本稿は2012年に頒布された批評同人誌『セカンドアフター vol.2』に寄稿したものです。
「どれほどの/遠さも苦にせず/呪縛され/汝は飛び来る」──ゲーテ
「私たち、どこだって行けるよ!」──平沢唯
0. 〈いま・ここ〉にある未来
あれからずいぶん月日が流れた。被災地の瓦礫の受け入れはなかなか進まないし、メルトダウンした福島第一原子力発電所がどうなっているのかもよくわからないが、それでも人々はかつての日常を回復しつつあるように見える。実際、電力会社や政府の対応に怒りを覚えながらも、毎日の生活を何とかするだけで精一杯という人がほとんどだろう。政治不信や産地偽装はいまにはじまったことではないし、低線量被曝を気にしていたら食事も外出もままならない。粗末な仮設住宅で暮らす被災者には同情するが、テレビの向こうの他人を気づかう余裕があるわけでもない──そんな諦めにも似た感情を抱いて日々を過ごしているのは、おそらく私だけではないはずだ。
もちろん、少しも後ろめたさがないといえば嘘になる。私たちは多かれ少なかれ、生き残ってしまった──あるいはそれほど被害を受けなかった──ことへの負い目を感じている。だからこそ記念日や記念碑というものがあり、毎年さまざまな行事が開催され、犠牲者への黙祷が捧げられるのだろう。それはもはや生きてはいない者たちの沈黙に耳を傾けることである。コミュニケーションのざわめきがふいに途切れ、死者たちの声なき声が語りはじめる。ばらばらになってしまった「私たち」をつなぎとめ、沈黙のまわりにひとつの共同体を組織するために、彼らはひとりひとりに呼びかける。あなたはやがて死ぬ、私がそうであったように。だがあなたの隣人もまた死ぬのだ。「あらゆる生の目的は死である」とフロイトは語っていた。そうだとすれば何のちがいがあるだろう、あなたと彼女とのあいだに。あるいは彼女と私とのあいだに。私はすでにそれについて書いた*1。
しかしこのような共同性を強調しすぎるあまり、かえって多様な生のかたちを抑圧することになってはならない。黙祷のために目を閉じることが、現実から目を背けることになってはならない。私がここで念頭においているのは、いわゆる「エグザイル[=追放]exile」ないし「ディアスポラ[=離散]diaspora」の状態にある人々のことだ。さしあたってエグザイルとは「本国や文化的、民族的出所を離れ、遠方に身を置く」*2ことであり、またディアスポラとは「故国から新たな地域に人々が自発的に移動したり、もしくは強制移住させられる」*3ことである。住み慣れた土地を追われ、一時的にではあれ避難所や仮設住宅、あるいは遠い親戚のもとで暮らすことを余儀なくされた人たち。地震と津波が彼らに「移動[=転地]displacement」することを強いたのだが、しかしもっとも致命的だったのは、言うまでもなく放射能の脅威だった。放射性物質で汚染された土地に住み続けることはできない──ましてや子供をもつ母親にとっては。なるほど「ただちに影響はない」としても、そこで賭けられているのは未来なのである。
私は故郷喪失者にただ同情するだけではなく、彼らの困難を自分の問題として考えてみたい(それはまた自分の無力感の裏返しでもあるだろう)。すなわち移動をめぐる問題としてである。なぜならそれは彼らの現在であると同時に、私自身の未来でもあると信じているからだ。いまや危機をあおる言説は、いたるところに満ちあふれている。日本はまた遠からず巨大地震に襲われるだろうし、そうでなくても財政破綻か増税が待ちかまえている。かといって経済成長のためには移民や外資を受け入れなければならず、そうなれば格差拡大は避けられない。グローバル・マーケットに翻弄される無力な労働者としての自分を想像してみよう。未来は急な下り坂で、しかも底知れない暗闇に続いている──その門をくぐる者は、すべての希望を捨てなければならない。
しかしここで私が考えたいのは、そうした極端な未来予測とはちがう、もっと別の時間のあり方である。そして移動の問題が重要なのは、それが過去や未来との関係性そのものを書き換えてしまうように思われるからだ。文化人類学者のジェイムズ・クリフォードは、ディアスポラについて次のように述べている。「ディアスポラの経験のなかで、「ここ」と「あそこ」の共存は、反目的論的な(ときにはメシア的な)時間性と節合される。直線的な歴史は裂け目を入れられ、現在にはつねに過去が影を落としている。そしてその過去とは、欲望されるが遮断されている未来、更新され苦痛に満ちた熱望である」*4。直線的な時間を破裂させ、均質な〈いま・ここ〉に突然侵入する「メシア的」な過去/未来──それはあたかも緊急地震速報のように、まどろんでいた私たちを打ちのめすだろう。
とはいえこのように言うことで、私はエグザイルやディアスポラにまつわる現実的な困難の数々を捨象してしまうかもしれない。「エグザイルは」と批評家のエドワード・サイードは注意をうながしている。「それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である」*5。しかしそうだとしても、エグザイルの経験に肯定的な側面がないわけではない。サイードはそれを「対位法的意識」と名づける。
エグザイルにとって、新しい環境における生活習慣や表現や活動は、別の環境に置き去りにしてきたものの記憶を背景として生ずる。したがって新しい環境と古い環境はともに、生々しく、現実的で、対位法的に同時に生起する。この種の把握法には独自の喜びがともなう。[…]たまたまいる場所であれば、それがどこでもくつろげる、そんなふうに行動することで、独特の達成感覚も生まれる。*6
故郷喪失者を苦しめると同時に「独自の喜び」をもたらすのは、空間的な移動の経験にともなう時間性の変容である。そこでは過去・現在・未来が一直線に並べられるのではなく、それらが複雑に絡み合った離接的な時間として経験される。失われた〈かつて・あそこ〉は絶えず〈いま・ここ〉に回帰し、予期せぬ〈いつか・どこか〉の到来にさらされる。したがっていくつもの奇妙なカップリングがありうるだろう──〈いま・あそこ〉や〈かつて・どこか〉、あるいは〈いつか・ここ〉といったように。そしてこうした時間・空間についての意識は、いまや携帯電話やインターネットによってますます身近なものになっている。それらは通常リアルタイムというかたちで圧縮されてはいるが、対位法的な経験をもたらしうる特権的な装置でもあるのだ。過去から幽霊が電話をかけ、未来から天使がメールを送る──すなわち「ディアスポラの意識は、明確な緊張関係として喪失と希望を生きる」*7のである。希望はつねに喪失とともにあり、そしてそこにしかない。はじめよう*8。
1. 車窓に映る風景と内面
新海誠はエグザイルの作家である。『ほしのこえ』(2002年)から『星を追う子ども』(2011年)にいたるまで、新海は一貫してこの問題に取り組んでいる*9。だがそう言われると違和感を覚える人も少なくないだろう。というのも彼の作品を強く印象づけるのは、懐かしくも美しい繊細な風景描写と、思春期の遠距離恋愛をめぐる叙情的な物語だからである。放課後の教室、学校帰りのコンビニ、雨上がりの通学路、早朝の駅のホーム、透き通った青空、都会のネオン、真夜中の電話ボックス、桜の舞う踏切──そんなありふれた日常の風景も、ひとたび新海の手にかかると、まるで生命を吹きこまれたかのように燦然と光り輝きはじめる。それは胸を締めつけるような感傷的なモノローグとともに、少年と少女の孤独な内面を鮮やかに照らし出す。
もちろん、こうした理解がまちがっているわけではない。たとえばアニメ評論家の藤津亮太は、「風景の発見」という柄谷行人の有名な議論を参照しながら、『ほしのこえ』における風景の「懐かしさ」を登場人物のモノローグと結びつけている。「なんでもない風景を、懐かしい、かけがえのない風景として思い出すこと。そのためには、なんでもない風景を認識する人物たちに内面があることを描かなくてはならない」*10。なぜなら柄谷が言うように、「周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner manにおいて、はじめて風景がみいだされる」*11からだ。全篇にわたって流れる静謐なモノローグは、登場人物が孤独な内面をもつ「内的人間」であることを示唆している。だからこそ「その寂しさの向こう側で、それまでは何の変哲もなかった踏み切りやバス停、階段のある道などが、突如かけがえのない風景として改めて甦り始める」*12──新海自身が柄谷の議論から影響を受けていることを考えると*13、きわめて説得力のある解釈である。
しかしここで注意しなければならないのは、そのような「風景の発見」に先立って「内的人間」があるわけではないということだ。そうではなくて、柄谷が問題にしているのは「内面/風景」という二分法それ自体を可能にする「抽象的思考言語」──すなわち「言文一致」という近代的制度なのである。「表現」される内面と「描写」される風景は、この新しい「言=文」においてはじめて見出される。したがって問われるべきなのは、新海作品において「内面/風景の発見」を可能にするものは何なのかということだ。そして私の考えでは、それこそがエグザイルにほかならないのである。映画学者の加藤幹郎は、風景が「遠方への眼差しや旅(空間移動)によって、すなわち旅行(距離の生産)による日常の非日常化のなかから産みだされる」*14と述べているが、風景だけではなく内面についても同じことが言えるだろう。というのも加藤が指摘するように、「とりわけ新海誠のアニメーション映画は移動(旅立ち)の主題に満ちており、移動が産みだす場所の転位(風景の変化)と距離の拡大ならびに縮減の試みが伝統的なメロドラマ的主題(邂逅や擦れ違い)へと翻訳される」*15からである。
『ほしのこえ』冒頭のシーンには、こうしたモチーフがすでに色濃く現れている。鉄橋をわたる電車の騒音に混じって、携帯電話の甲高い操作音が響く。制服姿の少女が電車の窓際に立ち、一心に携帯メールを打っている。加納新太による同作のノベライズから引用しよう。
[…]わたしは電車に乗っていた。
乗客席と運転席をへだてる壁にもたれて、後ろ向きに立って、すごいスピードで流れさっていく景色を自動ドアのガラスごしに眺めていた。
でも、ほんとうは、すごいスピードで流れさっているのは景色ではなくて、電車に乗ったわたしのほうだ。
そう思った瞬間、なんだか追いたてられたような、慌てたような気分になって、無意識に携帯電話を取りだしていた。*16
この短いシーンでは、移動にともなう「内面/風景の発見」がわかりやすくシミュレートされている。車窓を流れる風景が少女の自意識へと折り返され、「なんだか追いたてられたような、慌てたような気分」を作り出す。それはエグザイルに特有の感覚である。つねに移動し続けることで〈いま・ここ〉が希薄化し、彼女は外界から切り離されているかのような不安に襲われる(それはまた柄谷のいう「人間から疎遠化された風景としての風景」*17が成立する過程でもあるだろう)。少女が「無意識に携帯電話を取りだしていた」のは、コミュニケーションを通じて自分の居場所を確認するためだ。しかし彼女のメールは誰にも届かない。灰色の小さなディスプレイに表示されたのは、「サービスエリア外です」というそっけない文字列だけだった。少女は諦めたように目を閉じ、そして静かにモノローグが流れはじめる──「内的人間」の誕生である。
だがここで描かれているのは、たんなる「内面/風景の発見」だけではない。電車内にいたはずの少女は、次のシーンでは高層マンションの非常階段に立っている。さらに自宅のドアを開けると、そこには誰もいない放課後の教室が広がっている。「ねぇ…わたしはどこにいるの」──そう自問して目覚めた少女は、自分が「もう、あの世界にはいない」ことをはっきりと悟る。「ここは誰も来たことのない、遠い、黒くつめたい宇宙のはて」*18。少女の操る人型ロボット「トレーサー」の背後には、地球から8.7光年離れたシリウス星系第四惑星「アガルタ」が冷たく輝いている。つまり『ほしのこえ』冒頭のシーンは、彼女がトレーサーのコックピットのなかで見た、束の間の幻影にすぎなかったのだ。そして注目すべきなのは、その幻の内容ではなく形式、すなわちフラッシュバックである。宇宙空間をさまよう少女の脳裏に、懐かしい地上の風景がよぎる。それは〈いま・ここ〉が裂開し、〈かつて・あそこ〉が侵入する経験である。
新海作品のいたるところに、このような裂け目が開いている。そこから見える風景は美しく、また痛ましくもあるだろう。新海にとっての〈いま・ここ〉は、〈かつて・あそこ〉と〈いつか・どこか〉を結んだ線上の一点にある──それゆえ規則正しく隣り合っている──わけではない。そうではなくて、それらは同時に重なり合い、絡まり合っているのである。そしてそれこそが、彼をエグザイルの作家たらしめている最大の要因なのだ。したがって「内面/風景の発見」というだけでは十分ではない。より重要なことは、離接的な時間と多層的な空間が立ち現れる、そのような経験の諸相をとらえることである。
2. 過去からのメール
あらためてストーリーを確認しておこう。『ほしのこえ』は「宇宙と地上にひきさかれる恋人」の物語だ。中学生のミカコとノボルはお互いに好意を抱いており、同じ高校への進学を目指していたが、ある日突然離ればなれになってしまう。ミカコは宇宙船「コスモナウト・リシテア号」の乗組員として、異星人「タルシアン」の痕跡を調査するために遠い宇宙へと旅立つ。2人は携帯メールで近況を報告し合っていたが、宇宙船が地球から遠ざかるにつれて、メールの送受信にかかる時間がしだいに大きくなっていく。やがてアガルタへの長距離ワープが行なわれると、2人のあいだの時間のズレは決定的なものとなる。いつしかノボルはミカコからのメールを待つことをやめ、同じ高校に通う少女と親しく交際しはじめる。「どこにいるのかもわからない、なんの約束もしていない女の子をただ待ちつづけるには、「いま」「ここ」という時間と空気感は、リアルすぎて、圧倒的すぎた。/[…]/ぼくにとって意味がある事実は、ミカコはいま、ここにはいない、ということだった」*19。ノボルをとりまく日常は、あまりにも「空気が濃すぎる」*20のである。
他方でミカコは、ノボルのいない〈いま・ここ〉を受け入れることができない。「ノボルくんとあの街にいたときの日常感覚。/ノボルくんといた気分。/それをわたしの心の基準位置にしていたい」*21。ノボルとは対照的に、ミカコは文字通りの意味で真空状態におかれている。彼女は火星や木星の壮大な光景を目の当たりにした感動をメールで伝えているが、それは藤津が言うように「修学旅行で流れ作業的に名所旧跡などを訪れた時の感想と同じ種類の当たり前の感想にすぎない」*22。やがてメールのやりとりが途絶えると、ミカコは耐えがたいほどの孤独感に襲われる。それは〈かつて・あそこ〉にとらわれた故郷喪失者のメランコリーである。地球とよく似ているはずの緑の惑星アガルタでさえ、彼女にとっては「ここには何もない」に等しい。なぜなら「こんなところにノボルくんはいない」*23からだ。
地理学者のカレン・カプランは、亡命者とツーリストがともに〈いま・ここ〉を無価値化する傾向にあることを指摘している。「[…]どこか別のところにもっと真実の、もっと意味のある生活があるという信念は、亡命者とツーリストの両者に共有されている。これら二つの形象はともに、第一義的な主体の位置に神秘化されると、失われた実体や、けっして到達しえない統一を探し求める憂鬱病患者を表象することになる」*24。さしあたってミカコがそのような「憂鬱病患者」であることは明らかだ。
しかしだからといって、新海は〈いま・ここ〉への没入をすすめているわけではないし、ましてや〈かつて・あそこ〉への逃避をうながしているわけでもない。というのも彼が描こうとしているのは、すでに述べたように、それらが交差する対位法的な意識にほかならないからだ。現在と過去が折り重なる瞬間──それは「いまとここの幸福」*25にまどろんでいたノボルの意識を叩き起こす。夏の湿った空気と雨音を切り裂いて、携帯の着信音が鳴り響く。一通のメールが「爆弾のように飛びこんできた」*26のは、彼が古いバス停の待合室で雨宿りしていたときのことだった。それは1年ぶりのミカコからのメールであり、そこには冥王星付近でタルシアンと戦闘になったこと、やむをえずハイパードライブで1光年の距離に逃れたこと、そしてこれから8.6光年先のシリウスに向けて長距離ワープに入ることが記されていた。
だがノボルの心を激しく揺さぶったのは、メールの文面よりもむしろ送信日時である。そこには1年前の日付が表示されていた。つまりミカコは、メールが地球に届くまで1年以上かかることを知りながら、それでもなお1年後のノボルに宛てて送信したのだ。彼はその事実に衝撃を受け、過去から届いたメールを声に出して読みはじめる。それはすぐにミカコのモノローグへと変わり、やがて2人の声が静かに重なり合う──「ねえ、わたしたちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね」。〈かつて・あそこ〉から響いてくる彼女の声は、まるでこだまのように〈いま・ここ〉の空気を振動させる。ノボルはもはや現在に没入することができない。加納によるノベライズでは、彼の意識が〈いま・ここ〉から引きずり出され、対位法的なものへと変化する様子がわかりやすく描かれている。離接的な時間と多層的な空間の出現──それは〈かつて・ここ〉ないし〈いま・どこか〉として経験されるだろう。
ぼくには、そのとき──
心が時間を越えて、2年前のあの日とまったく同じように、ミカコの息遣いと、存在を感じとることができた。ミカコの吐息や、喉をならす音や、ミカコから落ちる雨のしずくや、匂いや、そういったものまで。
ぼくは、いま、この瞬間に宇宙のどこかにいるはずのミカコに思いを馳せた。
このメールを書いてから、1年の時が過ぎ、ひとつ歳を取ったミカコのことを。*27
ノボルがひとりで雨宿りしていた粗末な待合室は、2年前の夏、ミカコと一緒に夕立をやり過ごした思い出の場所だった。〈いま・ここ〉にいるはずのないミカコの気配が、ノボルの感覚器官にありありと現前する。それをミカコの「アウラ(オーラ)aura」と呼んでもいいだろう。アウラというのは、もともとギリシャ語・ラテン語で「息吹」や「微風」を意味する言葉である。批評家のヴァルター・ベンヤミンは、この言葉を次のように定義し直している。「そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」*28。ノボルはすぐ近くにミカコの「息遣い=アウラ」を感じる。それは〈かつて・ここ〉にあったものであり、また〈いま・どこか〉にあるはずのものだ。近さと遠さが交錯し、現在と過去/未来が短絡する。宇宙の果てから吹きつける風が、かすかに地上の空気に混じる。独文学者の大野真は、新海が「「今」を「過去」として捉える感覚操作を、これは恐らく半ば無意識のうちに行なっている」*29ことを指摘しているが、そうするためには時間と空間を離接的で多層的なものとして把握する必要があるだろう。
過去・現在・未来が折り重なるバス停の待合室は、歴史家ミシェル・ド・セルトーのいう「場所」の定義を正確になぞっている。「事実、場所というのは」とセルトーは語っている。「幾層にも重なった[記憶の]断片からなっており、その層のどこかに移っていったり、またそのどこかから出てきたりするし、そしてまた、こうして動きゆく厚みそのものを活用している」*30──まるで「パリンプセスト(重ね書き羊皮紙)」のように。したがって「場所は、奥深くたたみこまれた、とぎれとぎれの話であり、他人の読みおとした過去、先へ伸びてゆくことができるのにじっとたたずんで、来るべき物語のように未来を待ちながら、判じ文字のようにそこに在る時間、そうして、身体の苦悩と快楽のなかにひそかに宿る象徴表現である」*31。
ミカコの存在を感じとるということは、〈いま・ここ〉に織りこまれた〈かつて・あそこ〉や〈いつか・どこか〉をとらえる──あるいは逆にとらえられる──ことにほかならない。時間と空間を越えて重なる2つの声は、そのような対位法的意識の現れとして理解することができるだろう。
3. 失われた「ここ」を求めて
同じような演出は、『ほしのこえ』のラストシーンでも繰り返されている。ミカコとノボルのモノローグが交互に流れ、最後に2人の声が重なり合う感動的なシーンだ。バス停の待合室で「ほしのこえ」を聞いてから、8年7ヶ月後──24歳になったノボルは、再びミカコからのメールを受信する。「ここにいるよ」と題されたそのメールには、たった2行「24歳になったノボルくん、こんにちは!/わたしは15歳のミカコだよ」とだけ記され、後はノイズで読めなくなっていた。映像は8年前のアガルタ上空へと切り替わり、ミカコのトレーサーとタルシアンの激しい戦闘が繰り広げられる。交差する2人のモノローグに合わせて、日常のありふれた光景が次々にフラッシュバックする。ノボルは雪の舞う灰色の空を見上げ、ミカコは目の前のタルシアンを切り裂いていく。地上と宇宙、現在と過去が目まぐるしく入れ替わり、やがて2人は同時に最後のセリフを口にする。それは愛の告白でも別れの挨拶でもなく、あのメールの題名と同じ「ここにいるよ」というごく控えめな言葉だった。
このシンプルなラストシーンには、しかし『ほしのこえ』の解釈を決定づける重要な問いが含まれている。2人のいう「ここ」とはいったいどこなのか、という問題だ。ミカコとノボルのモノローグはたしかに重なり合ってはいるものの、それは彼らが〈いま・ここ〉を共有しているということを意味しない。実際には2人の時間と空間は大きくズレている。つまり批評家の東浩紀が言うように、彼らの声は「脳内世界でしか重ならない」*32のである。だがそうだとすれば、ミカコとノボルはそれぞれの〈いま・ここ〉を肯定しようとしているのだろうか──『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)最終回のあまりにも有名なセリフ「僕はここにいてもいいんだ」がそうであったように。
実際、批評家の大塚英志や編集者の大野修一、ライターのササキバラ・ゴウらは、『ほしのこえ』のラストシーンに現状肯定的な態度を見出し、そのことの是非をめぐって議論している。ササキバラの考えでは、「ここにいるよ」という2人のセリフは、物語の「着地点」を示しているのであって、その先の「成長」を描こうとしているわけではない。彼はその点をむしろ積極的に評価する。というのも「ここにいて、ここ以外のどこにも行けなくて、ここしかない」というニヒリスティックな現状認識──宮台真司のいう「終わりなき日常」──のなかで、それでもなお「ここにいるよとかここにいることが好き、あるいはこの空間が好きだっていう結論」*33に達しているとされるからだ。
これに対して大野は、ササキバラの解釈に真っ向から反対している。彼に言わせれば、「ここ」というのは「次にどこかに向かうための、スタート地点」*34でなければならず、そしてそのかぎりで評価に値する。つまり『ほしのこえ』のラストシーンは、「旅」に出る前の「状況の再確認」と「その状況の再確認の中にいる「私」の再確認」のプロセスであり、重要なのは「ここ」から旅立つことなのだという。
他方で藤津は、ササキバラや大野のように「ここ」を〈いま・ここ〉として理解することそれ自体を疑問視している。なぜなら「二人がそれぞれ今生きている場所を指し示すにしては、作品中で描かれている二人の「現在」はあまりにも希薄すぎる」*35からだ。たしかに彼らの〈いま・ここ〉は、出発点というにはそっけなく、また着地点というにはあっけないように思える。それは藤津によれば、ミカコとノボルが〈かつて・あそこ〉へのノスタルジーにとらわれているためだ。「魅力的な過去の前では、現在は色あせて見える。色あせた現在は、まるで観光絵はがきか何かのように細部と奥行きを失い、関心を誘わない何かへと変化していく」*36。2人は「自分がどこにいるのかも見失ったまま」、ともに過ごしたあの夏の思い出に心を奪われている。つまり藤津の解釈では、彼らのいう「ここ」とは、現実から遊離した「どこでもない場所」(=「脳内世界」)にほかならないのである。
しかしそうだとすれば、ラストシーンのミカコとノボルは「どこでもない場所で携帯電話を手にしながら、つながっているかどうかもわからない相手に「ここにいるよ」とモノローグをつぶやいているだけ」*37にすぎないのだろうか──部屋に引きこもってパソコンの画面に没入する、現代の若者たちのように*38。おそらくそうではないだろう。新海が描こうとしていたのは、たんなる現実逃避ではないし、かといって現状肯定でもない。2人の現在がどれほど希薄なものに見えるとしても、メランコリーやノスタルジーに完全に支配されていると考えるのはまちがいだ。
そのことがもっともよく現れているのは、アガルタに到着したミカコがタルシアンと接触するシーンである。美しい大地に降りしきる雨を眺めながら、彼女もまたあの夏の日の夕立を懐かしく思い出していた。学校の帰り道、急にどしゃぶりの雨に降られ、2人でバス停の待合室に駆けこんだこと。トタン屋根を叩く雨音を聞きながら、隣に座るノボルの息遣いを感じていたこと。もう戻れない日々の記憶に苛まれ、ミカコはトレーサーのコックピットのなかで泣き崩れる。だがそれも長くは続かない。不意に何者かのひとさし指がミカコの額にふれ、ノスタルジーに浸っていた彼女の意識を覚醒させる。「誰?/どうして?そんな疑問が生じるよりもはるかに速く、わたしのなかから情報がひきだされて、わたしの意識の表面に次々と映しだされた」*39。ノボルが突然のメールによって〈いま・ここ〉への没入を妨げられたのと同じように──あるいはそれとは対照的に──、彼女はタルシアンとの接触によって〈かつて・あそこ〉への沈潜から引き戻されるのである。
さらにここで注目すべきなのは、タルシアンがミカコ自身の過去/未来の姿となって現れることだ。顔を上げた彼女の目の前に、もうひとりの自分が出現する。少女は10歳くらいの子供の姿で、くすんだ色のワンピースを身にまとい、まるで「天使みたいに浮かんでいた」*40。あっけにとられているミカコの前で、幼い少女はまだ見ぬ20代半ばの大人の姿へと変身する。つまりこのシーンでは、タルシアンによってミカコの過去と未来が擬人化され、彼女の現在に重ね合わされているのである。それはまさに「対位法的意識の劇場」とも言うべきものだ。そして「ここにいるよ」というセリフの謎を解き明かすための手がかりは、ほかならぬこの舞台の上に用意されている。それはミカコに対するタルシアンの呼びかけのなかに見出されるだろう。
「ねえ、やっとここまできたね」
「大人になるには痛みも必要だけど」
「でも、あなたたちならずっとずっと、もっと先まで、きっと行ける」
「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」
「ねえ、だから、ついてきてね」
「託したいのよ、あなたたちに」
この一連のセリフには、『ほしのこえ』における新海の姿勢があからさまに表現されている。というのも彼は、同作のラストシーンを「このままみんな脳内[世界]でいようよ、というメッセージ」として受けとったという東に対して、ミカコとノボルが「現実は別々の場所に生きていてそのさきを生きていかなければならない」*41、そのような意図を「ここにいるよ」という言葉にこめたと語っているからだ。要するに、新海はエグザイルの経験そのものを肯定しようとしているのである。
4. どこにでもある場所へ
しかしそれにもかかわらず、ラストシーンの2人のセリフは、現状肯定ないし現実逃避として受けとられることになった。そしてその原因は、少なからず新海自身のミスリードにある。彼は「[最終的に「脳内世界」にとどまるという]泣ける話として受け入れられるのはウェルカムだった」*42とも述べているが、そのことは自分の過去/未来の姿と対面したミカコのヒステリーにも見てとれる。宇宙の果てまで「ついてきて」ほしいというタルシアンに対して、彼女は涙ながらに「ノボルくんと一緒にいたかっただけ」だと訴える。だがミカコの願いを打ち砕くかのように、上空から強力なビーム攻撃が降り注ぎ、アガルタの美しい大地を無惨に破壊する。激しい戦闘の火ぶたが切って落とされ、彼女はトレーサーを駆りながら「わかんないよ!」と絶叫する。
一見するとミカコは、「そのさきを生きていかなければならない」という新海=タルシアンの意図に反発し、さらなるエグザイルを拒絶しているように見える。14歳という年齢を考えれば当然の反応ではあるが、おそらくこの点に『ほしのこえ』の曖昧さがあると言えるだろう。ラストシーンの解釈をめぐって、現実逃避と現状肯定という両極端な立場が生じるのはそのためだ。しかしながら、どちらの解釈もまったく不十分である。前者はミカコがタルシアンとの戦闘に身を投じる理由を説明できないし、後者は戦闘中に過去の風景がフラッシュバックする理由を説明できない。要するに、両者は移動にともなう対位法的意識の生成をとらえ損ねているのだ。何度も述べているように、ミカコは〈かつて・あそこ〉に逃避しているわけではないし、かといって〈いま・ここ〉に埋没しているわけでもない。そうではなくて、それらが複雑に折り重なった離接的で多層的な「ここ」を生きているのである。
大塚はこの点を正確に理解していたように見える。というのも彼は、『ほしのこえ』のなかに「ここにいるっていうことに関する肯定と、いやそれだけじゃだめなんだっていう否定」*43という「二重性」が存在することを指摘していたからだ。それは言い換えれば、「ここ」が着地点であると同時に出発点でもある──したがってそのどちらか一方ではない──ということ、すなわち絶えず移動し続けているということである。ミカコはつねにあらかじめ「旅」のなかにある。そのことは携帯電話という装置からも明らかだ。デスクトップ・パソコンやテレビのディスプレイ──それらは現実から切り離された「脳内世界」や「どこでもない場所」を映し出す──が基本的に移動不可能であるのに対して、携帯の小さな液晶画面は、文字通りの意味で高度なモビリティを達成している。このちがいは決して小さなものではない。つまりミカコやノボルにとっての「ここ」とは、座標空間内に固定された一点としての〈いま・ここ〉や〈かつて・あそこ〉ではなく、いわば変数としての「移動し続ける場所」であり、そしてそのかぎりで「どこにでもある場所」なのである。
とはいえそれは〈いま・ここ〉を軽視することではないし、また〈かつて・あそこ〉を忘却することでもない。むしろ事態は逆なのであって、現在や過去は絶えず「痛み」としてミカコの意識を引き裂き、彼女を〈いつか・どこか〉へと駆り立てる。それは一方でタルシアンとの接触=戦闘による身体的負荷としての「痛み」であり、他方で失われた日常に対するノスタルジーとしての「痛み」である。前者は〈かつて・あそこ〉への逃避を妨げ、後者は〈いま・ここ〉への没入を阻む。ミカコはそのどちらにもとどまり続けることができない──しかしだからこそ「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」行くことができるのだ。したがってそれは現状肯定でも現実逃避でもなく、対位法的に生起する現在と過去の「痛み」にさらされ続けることである。あるいはそうした「痛み」を抱えたまま、離接的な時間と多層的な空間を生きる──とはつまり移動し続ける──ことである。「たぶん、わたしたちは、痛がりだからこんな遠くにまで来られたのだと思う」*44。
加納は『ほしのこえ』のノベライズを手がけるにあたって、随所にさまざまなアレンジを加えているが、なかでも問題のラストシーンはかなり大胆に再構成されている*45。しかしそれは「もうひとつの結末(アナザー・エンド)」というよりも、むしろ原作の曖昧さを払拭した「真の結末(トゥルー・エンド)」と呼ぶにふさわしいものだ。ミカコはタルシアンとの戦闘を通じて「彼らもわたしと同じ」であることに気づき、ついに自らのエグザイル状況を引き受ける──「わたしは、どんな遠くだって行くことができる」*46。移動し続けることを選択した彼女にとって、いまや地球もアガルタも「同じ宇宙」の一部である。ホームレスであると同時にホームフルでもあるということ。それは確信をもって「どこだってここなんだ」*47と言えるような、いわば「どこにでもある場所」としての「ここ」に住まう(=移動する)ことを意味している。
ここも宇宙だし、
あの街も宇宙なんだ。
人がいて、
同じことを感じていて。
わたしは、生まれたその瞬間から宇宙に住んでいたのだし、これからだってそうなんだ。
同じ場所──
ああ、
ノボルくん──
わたしたちは、いまもいっしょにいるんだよ。
わたしは、ここにいるよ……。*48
ミカコからのメールを受けとったノボルもまた、彼女とまったく同じ境地に到達する。彼は自分の住んでいる「スペースコロニーみたいな」郊外の街が、「この地上でいちばん宇宙に近い場所だった」*49ことに気づかされる。「そういえば、地球だって、宇宙の一部だった。/ここだって宇宙なんだ」*50。しかしだからといって、ノボルは宇宙としての郊外にとどまり続けるわけではない。むしろ「ここだって宇宙」だからこそ、逆にどこへでも行くことができるのである。こうして彼はミカコの後を追い、宇宙船の乗務員として地上を離れることを決意する(交際相手とはそのことが原因で破局する)。けれどもノボルの動機は、最終的に運命の相手と結ばれるという「ロマンチック・ラブ」イデオロギーによるものでは決してない。新海は『星を追う子ども』の舞台挨拶のなかで、彼の他の作品の登場人物たちがそうであるように「『ほしのこえ』でもノボルとミカコは結ばれない」と明確に述べている。むしろ重要なのは「“ロマンチックラブ”らしきものをつかみかけた彼らだけど、それを手に入れることはできなかったけども、でもその先に出て歩いて行」*51くことであり、そうすることができるという確信をもつことなのだ。
過去と現在を携帯しながら、2人はそれぞれの未来へと押し流されていく。それはたしかにハッピー・エンドではないかもしれないが、しかし決してバッド・エンドというわけではない(というかそもそも「エンド」でさえない)。なぜなら移動し続けることではじめて、逆説的に彼らは「いっしょにいる」ことができる、すなわち「どこにでもある場所」としての宇宙にともに住まうことができるからだ。〈いま・ここ〉にありながら〈かつて・あそこ〉にあり、また〈いつか・どこか〉にあるということ。そのような「ここ」においてのみ、ミカコとノボルは互いの存在を感じとることができる。だからこそ彼らは移動することを選択するのである。「わたしたちはとおくとおく──/すごくすごーくとおく離れてくけど」「でも想いが時間や距離を超えることだってあるかもしれない」。
雨上がりの雲間からまっすぐに差しこむ「天使のはしご」が、遠く離れたミカコとノボルをともに照らしている。それはひとつの希望でなければ何だろうか。ただ「ここにいる」ことが、この宇宙のどこかに存在する/したという確信が、2人をさらなる宇宙の彼方へと導いていく。2000年代初頭に公開されたわずか25分の映像作品は、およそ10年の時差をはらんで、震災後の私たちの生そのものに遠く反響している──まるで「ほしのこえ」のように。