8月上旬にふたつトークイベントに登壇した。ひとつは8月7日に京都の大垣書店高野店で開催された「いま批評の時間は週末にあるのか──第17回『美術手帖』芸術評論一席記念 寺町英明×谷川嘉浩トークイベント 令和人文主義☆Night vol.2」、もうひとつは11日に新宿のROCK CAFE LOFTで行われた「第12回歌舞伎町のフランクフルト学派」。どちらも第17回『美術手帖』芸術評論募集で一席に選ばれたことがきっかけだ。名義が違うので当初はあまり大っぴらにするつもりはなかったのだが、使い分けるのも面倒だから「寺町英明 a.k.a.てらまっと」としてやっていくことにした。
受賞論考は「寝そべって見る革命──動画、気散じ、統覚の変容をめぐる美学的考察」というタイトルで、主にカントとベンヤミンの議論を手がかりに、ショート動画など現代の「気散じ」的なメディア環境を論じたもの。『美術手帖』誌の2026年7月号に全文が掲載されているほか、ウェブ美術手帖でも有料で読むことができる。超越論的統覚がどうこう、みたいな抽象的な議論も含まれるけれど、できるかぎり噛み砕いてわかりやすく書いたつもりだ。関心のある方は読んでもらえるとうれしい。
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そんなわけで東西のトークイベントに呼んでもらって、いろいろとおしゃべりしてきた。これまでこういう企画には縁がなく、知名度もほぼ皆無だから、主催者の方々には集客などで苦労をかけたかもしれない。高野店店長の倉津拓也さん、哲学者の谷川嘉浩さん、批評家の伏見瞬さんと西村紗知さんに深く感謝したい。
8月は月刊誌・季刊誌・年間誌の校正仕事が全部重なる「惑星直列」が発生したせいで猛烈に忙しく、気がついたらイベントから1カ月近く経ってしまった。今回はふたつの企画の個人的な後記として、トーク中やトーク後に考えたことをまとめておこうと思う。以下、敬称は省略させていただく。
©カラー/EVA製作委員会
何を話したか正確に覚えているわけではないが、ふたつのイベントには共通する固有名詞がある。碇ゲンドウだ。『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジの父親で、実験中に消えてしまった妻に再会したいがために「人類補完計画」を推進する、ろくでもないオヤジである。2021年公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではついに人間をやめてしまい、目から(正確には顔の十字のくぼみから)ビームまで出るようになる。
新劇場版の完結では「成仏」できなかったわたしにとって、ゲンドウをめぐる問題はいまだ決着がついていない、というより現在進行形だ。5年前に『シンエヴァ』を見た直後、ブログにこんなことを書いている。
亡くなった妻と再会するためだけに躊躇なく人類全体を巻き込み、人間すらやめてしまうゲンドウこそ、完結してなお「エヴァの呪縛」にとらわれ続ける私(たち)の似姿ではないか。かつてのシンジと同じく、いやそれ以上に他者を恐れ、わが子にさえおびえる彼は、唯一の理解者だった妻の喪失をいつまでも受け入れることができない。[…]これがもうひとつの成熟の可能性なのかと言われれば、もちろんそんなことはない。最後まで他者を拒み、妻に依存していた身勝手な男が、周囲にさんざん迷惑をかけたあげく自分の子供に尻ぬぐいをさせるという、およそ褒めるべきところのない事例にすぎない。むしろ私(たち)がここから学ぶべきなのは、どうしたらゲンドウにならずに済むかということであり、そして万一なってしまったら、自分の子供=シンジなしでどうやって自分を救うかということだ。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で成仏できない人のために - てらまっとのアニメ批評ブログ
どうしたらゲンドウにならずに済むか 。伏見瞬の言い方では「気の悪い」年長者にならずに済むか。あるいは刃物を振り回したり、ガソリンを撒いたり、他人を巻き込んで拡大自殺したりせずに済むか。経済的な条件はもちろん重要だけれど、たぶんそれだけでは十分ではない。
実をいうと、これは拙稿「寝そべって見る革命」の主題でもある。ソファに寝転がってぼんやりアニメを見るのは、わが内なるゲンドウを「拡散(気散じ)」させるためだ。テロリストや通り魔、排外主義者、あるいは全裸中年男性に「変身」してしまう前に自分自身から意識をそらし、匿名の集合的身体にまどろむためだ。それは生の理不尽をやり過ごす知恵であると同時に、ベンヤミンにとっては来るべき革命の可能性の条件でもあった。
京都で対談した谷川嘉浩は、著書『スマホ時代の哲学』のなかで、『エヴァ』に登場する別の人物に焦点を当てている。加持リョウジだ。加持は飄々とした性格ながら、作中では珍しくまともな大人で、悩めるシンジにいろいろとアドバイスをしてくれる。谷川は、加持が畑でスイカを育てていることに注目し、ものづくりなどの「趣味」をもつことの重要性を説く。「常時接続」環境で集中力を奪われ、他人の評価に振り回されている現代人には、自分自身を取り戻すための「孤独」が必要だ。そして趣味はその格好の入り口になる。わたしも昔から植物を育てるのは好きだから、趣味の効能についてはよくわかる。
©カラー/EVA製作委員会
けれど、加持がスイカの世話をしていたのには、もっと消極的な理由があったんじゃないか、とも思う。谷川自身が書いている通り、加持は「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとかそういうことすら関係がないかのように」黙々と野菜を育てていた。これは裏を返せば、自分自身の避けられない運命から注意をそらし、死の恐怖を鎮めるために趣味に没頭していた 、ということではないのか。
何もかも投げ出して逃げてしまいたい。でも大人として逃げるわけにはいかない。加持もシンジと同じく、こういったジレンマを抱えていたからこそ、趣味のスイカ栽培で気を紛らわせていたのかもしれない。そう考えると、「何かを育てるのはいいぞ」「人に優しくできる」という彼の一連のセリフが、主人公への助言というより、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえてくる。
だから、加持のエピソードはこういうふうにも解釈できる──彼が趣味を大事にしていたのは、必ずしも孤独を通じて自分自身に向き合うため、ではなかった。少なくともそれだけではなかった。そうではなくて、趣味なしでは「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとか」の危機的状況に耐えられなかったからだ。もっというと、趣味なしではゲンドウになってしまうかもしれないから、加持はスイカを、たぶん自分の子供の代わりに育てていた のだ。その甲斐あってか、彼は作中で自らの任務をまっとうして潔く死んでいく(『シンエヴァ』ではもっといろいろあったはずだが、ここでは割愛する)。
けれど、わたしには不安がある。自分は加持のように、危機に瀕しても人間らしく振る舞うことができるだろうか。趣味によって内なるゲンドウをなだめ、自らの運命を引き受けることができるだろうか。どうしたら家庭菜園で自分自身を救うことができるのか。
谷川も著書で引いているパスカルなら、そんなことできるわけがない、と断言するにちがいない。ものづくりだろうがなんだろうが、趣味なんて所詮は「気晴らし(divertissement)」にすぎない。そして気晴らしとは、逃れられない死の運命から「自分をそらす(se divertir)」ための悪あがきであって、神への絶対的な信仰だけがその苦しみを取り去ってくれる。だからパスカルにしてみれば、畑でスイカを育てるのも、働きながら本を読むのも、寝そべってショート動画を見るのも、悪しき気晴らし/気散じという意味ではほとんど変わらない。ゲームやギャンブル、それにアルコールやタバコなどの嗜好品も同様だろう。
じゃあやっぱり趣味なんて無意味なのか、人は信仰に生きるべきなのか、というと、必ずしもそうは思わない。おそらく大半の人間は、人生の大半の時間を、消費社会にあふれる充実した気晴らしで乗り切ることができるからだ。
新宿のイベントで西村紗知が指摘していたように、SNSで作品の良し悪しを大げさに論評する連中は(わたし自身もそうだが)、たとえば週末に郊外のショッピングモールで『ケロロ軍曹』のアニメ映画を観る親子連れのリアリティがわかってない。芸術的には決して褒められた出来ではないけれど、まさにその気楽さゆえに、酷評する連中を含めて、どれだけの人を地上につなぎとめているかわかっていない。これはわたしが参加する「低志会」の基本理念でもある。もちろん、娯楽映画やショート動画に飽きたらない知的な方々は、自分たちでZINEでもなんでも作ればいい。生きることの虚無を発散できるなら、別になんだって構わないのだから。
問題はむしろ危機の瞬間だ。つまり「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとか」の状況に置かれたとき、人は気晴らし/気散じとしての趣味でどこまで乗り切れるのか 、ということだ。たしかに現代日本では、信仰にも似た「推し活」型の気晴らしが支持を集めている。けれど、スイカやアニメやアイドルは本当に教えてくれるだろうか──たとえばある人が死に、ある人が生き残ってしまった、そんな理不尽な現実を受け入れるための勇気を。國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で問わずにおいたのも、この問いだったように思う。気晴らしではどうにもなりそうにない危機的な出来事が、ときに世界や人生には起こる。そして人はゲンドウになる。目からビームを出し始める。ハイデガーのいう「民族」が生起する。
「ある日突然ショッピングモールが爆発して、『ケロロ軍曹』が親子ふたりで観た最後の映画になってしまったら、どうか」。西村の話に賛同しつつ、わたしがこう切り出したのは、いわば気晴らしの臨界点(クリティカル・ポイント)に個人的な関心があったからだ。いやもうちょっと正確にいうと、そういう関心があることに気づかせてもらったからだ。そしてこの問いは同時に、わたし自身の批評の原点でもある。
2011年に初めて同人誌に書いた長編論考「ツインテールの天使──キャラクター・救済・アレゴリー」は、テレビアニメ『けいおん!』を東日本大震災から解釈し直すというものだった。そこでは卒業に伴うキャラクターの別離が避けられない死の問題として、そして当のキャラクター自身が超越的な存在へと読み替えられる。これはどう考えてもただの深読みというか、めちゃくちゃなこじつけなのだが、振り返ってみると、危機に際してこうした解釈上のアクロバットが要請される理由がわかる気がする。
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『フランダースの犬』で死にゆくネロとパトラッシュが最後に目にしたのは、大聖堂に架かるルーベンスの絵画だった。けれどわたしのような信仰に乏しい人間は、荘厳な宗教画からではなく、さっきまでただの気晴らしの材料にすぎなかったものから、生と死の虚無を埋め合わせる物語を作り出さなければならない 。理不尽な出来事を受け止め、そこに意味を与え、もう一度歩き出すための勇気を手に入れなければならない。
そんなことが可能だろうか。可能だとしても、具体的にどうすればいいのか。そこで必要となるのが解釈の魔法、あるいは創造的誤読だ。パンを肉に、ワインを血に読み替えるような、飛躍するパラフレーズの技法だ。このあたりの話は「ツインテールの天使」の十数年越しの続編みたいな論考「救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色」で詳しく論じたから、興味のある方は読んでみてほしい。出来事の意味を読み替えるという点では、いわゆる物語療法(ナラティブ・セラピー)における「語り直し(re-authoring)」にかなり近いかもしれない。
いまのところはこれが、わが内なるゲンドウと共存するための、わたしなりのアプローチでもある。
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事故で子供を失った母親は、もうこれまでのように『ケロロ軍曹』を観ることはできないだろう。そこには生きることと死ぬことの不条理が、生き残ってしまったことの後悔と慰めが、遅れてきた予言のように浮かび上がるだろう。それは母親の生を立て直すための手助けになるだろうか。理不尽な出来事を読み替え、別の仕方で意味づけられるようになるだろうか。危機のさなかでスイカを育てていた加持も、同じような課題と向き合っていたのかもしれない。
週末が終末に裏返るとき、生と死の恐るべき無意味さが口を開ける。そこでもう一度週末を取り戻すために、もしくは次の週末まで生き延びるために、気晴らしの消費財を通じて何を語ることができるのか。本物の信仰や民族意識によってではなく、慣れ親しんだアニメや漫画や大量生産のまがい物によって、人は自らの生を肯定することができるのか。戦時下の強制収容所で、一部の収容者たちがごく限られた素材から「作品」をつくって命をつないだように、気晴らしを材料として生と死の意味を新たに語り直すこと……。
わたしにとって批評とは、実は当初からそういう問題意識とともにあったらしいのだが、自分ひとりではそのことに気づけなかった。トークイベントの機会を与えてくれた方々に改めて感謝したい。