てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

これまでに寄稿したもの(随時更新)

他媒体に寄稿した文章の一覧です。自分でもよくわからなくなってきたので思い出せる範囲で記録することにしました。もっと昔のものは気が向いたときに。随時更新予定。

ご用件などはteramateram●gmail.comまで。

 

虹の化石を拾いに

群像 2026年9月号 ※寺町英明名義

gunzou.kodansha.co.jp

寝そべって見る革命──動画、気散じ、統覚の変容をめぐる美学的考察

美術手帖 2026年7月号(第17回『美術手帖』芸術評論募集 一席) ※寺町英明名義

bijutsutecho.com

bijutsutecho.com

もうひとつの『おにまい』(最終回)──夢と目覚めのメディア論

低志会会報 vol. 5 2026年5月4日

teramat.hatenablog.com

booth.pm

『呪術廻戦≡』が描く共生の理想と困難──なぜ“きょうだい”は殺し合ってしまうのか

KAI-YOU Premium 2026年4月8日

premium.kai-you.net

ボンクラ、異邦人、生活者──「週末批評」管理人が選ぶ3本

文学+WEB版 2026年2月27日

note.com

【書評】痛みを感じる方向に「聖地」がある:書評『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』(中央公論社)

ちえうみPLUS 2025年10月9日

chieumiplus.com

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』と模擬的な戦後──マチュはいかにして“正史”を乗り越えたか

KAI-YOU Premium 2025年7月18日

premium.kai-you.net

もうひとつの『おにまい』(3)──ゲームという逆説

低志会会報 vol. 4 2025年5月11日

teramat.hatenablog.com

worldend-critic.booth.pm

誰でも書ける⁉️ 批評っぽい文章の書き方

個人誌 2025年5月11日

worldend-critic.booth.pm

『るろうに剣心』と重なる戦後日本の“ねじれ”──志々雄が背負う旧日本軍の無念

KAI-YOU Premium 2025年5月11日(初出:KAI-YOU 2025年1月26日)

premium.kai-you.net

【書評】気晴らしとしての宗教?|『魔法少女はなぜ変身するのか  ポップカルチャーのなかの宗教』(春秋社)

ちえうみPLUS 2025年5月2日

chieumiplus.com

批評サイト管理人のおススメ!WEB論考:ビデオゲームからアニメ映画まで

文学+WEB版 2025年2月21日

note.com

『呪術廻戦』五条悟から未来への贈り物 大人が原子力少年たちに遺した選択肢

KAI-YOU Premium 2024年12月25日

premium.kai-you.net

救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色

週末批評 2024年9月20日

worldend-critic.com

さいたまの幻塔

低志会会報 vol. 3 2024年5月19日

teramat.hatenablog.com

worldend-critic.booth.pm

【インタビュー】日常系アニメ批評愛好家が聴くキャラソン

声色 Vol. 01 2024年5月19日

booth.pm

【座談会】現代日本の同人(インディー)批評②

ブラインド vol. 2 2024年5月19日

blin-d-s.booth.pm

『呪術廻戦』虎杖悠仁の末路を、東京都民の私は見届ける義務がある

KAI-YOU Premium 2024年3月28日

premium.kai-you.net

もうひとつの『おにまい』(2)──オオサンショウウオと成熟の問題

低志会会報 vol. 2 2023年11月11日

worldend-critic.booth.pm

【座談会】現代日本のインディーアニメ批評/一〇年目の追伸(ポストスクリプト)──ポスト日常系から見る『リコリス・リコイル』

ブラインド vol. 1 2023年11月11日

blin-d-s.booth.pm

ジブリの知らない街、あるいはニュータウンの精霊たち

ビンダー vol. 8 2023年11月11日

cucuruss.booth.pm

映画の死体をアニメートする──『ポンポさん』とシネクロフィリア

『映画大好きポンポさん』トリビュート 2023年11月11日

dojinfo.com

【座談会】日常のゆくえ──京アニ事件から『ぼっち・ざ・ろっく!』まで

週末批評 2023年7月15日(初出:Blue Lose vol. 3 2023年5月21日)

worldend-critic.com

lose-heroine.booth.pm

もうひとつの『おにまい』解題

低志会会報 vol. 1 2023年5月21日

worldend-critic.booth.pm

明日ちゃんのキャミソール、またはわたしはいかにして心配するのをやめてキャミソールを愛するようになったか

蠟梅学園中等部一年 夏休みの宿題 2022年11月20日

note.com

高木さん、あるいは母と子の物語──ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ試論

週末批評 2022年6月12日(初出:アニメクリティーク 2021冬号 vol. 12 2021年12月31日)

worldend-critic.com

世界に謎を取り戻すために──杉本克哉「YOU ARE GOD」展評

KATSUYA SUGIMOTO 2021年3月12日

katsuya-sugimoto.com

 

ゲンドウになること、あるいは気晴らしの臨界点(トークイベント後記)

 8月上旬にふたつトークイベントに登壇した。ひとつは8月7日に京都の大垣書店高野店で開催された「いま批評の時間は週末にあるのか──第17回『美術手帖』芸術評論一席記念 寺町英明×谷川嘉浩トークイベント 令和人文主義☆Night vol.2」、もうひとつは11日に新宿のROCK CAFE LOFTで行われた「第12回歌舞伎町のフランクフルト学派」。どちらも第17回『美術手帖』芸術評論募集で一席に選ばれたことがきっかけだ。名義が違うので当初はあまり大っぴらにするつもりはなかったのだが、使い分けるのも面倒だから「寺町英明 a.k.a.てらまっと」としてやっていくことにした。

 受賞論考は「寝そべって見る革命──動画、気散じ、統覚の変容をめぐる美学的考察」というタイトルで、主にカントとベンヤミンの議論を手がかりに、ショート動画など現代の「気散じ」的なメディア環境を論じたもの。『美術手帖』誌の2026年7月号に全文が掲載されているほか、ウェブ美術手帖でも有料で読むことができる。超越論的統覚がどうこう、みたいな抽象的な議論も含まれるけれど、できるかぎり噛み砕いてわかりやすく書いたつもりだ。関心のある方は読んでもらえるとうれしい。

bijutsutecho.com

 そんなわけで東西のトークイベントに呼んでもらって、いろいろとおしゃべりしてきた。これまでこういう企画には縁がなく、知名度もほぼ皆無だから、主催者の方々には集客などで苦労をかけたかもしれない。高野店店長の倉津拓也さん、哲学者の谷川嘉浩さん、批評家の伏見瞬さんと西村紗知さんに深く感謝したい。

 8月は月刊誌・季刊誌・年間誌の校正仕事が全部重なる「惑星直列」が発生したせいで猛烈に忙しく、気がついたらイベントから1カ月近く経ってしまった。今回はふたつの企画の個人的な後記として、トーク中やトーク後に考えたことをまとめておこうと思う。以下、敬称は省略させていただく。

©カラー/EVA製作委員会

 何を話したか正確に覚えているわけではないが、ふたつのイベントには共通する固有名詞がある。碇ゲンドウだ。『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジの父親で、実験中に消えてしまった妻に再会したいがために「人類補完計画」を推進する、ろくでもないオヤジである。2021年公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではついに人間をやめてしまい、目から(正確には顔の十字のくぼみから)ビームまで出るようになる。

 新劇場版の完結では「成仏」できなかったわたしにとって、ゲンドウをめぐる問題はいまだ決着がついていない、というより現在進行形だ。5年前に『シンエヴァ』を見た直後、ブログにこんなことを書いている。

亡くなった妻と再会するためだけに躊躇なく人類全体を巻き込み、人間すらやめてしまうゲンドウこそ、完結してなお「エヴァの呪縛」にとらわれ続ける私(たち)の似姿ではないか。かつてのシンジと同じく、いやそれ以上に他者を恐れ、わが子にさえおびえる彼は、唯一の理解者だった妻の喪失をいつまでも受け入れることができない。[…]これがもうひとつの成熟の可能性なのかと言われれば、もちろんそんなことはない。最後まで他者を拒み、妻に依存していた身勝手な男が、周囲にさんざん迷惑をかけたあげく自分の子供に尻ぬぐいをさせるという、およそ褒めるべきところのない事例にすぎない。むしろ私(たち)がここから学ぶべきなのは、どうしたらゲンドウにならずに済むかということであり、そして万一なってしまったら、自分の子供=シンジなしでどうやって自分を救うかということだ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で成仏できない人のために - てらまっとのアニメ批評ブログ

 どうしたらゲンドウにならずに済むか。伏見瞬の言い方では「気の悪い」年長者にならずに済むか。あるいは刃物を振り回したり、ガソリンを撒いたり、他人を巻き込んで拡大自殺したりせずに済むか。経済的な条件はもちろん重要だけれど、たぶんそれだけでは十分ではない。

 実をいうと、これは拙稿「寝そべって見る革命」の主題でもある。ソファに寝転がってぼんやりアニメを見るのは、わが内なるゲンドウを「拡散(気散じ)」させるためだ。テロリストや通り魔、排外主義者、あるいは全裸中年男性に「変身」してしまう前に自分自身から意識をそらし、匿名の集合的身体にまどろむためだ。それは生の理不尽をやり過ごす知恵であると同時に、ベンヤミンにとっては来るべき革命の可能性の条件でもあった。

 京都で対談した谷川嘉浩は、著書『スマホ時代の哲学』のなかで、『エヴァ』に登場する別の人物に焦点を当てている。加持リョウジだ。加持は飄々とした性格ながら、作中では珍しくまともな大人で、悩めるシンジにいろいろとアドバイスをしてくれる。谷川は、加持が畑でスイカを育てていることに注目し、ものづくりなどの「趣味」をもつことの重要性を説く。「常時接続」環境で集中力を奪われ、他人の評価に振り回されている現代人には、自分自身を取り戻すための「孤独」が必要だ。そして趣味はその格好の入り口になる。わたしも昔から植物を育てるのは好きだから、趣味の効能についてはよくわかる。

©カラー/EVA製作委員会

 けれど、加持がスイカの世話をしていたのには、もっと消極的な理由があったんじゃないか、とも思う。谷川自身が書いている通り、加持は「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとかそういうことすら関係がないかのように」黙々と野菜を育てていた。これは裏を返せば、自分自身の避けられない運命から注意をそらし、死の恐怖を鎮めるために趣味に没頭していた、ということではないのか。

 何もかも投げ出して逃げてしまいたい。でも大人として逃げるわけにはいかない。加持もシンジと同じく、こういったジレンマを抱えていたからこそ、趣味のスイカ栽培で気を紛らわせていたのかもしれない。そう考えると、「何かを育てるのはいいぞ」「人に優しくできる」という彼の一連のセリフが、主人公への助言というより、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえてくる。

 だから、加持のエピソードはこういうふうにも解釈できる──彼が趣味を大事にしていたのは、必ずしも孤独を通じて自分自身に向き合うため、ではなかった。少なくともそれだけではなかった。そうではなくて、趣味なしでは「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとか」の危機的状況に耐えられなかったからだ。もっというと、趣味なしではゲンドウになってしまうかもしれないから、加持はスイカを、たぶん自分の子供の代わりに育てていたのだ。その甲斐あってか、彼は作中で自らの任務をまっとうして潔く死んでいく(『シンエヴァ』ではもっといろいろあったはずだが、ここでは割愛する)。

 けれど、わたしには不安がある。自分は加持のように、危機に瀕しても人間らしく振る舞うことができるだろうか。趣味によって内なるゲンドウをなだめ、自らの運命を引き受けることができるだろうか。どうしたら家庭菜園で自分自身を救うことができるのか。

 谷川も著書で引いているパスカルなら、そんなことできるわけがない、と断言するにちがいない。ものづくりだろうがなんだろうが、趣味なんて所詮は「気晴らし(divertissement)」にすぎない。そして気晴らしとは、逃れられない死の運命から「自分をそらす(se divertir)」ための悪あがきであって、神への絶対的な信仰だけがその苦しみを取り去ってくれる。だからパスカルにしてみれば、畑でスイカを育てるのも、働きながら本を読むのも、寝そべってショート動画を見るのも、悪しき気晴らし/気散じという意味ではほとんど変わらない。ゲームやギャンブル、それにアルコールやタバコなどの嗜好品も同様だろう。

 じゃあやっぱり趣味なんて無意味なのか、人は信仰に生きるべきなのか、というと、必ずしもそうは思わない。おそらく大半の人間は、人生の大半の時間を、消費社会にあふれる充実した気晴らしで乗り切ることができるからだ。

 新宿のイベントで西村紗知が指摘していたように、SNSで作品の良し悪しを大げさに論評する連中は(わたし自身もそうだが)、たとえば週末に郊外のショッピングモールで『ケロロ軍曹』のアニメ映画を観る親子連れのリアリティがわかってない。芸術的には決して褒められた出来ではないけれど、まさにその気楽さゆえに、酷評する連中を含めて、どれだけの人を地上につなぎとめているかわかっていない。これはわたしが参加する「低志会」の基本理念でもある。もちろん、娯楽映画やショート動画に飽きたらない知的な方々は、自分たちでZINEでもなんでも作ればいい。生きることの虚無を発散できるなら、別になんだって構わないのだから。

 問題はむしろ危機の瞬間だ。つまり「明日世界が滅ぶとか明日死ぬとか」の状況に置かれたとき、人は気晴らし/気散じとしての趣味でどこまで乗り切れるのか、ということだ。たしかに現代日本では、信仰にも似た「推し活」型の気晴らしが支持を集めている。けれど、スイカやアニメやアイドルは本当に教えてくれるだろうか──たとえばある人が死に、ある人が生き残ってしまった、そんな理不尽な現実を受け入れるための勇気を。國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で問わずにおいたのも、この問いだったように思う。気晴らしではどうにもなりそうにない危機的な出来事が、ときに世界や人生には起こる。そして人はゲンドウになる。目からビームを出し始める。ハイデガーのいう「民族」が生起する。

 「ある日突然ショッピングモールが爆発して、『ケロロ軍曹』が親子ふたりで観た最後の映画になってしまったら、どうか」。西村の話に賛同しつつ、わたしがこう切り出したのは、いわば気晴らしの臨界点(クリティカル・ポイント)に個人的な関心があったからだ。いやもうちょっと正確にいうと、そういう関心があることに気づかせてもらったからだ。そしてこの問いは同時に、わたし自身の批評の原点でもある。

 2011年に初めて同人誌に書いた長編論考「ツインテールの天使──キャラクター・救済・アレゴリー」は、テレビアニメ『けいおん!』を東日本大震災から解釈し直すというものだった。そこでは卒業に伴うキャラクターの別離が避けられない死の問題として、そして当のキャラクター自身が超越的な存在へと読み替えられる。これはどう考えてもただの深読みというか、めちゃくちゃなこじつけなのだが、振り返ってみると、危機に際してこうした解釈上のアクロバットが要請される理由がわかる気がする。

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 『フランダースの犬』で死にゆくネロとパトラッシュが最後に目にしたのは、大聖堂に架かるルーベンスの絵画だった。けれどわたしのような信仰に乏しい人間は、荘厳な宗教画からではなく、さっきまでただの気晴らしの材料にすぎなかったものから、生と死の虚無を埋め合わせる物語を作り出さなければならない。理不尽な出来事を受け止め、そこに意味を与え、もう一度歩き出すための勇気を手に入れなければならない。

 そんなことが可能だろうか。可能だとしても、具体的にどうすればいいのか。そこで必要となるのが解釈の魔法、あるいは創造的誤読だ。パンを肉に、ワインを血に読み替えるような、飛躍するパラフレーズの技法だ。このあたりの話は「ツインテールの天使」の十数年越しの続編みたいな論考「救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色」で詳しく論じたから、興味のある方は読んでみてほしい。出来事の意味を読み替えるという点では、いわゆる物語療法(ナラティブ・セラピー)における「語り直し(re-authoring)」にかなり近いかもしれない。

 いまのところはこれが、わが内なるゲンドウと共存するための、わたしなりのアプローチでもある。

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 事故で子供を失った母親は、もうこれまでのように『ケロロ軍曹』を観ることはできないだろう。そこには生きることと死ぬことの不条理が、生き残ってしまったことの後悔と慰めが、遅れてきた予言のように浮かび上がるだろう。それは母親の生を立て直すための手助けになるだろうか。理不尽な出来事を読み替え、別の仕方で意味づけられるようになるだろうか。危機のさなかでスイカを育てていた加持も、同じような課題と向き合っていたのかもしれない。

 週末が終末に裏返るとき、生と死の恐るべき無意味さが口を開ける。そこでもう一度週末を取り戻すために、もしくは次の週末まで生き延びるために、気晴らしの消費財を通じて何を語ることができるのか。本物の信仰や民族意識によってではなく、慣れ親しんだアニメや漫画や大量生産のまがい物によって、人は自らの生を肯定することができるのか。戦時下の強制収容所で、一部の収容者たちがごく限られた素材から「作品」をつくって命をつないだように、気晴らしを材料として生と死の意味を新たに語り直すこと……。

 わたしにとって批評とは、実は当初からそういう問題意識とともにあったらしいのだが、自分ひとりではそのことに気づけなかった。トークイベントの機会を与えてくれた方々に改めて感謝したい。

 

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もうひとつの『おにまい』(最終回)冒頭試し読み&文フリ東京42出店のお知らせ

©ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した」──フランツ・カフカ『変身』(1915)のあまりにも有名な冒頭の一節である。

 最近読み直して気づいたのだが、虫になってしまったグレーゴルは外出どころか、自分の顔すらまともに見ることなく死んでいったらしい。少なくとも作中には、彼が自分の顔を直視したり、具体的にコメントしたりする記述は含まれていない。この哀れな主人公が異変に気づいたのは、膨らんだ褐色の腹とか、もぞもぞ動くたくさんの足とかを、あくまで一人称視点(POV)で目にしたためだ。彼の部屋には鏡がなかったのである。

 『変身』における鏡の不在は、鏡とよく似た2種類の物体によっても暗示されている。寝起きのグレーゴルは冒頭、ぼんやりした頭で部屋の中を見回す。その際に言及されるのは、壁に掛かっている額縁に収められた女性の絵と、屋外に面した窓だ。どちらも視覚にまつわる重要なメディアだが、同じくポピュラーな光学装置である鏡だけは物語を通して一度も登場しない。まるで彼の部屋に、いや作品世界そのものに鏡が存在しない(もしくは世界そのものが歪んだ鏡である)かのように。

 もちろん、女性と比べて容姿や服装などに無頓着な男性の部屋に鏡がないのは、それほど不思議なことではない。『変身』と同様、目覚めると巨大な虫──ではなく、可憐な美少女に変わっていたアニメ『お兄ちゃんはおしまい!』(2023)の主人公・緒山まひろの部屋にも、当初は鏡がなかった(わたしの部屋にもない)。まひろもまた、寝ぼけまなこで自分の手を見つめ、こんなに小さかったっけ、とひとりごちる。

 ところがその直後、まひろはグレーゴルとは正反対に、変身(性転換=TS)した自分自身の顔と直面することになる。カーテンから漏れる薄明かりの下、暗転したタブレットに映る影に違和感を覚えた彼は、タブレットを卓上ミラーのように本棚に立てると、内蔵のインカメラを起動させる。そこに映り込んでいたのは、妹に薬を盛られ女の子に変身したまひろ自身の姿だった。鏡に代わってタブレットのディスプレイが、自己を省みるためのメディアとして機能しているわけだ。

 これはまひろにとってかなりイレギュラーな行為だったにちがいない。美少女に変身したことが、というよりも、タブレットのインカメラを起動したことが、である。

 このデバイスはおそらくゲーム用かアニメ・マンガ用で、2年も自宅に引きこもっていた「ダメニート」の主人公にしてみれば、そもそも自分の顔なんて見たくもなかったはずだ。ディスプレイとは本来、あくまで作品世界に「没入/没頭」するための機器であって、プレイヤー自身を「反射/反省」するための装置ではないのだから。

 『おにまい』で繰り返し描かれるのは、このガラス平面の二重性・両義性である。それは異世界に面した「窓」であると同時に、自己を映す「鏡」でもある。そしてこの両義性は、わたしたちのテレビやパソコン、スマートフォンのディスプレイに表示される『おにまい』そのものへと折り返されていく。

 夢と目覚めが交錯する二重平面の物語。『おにまい』に多数登場する鏡やディスプレイに注目して、もうひとりのグレーゴルの運命をたどり直してみよう。 

〈会報第5号に続く〉

 

……

 

 上記の文章は、低志会の会報第5号『浴衣姿のあの子と夏祭りに出かけて人混みではぐれそうになり思わず手をつなぐ代わりに低志会の本を冷やして腰に貼る、つまりそれが祈り vol. 5(仮)』(52頁、700円予定)所収の論考「もうひとつの『おにまい』(最終回)夢と目覚めのメディア論」の冒頭部です。

 当ブログ掲載の「もうひとつの『おにまい』」シリーズの第4回(最終回)にあたるもので、本論が収録された低志会会報は2026年5月4日(月・祝)開催の「文学フリマ東京42」低志会ブース(南1・2ホール:V-25・26)で頒布されます。

 なお、既刊の会報第1号には「もうひとつの『おにまい』解題」、第2号には「もうひとつの『おにまい』(2)オオサンショウウオと成熟の問題」、第4号には「もうひとつの『おにまい』(3)ゲームという逆説」が収録されています。関心のある方は既刊もあわせてぜひ。

  • 日時:2026年5月4日(月・祝)12:00〜17:00
  • 場所:東京ビッグサイト 南1・2ホール
  • 配置:低志会 V-25・26

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 以下、新刊の会報第5号の内容紹介です。

 低志会会報第5号の特集は「外出」。近所のコンビニから世界一周旅行、さらには仮想空間にいたるまで、外出の定義はじつに広大です。旅行や観光にとどまらず、ちょっとそこまで出かけた先で、思いがけない発見や内省に見舞われることも。だんだん遠出がおっくうになっていく中年男性4名の外出にまつわるエッセイ(+あんまり関係ない論考)を収録しました。今回も素敵な表紙はオガワデザインさんです。

 エッセイの内容を簡単に紹介します。

マクドナルドで飯を食う。|オガワデザイン

ちょっと殺伐とした雰囲気が逆にくつろげる、コロナ明けのマクドナルド。全国チェーンのファストフード店にも、ここにしかない不思議な群像劇が立ち上がる。フィレオフィッシュの裂け目から深淵を覗く、中年のエッセイ。

以而非駿州|noirse

ある画家の回顧展を機に、かつて住んでいた土地を再訪する著者。すっかり変わってしまった街をさまよい歩くうち、幼少期に遊んだテレビゲームの記憶が蘇る。砂のように乾いた感傷を嚙みしめる、中年のエッセイ。

距離を感じること、酒を呑むこと|安原まひろ

著者は幼い頃から「距離」の感覚に憑かれてきた。実家への帰省、マンハッタン島、オープンワールドゲーム、バックパッカーブーム……。距離をめぐる内省がいつしか酒と人生の終わりへいざなう、中年のエッセイ。

もうひとつの『おにまい』(最終回)夢と目覚めのメディア論|てらまっと

2023年から書き続けてきた『お兄ちゃんはおしまい!』論も、ついに最終回。同作に多数登場する鏡とディスプレイは、ニートだった主人公をどのように変えていくのか。夢から夢への目覚めを描く、中年の論考。

 

 また第5号では、旧負けヒロイン研究会を主宰する気鋭のアニメライター・評論家の舞風つむじさんにもエッセイを寄稿してもらいました。

【特別寄稿】「キルミーのベイベー」をカラオケで高得点って結構難しい|舞風つむじ

授業をさぼって遊んでいた高校時代の旧友。いまは連絡すらとっていない彼との日々を、当時一緒に見た劇場アニメに託して振り返る。ほのかなブロマンスが滲む、中年青年のエッセイ。

 

 エッセイの長文化などにより気づいたら52頁になってしまい、「界隈最薄」の自負が揺らぎつつありますが、今号も大変おもしろい文章が集まりました。会報の既刊とあわせてお楽しみください。

 

 そして今回はさらに、かつて一瞬で(ほぼ)完売したあの伝説のグッズ、「拾った石のアクリルスタンド」が再び頒布されます。

 第2弾は河原ではなく海辺で拾った石を3種類、オガワデザインさんがアクスタ化しました(価格未定)。数に限りがありますので、お求めの方はお早めに低志会ブース(V-25・26)までお越しください。

 あと、わりと好評だったわたしの個人誌誰でも書ける!? 批評っぽい文章の書き方』をInDesignで作り直した完全版(40頁、600円予定)も頒布予定です。表紙を大幅に、内容を少しだけ変更しています。こちらも気になる方は低志会ブースでお求めください。

 というわけで、文学フリマ東京42に来られる方はよろしくお願いします。

もうひとつの『おにまい』(3)冒頭試し読み&文フリ出店のお知らせ

©ねことうふ・一迅社/「おにまい」製作委員会

子どもがゲームとつきあうスキルを獲得するうえで、最も大切なことの一つが「おしまい」の練習である。

──吉川徹「発達障害とゲームの関係性──ゲームが好きな子どもの世界に近づくために」、『そだちの科学』2023年4月号、8頁

『お兄ちゃんはおしまい!』(以下『おにまい』)のアニメ化企画が動き始めた2020年初頭、香川県議会にとある条例案が提出された。同県内の未成年者とその保護者を対象とする「ネット・ゲーム依存症対策条例案」だ。そこには子どもたちを「ネット・ゲーム依存」から守るという名目で、家庭でのコンピュータ・ゲームやスマートフォンの使用時間を制限する内容(努力義務)が含まれていた。

 この条例案がマスメディアで取り上げられると、医療関係者や研究者、ゲーム業界などからは異論が噴出する。同案はパブリックコメントの不透明さもあいまって〝炎上〟したものの、結局は提出から2カ月ほどで可決・成立した。

 ネット・ゲーム依存症対策条例の制定に深く関わっていたのが、大阪にクリニックを構える作家・精神科医岡田尊司だ。

 香川出身の岡田は、2019年10月に開かれた「香川県議会ネット・ゲーム依存症対策に関する条例検討委員会」の第2回検討会に参考人として招かれ、条例に盛り込むべき内容を提示している。岡田は2014年に『インターネット・ゲーム依存症──ネトゲからスマホまで』と題した著書を出しており、行政によるゲーム規制や依存対策の必要性を訴えてきた人物として知られる。

 岡田はパソコンやスマートフォンのゲームを「現代の阿片」「デジタル・ヘロイン」と呼び、その依存性の高さに警鐘を鳴らしてきた。彼に言わせると、ネット・ゲーム依存は覚醒剤などの薬物依存と同様、脳機能に深刻なダメージを与え、注意力や記憶力の著しい低下、うつ状態発達障害の症状などを誘発するという。『インターネット・ゲーム依存症』には、オンラインゲームに「没頭する=とらわれる(preoccupied)」あまり、学業や仕事、人間関係などがおろそかになり、心身に変調をきたして家庭崩壊や自殺にまでいたるケースがいくつも紹介されている。

 岡田が取り上げる事例のうち、わたしの目を引いたのはある男子大学生のケースだった。中学時代から不登校気味だった晃さん(仮名)は、通信制高校を卒業して大学に進学するものの、ゲームにハマって大学を休みがちになる。カウンセリングの結果、彼には「自分が誰からも認められない無価値な存在だという強い自己否定」があり、これが社会適応を困難にするとともに、ゲームへの依存を引き起こしていたという。

 岡田はこの大学生の自己否定の背景を次のように説明している。

彼には妹がいたが、その妹は成績優秀なうえに、音楽の分野で特別な才能を示し、母親は妹のことに夢中になって、晃さんにはまったく関心を向けてこなかったのだ。しかも、妹も兄のことを見下して、否定的な言葉を投げつけてくる。そもそも不登校が始まったきっかけも、そんな妹の態度に業を煮やした晃さんが、妹に手を上げてしまったことで、母親が激怒したことからだった。晃さんはずっと「ダメな兄」でしかなかったのだ。そうした家庭におけるやり場のなさからの逃げ場所が、ゲームだった。

──岡田尊司『インターネット・ゲーム依存症──ネトゲからスマホまで』、文春新書、2014年、274–275頁

 晃さんの社会不適応の原因は、家庭内で優秀な妹とつねに比べられること、つまりは「ダメな兄」という否定的な自己評価だった。オンラインゲームはそんな彼に「逃げ場所」を与え、結果的に依存状態をつくり出していたというわけだ。

 一見してわかる通り、この大学生のケースは『おにまい』の設定ときわめてよく似ている。条例制定の3年後、2023年初頭にアニメ化された本作もまた、成績優秀でスポーツ万能の妹に対する劣等感をこじらせ、自室に引きこもってゲームばかりしている「ダメな兄」が主人公だった。『おにまい』はそんな兄を見かねた妹が、ひそかに開発中の薬を盛ってTS(性転換)させ、女子中学生として社会復帰させていく物語だ。

 

……

 

 上記の文章は、低志会の会報第4号『バファリンの代わりに低志会の本を煎じて食後に飲む、つまりそれが祈り vol. (仮)』(本文40頁、600円)所収の論考「もうひとつの『おにまい』(3)ゲームという逆説」の冒頭部です。

 当ブログ掲載の「もうひとつの『おにまい』」シリーズの第3回にあたるもので、本論が収録された会報は2025年5月11日(日)開催の「文学フリマ東京40」低志会ブース(O-11・12)で頒布されます。

 なお、既刊の会報第1号には「もうひとつの『おにまい』解題」、第2号には「もうひとつの『おにまい』(2)オオサンショウウオと成熟の問題」が収録されています。関心のある方はこちらも合わせてぜひ。

c.bunfree.net

 

以下、新刊の会報第4号の内容紹介です。

 

 低志志の会報第4号では「特集=健康」と題し、健康や病気をサブカルチャーと絡めて綴った会員のエッセイを収録しました。今回も非常におしゃれで不健康そうな表紙はオガワデザインさん、そしてサイケデリックなジョッキの写真は安原まひろさんによるものです。エッセイの内容を簡単に紹介します。

オガワデザイン「塩なしおむすび」

今から40年ほど前、原因不明の大量出血で入院したオガワ少年が、小児病棟で手渡された1個の「おむすび」。小さな逸脱、小さな自由が逆説的に人を活かす、生への洞察に満ちたエッセイ。

noirse「夏、熱海の旅」

2024年のある夏の日、noirseに率いられた中年男性の一行が、炎天下の熱海・伊豆山登攀に挑んでいた。目的はひとつ、近所に住むというあの有名アニメ監督を見つけ出すこと。その結末やいかに──。

安原まひろ「酒と健康  ─悠然としてアニメの女の子を見る─」

若い世代を中心に飲酒の習慣がなくなりつつある昨今。健康志向に見えて、実は社会の「圧」をかいくぐる手段が失われているのではないか。生き抜くための智慧は、遥か1600年前の中国にあった。

てらまっと「もうひとつの『おにまい』(3)ゲームという逆説」

アニメ『お兄ちゃんはおしまい!』を、現実で救われなかった別の「お兄ちゃん」と重ねて読む「もうひとつの『おにまい』」第3回。今回は同作を一種の「ゲーム実況動画」として捉え返す。

 

ほかにも「低志会用語集」や「オフライン低志会」活動アルバムなど、薄い冊子にいろいろな情報を盛り込みました。ささっと読めて面白い、コスパも最高の低志会会報第4号をよろしくお願いします。

なお、当日は低志会ブース(O-11・12)で『誰でも書ける⁉️ 批評っぽい文章の書き方』(てらまっと著、週末批評、500円)第3版も頒布予定です。関心のある方はぜひ。

 

追記(2025/5/15)

BOOTHで通販を開始しました。

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2024年に書いたもの(呪術廻戦/さいたま/きみの色/???)

2024年に書いたものの一覧です。備忘録として。

 

台湾花見に寄せて:『姫様“拷問”の時間です』と消費社会のゆめうつつ(当ブログ、2月29日)

teramat.hatenablog.com

3月に台湾にお花見に行く前にささっと書いたもの。時事的な話を混ぜ込むのが昨年からマイブームになってて、なんかそういう感じです。台湾はとても楽しくて、面白くて、刺激的でした。また行きたいわん!

 

原子力少年の憂鬱 『呪術廻戦』が引き継いだ使命①:『呪術廻戦』虎杖悠仁の末路を、東京都民の私は見届ける義務がある(KAI-YOU Premium、3月28日)

premium.kai-you.net

『呪術廻戦』の主人公・虎杖悠仁を「原子力少年」という概念のもとに位置づけたうえで、戦後日本の原子力産業と関連づけて論じたもの。結末予想はだいぶ外れちゃったけど、自分では結構おもしろいアイデアだと思っています。

 

さいたまの幻塔(低志会会報第3号、5月29日)

booth.pm

埼玉が新電波塔(東京スカイツリー)の有力候補地だったことを踏まえ、埼玉で制作をスタートさせた新海誠監督作品から『らき☆すた』を経由して現在へといたる、「日常の塔」としてのさいたまタワーを幻視する反実仮想の文章。自分では結構おもしろ(以下略。

 

救済のパラフレゾロジー──長崎、京アニ、きみの色(週末批評、9月20日

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山田尚子監督の『きみの色』を長崎の原爆と永井隆の「浦上燔祭説」と結びつけ、ひるがえって京アニ事件へと接続するアクロバティックな論考。30,000字オーバーの長編で、わたしにしてはかなり頑張りました。わりと評判も良かったのでうれしい。

 

原子力少年の憂鬱 『呪術廻戦』が引き継いだ使命②:『呪術廻戦』五条悟から未来への贈り物 大人が原子力少年たちに遺した選択肢(KAI-YOU Premium、12月25日)

premium.kai-you.net

『呪術廻戦』の完結を記念して、今度は五条悟に焦点を当てて「原子力少年」という観点から論じた続編。こちらは「◯◯◯◯◯も◯◯ゅ」が主役で、論旨はちょっとガタついてるけど、だいぶ面白い話が盛り込めたと思っています。

 

ねじれた社会とその敵(お蔵入り)

見切り発車で書いてしまってお蔵入りになりました。報連相だいじ。どこにも載せるあてがなさそうだったら、低志会会報の第4号に収録しようかな。何について書いたのかはまだ秘密です。

 

というわけで、2024年は5本書きました。本数は少ないけど、合計で75,000字くらいあるので、筆の遅いわたしにしては頑張ったほうです。

あと11月の文学ピクニック(於:多摩川河川敷)と12月の文学フリマ東京では低志会会報4号の準備号のほか、『ごくごくインディーな批評サイト管理人直伝 誰でも書ける!? 批評っぽい文章の書き方』という謎の冊子も頒布しました。用意した数が足りなくてすぐなくなっちゃったので、来年の文フリで会報の4号と一緒に再頒布しようかなと思っています。

来年も仕事の合間にぼちぼち書けたらうれしいな。

それでは、良いお年を。

文学フリマ出展のお知らせ

2024年5月19日(日)に開催される文学フリマ東京38に出店します。

ブースは第一展示場 K-5~6「低志会&週末批評」です。

新刊

低志会の会報第3号『自転車のサドルを殴る代わりに低志会の本を埋めて枝を挿す、つまりそれが祈り vol. 3(仮)』(本文36頁・600円くらい)を頒布します。第1号の「河原で拾った石」、第2号の「ファンシーキャラクター」に続き、今号では「むさしの」特集と題して、現代の武蔵野について会員4名がエッセイを寄稿しました。内容とまったく関係のないとても素敵な表紙はオガワデザインさんによるもの。以下、目次と内容紹介です。

安原まひろ「武蔵野の影」

岸田劉生《道路と土手と塀》から国木田独歩『武蔵野』の成立経緯へと遡り、さらにはあの作品を経由することで、未練がましい男の感傷をえぐり出す批評的エッセイ。著者の本領が存分に発揮されています。

オガワデザイン「武蔵野市吉祥寺の模型専門店のこと」

中学生になったオガワ少年はある日、初めてひとりで吉祥寺まで行き、憧れの模型専門店の扉を叩く──。プラモデルが何よりもアツかったあの頃を振り返る、やさしくもどこかほろ苦いエッセイです。

noirse「武蔵野の団地の石」

noirseさんの「石」シリーズ第3弾。ある批評家を手がかりに、郷愁に満ちた独歩の「武蔵野」を殺伐とした現代の郊外へと変容させていく、不穏な気配の武蔵野エッセイ。いつしか雑木林の代わりに廃墟の光景が見えてきます。

てらまっと「さいたまの幻塔」

さいたま新都心が新電波塔の有力候補地だったことを踏まえ、「もしスカイツリーが埼玉に立っていたら」という仮定のもと、いくつかのアニメ作品を通じて2000年代後半から現在までの「埼玉の日常」をたどったエッセイ。わりとがんばって書きました。

橙木ライト 「『すんっ!』、カント、低志会」(特別寄稿)

怪作アニメ『咲う アルスノトリア すんっ!』について、カントに造詣の深い橙木ライトさんに寄稿してもらいました。アンチノミーをめぐる難解な議論から作品構造を取り出してくる手つきが鮮やか。ライトさんにしか書けない文章です。

 

ほかにも安原さん完全監修「ブリしゃぶ」レシピや、低志会賞受賞作品についての短評、低志会スペースのアーカイブなどを収録しています。当日は低志会の会報第1・2号、安原まひろ個人誌『なんかいのんでも…』第1~3号、さらに『ビンダー 8号 特集=宮崎駿』も用意する予定です。文フリに来られる方は、低志会&週末批評ブース(K-5~6)をよろしくお願いします。

 

他誌への寄稿(座談会とかインタビューとか)

『ブラインド vol. 2 特集:機動戦士ガンダム 水星の魔女&グリッドマンユニバース』(K-4)

前号に続き、砂糖まどさん主宰のアニメ批評同人誌『ブラインド vol. 2』所収の座談会「現代日本の同人アニメ批評②」に参加しました。2010年代アニメ批評同人の盛衰やコミュニティ路線の是非などをめぐって、砂糖さん&『セカンドアフター』主宰の志津Aさんと議論しています。

『声色 Vol. 1 特集:キャラクターソング』(M-12)

音楽が全然わからないにもかかわらず、キャラソンに関するインタビューを受けました。90年代末から2000年代にかけての思い出深いキャラソンをいくつかピックアップして話しています。故郷喪失者と音楽、キャラソンの合いの手がなぜ重要なのか、など割と珍しいタイプの話もしています。

 

こんな感じです。関心のある方はぜひ。

台湾花見に寄せて:『姫様“拷問”の時間です』と消費社会のゆめうつつ


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 今週末、台湾へ行くことになった。目的は「花見」である。台湾には日本統治時代に持ち込まれた吉野桜ソメイヨシノに加え、台湾在来種の山桜や寒桜、さらにそれらを掛け合わせた品種など、さまざまな種類の桜が植えられているらしい。今日でも日台友好のシンボルとしてことあるごとに日本から桜が贈られている。亜熱帯の台湾では開花も早く、種類によっては1月下旬から咲き始め、2月中には見頃になるそうだから、3月では少し遅いかもしれない。

 なぜ花見なのか。わたしはもう10年以上前から、当時のTwitter(現X)で出会った友人たちと「週末思想研究会(週末研)」というサークル活動を続けている。このサークルの最初の活動が、東日本大震災の翌年に開催した《花見2.0~モバイル桜の名所》というイベントだった。これは「桜のない場所で花見をする」という企画で、ホームセンターで購入した桜の苗木を手押しカートに載せ、再開発前の下北沢駅前や渋谷センター街秋葉原公園など都内各所を移動しながら「花見」を行った。背景には福島第一原発の事故にともなう避難指示や、当時の東京都知事石原慎太郎による「自粛」要請などがある。映画作家の佐々木友輔氏と作曲家の田中文久氏のご厚意で、本記事の冒頭に載せた素晴らしいMVまで作ってもらった。2日間にわたる花見の様子は以下のTogetterにまとめられているので、関心のある方は読んでみてほしい。

togetter.com

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 以来、週末研では毎年趣向を凝らした花見を開催している。《福島花見》《韓国花見》《東京ダークピンク・ツーリズム》《首都圏花見収束作業》《夕張花見》《皇居花見(ない)》《沖縄花見》《オキュパイ花見》《防護服花見》……。一昨年は《花見2.0》10周年を記念し、やはりカートに桜を積んで東京駅を出発すると厳戒態勢のロシア大使館前を通過、その足でウクライナ大使館まで赴いて献花するという《花見2.022~モバイル桜の名所》を実施した。また昨年は《それでも桜を見る会》と称し、京都アニメーション放火殺傷事件や安倍元首相銃撃事件の犯人の足取りをたどりながら、第一スタジオ跡地に設置された花壇にジョウロで水をやり、敷地内に植えられた桜をゲート越しに眺め、銃撃現場では手向けられた花束が撤去されるのを目撃した。そして今年は、台湾へ行く。

 なぜ台湾なのか。週末研ではいつも思いつきが先行し、あとから理由や動機を考える。今回も例外ではないのだが、10年前と比べて仕事や家事、育児でみな忙しくなり、コンセプトを練るための時間がほとんど取れなくなってしまった*1。そこで以下では《台湾花見》について、現時点でわたしが考えていることをざっと記しておきたい。

* * *

 2024年1月から『姫様“拷問”の時間です』というテレビアニメが放送されている。原作は集英社の「少年ジャンプ+」で配信されている同名漫画で、制作は2022年に『Do It Yourself!!』で話題をさらったPINE JAM。人類に敵対する魔王軍にとらわれた勇猛果敢な姫様が、魔族の「拷問」に耐えかねて王国の秘密を話してしまうというストーリーだ。

 ただしここでいう「拷問」とは、たとえば中世ヨーロッパで行われていたような血なまぐさいものではない。そうではなく、焼き立てのトーストとか、こってりしたラーメンとか、コアラのマーチとか、ふわふわの小動物とか、露天風呂とか、大乱闘スマッシュブラザーズとか、要するに現代の日本社会にあふれる多種多様な「気晴らし(divertissment)」である。幼少期から娯楽を制限されてきた姫様は誘惑に抗えず、お菓子やゲームと引き換えに、自国の安全保障に関する情報をしゃべりまくってしまう。独居房という舞台設定は、プラトンの「洞窟の比喩」を意識しているのかもしれない。


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 一見してわかるとおり、魔王軍とはわたしたちの生きる爛熟した消費社会そのものだ。そしてこの作品が描いているのは、資本主義の気晴らしがもたらす束の間の快楽によって、国家や民族への忠誠心を「脇にそらす(se divertir)」ことができる、つまりは偏狭なイデオロギーナショナリズムを解除することができるという信仰だろう。さらにいえば、気晴らしには当然ながら漫画やアニメも含まれるわけで、まさに『姫様“拷問”の時間です』という作品それ自体が、娯楽としての消費財を通じて消費社会を肯定する、すぐれて自己言及的な構造を持っていることがわかる。政治のことなんて考えなくていい、なぜなら漫画を読みアニメを見ることが、じつはひとつの政治なのだから……。

 この信仰はどこからやってきたのだろうか。言うまでもなく先の敗戦から、つまりはわたしたちが自由民主主義に「転向」してからである。熱々のたこ焼きにつられて機密情報を暴露する姫様は、冬の低志会でnoirse氏が指摘していたように、進駐軍に「ギブミーチョコレート」と叫んでチョコを恵んでもらった子供たちの末裔だ。彼女を「拷問」する人間味あふれる魔族たちはさしずめ、戦時中の「鬼畜米英」の遠い親戚といったところだろう。

姫様“拷問”の時間です』3話感想・・・姫様、ブサイクおっさんは無理だったwww おっぱい揉みシーンなぜ改変したのか・・ | やらおん!

 太平洋戦争に敗れた日本は連合国の統治下に入り、主権を回復してからは米国の同盟国として経済発展を謳歌する。一足先に高度消費社会へと突入した日本に続き、かつて日本の植民地だった韓国や台湾も、民主化と経済成長を経て成熟した消費文化をかたちづくっていく。韓国、台湾の一人当たり名目GDP国内総生産は日本に迫り、2030年代初頭には逆転するとみられている。米兵の一粒のチョコレートから始まった「拷問」は、いまや東アジアのいたるところで、わたしたち自身が拷問官となって日夜みずからに行使されている。

 そう考えると『姫様“拷問”の時間です』という作品が、たんに日本のみならず、米国の影響下にある東アジア全体の国際秩序と結びついているようにも思えてくる。実際に韓国では、1987年に発生した大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫を尋問するにあたり、豪華なちらし寿司が振る舞われたという*2。ソウル最大の繁華街・明洞に連れ出された彼女は、資本主義の大聖堂とも言うべき百貨店に案内され「一般人が金正日のような生活をしている」ことに衝撃を受ける。1960~90年代に「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長と民主化を成し遂げた韓国は、深刻な経済不振にあえいでいた北朝鮮工作員から見ると、まさに「夢の国」だった。消費社会の豊かさをまざまざと見せつけられ、彼女はほどなく自供する。本作の設定からこのエピソードが連想されるのは、すでにXなどで指摘されているとおりだ。

姫様“拷問”の時間です|ジャンプ+メディア情報局

 同じことは台湾にも言えるだろうか。海峡を挟んで南北朝鮮のような経済格差があるわけではないし、両岸の経済的な結びつきもはるかに強い。それでも政治的な自由に関しては隔絶した差があり、2022年発表の「世界の自由度」ランキングでは日本が96ポイントで11位(アジアでは1位)、台湾が94ポイントで18位(同2位)につけているのに対し、共産党独裁の中国はわずか9ポイントの182位*3。米国のNGOによる調査だから当然といえば当然だが、ロシアよりも低く、シリアや北朝鮮よりはいくらかマシというレベルだ。

 中国の習近平国家主席は2019年1月、台湾に対し「一国二制度」による平和的な統一を呼びかけている*4。ところがその3カ月後、まさに一国二制度の香港で中国当局の取り締まり強化に反対する抗議活動が起こり、6月には100万人を動員する大規模なデモへと発展する。「光復香港、時代革命」を掲げる若者たちに台湾市民の多くが共感を示すとともに、力づくでデモを抑え込もうとする中国当局への反発を強め、香港への連帯をアピールする集会が台湾各地で開かれた。前年11月の統一地方選挙で大敗を喫していた民進党蔡英文政権は、一国二制度を拒絶し自由民主主義の防衛を訴えて一挙に支持率を回復。「今日の香港、明日の台湾」を合言葉に、翌2020年1月の総統選挙で再選を果たす。

 「少年ジャンプ+」で『姫様“拷問”の時間です』の連載がスタートしたのは、発端となった香港での抗議活動の発生から2日後のことだった。作中では人類も魔王軍も見たところ王政で、政治体制の違いが焦点化されているわけではない。牢につながれながら消費社会の果実を貪る姫様は、代わりにみずからの政治的な自由を差し出しているようにも見える。香港の若者たちとは違って、経済的な繁栄が維持されるなら、人類でも魔族でも、一国二制度でも、別になんだって構わないのかもしれない。戦争を賛美した未来派の詩人・マリネッティをもじって言えば「気晴らしは行われよ、たとえ祖国が滅びようとも」といったところだが、こうした奇妙なラディカルさが、この作品にたんなる平和ボケにとどまらない、ある種のブラック・ユーモアを漂わせている。

 2024年1月に行われた台湾総統選では、蔡英文の後継者である与党・民進党の頼清徳副総統が次期総統に選出された。独立志向の民進党が3期続けて政権を担うのは初めてのことだが、同日投開票の立法院(国会)選挙では過半数議席を確保できなかった。世論調査では独立でも統一でもない「現状維持」が多数を占めており、総統府と立法院の「ねじれ」は台湾の民意を反映したものと解釈されている。完全な独立も完全な統一も志向しない曖昧な状態(モラトリアム)を維持すること、破局を絶えず「脇にそらす」こと……。

 ちょうど同じころ、テレビ放送が始まったアニメ『姫様“拷問”の時間です』のオープニングには、満開の桜の下で花見をする姫様と魔族たちの姿が映し出されていた。「現状維持」に託される消費社会の夢とはこのようなものだろうかと、今年も荷造りをしながら考えている。

 

 

*1:わたし自身も労働に追われてリサーチやブレストどころではなく、同行する週末研創設メンバーのワクテカ氏に旅程作成をほぼ丸投げしてしまい、大変申し訳なく思っている。

*2:竹内明「大量殺人を実行した北朝鮮『女性工作員』はなぜ自白をしたのか」、現代ビジネス、2017年11月19日。

*3:世界の自由度 国別ランキング・推移」、Global Note、2023年3月14日。

*4:ただし、外国勢力の干渉と台湾独立勢力の活動に対しては「武力行使の放棄を約束しない」とも明確に述べている。