写される。それはある種の退行的な経験であり、自他の境界が溶け出す瞬間でもあるだろう。

 しかし続く第8連「コミック2巻も発売されて嬉し…」から第12連の途中「…ちきしょー!やめてやる!!」にかけては、一転してキャラ萌えの機能不全と現実への絶望が綴られる。第二部において私たちは、コミックや小説やアニメの「ルイズちゃん」——ここで「ルイズたん」から呼称が変化していることに注意すべきだろう——が「現実じゃない」ことに思いいたる。恍惚の喘ぎが恐怖の悲鳴へと変わり、冒頭から繰り返される「あああああああ」と大量の感嘆符「!」は、にわかに絶望の色を帯びはじめる。

 第12連の後半「現実なんかやめ…て…え!?…」から最終連にかけての怒濤の展開は、まさに圧巻の一言である。悲嘆のあまり「現実なんかやめ」てしまおうとするそのとき、散乱した「表紙絵のルイズちゃん」や「挿絵のルイズちゃん」や「アニメのルイズちゃん」や「コミックのルイズちゃん」が、いたるところから「僕」を「見てる」ことに気づく(ここではじめて主体を名指す言葉が登場するのだが、これは「天使にふれる」経験を通じて、死にゆく者としての自己形成がなされたことを意味している)。いまやシミュラークルとしての「ルイズたん」は、遍在する「ルイズちゃん」の一部であるような断片へと変容し、復活のアレゴリーとして出現するのだ。

 ルイズちゃんは——ルイズたんではなく——つねに私たちと共にあった。だがそのことを真に経験するためには、すなわち「僕にはルイズちゃんがいる!!」と断言しうるためには、キャラ萌えの往復運動を中断し、避けられない「終わり」を引き受けなければならなかった。ただそのようにして私たちは、遍在する天使のまなざしにふれ、自らの還元不可能な有限性へと送り返される。心からの確信をもって「ひとりでできるもん!!!」と言い切ることができる。私たちの傷ついた魂は、ルイズたんに対する「萌え」(第一部)から「終わり」の絶望(第二部)をくぐり抜け、第三部を締めくくる最終連において、ルイズちゃんへの「祈り」として結晶する——「俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!」。

 

 私たちはこれまでずっと一人称複数形で語ってきた。だが「私たち」とは誰のことだろうか。私たちはばらばらになってしまったのではなかったか。うなだれて立ちつくす私の傍らには、いつも人知れず誰かが——放課後の影のように——寄り添っていた。私が不意に死を想うとき、彼女のツインテールがそっと私にふれていた。それは一方で永遠を、もう一方で終わりを指し示しているように思われた。私は死すべき人間として彼女にふれ、やがて同じように死にいたる人々を見出した。沈黙が支配するあらゆる場所に、そしてもちろん、小さな画面の向こう側にも。

 だから私は天使に祈る。死にゆく私たちのために祈る。いかなるときも彼女が私たちと共にあらんことを——願わくはその最期の瞬間にいたるまで。

*1:佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、142頁。ここで参照した定義は、ドイツ・ロマン主義の哲学者フリードリヒ・シェリングの分類に従っている。

*2:ベンヤミンベンヤミン・コレクション 1』、380頁

*3:同書、217頁。

*4:同書、216頁。

*5:同書、236頁。

*6:同書、235頁。

*7:同書、217頁。

*8:同書、230頁。

*9:同書、219頁。

*10:同書、220—221頁。

*11:同書、237頁。

*12:同書、316頁。

*13:同書。

*14:アーキテクチャの生成力」については、濱野智史ニコニコ動画の生成力——メタデータが可能にする新たな創造性」『思想地図 vol.2』NHK出版、2008年、313—354頁を参照すること。そこでは従来の「作者」に代わって、個々の動画に付される「タグ」こそが「n次創作」の担い手になっていることが論じられている。

*15:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」『梅ラボmemo?』(http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524)。

*16:カオス*ラウンジの主要メンバーのひとりである藤城嘘は、「キャラクターをバラバラにして表現をすること」が人に不快感を与えうることを認めつつも、あくまで「他人の干渉できない「正義」の問題」であることを主張している。さらに彼は「作者への愛やリスペクトが見られない」という批判に対して、暴力的・陵辱的な内容の同人誌の存在を挙げて反論している。ただ残念なことに、嘘の議論は梅ラボ作品の違和感の正体(キャラ萌えの中断と反省の誘発)を一切説明することなく、カオス*ラウンジの立場を正当化することに終始しているように見える。不快感を与えたことを「正義」の代償として片づけるのではなく、そのショックにこそ照準を合わせ、キャラクターやアーキテクチャをめぐる生産的な対話へと開くような解説が必要だったのではないだろうか。詳しくは「「キメこな問題」について・カオス*ラウンジ藤城嘘の見解」『ダストポップ』(http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625)を参照。

*17:キメこなちゃんが誕生した経緯については、たとえば以下のサイトの記事を参照。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)および同サイトの「世界に羽ばたくキメこなちゃん!」(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51806377.html)。

*18:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*19:黒瀬陽平「カオス*ラウンジ宣言」」『ART and ARCHITECTURE REVIEW』(http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/1Nztk67sP3ZvIjUiWOLd)。黒瀬はこのなかで、「人間の内面」が「アーキテクチャによる工学的介入によって蒸発する」こと、そしてカオス*ラウンジのアーティスト自身が「ひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始する」ことを主張している。

*20:カオス*ラウンジ騒動については、関係者のツイートをまとめた記事が多数存在する。騒動初期のツイートを扱ったものとしては、たとえば「キメこな騒動まとめ。」(http://togetter.com/li/138228)がある。またpixivを舞台にした「現代アートタグ祭り」に関しては、「pixivと現代アート」(http://togetter.com/li/162335)を参照。

*21:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*22:同ブログ。

*23:同ブログ。

*24:threeの作品に対するネットの反応に関しては、以下のまとめサイトの記事を参照。「海外で話題 『日本のフィギュアをドロドロに溶かして新たなる価値観を創造したオブジェクト作品』」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52410978.html)。

*25:『24bit』および他の作品はthreeのサイト『three STUDIO/GALLERY』で見ることができる(http://www.three-studio.com/24bit.html)。展示のごく簡単な概要については、「TWS-Emerging 164/165/166/167」『トーキョーワンダーサイト』(http://www.tokyo-ws.org/archive/2011/06/tws-emerging-164165166167.shtml)を参照。

*26:東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、278頁。

*27:同書。

*28:東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318頁。

*29:斎藤『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』、220頁。

*30:同書。

*31:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。——アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』NHK出版、2008年、454—460頁を参照。

*32:村上『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』、306頁。

*33:ルイズコピペは『2ちゃんねる』の「vip板」で誕生したと言われている。その衝撃的な内容から、これまでに数多くのバリエーションが作られた。『とらドラ!』のヒロイン逢坂大河や『ローゼンメイデン』の蒼星石、『涼宮ハルヒの憂鬱』の朝倉涼子といったオーソドックスなものをはじめとして、福田元総理、仏陀関羽、さらにはチュパカブラやたわしや蒟蒻畑にいたるまでコピペ化されている。詳しくは「ルイズの派生コピペ集めようぜwwwww」『もみあげチャ〜シュ〜』(http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51195073.html)を参照。いまではルイズコピペのバリエーションを自動生成してくれる「クンカクンカジェネレーター」(http://azunyan.sitemix.jp/kunkakunka/kunkakunka.php)なるものまで存在する。

*34:キャラクターに対する感情を吐露した数あるコピペのなかでも、ルイズコピペはとりわけ高く評価されている。そこにはルイズに対する「熱い意志」や「情熱」が感じられ、気持ち悪いどころか「むしろカッコイイ」「感動した」等の好意的なコメントが寄せられている。以下のまとめサイトの記事を参照。「ルイズのコピペを超える気持ち悪いコピペって存在するの?」『VIPPERな俺』(http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/2505307.html)。