てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

杖としての批評(1)最近作ったサイトの名前の話

 今年5月に「週末批評」というサイトを立ち上げた。その名のとおり、週末の休みにひとつかふたつ、アニメや映画、漫画などの批評を掲載するサイトだ。「週末批評」という名前は、東浩紀クラスタとしてもう10年ほどの付き合いのあるコロンブスさんこと、倉津拓也氏に付けてもらった。ありがたいことに、倉津氏にはサイトが出来たてほやほやの段階で『闇の自己啓発』についての書評も寄稿してもらっている。

worldend-critic.com

 週末批評を立ち上げてからというもの、ほぼ毎週末の更新作業で私自身の余暇がつぶれ、こちらのブログを更新する余裕がなくなってしまった。「アニメ批評ブログ」と銘打ってはいるものの、わかりやすく批評っぽい文章は今後、サイトのほうに集約するつもりだから、存在意義がいわば宙に浮いた状態にある。どうしようかしらんと悩んだすえ、ごく短い、あまり批評っぽくない文章をときどき載せることにした。最近一部で流行しているように見える日記とかエッセイみたいなものだ。もはや看板に偽りしかない。

 「批評っぽくない」といっても、私自身の関心や文体が批評に向いている以上、中身としては中途半端に「批評っぽい」ものになってしまう可能性が高い。じつをいえば、批評それ自体に対する批評的なアプローチとしての、批評っぽくない文章を書いてみたいという気持ちは以前からあった。ただ私の作文能力だとさすがに難しそうだから、二の足を踏んでいたのだけれど、はたと気づいてしまったのだ。週末批評について思うところを書くだけでなかば自動的に、批評っぽくて批評っぽくない、少し批評っぽいエッセイになるのではないか? ということに(結論からいうと、ならなかった)。

 ともあれ、このところ形式と内容のズレというか、文体と機能の乖離みたいなものが気にかかっている。つまりは「批評が批評的に機能しない(批評ではないものが批評的に機能する)」という逆説のことだ。しょせんは批評愛好家(ワナビー)である私個人の思い込みにすぎないかもしれないが、とはいえ、これがブログとは別に週末批評を立ち上げた動機のひとつでもあったりする。この思い込みについてはいずれ書こうと思う。個人的なことをストレートに書けるのが、批評っぽくない文章のいちばん良いところだ。

 

 初回はサイトの名前を皮切りに、ちょっとした思い込みや思いつきを書き連ねてみる。刻一刻と積み上がっていくタスクを前にすると「そんなことやってる場合じゃない」感がいやおうなく高まるのだが、だいたいそういうときのほうが書きたくなるので不思議だ。多くの男性にとっての自慰と同様、ときどき自己表現として文章を出力しないとストレスが溜まってしまうたちなので、どうしようもない。ちなみに「杖としての批評」というのは、とりあえず付けた暫定的なタイトルである。いつかのツイキャスで大雑把なアイデアを話した記憶があるので、もしかしたら何のことかわかる人もいるかもしれないが、これについて書くのはたぶんもう少し先のことになる。

 

 倉津氏が提案してくれた「週末批評」には、どこか「日曜大工」を思わせる響きがある。週末の休みにホームセンターでネジや木材を買ってきて、ちょっとした棚などを自作したことのある人も多いと思う。いまでは「DIY」と横文字で呼ぶほうが一般的だけれど、この少し野暮ったい四字熟語にも独特の味わいがあって、私は好きだ。子どもの頃に「日曜日」という言葉から感じられた、あの晴れやかな気持ちがよみがえってくるといったら大げさだろうか。批評もまた、日曜大工のように週末のささやかな楽しみを提供してくれるはずだし、そうあってほしいという願いを込めて「週末批評」と名づけた──という心温まる話をいま思いついた。いや、倉津氏がそう考えていた可能性は否定できない。ここでは社会の多数派に合わせて週末=土日としているけれど、土日休みではない人にとってはもちろん、休みの日がその人にとっての週末である。

 サイトのトップページには、私の好きなカール・マルクスの言葉を掲げている。「私たちは狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」──『ドイツ・イデオロギー』の有名な一節(の一部)だ。じつをいうと、もともとはこの「そして食後には批評を nach dem Essen zu kritisieren」というフレーズをそのまま、あるいは短縮してサイトの名前にするつもりだった。サイトの更新タイミングもだいたい週末の20~21時、つまりは「食後」である。

 「週末批評」という名前が気に入ったのは、このマルクスの言葉と響き合うニュアンスが感じられたからだ。一週間の終わりとしての週末、あるいは一日の終わりとしての食後。「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく」という但し書きは(マルクスに詳しい人には怒られそうだが)まさに「日曜大工」の精神そのものにも思える。怒られついでにいうと、私は『ドイツ・イデオロギー』から先の一節を引くにあたって、きわめて重要な前提条件を勝手に省略している。私たちが「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」ようになるためには、マルクスによれば、共産主義社会が到来しなければならない。

 いまのところ、日本では共産主義社会は実現していない。幸か不幸か、当面は実現する見込みもなさそうだ。マーク・フィッシャーが流行らせた「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という言葉のとおり、2000年前後のフィクションでさんざん描かれた「世界(セカイ)の終わり」に比べたら、たしかに「資本主義の終わり」を想像するのは難しい。元ネタとされるフレドリック・ジェイムソンによると、それは私たちの想像力の貧困ゆえらしいのだが。

 私が『ドイツ・イデオロギー』の記述から「共産主義社会が到来したら」という前提を外したのは、ひとつにはそういう理由からだ。マルクス主義はあいかわらず、現状の社会に対するもっとも鋭い批評=批判の源泉であり続けている。けれど、もはや一部の運動家を除けば、この国でドラスティックな革命が起こりうるなんて誰も信じていない。百歩譲っていつか起こるとしても、私にとっては千年王国のキリスト再臨とか56億7000万年後の弥勒菩薩の救済とか、ほとんどそういう信仰のたぐいに見えてしまう。資本主義の終わりが想像できない以上、世界の終わり──懐かしい言い方をすると「デカい一発」──を夢見ながら、死ぬまで賃労働に耐えるしかないのだろうか。そのためのお助けアイテムは、なるほど、いくつも用意されている。ストロングゼロとかソシャゲとかアニメとかだ。

 私がマルクスのあの一節を気に入っているのは、さっき述べたとおり、なんとなく「日曜大工」っぽいからである。ここで語られているのは分業の話なのだが、それはそれとして、妙に具体的な手触りのようなものが感じられるのだ。そしてこの感触は、私たち──と、あえて一人称複数形で書くけれど──が一日や一週間の賃労働の終わりに感じる、あの解放感や高揚感と結びついているような気がする。たとえ「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」としても、当然ながら、世界の終わりだけが唯一想像可能な終わりではない。いまとは別の生を新たに始めるためには、世界の終わり=終末よりも、むしろ一週間の終わり=週末のほうがふさわしいかもしれない。資本主義が終わるのはたぶん、大恐慌や暴力革命が起こるときではなく、カレンダーの大半の日付が青と赤に塗り替えられるときなのだろう。

 これはもちろん、ただのレトリックである。私はこういうふわんとした書き方が好きで、批評っぽい文章を書くときも、だいたい最後はレトリカルな一文で締めたくなる。この癖は「鳩を飛ばす」と揶揄されていて、妻には「おっ、今回もたくさん鳩飛ばしてるね~」などとからかわ……褒められることもある。書くことはしばしば投瓶通信や手紙の誤配に喩えられるが、私にとっては何よりもまず「鳩を飛ばす」ことであるらしい。できるかぎり多くの鳩を、できるかぎり高く、できるかぎり遠くまで飛ばす──そのために書いているといってもいいかもしれない。問題があるとしたら、伝書鳩ですらないことだろうか。

 とはいうものの、カレンダーの比喩は文字どおりに理解することもできる。急に身も蓋もない話になるが、宇野常寛氏は最近の著書で、土日に加えて水曜日を休みにすることを主張している。これは同氏のこれまでの主張のなかで、個人的にいちばん共感できるものだ。すでに週休3日制を試験的に導入している国や企業もいくつかあるらしい。新型コロナウイルスパンデミックによって在宅勤務が一気に普及したように、平均的な労働日もじわじわ削減していくことができれば、共産主義社会が到来しようとしまいと「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」ようになるかもしれない。

 おそらく現実的には、ベーシック・インカムなどと同様、いろいろな困難にぶつかってなかなかうまくはいかないだろう。ライバルの国や企業に後れをとるとか、給料が減るとかいった危惧はすでに出ているし、仮に段階的に導入されたとしても、今度は労働日格差のようなものが生まれて、社会的分断を深める可能性さえある。その一方で加速主義などのラディカルな立場と比べると、いかにも素朴で散文的、言ってみれば「ぬるい」主張に思えてしまう。しかし、それでも私が「週末の休みを増やそう」という素朴すぎる提案に共感してしまうのは、誰もが一度はあの土曜の夜の解放感を、あるいは日曜の朝の高揚感を味わったことがあるはずだからだ。それらは書物と革命家の頭のなかにしかない共産主義社会とは違って、私たちの身体に深く根ざした束の間のユートピアの記憶なのである。

 週末への期待が世界を変える。それはいつか古い世界を終わらせる。週末批評のURLがworldend-critic.comなのは、そんな大げさな願いが込められているからでもある(鳩が「飛ぶの?」みたいな顔でこっちを見ている)。

 書いてみると結局、いつもとほとんど同じノリの文章になってしまった。初回なんてどうせこんなものである。中途半端に論文を書く訓練しか受けていないのに、いきなり軽妙なエッセイが書けたら誰も苦労しない。それから、週末批評にはじつはもうひとつ「週末思想研究会」という文脈があるのだけれど、これについてはたぶん長くなるので別の機会に譲りたい。次回はまた気が向いたときに、サイトを立ち上げた動機とかについて書こうと思う。

喪失と希望の対位法:『ほしのこえ』とエグザイルの詩学

本稿は2012年に頒布された批評同人誌『セカンドアフター vol.2』に寄稿したものです。

 

「どれほどの/遠さも苦にせず/呪縛され/汝は飛び来る」──ゲーテ

「私たち、どこだって行けるよ!」──平沢唯

0. 〈いま・ここ〉にある未来

 あれからずいぶん月日が流れた。被災地の瓦礫の受け入れはなかなか進まないし、メルトダウンした福島第一原子力発電所がどうなっているのかもよくわからないが、それでも人々はかつての日常を回復しつつあるように見える。実際、電力会社や政府の対応に怒りを覚えながらも、毎日の生活を何とかするだけで精一杯という人がほとんどだろう。政治不信や産地偽装はいまにはじまったことではないし、低線量被曝を気にしていたら食事も外出もままならない。粗末な仮設住宅で暮らす被災者には同情するが、テレビの向こうの他人を気づかう余裕があるわけでもない──そんな諦めにも似た感情を抱いて日々を過ごしているのは、おそらく私だけではないはずだ。

 もちろん、少しも後ろめたさがないといえば嘘になる。私たちは多かれ少なかれ、生き残ってしまった──あるいはそれほど被害を受けなかった──ことへの負い目を感じている。だからこそ記念日や記念碑というものがあり、毎年さまざまな行事が開催され、犠牲者への黙祷が捧げられるのだろう。それはもはや生きてはいない者たちの沈黙に耳を傾けることである。コミュニケーションのざわめきがふいに途切れ、死者たちの声なき声が語りはじめる。ばらばらになってしまった「私たち」をつなぎとめ、沈黙のまわりにひとつの共同体を組織するために、彼らはひとりひとりに呼びかける。あなたはやがて死ぬ、私がそうであったように。だがあなたの隣人もまた死ぬのだ。「あらゆる生の目的は死である」とフロイトは語っていた。そうだとすれば何のちがいがあるだろう、あなたと彼女とのあいだに。あるいは彼女と私とのあいだに。私はすでにそれについて書いた*1

 しかしこのような共同性を強調しすぎるあまり、かえって多様な生のかたちを抑圧することになってはならない。黙祷のために目を閉じることが、現実から目を背けることになってはならない。私がここで念頭においているのは、いわゆる「エグザイル[=追放]exile」ないし「ディアスポラ[=離散]diaspora」の状態にある人々のことだ。さしあたってエグザイルとは「本国や文化的、民族的出所を離れ、遠方に身を置く」*2ことであり、またディアスポラとは「故国から新たな地域に人々が自発的に移動したり、もしくは強制移住させられる」*3ことである。住み慣れた土地を追われ、一時的にではあれ避難所や仮設住宅、あるいは遠い親戚のもとで暮らすことを余儀なくされた人たち。地震津波が彼らに「移動[=転地]displacement」することを強いたのだが、しかしもっとも致命的だったのは、言うまでもなく放射能の脅威だった。放射性物質で汚染された土地に住み続けることはできない──ましてや子供をもつ母親にとっては。なるほど「ただちに影響はない」としても、そこで賭けられているのは未来なのである。

 私は故郷喪失者にただ同情するだけではなく、彼らの困難を自分の問題として考えてみたい(それはまた自分の無力感の裏返しでもあるだろう)。すなわち移動をめぐる問題としてである。なぜならそれは彼らの現在であると同時に、私自身の未来でもあると信じているからだ。いまや危機をあおる言説は、いたるところに満ちあふれている。日本はまた遠からず巨大地震に襲われるだろうし、そうでなくても財政破綻増税が待ちかまえている。かといって経済成長のためには移民や外資を受け入れなければならず、そうなれば格差拡大は避けられない。グローバル・マーケットに翻弄される無力な労働者としての自分を想像してみよう。未来は急な下り坂で、しかも底知れない暗闇に続いている──その門をくぐる者は、すべての希望を捨てなければならない。

 しかしここで私が考えたいのは、そうした極端な未来予測とはちがう、もっと別の時間のあり方である。そして移動の問題が重要なのは、それが過去や未来との関係性そのものを書き換えてしまうように思われるからだ。文化人類学者のジェイムズ・クリフォードは、ディアスポラについて次のように述べている。「ディアスポラの経験のなかで、「ここ」と「あそこ」の共存は、反目的論的な(ときにはメシア的な)時間性と節合される。直線的な歴史は裂け目を入れられ、現在にはつねに過去が影を落としている。そしてその過去とは、欲望されるが遮断されている未来、更新され苦痛に満ちた熱望である」*4。直線的な時間を破裂させ、均質な〈いま・ここ〉に突然侵入する「メシア的」な過去/未来──それはあたかも緊急地震速報のように、まどろんでいた私たちを打ちのめすだろう。

 とはいえこのように言うことで、私はエグザイルやディアスポラにまつわる現実的な困難の数々を捨象してしまうかもしれない。「エグザイルは」と批評家のエドワード・サイードは注意をうながしている。「それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である」*5。しかしそうだとしても、エグザイルの経験に肯定的な側面がないわけではない。サイードはそれを「対位法的意識」と名づける。

エグザイルにとって、新しい環境における生活習慣や表現や活動は、別の環境に置き去りにしてきたものの記憶を背景として生ずる。したがって新しい環境と古い環境はともに、生々しく、現実的で、対位法的に同時に生起する。この種の把握法には独自の喜びがともなう。[…]たまたまいる場所であれば、それがどこでもくつろげる、そんなふうに行動することで、独特の達成感覚も生まれる。*6

 故郷喪失者を苦しめると同時に「独自の喜び」をもたらすのは、空間的な移動の経験にともなう時間性の変容である。そこでは過去・現在・未来が一直線に並べられるのではなく、それらが複雑に絡み合った離接的な時間として経験される。失われた〈かつて・あそこ〉は絶えず〈いま・ここ〉に回帰し、予期せぬ〈いつか・どこか〉の到来にさらされる。したがっていくつもの奇妙なカップリングがありうるだろう──〈いま・あそこ〉や〈かつて・どこか〉、あるいは〈いつか・ここ〉といったように。そしてこうした時間・空間についての意識は、いまや携帯電話やインターネットによってますます身近なものになっている。それらは通常リアルタイムというかたちで圧縮されてはいるが、対位法的な経験をもたらしうる特権的な装置でもあるのだ。過去から幽霊が電話をかけ、未来から天使がメールを送る──すなわち「ディアスポラの意識は、明確な緊張関係として喪失と希望を生きる」*7のである。希望はつねに喪失とともにあり、そしてそこにしかない。はじめよう*8

1. 車窓に映る風景と内面

 新海誠はエグザイルの作家である。『ほしのこえ』(2002年)から『星を追う子ども』(2011年)にいたるまで、新海は一貫してこの問題に取り組んでいる*9。だがそう言われると違和感を覚える人も少なくないだろう。というのも彼の作品を強く印象づけるのは、懐かしくも美しい繊細な風景描写と、思春期の遠距離恋愛をめぐる叙情的な物語だからである。放課後の教室、学校帰りのコンビニ、雨上がりの通学路、早朝の駅のホーム、透き通った青空、都会のネオン、真夜中の電話ボックス、桜の舞う踏切──そんなありふれた日常の風景も、ひとたび新海の手にかかると、まるで生命を吹きこまれたかのように燦然と光り輝きはじめる。それは胸を締めつけるような感傷的なモノローグとともに、少年と少女の孤独な内面を鮮やかに照らし出す。

 もちろん、こうした理解がまちがっているわけではない。たとえばアニメ評論家の藤津亮太は、「風景の発見」という柄谷行人の有名な議論を参照しながら、『ほしのこえ』における風景の「懐かしさ」を登場人物のモノローグと結びつけている。「なんでもない風景を、懐かしい、かけがえのない風景として思い出すこと。そのためには、なんでもない風景を認識する人物たちに内面があることを描かなくてはならない」*10。なぜなら柄谷が言うように、「周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner manにおいて、はじめて風景がみいだされる」*11からだ。全篇にわたって流れる静謐なモノローグは、登場人物が孤独な内面をもつ「内的人間」であることを示唆している。だからこそ「その寂しさの向こう側で、それまでは何の変哲もなかった踏み切りやバス停、階段のある道などが、突如かけがえのない風景として改めて甦り始める」*12──新海自身が柄谷の議論から影響を受けていることを考えると*13、きわめて説得力のある解釈である。

 しかしここで注意しなければならないのは、そのような「風景の発見」に先立って「内的人間」があるわけではないということだ。そうではなくて、柄谷が問題にしているのは「内面/風景」という二分法それ自体を可能にする「抽象的思考言語」──すなわち「言文一致」という近代的制度なのである。「表現」される内面と「描写」される風景は、この新しい「言=文」においてはじめて見出される。したがって問われるべきなのは、新海作品において「内面/風景の発見」を可能にするものは何なのかということだ。そして私の考えでは、それこそがエグザイルにほかならないのである。映画学者の加藤幹郎は、風景が「遠方への眼差しや旅(空間移動)によって、すなわち旅行(距離の生産)による日常の非日常化のなかから産みだされる」*14と述べているが、風景だけではなく内面についても同じことが言えるだろう。というのも加藤が指摘するように、「とりわけ新海誠のアニメーション映画は移動(旅立ち)の主題に満ちており、移動が産みだす場所の転位(風景の変化)と距離の拡大ならびに縮減の試みが伝統的なメロドラマ的主題(邂逅や擦れ違い)へと翻訳される」*15からである。

 『ほしのこえ』冒頭のシーンには、こうしたモチーフがすでに色濃く現れている。鉄橋をわたる電車の騒音に混じって、携帯電話の甲高い操作音が響く。制服姿の少女が電車の窓際に立ち、一心に携帯メールを打っている。加納新太による同作のノベライズから引用しよう。

[…]わたしは電車に乗っていた。

乗客席と運転席をへだてる壁にもたれて、後ろ向きに立って、すごいスピードで流れさっていく景色を自動ドアのガラスごしに眺めていた。

でも、ほんとうは、すごいスピードで流れさっているのは景色ではなくて、電車に乗ったわたしのほうだ。

そう思った瞬間、なんだか追いたてられたような、慌てたような気分になって、無意識に携帯電話を取りだしていた。*16

 この短いシーンでは、移動にともなう「内面/風景の発見」がわかりやすくシミュレートされている。車窓を流れる風景が少女の自意識へと折り返され、「なんだか追いたてられたような、慌てたような気分」を作り出す。それはエグザイルに特有の感覚である。つねに移動し続けることで〈いま・ここ〉が希薄化し、彼女は外界から切り離されているかのような不安に襲われる(それはまた柄谷のいう「人間から疎遠化された風景としての風景」*17が成立する過程でもあるだろう)。少女が「無意識に携帯電話を取りだしていた」のは、コミュニケーションを通じて自分の居場所を確認するためだ。しかし彼女のメールは誰にも届かない。灰色の小さなディスプレイに表示されたのは、「サービスエリア外です」というそっけない文字列だけだった。少女は諦めたように目を閉じ、そして静かにモノローグが流れはじめる──「内的人間」の誕生である。

 だがここで描かれているのは、たんなる「内面/風景の発見」だけではない。電車内にいたはずの少女は、次のシーンでは高層マンションの非常階段に立っている。さらに自宅のドアを開けると、そこには誰もいない放課後の教室が広がっている。「ねぇ…わたしはどこにいるの」──そう自問して目覚めた少女は、自分が「もう、あの世界にはいない」ことをはっきりと悟る。「ここは誰も来たことのない、遠い、黒くつめたい宇宙のはて」*18。少女の操る人型ロボット「トレーサー」の背後には、地球から8.7光年離れたシリウス星系第四惑星「アガルタ」が冷たく輝いている。つまり『ほしのこえ』冒頭のシーンは、彼女がトレーサーのコックピットのなかで見た、束の間の幻影にすぎなかったのだ。そして注目すべきなのは、その幻の内容ではなく形式、すなわちフラッシュバックである。宇宙空間をさまよう少女の脳裏に、懐かしい地上の風景がよぎる。それは〈いま・ここ〉が裂開し、〈かつて・あそこ〉が侵入する経験である。

 新海作品のいたるところに、このような裂け目が開いている。そこから見える風景は美しく、また痛ましくもあるだろう。新海にとっての〈いま・ここ〉は、〈かつて・あそこ〉と〈いつか・どこか〉を結んだ線上の一点にある──それゆえ規則正しく隣り合っている──わけではない。そうではなくて、それらは同時に重なり合い、絡まり合っているのである。そしてそれこそが、彼をエグザイルの作家たらしめている最大の要因なのだ。したがって「内面/風景の発見」というだけでは十分ではない。より重要なことは、離接的な時間と多層的な空間が立ち現れる、そのような経験の諸相をとらえることである。

2. 過去からのメール

 あらためてストーリーを確認しておこう。『ほしのこえ』は「宇宙と地上にひきさかれる恋人」の物語だ。中学生のミカコとノボルはお互いに好意を抱いており、同じ高校への進学を目指していたが、ある日突然離ればなれになってしまう。ミカコは宇宙船「コスモナウト・リシテア号」の乗組員として、異星人「タルシアン」の痕跡を調査するために遠い宇宙へと旅立つ。2人は携帯メールで近況を報告し合っていたが、宇宙船が地球から遠ざかるにつれて、メールの送受信にかかる時間がしだいに大きくなっていく。やがてアガルタへの長距離ワープが行なわれると、2人のあいだの時間のズレは決定的なものとなる。いつしかノボルはミカコからのメールを待つことをやめ、同じ高校に通う少女と親しく交際しはじめる。「どこにいるのかもわからない、なんの約束もしていない女の子をただ待ちつづけるには、「いま」「ここ」という時間と空気感は、リアルすぎて、圧倒的すぎた。/[…]/ぼくにとって意味がある事実は、ミカコはいま、ここにはいない、ということだった」*19。ノボルをとりまく日常は、あまりにも「空気が濃すぎる」*20のである。

 他方でミカコは、ノボルのいない〈いま・ここ〉を受け入れることができない。「ノボルくんとあの街にいたときの日常感覚。/ノボルくんといた気分。/それをわたしの心の基準位置にしていたい」*21。ノボルとは対照的に、ミカコは文字通りの意味で真空状態におかれている。彼女は火星や木星の壮大な光景を目の当たりにした感動をメールで伝えているが、それは藤津が言うように「修学旅行で流れ作業的に名所旧跡などを訪れた時の感想と同じ種類の当たり前の感想にすぎない」*22。やがてメールのやりとりが途絶えると、ミカコは耐えがたいほどの孤独感に襲われる。それは〈かつて・あそこ〉にとらわれた故郷喪失者のメランコリーである。地球とよく似ているはずの緑の惑星アガルタでさえ、彼女にとっては「ここには何もない」に等しい。なぜなら「こんなところにノボルくんはいない」*23からだ。

 地理学者のカレン・カプランは、亡命者とツーリストがともに〈いま・ここ〉を無価値化する傾向にあることを指摘している。「[…]どこか別のところにもっと真実の、もっと意味のある生活があるという信念は、亡命者とツーリストの両者に共有されている。これら二つの形象はともに、第一義的な主体の位置に神秘化されると、失われた実体や、けっして到達しえない統一を探し求める憂鬱病患者を表象することになる」*24。さしあたってミカコがそのような「憂鬱病患者」であることは明らかだ。

 しかしだからといって、新海は〈いま・ここ〉への没入をすすめているわけではないし、ましてや〈かつて・あそこ〉への逃避をうながしているわけでもない。というのも彼が描こうとしているのは、すでに述べたように、それらが交差する対位法的な意識にほかならないからだ。現在と過去が折り重なる瞬間──それは「いまとここの幸福」*25にまどろんでいたノボルの意識を叩き起こす。夏の湿った空気と雨音を切り裂いて、携帯の着信音が鳴り響く。一通のメールが「爆弾のように飛びこんできた」*26のは、彼が古いバス停の待合室で雨宿りしていたときのことだった。それは1年ぶりのミカコからのメールであり、そこには冥王星付近でタルシアンと戦闘になったこと、やむをえずハイパードライブで1光年の距離に逃れたこと、そしてこれから8.6光年先のシリウスに向けて長距離ワープに入ることが記されていた。

 だがノボルの心を激しく揺さぶったのは、メールの文面よりもむしろ送信日時である。そこには1年前の日付が表示されていた。つまりミカコは、メールが地球に届くまで1年以上かかることを知りながら、それでもなお1年後のノボルに宛てて送信したのだ。彼はその事実に衝撃を受け、過去から届いたメールを声に出して読みはじめる。それはすぐにミカコのモノローグへと変わり、やがて2人の声が静かに重なり合う──「ねえ、わたしたちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね」。〈かつて・あそこ〉から響いてくる彼女の声は、まるでこだまのように〈いま・ここ〉の空気を振動させる。ノボルはもはや現在に没入することができない。加納によるノベライズでは、彼の意識が〈いま・ここ〉から引きずり出され、対位法的なものへと変化する様子がわかりやすく描かれている。離接的な時間と多層的な空間の出現──それは〈かつて・ここ〉ないし〈いま・どこか〉として経験されるだろう。

ぼくには、そのとき──

心が時間を越えて、2年前のあの日とまったく同じように、ミカコの息遣いと、存在を感じとることができた。ミカコの吐息や、喉をならす音や、ミカコから落ちる雨のしずくや、匂いや、そういったものまで。

ぼくは、いま、この瞬間に宇宙のどこかにいるはずのミカコに思いを馳せた。

このメールを書いてから、1年の時が過ぎ、ひとつ歳を取ったミカコのことを。*27

 ノボルがひとりで雨宿りしていた粗末な待合室は、2年前の夏、ミカコと一緒に夕立をやり過ごした思い出の場所だった。〈いま・ここ〉にいるはずのないミカコの気配が、ノボルの感覚器官にありありと現前する。それをミカコの「アウラ(オーラ)aura」と呼んでもいいだろう。アウラというのは、もともとギリシャ語・ラテン語で「息吹」や「微風」を意味する言葉である。批評家のヴァルター・ベンヤミンは、この言葉を次のように定義し直している。「そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」*28。ノボルはすぐ近くにミカコの「息遣い=アウラ」を感じる。それは〈かつて・ここ〉にあったものであり、また〈いま・どこか〉にあるはずのものだ。近さと遠さが交錯し、現在と過去/未来が短絡する。宇宙の果てから吹きつける風が、かすかに地上の空気に混じる。独文学者の大野真は、新海が「「今」を「過去」として捉える感覚操作を、これは恐らく半ば無意識のうちに行なっている」*29ことを指摘しているが、そうするためには時間と空間を離接的で多層的なものとして把握する必要があるだろう。

 過去・現在・未来が折り重なるバス停の待合室は、歴史家ミシェル・ド・セルトーのいう「場所」の定義を正確になぞっている。「事実、場所というのは」とセルトーは語っている。「幾層にも重なった[記憶の]断片からなっており、その層のどこかに移っていったり、またそのどこかから出てきたりするし、そしてまた、こうして動きゆく厚みそのものを活用している」*30──まるで「パリンプセスト(重ね書き羊皮紙)」のように。したがって「場所は、奥深くたたみこまれた、とぎれとぎれの話であり、他人の読みおとした過去、先へ伸びてゆくことができるのにじっとたたずんで、来るべき物語のように未来を待ちながら、判じ文字のようにそこに在る時間、そうして、身体の苦悩と快楽のなかにひそかに宿る象徴表現である」*31

 ミカコの存在を感じとるということは、〈いま・ここ〉に織りこまれた〈かつて・あそこ〉や〈いつか・どこか〉をとらえる──あるいは逆にとらえられる──ことにほかならない。時間と空間を越えて重なる2つの声は、そのような対位法的意識の現れとして理解することができるだろう。

3. 失われた「ここ」を求めて

 同じような演出は、『ほしのこえ』のラストシーンでも繰り返されている。ミカコとノボルのモノローグが交互に流れ、最後に2人の声が重なり合う感動的なシーンだ。バス停の待合室で「ほしのこえ」を聞いてから、8年7ヶ月後──24歳になったノボルは、再びミカコからのメールを受信する。「ここにいるよ」と題されたそのメールには、たった2行「24歳になったノボルくん、こんにちは!/わたしは15歳のミカコだよ」とだけ記され、後はノイズで読めなくなっていた。映像は8年前のアガルタ上空へと切り替わり、ミカコのトレーサーとタルシアンの激しい戦闘が繰り広げられる。交差する2人のモノローグに合わせて、日常のありふれた光景が次々にフラッシュバックする。ノボルは雪の舞う灰色の空を見上げ、ミカコは目の前のタルシアンを切り裂いていく。地上と宇宙、現在と過去が目まぐるしく入れ替わり、やがて2人は同時に最後のセリフを口にする。それは愛の告白でも別れの挨拶でもなく、あのメールの題名と同じ「ここにいるよ」というごく控えめな言葉だった。

 このシンプルなラストシーンには、しかし『ほしのこえ』の解釈を決定づける重要な問いが含まれている。2人のいう「ここ」とはいったいどこなのか、という問題だ。ミカコとノボルのモノローグはたしかに重なり合ってはいるものの、それは彼らが〈いま・ここ〉を共有しているということを意味しない。実際には2人の時間と空間は大きくズレている。つまり批評家の東浩紀が言うように、彼らの声は「脳内世界でしか重ならない」*32のである。だがそうだとすれば、ミカコとノボルはそれぞれの〈いま・ここ〉を肯定しようとしているのだろうか──『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)最終回のあまりにも有名なセリフ「僕はここにいてもいいんだ」がそうであったように。

 実際、批評家の大塚英志や編集者の大野修一、ライターのササキバラ・ゴウらは、『ほしのこえ』のラストシーンに現状肯定的な態度を見出し、そのことの是非をめぐって議論している。ササキバラの考えでは、「ここにいるよ」という2人のセリフは、物語の「着地点」を示しているのであって、その先の「成長」を描こうとしているわけではない。彼はその点をむしろ積極的に評価する。というのも「ここにいて、ここ以外のどこにも行けなくて、ここしかない」というニヒリスティックな現状認識──宮台真司のいう「終わりなき日常」──のなかで、それでもなお「ここにいるよとかここにいることが好き、あるいはこの空間が好きだっていう結論」*33に達しているとされるからだ。

 これに対して大野は、ササキバラの解釈に真っ向から反対している。彼に言わせれば、「ここ」というのは「次にどこかに向かうための、スタート地点」*34でなければならず、そしてそのかぎりで評価に値する。つまり『ほしのこえ』のラストシーンは、「旅」に出る前の「状況の再確認」と「その状況の再確認の中にいる「私」の再確認」のプロセスであり、重要なのは「ここ」から旅立つことなのだという。

 他方で藤津は、ササキバラや大野のように「ここ」を〈いま・ここ〉として理解することそれ自体を疑問視している。なぜなら「二人がそれぞれ今生きている場所を指し示すにしては、作品中で描かれている二人の「現在」はあまりにも希薄すぎる」*35からだ。たしかに彼らの〈いま・ここ〉は、出発点というにはそっけなく、また着地点というにはあっけないように思える。それは藤津によれば、ミカコとノボルが〈かつて・あそこ〉へのノスタルジーにとらわれているためだ。「魅力的な過去の前では、現在は色あせて見える。色あせた現在は、まるで観光絵はがきか何かのように細部と奥行きを失い、関心を誘わない何かへと変化していく」*36。2人は「自分がどこにいるのかも見失ったまま」、ともに過ごしたあの夏の思い出に心を奪われている。つまり藤津の解釈では、彼らのいう「ここ」とは、現実から遊離した「どこでもない場所」(=「脳内世界」)にほかならないのである。

 しかしそうだとすれば、ラストシーンのミカコとノボルは「どこでもない場所で携帯電話を手にしながら、つながっているかどうかもわからない相手に「ここにいるよ」とモノローグをつぶやいているだけ」*37にすぎないのだろうか──部屋に引きこもってパソコンの画面に没入する、現代の若者たちのように*38。おそらくそうではないだろう。新海が描こうとしていたのは、たんなる現実逃避ではないし、かといって現状肯定でもない。2人の現在がどれほど希薄なものに見えるとしても、メランコリーやノスタルジーに完全に支配されていると考えるのはまちがいだ。

 そのことがもっともよく現れているのは、アガルタに到着したミカコがタルシアンと接触するシーンである。美しい大地に降りしきる雨を眺めながら、彼女もまたあの夏の日の夕立を懐かしく思い出していた。学校の帰り道、急にどしゃぶりの雨に降られ、2人でバス停の待合室に駆けこんだこと。トタン屋根を叩く雨音を聞きながら、隣に座るノボルの息遣いを感じていたこと。もう戻れない日々の記憶に苛まれ、ミカコはトレーサーのコックピットのなかで泣き崩れる。だがそれも長くは続かない。不意に何者かのひとさし指がミカコの額にふれ、ノスタルジーに浸っていた彼女の意識を覚醒させる。「誰?/どうして?そんな疑問が生じるよりもはるかに速く、わたしのなかから情報がひきだされて、わたしの意識の表面に次々と映しだされた」*39。ノボルが突然のメールによって〈いま・ここ〉への没入を妨げられたのと同じように──あるいはそれとは対照的に──、彼女はタルシアンとの接触によって〈かつて・あそこ〉への沈潜から引き戻されるのである。

 さらにここで注目すべきなのは、タルシアンがミカコ自身の過去/未来の姿となって現れることだ。顔を上げた彼女の目の前に、もうひとりの自分が出現する。少女は10歳くらいの子供の姿で、くすんだ色のワンピースを身にまとい、まるで「天使みたいに浮かんでいた」*40。あっけにとられているミカコの前で、幼い少女はまだ見ぬ20代半ばの大人の姿へと変身する。つまりこのシーンでは、タルシアンによってミカコの過去と未来が擬人化され、彼女の現在に重ね合わされているのである。それはまさに「対位法的意識の劇場」とも言うべきものだ。そして「ここにいるよ」というセリフの謎を解き明かすための手がかりは、ほかならぬこの舞台の上に用意されている。それはミカコに対するタルシアンの呼びかけのなかに見出されるだろう。

「ねえ、やっとここまできたね」

「大人になるには痛みも必要だけど」

「でも、あなたたちならずっとずっと、もっと先まで、きっと行ける」

「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」

「ねえ、だから、ついてきてね」

「託したいのよ、あなたたちに」

 この一連のセリフには、『ほしのこえ』における新海の姿勢があからさまに表現されている。というのも彼は、同作のラストシーンを「このままみんな脳内[世界]でいようよ、というメッセージ」として受けとったという東に対して、ミカコとノボルが「現実は別々の場所に生きていてそのさきを生きていかなければならない」*41、そのような意図を「ここにいるよ」という言葉にこめたと語っているからだ。要するに、新海はエグザイルの経験そのものを肯定しようとしているのである。

4. どこにでもある場所へ

 しかしそれにもかかわらず、ラストシーンの2人のセリフは、現状肯定ないし現実逃避として受けとられることになった。そしてその原因は、少なからず新海自身のミスリードにある。彼は「[最終的に「脳内世界」にとどまるという]泣ける話として受け入れられるのはウェルカムだった」*42とも述べているが、そのことは自分の過去/未来の姿と対面したミカコのヒステリーにも見てとれる。宇宙の果てまで「ついてきて」ほしいというタルシアンに対して、彼女は涙ながらに「ノボルくんと一緒にいたかっただけ」だと訴える。だがミカコの願いを打ち砕くかのように、上空から強力なビーム攻撃が降り注ぎ、アガルタの美しい大地を無惨に破壊する。激しい戦闘の火ぶたが切って落とされ、彼女はトレーサーを駆りながら「わかんないよ!」と絶叫する。

 一見するとミカコは、「そのさきを生きていかなければならない」という新海=タルシアンの意図に反発し、さらなるエグザイルを拒絶しているように見える。14歳という年齢を考えれば当然の反応ではあるが、おそらくこの点に『ほしのこえ』の曖昧さがあると言えるだろう。ラストシーンの解釈をめぐって、現実逃避と現状肯定という両極端な立場が生じるのはそのためだ。しかしながら、どちらの解釈もまったく不十分である。前者はミカコがタルシアンとの戦闘に身を投じる理由を説明できないし、後者は戦闘中に過去の風景がフラッシュバックする理由を説明できない。要するに、両者は移動にともなう対位法的意識の生成をとらえ損ねているのだ。何度も述べているように、ミカコは〈かつて・あそこ〉に逃避しているわけではないし、かといって〈いま・ここ〉に埋没しているわけでもない。そうではなくて、それらが複雑に折り重なった離接的で多層的な「ここ」を生きているのである。

 大塚はこの点を正確に理解していたように見える。というのも彼は、『ほしのこえ』のなかに「ここにいるっていうことに関する肯定と、いやそれだけじゃだめなんだっていう否定」*43という「二重性」が存在することを指摘していたからだ。それは言い換えれば、「ここ」が着地点であると同時に出発点でもある──したがってそのどちらか一方ではない──ということ、すなわち絶えず移動し続けているということである。ミカコはつねにあらかじめ「旅」のなかにある。そのことは携帯電話という装置からも明らかだ。デスクトップ・パソコンやテレビのディスプレイ──それらは現実から切り離された「脳内世界」や「どこでもない場所」を映し出す──が基本的に移動不可能であるのに対して、携帯の小さな液晶画面は、文字通りの意味で高度なモビリティを達成している。このちがいは決して小さなものではない。つまりミカコやノボルにとっての「ここ」とは、座標空間内に固定された一点としての〈いま・ここ〉や〈かつて・あそこ〉ではなく、いわば変数としての「移動し続ける場所」であり、そしてそのかぎりで「どこにでもある場所」なのである。

 とはいえそれは〈いま・ここ〉を軽視することではないし、また〈かつて・あそこ〉を忘却することでもない。むしろ事態は逆なのであって、現在や過去は絶えず「痛み」としてミカコの意識を引き裂き、彼女を〈いつか・どこか〉へと駆り立てる。それは一方でタルシアンとの接触=戦闘による身体的負荷としての「痛み」であり、他方で失われた日常に対するノスタルジーとしての「痛み」である。前者は〈かつて・あそこ〉への逃避を妨げ、後者は〈いま・ここ〉への没入を阻む。ミカコはそのどちらにもとどまり続けることができない──しかしだからこそ「ほかの銀河へもほかの宇宙へだって」行くことができるのだ。したがってそれは現状肯定でも現実逃避でもなく、対位法的に生起する現在と過去の「痛み」にさらされ続けることである。あるいはそうした「痛み」を抱えたまま、離接的な時間と多層的な空間を生きる──とはつまり移動し続ける──ことである。「たぶん、わたしたちは、痛がりだからこんな遠くにまで来られたのだと思う」*44

 加納は『ほしのこえ』のノベライズを手がけるにあたって、随所にさまざまなアレンジを加えているが、なかでも問題のラストシーンはかなり大胆に再構成されている*45。しかしそれは「もうひとつの結末(アナザー・エンド)」というよりも、むしろ原作の曖昧さを払拭した「真の結末(トゥルー・エンド)」と呼ぶにふさわしいものだ。ミカコはタルシアンとの戦闘を通じて「彼らもわたしと同じ」であることに気づき、ついに自らのエグザイル状況を引き受ける──「わたしは、どんな遠くだって行くことができる」*46。移動し続けることを選択した彼女にとって、いまや地球もアガルタも「同じ宇宙」の一部である。ホームレスであると同時にホームフルでもあるということ。それは確信をもって「どこだってここなんだ」*47と言えるような、いわば「どこにでもある場所」としての「ここ」に住まう(=移動する)ことを意味している。

ここも宇宙だし、

あの街も宇宙なんだ。

人がいて、

同じことを感じていて。

わたしは、生まれたその瞬間から宇宙に住んでいたのだし、これからだってそうなんだ。

同じ場所──

ああ、

ノボルくん──

わたしたちは、いまもいっしょにいるんだよ。

わたしは、ここにいるよ……。*48

 ミカコからのメールを受けとったノボルもまた、彼女とまったく同じ境地に到達する。彼は自分の住んでいる「スペースコロニーみたいな」郊外の街が、「この地上でいちばん宇宙に近い場所だった」*49ことに気づかされる。「そういえば、地球だって、宇宙の一部だった。/ここだって宇宙なんだ」*50。しかしだからといって、ノボルは宇宙としての郊外にとどまり続けるわけではない。むしろ「ここだって宇宙」だからこそ、逆にどこへでも行くことができるのである。こうして彼はミカコの後を追い、宇宙船の乗務員として地上を離れることを決意する(交際相手とはそのことが原因で破局する)。けれどもノボルの動機は、最終的に運命の相手と結ばれるという「ロマンチック・ラブ」イデオロギーによるものでは決してない。新海は『星を追う子ども』の舞台挨拶のなかで、彼の他の作品の登場人物たちがそうであるように「『ほしのこえ』でもノボルとミカコは結ばれない」と明確に述べている。むしろ重要なのは「“ロマンチックラブ”らしきものをつかみかけた彼らだけど、それを手に入れることはできなかったけども、でもその先に出て歩いて行」*51くことであり、そうすることができるという確信をもつことなのだ。

 過去と現在を携帯しながら、2人はそれぞれの未来へと押し流されていく。それはたしかにハッピー・エンドではないかもしれないが、しかし決してバッド・エンドというわけではない(というかそもそも「エンド」でさえない)。なぜなら移動し続けることではじめて、逆説的に彼らは「いっしょにいる」ことができる、すなわち「どこにでもある場所」としての宇宙にともに住まうことができるからだ。〈いま・ここ〉にありながら〈かつて・あそこ〉にあり、また〈いつか・どこか〉にあるということ。そのような「ここ」においてのみ、ミカコとノボルは互いの存在を感じとることができる。だからこそ彼らは移動することを選択するのである。「わたしたちはとおくとおく──/すごくすごーくとおく離れてくけど」「でも想いが時間や距離を超えることだってあるかもしれない」。

 雨上がりの雲間からまっすぐに差しこむ「天使のはしご」が、遠く離れたミカコとノボルをともに照らしている。それはひとつの希望でなければ何だろうか。ただ「ここにいる」ことが、この宇宙のどこかに存在する/したという確信が、2人をさらなる宇宙の彼方へと導いていく。2000年代初頭に公開されたわずか25分の映像作品は、およそ10年の時差をはらんで、震災後の私たちの生そのものに遠く反響している──まるで「ほしのこえ」のように。

 

 

 

*1:拙稿「ツインテールの天使──キャラクター・救済・アレゴリー」(『セカンドアフター vol.1』、2011年、8〜56頁)を参照。

*2:ビル・アッシュクロフト/ガレス・グリフィス/ヘレン・ティファンポストコロニアル事典』木村公一編訳、南雲堂、2008年、111頁。

*3:アッシュクロフト/グリフィス/ティファンポストコロニアル事典』、86頁。したがってエグザイルとディアスポラは同じものではない。後者の代表的な事例はユダヤ人やアフリカの奴隷貿易、紛争による難民であり、他方で前者のそれは国外に亡命した反体制的な政治家や作家、芸術家である。しかしながら本稿では、「やむをえない理由で故郷を離れざるをえない」という状況一般について考えるために、両者をとくに区別せずに用いることにする。

*4:ジェイムズ・クリフォード「ディアスポラ」『ルーツ──20世紀後期の旅と翻訳』毛利嘉孝/有元健/柴山麻妃/島村奈生子/福住廉遠藤水城訳、月曜社、2002年、299頁。

*5:エドワード・サイード「故国喪失についての省察」『故国喪失についての省察 1』大橋洋一/近藤弘幸/和田唯/三原芳秋訳、みすず書房、2006年、174頁。

*6:イード「故国喪失についての省察」、193頁。ただしサイードは──そしてもちろん私も──エグザイルを理想化しているわけではまったくない。彼は引用箇所に続けて、次のように述べている。「しかしながら、これ[=エグザイル]には危険がつねにともなう。まやかしの習慣は心労を蓄積させ神経をさかなでする。エグザイル状態とは、満足も充足も安心もない状態である。[…]エグザイルは、習慣的な秩序の外で起こっている生活である。それはノマド的で、脱中心化され、対位法的である。またそれに慣れてしまうやいなや、その静まることのない力が安定した生活をふたたび揺さぶるのである」(193頁)。

*7:クリフォード「ディアスポラ」、291頁。

*8:本稿はより大部の論考の第1章として構想された。当初の思惑では、第2章に『映画けいおん!』論が収録される予定だったが、生来の怠惰によって断念せざるをえなかった。2011年の冬コミで頒布したペーパー「ロンドン、天使の詩──『映画けいおん!』と軽やかさの詩学」は、その簡単なスケッチである。現在は拙ブログに掲載されているので、合わせて参照してほしい(『てらまっとのアニメ批評ブログ』「ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5」)。なお本稿に「セカイ系」という言葉が登場しないのは、セカイ系/空気系(日常系)という問題含みの対立に回収されることを避けるためである。この点に関しては、志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」(『アニメルカ vol.2』、2010年、9〜20頁)と拙稿「ロンドン、天使の詩」および「ツインテールの天使」が参考になるだろう。

*9:もっとも『星を追う子ども』には、それまでの新海作品とくらべて大きく異なる点がひとつある。それは登場人物のモノローグが封印されていることだ。この問題については、藤津亮太「モノローグのなくなった世界で」(『SFマガジン 2011年6月号』、早川書房、74〜78頁)を参照。

*10:藤津亮太「二〇四六年夏へのモノローグ」『「アニメ評論家」宣言』扶桑社、2003年、260頁。

*11:柄谷行人日本近代文学の起源 原本』講談社文芸文庫、2009年、33頁。

*12:藤津「二〇四六年夏へのモノローグ」、259頁。

*13:新海は大学時代に「感銘を受けた」本として、柄谷の『日本近代文学の起源』を挙げている。『『星を追う子ども』公式サイト』より「『星を追う子ども』公開記念『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)」を参照。

*14:加藤幹郎「風景の実存──新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」『アニメーションの映画学』加藤幹郎編、臨川書店、2009年、127頁。

*15:加藤幹郎「風景の実存」、121頁。

*16:加納新太ほしのこえ──あいのことば/ほしをこえる』新海誠原作、エンターブレイン、2006年、6頁。なお『ほしのこえ』には、加納によるものを含めノベライズが2つ(大場惑『ほしのこえMF文庫J、2002年)とコミカライズがひとつ(佐原ミズほしのこえ講談社、2005年)存在する。細部や結末はそれぞれ微妙に異なっているが、とりわけ本稿では加納が手がけたノベライズに多くを負っている。というのも残りの2つが原作の補完程度の内容であるのにくらべて、加納のそれは原作に対するかなり踏みこんだ──しかも後で見るように、きわめて斬新かつ説得的な──解釈が含まれているからだ(続く『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』のノベライズも彼が担当している)。ところで加納は、ミカコとノボルそれぞれの視点から2つの章(「あいのことば」と「ほしをこえる」)に分けて物語を再構成しているが、それよりも宇宙と地上に対応させるかたちで、同じ頁の上下にそれぞれの物語を記したほうがよかったのではないだろうか。そうすれば原作のラストシーンで重なり合う2つのモノローグも、より印象的にノベライズすることができたように思われる。

*17:柄谷『日本近代文学の起源 原本』、38頁。

*18:加納『ほしのこえ』、13頁。

*19:加納『ほしのこえ』、231頁。

*20:加納『ほしのこえ』、209頁。

*21:加納『ほしのこえ』、55頁。

*22:藤津「二〇四六年夏へのモノローグ」、254頁。

*23:加納『ほしのこえ』、109頁。

*24:カレン・カプラン『移動の時代——旅からディアスポラへ』村山淳彦訳、未來社、2003年、124〜125頁。

*25:加納『ほしのこえ』、218頁。

*26:加納『ほしのこえ』、242頁。

*27:加納『ほしのこえ』、246〜247頁。

*28:ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション 1』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、1995年、592頁。

*29:大野真「風景の詩学——新海誠秒速5センチメートル』解読」『深読み映画論──『暗い日曜日』の記憶』春風社、2009年、170頁。

*30:ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、国文社、一九八七年、二二九頁。場所を「幾層にも重なった断片からな」るものと見なすセルトーの考え方は、アニメやAR(拡張現実)技術におけるレイヤー構造ときわめて相性がいいように思われる。この点については、佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」(『floating view “郊外”からうまれるアート』佐々木友輔編、トポフィル、2011年、50〜59頁)および拙稿「多層化する世界──魔法少女とマルチレイヤー・リアリズム」(『魔法少女のつくりかた』こうさくらぶ、2011年、58〜68頁)を参照。また本稿では扱うことができなかったが、新海作品を特徴づける強烈な光の効果──レンズフレアやスミア、ブルーミングなど──は、重ね合わされた無数のレイヤーをなじませるだけでなく、それ自体ひとつの光源として私たちの網膜にふれ、その傷つきやすい表面を──ときには涙のヴェールでさえも──画面を構成する諸レイヤーのひとつに変えてしまうだろう。そのとき冷静な観察者と彼の眼前に立てられた像の関係はもろくも崩れ去り、連続的に折り重なった複数のレイヤーだけからなる多層的な空間が出現する。キャラクター作画と背景画、前景と後景、リアルとフィクション、現在と過去/未来──入れ子状に重ね合わされたいくつものレイヤーを同期させるもの、それはこの直進する光である(それは『けいおん!』の教室の窓から漏れ出てくる、フェルメールの絵画のように柔らかな光とは対照的だ)。ディスプレイの彼方から届く光が、遠い星のまたたきが、こうして私たちの現在を音もなく切り裂いていく。

*31:ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、二三〇頁。

*32:新海誠西島大介東浩紀「セカイから、もっと遠くへ」『コンテンツの思想──マンガ・アニメ・ライトノベル東浩紀青土社、2007年、77頁。

*33:大塚英志ササキバラ・ゴウ大野修一/川中利満「「ほしのこえ」座談会」『「ほしのこえ」を聴け』大塚英志ほか、徳間書店、2002年、217頁。

*34:大塚/ササキバラ/大野/川中「「ほしのこえ」座談会」、210頁。

*35:藤津「二〇四六年夏へのモノローグ」、261頁。

*36:藤津「二〇四六年夏へのモノローグ」、254頁。

*37:藤津「二〇四六年夏へのモノローグ」、261頁。

*38:大塚は『ほしのこえ』と現代の引きこもりの環境が「パラレルのような気がする」と指摘している(大塚/ササキバラ/大野/川中「「ほしのこえ」座談会」、230頁)。

*39:加納『ほしのこえ』、122〜123頁。映像では一時停止しないかぎり確認できないが、実はミカコは地上でタルシアンと遭遇している。アガルタでタルシアンと再び接触することで、彼女はようやくそのことを思い出すのである。

*40:加納『ほしのこえ』、124頁。

*41:新海/西島/東「セカイから、もっと遠くへ」、77頁。

*42:新海/西島/東「セカイから、もっと遠くへ」、77頁。

*43:大塚/ササキバラ/大野/川中「「ほしのこえ」座談会」、219頁。

*44:加納『ほしのこえ』、149頁。

*45:おそらく加納は、大塚や東、藤津らの議論を参照しながら、新海の意図を尊重するかたちで物語を再構成していったのだと思われる。

*46:加納『ほしのこえ』、154頁。

*47:加納『ほしのこえ』、153頁。

*48:加納『ほしのこえ』、153〜154頁。

*49:加納『ほしのこえ』、161頁。

*50:加納『ほしのこえ』、252頁。

*51:『『星を追う子ども』公式サイト』「『星を追う子ども』公開記念『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)」

敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き

 ここ最近、ゼロ年代批評に造詣の深い紅茶泡海苔さん(@fishersonic)の企画で、かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインさん(@wak)、大阪大学感傷マゾ研究会さん(@kansyomazo)、早稲田大学負けヒロイン研究会さん(@LoseHeroine_WSD)らとオンラインでお話しする機会があり、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった概念についていろいろ教えてもらった。当日の録音アーカイブYouTubeで公開しているので、興味のある方は聴いてみてほしい。

www.youtube.com

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 動画のタイトルにもあるように、これらの長い長い会話は「2020年代の批評ライン」の一環として企画されている。それが具体的にどのようなラインなのかは、動画のなかで断片的に語られている(ような気がする)ものの、全貌は私にもよくわからない。たぶん提唱者の紅茶泡海苔さんが、いずれどこかの媒体で発表することになるのだと思う。

 本稿はこの2つの会話をきっかけに私が感じたこと、考えたことを暫定的にまとめた覚え書きのようなものだ。そのため、個々の概念の理解や解釈については、感傷マゾ・負けヒロイン各研究会の公式見解と食い違っている可能性も少なからずある。というより、私自身の問題意識に強く引きつけて書いているせいで、おそらく両研究会の趣旨をかなりの程度ゆがめてしまっている。いちおうそれぞれの主宰者には目を通してもらってはいるが、筆者のバイアスが多分に入っていることをあらかじめ承知して読んでほしい。(以下敬称略)

 さて、私が個人的に気になっているのは、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった比較的新しく見える概念が、いわゆる「ゼロ年代批評」とどのような関係にあるのか、ということだ。紅茶泡海苔は当初、東浩紀宇野常寛に代表されるゼロ年代批評をモデルとした批評シーンの再興を企図しており、その過程でこれらの概念やそれを扱う各研究会を「発見」したかのように見える。けれども、それらは必ずしもゼロ年代批評とは直接関係がない──というか、むしろ全然違うところが出てきたものだ。にもかかわらず、私は(そしてたぶん、紅茶泡海苔も)この2つのグループのあいだに、ある種の連続性があるのではないかと考えている。

※本稿では諸般の事情により「感傷マゾ」には立ち入らない。気になる方は各自で検索してほしい。

 「青春ヘラ」とは何か。この言葉を作り出した大阪大学感傷マゾ研究会の記事*1をもとに私なりにまとめると、それはノベルゲームやアニメ、漫画、ライトノベルなどの若者向けフィクションで描かれるような輝かしい「青春」を送ることができなかった(と感じている)高校生や大学生が、その苦い記憶をいつまでも引きずり、自己愛の裏返しとしての自己嫌悪や自己卑下にとらわれ、否定的なアイデンティティを獲得してしまうことを指す。「ヘラ」というのは「メンヘラ」、つまり心の健康に問題を抱える人を意味するネットジャーゴンに由来する。同研究会の記事では「青春敗北者」という印象的な言葉も用いられている。

 他方で「負けヒロイン」とは、夜須田舞流のリサーチ*2によると2010年代後半頃に広まった言葉で、やはりライトノベルなどの若者向けフィクションにおいて、最終的に男性主人公の恋人としては選ばれなかったヒロインを指す。こちらは青春ヘラとは違い、若者の自意識というよりは物語のキャラクター類型に関するものだが、そこにもやはり、ある種の「敗北」の感覚が深く影を落としているように見える。早稲田大学負けヒロイン研究会の主宰者は、とあるフィクション作品で自分の好きなヒロインが「負け」たことをきっかけに、これまで自分が好きだったヒロインがことごとく「負け」ていることに気づき、やむにやまれず会を立ち上げたという。

 一見すると、これらは2000年代に一部の若者のあいだで流行した「批評」とはかなり異なるように思える。仮にこの批評という言葉を、個々人の私的な「感想」から区別される、ある程度の客観性を志向した価値評価(evaluation)の営みとして理解するなら*3、そこには当然、自分とは異なる価値観を持った他者への「批判」や「説得」のプロセスが含まれるだろう。プロ・アマ問わず、しばしば批評家同士が派手に喧嘩したり対立したりするのは、この批評という営み自体の闘技的ないしスポーツ的な性格に由来している。批評家志望の若者を募って選抜する「東浩紀ゼロアカ道場」(2008~09)などは、当事者ではないため推測にすぎないが、まさにその最たる例だったように思う。

 けれども、オンラインでお話をうかがうかぎり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の主宰者にはそのような動機があまり感じられない。それどころか、価値観の異なる他者との摩擦や衝突をできるだけ回避し、最初から同じ趣味嗜好を持つ人々とのみつながろうとする意識がきわめて強い。たぶん彼らは「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、他者の説得や自己の正当化のために使おうとはあまり考えていない。もちろん、こちらから説明を請えば快く教えてくれるが、その語り口もそれぞれの概念の内実と同様、どこか自虐的・自嘲的で、自分たちの価値評価(カントの言葉でいえば「趣味判断」)をまったき他者と共有しうる、普遍化しうるとはそもそも信じていないふしがある。要するに、紅茶泡海苔が「2020年代の批評ライン」と名づけたものは、少なくとも私から見ると、批評という営みからきわめて遠いのだ。

 にもかかわらず、というよりだからこそ、私はそこにゼロ年代批評との逆説的な連続性を感じてしまう。もはやかつてのような「批評」が事実上失効していることを、彼らの防衛的な振る舞いが如実に示しているように思えたからだ。

 ゼロ年代批評のグルとして君臨した東浩紀は、『動物化するポストモダン』(2001)の続編となる『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)のなかで、たんなる男性向けポルノグラフィとみなされていた美少女ゲームを本格的な批評の俎上に載せ、PCゲームのシステムと結びついた物語構造を鮮やかに分析してみせた。『AIR』(2000)をはじめとする一部の美少女ゲームには、少女を「所有」したい(つまりはセックスしたい)というプレイヤーの家父長制的な欲望を想像的に満たすと同時に、その欲望に「反省」を迫り、内向的なオタク男性の「ダメな僕ら」という自己欺瞞を解体する批評的な構造が備わっている、と東は主張した。

 これに噛みついたのが宇野常寛だ。宇野は『ゼロ年代の想像力』(2008)のなかで、東のいう「反省」がたんなるポーズ、彼の言い方では「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎず、結局は家父長制的な欲望が温存・強化されていると厳しく批判した。宇野に言わせれば、それは中年男性が女子高生と援助交際した後に、自分の後ろめたさを解消するために「こんなことをしていちゃいけないよ」と説教するようなものでしかない。彼はそうしたコンテンツ一般を「レイプ・ファンタジー」と呼んで切り捨てている。

 私個人としては、宇野の批判もわからなくもない一方、東の美少女ゲーム論にはいまなお参照されるべき重要な成果があると考えている。けれども、ここであらためて確認しておきたいのは、宇野の苛烈な批判がたんに東ひとりに向けられたものというより、彼の強い影響下にあったゼロ年代(前半)批評のシーンそのもの、いわば「東チルドレン」全体に向けられていたことだ。宇野は東によるセカイ系論や美少女ゲーム論が、それらを愛好する若いオタク男性に「ある種の免罪符として消費されることで無批判に受け入れられている」*4状況に苛立ちを隠さない。つまり、宇野の批判のポイントは、東の美少女ゲーム論の問題点を指摘するにとどまらず、それを「免罪符」として「ダメな僕ら」の自己正当化を図り、ポルノグラフィを「文学」とうそぶく東チルドレンを一掃することにあったわけだ。『ゼロ年代の想像力』のなかで、彼は2000年代前半の状況を次のように総括している。

東の両義的な評価をご都合主義的に解釈することで、ゼロ年代前半のサブ・カルチャー批評の世界は、もっともマッチョでありながら、そのことに無自覚な鈍感な想像力が「文学的」「内省的」であると評された時代を迎えた。だがそんな不毛な時代はもう終わりにしなければならない。結論ありきの自己反省パフォーマンスは、むしろ文学の可能性を剥ぎ取り、より単純化された思考停止に人々を導いていくのだから。*5

 当時の宇野の批判に対して、東が正面から反論したという話は寡聞にして知らない*6ツイッター上ではやり合っていた気がするが)。むしろ両者はその後接近し、2010年代前半に『AZM48』の権利問題をきっかけに決裂するまで一緒に仕事をしている。ともあれ、若者向けコンテンツを対象とした批評シーンは、2011年の東日本大震災福島第一原発事故による社会問題への関心の前景化や、同年の『フラクタル』騒動による東の離脱もあって急速にしぼんでいく。2000年代前半が「不毛な時代」だったかはともかく、一部のオタク男性のある種の「自己表現」としてのゼロ年代批評は、宇野の批判に適切に応答することなく退潮してしまった。近年SNS上で戦われている「表現の自由」論争には、後で述べるように、このときの「敗北」の記憶が遠く反響しているように思える。

 私が「青春ヘラ」や「負けヒロイン」を掲げる研究会から感じるのは、私自身とよく似た「ダメな僕ら」、つまりは「主体性の根拠を失い、父性や男性性を無自覚に担うことができず、文学的な内面を抱えた男性」*7としての自意識だ。そういう意味では「2020年代の批評ライン」もまた、ゼロ年代批評とほとんど同じような心性に支えられている気がするが、それでも2000年代とは決定的に異なる点がひとつある。そもそも彼らが「批評」を志向していないように見えることだ。そして私の考えでは、まさにこの点こそが、ゼロ年代批評との断絶にして継承なのである。

 紅茶泡海苔が企図していたように、仮にゼロ年代批評をモデルとする批評シーンを再興しようとするなら、東チルドレンが2000年代にやり残した課題、すなわち宇野による「ダメな僕ら」批判に正面から応答しなければならないだろう。けれども、私の見るかぎり、この課題をクリアするのは当時よりも現在のほうがはるかに難しい。いわゆる「リベラル」な価値観が一般化し、社会的・制度的な不利益を被っている女性やマイノリティの権利保護の要求が日増しに高まり、「価値観のアップデート」に乗り遅れた男性がフェミニストから糾弾される2020年代の日本社会で、コロナ禍があったとはいえアニメや漫画のような青春を送れなかったことへの鬱屈とか、主人公に選ばれなかったヒロインへの哀惜とかいったものを、真剣な議論に値するテーマとして正当化しうるとは思えないからだ。そんなものは所詮、フィクションに耽溺する若い高学歴オタク男性のナルシシズムでしかなく、自身の恵まれた境遇にあぐらをかいて現実の諸問題から目をそらしているにすぎない──こう言われたらたぶん、反論するのは難しいだろう。

 急いで付け加えておくと、だからといって私は、感傷マゾ研究会や負けヒロイン研究会を批判したいわけではまったくない。気候変動とかSDGsとかLGBTQ+とかの話をすべきだと言いたいわけでもない。そうではなく、私がここで強調したいのは、彼らがそうした批判の妥当性をあらかじめ深く認識しているということだ。

 「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、それらに執着してしまう「ダメな僕ら」のごく個人的な問題にすぎず、ポルノグラフィックな美少女ゲームと同様、もはや社会的に正当化するのが困難であることを、両研究会はおそらく完全に理解している。だからこそ、彼らは「批評」という論争的なフォーマットを採用せず、あくまで「自分語り」的な文体にこだわることで*8、2000年代に比べてはるかに道徳化・倫理化した社会から身を守ろうとしているのではないか。つまり、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」批判に反論するどころか、逆にそうした批判を「正論」として受容し内面化した結果として、「2020年代の批評ライン」が形成されているように思えるのだ。私のいう「ゼロ年代批評との断絶にして継承」とは、おおよそこのような意味である。

 もちろん、これは感傷マゾ・負けヒロイン両研究会で実際に『ゼロ年代の想像力』が読まれているということではない。彼らより一回り以上年長の中年男性で、いわゆる「ゼロ年代の亡霊」にすぎない私が、無理やり自分の問題意識と結びつけているにすぎない(その暴力性もいちおう認識してはいる)。けれども、東に対する宇野の批判をあらためて議論の出発点に置いてみると、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった個別の概念のみならず、現在の(とりわけSNS上での)批評=批判をめぐる状況がいくぶんクリアに見えてくるような気がするのだ。

 私の印象では、いま最も強力な批評的=批判的言説はフェミニズムである。これはフェミニズム批評が他の方法論よりも優れているということではなく、個人と社会とをダイレクトに接続する回路としてきわめて効果的に機能しているということだ。「個人的なことは政治的なこと」という1960年代の有名なスローガンのとおり、フェミニズムは女性ひとりひとりが抱えている生きづらさを、そのまま社会全体の問題へと引き上げることができる。「あなたが苦しいのはあなたのせいじゃない、女性差別的な日本社会のせいだ。一緒に社会を変えていこう」というわけだ。こうした傾向は近年、SNSの活用によって劇的に加速し、ハラスメントなどの問題を起こした男性を集団で追い込んで「キャンセル」したり、女性に対する「性的消費」を促進すると判断した図像を撤去させたりする「ハッシュタグ・ポリティクス」として結実する。

 その一方で、私の見るかぎり、男性には女性にとってのフェミニズムのような、個人と社会とをつなぐ回路が「仕事」以外に存在しないか、存在したとしてもほとんど機能していない。そこからドロップアウトした一部の男性がどれほど自分の生きづらさに悩んでいても、それはいわば「自己責任」であって、社会的に解決されるべき問題とはみなされない。男性にとってはあくまで「個人的なことは個人的なこと」*9なのだ。たしかにフェミニストからすれば、依然として男性優位の日本社会で、男というだけで「下駄を履かされている」にもかかわらず、なお生きづらさを訴えるような男性にかまっている余裕も理由もないだろう。彼ら/彼女らに言わせれば、それは男性自身が生み出したマッチョな価値観、いわゆる「有害な男らしさ」にとらわれているせいであり、そこから「降りる」ことで自己解決を図るしかない、というわけだ。

 だが「男性性から降りる」ための具体的な手続きが明らかでない以上、少なくとも「価値観のアップデート」が完了する(?)までは、現実では受け入れられない願望をフィクションを通じて想像的に満たすことが必要になってくる。自己と社会とをつなぐ回路を見失った、あるいは見失いがちな男性にとって、いまも昔もフィクションが心身ともに大きな慰めになっていることは明らかだ。

 そもそも東の美少女ゲーム論自体が、すでに見たとおり、フェミニズム的な「家父長制」批判を強く意識しつつ、それでもある種の「文学」として一部の美少女ゲームを擁護してみせる、きわめてアクロバティックな試みだった。ゼロ年代批評の盛り上がりの背後に、東の議論を「免罪符」として受容した若いオタク男性のセクシュアリティの問題があったことは無視すべきではない。そして彼らに対する宇野の批判は、東の美少女ゲーム論を流用して築かれたささやかな自意識の拠点を断固粉砕しようとする、フェミニズム的な批判の徹底として現れた。つまり、ゼロ年代批評のひとつのハイライトは、ともにフェミニズムを内面化した2人の男性批評家によって演じられたのだ。

 このように考えると、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」「レイプ・ファンタジー」といった痛烈な批判が、リベラルとフェミニストに席巻された現在の「政治的に正しい」言論市場を正確に予言したものであることがわかる。そこに「ダメな僕ら」の居場所はない。家父長制的な欲望を嫌悪しながらも手放せない、屈折したオタク男性の自意識を受け止める場所はない。それはもはや決して正当化されえず、フィクションを通じてこっそりと、想像的に満たされるべきものでしかない。

 かくしてオタク男性は批評=批判のアリーナで劣勢に立たされ、日本国憲法に記された「表現の自由」という最後の砦に立てこもる。SNS上で一部の男性アカウントが「表現の自由戦士」と揶揄されるほどフィクションへの表現規制に激しく抵抗するのは、言うまでもないことだが、彼らが憲法の理念をことさらに重んじているからではない。そうではなく、自らの欲望の受け皿がもはやフィクションのなかにしか存在しえないことを知っているからだ。それはある意味で「レイプ・ファンタジー」批判への居直りとも言える。フィクションの美少女を想像的にレイプする(?)権利は憲法で認められている、というわけだ。そう考えると、昨今の「表現の自由」論争は、敗走を重ねたゼロ年代批評の最後の戦場、つまりは本土決戦なのかもしれない。

 かつて東は『動物化するポストモダン』のなかで、当時のオタクたちが人間性と動物性を乖離的に共存させる特殊な主体を形成していると論じた。けれども、私の見るかぎり、2020年代表現規制反対派が抱える分裂はそれよりはるかに深刻化している。彼ら(というか私)は、自分がまさにそのフィクションに日々慰められているにもかかわらず、というよりだからこそ、それが現実とはまったくの無関係であることを強調しなければならない。生身の人間よりはるかに深い愛着を抱いているにもかかわらず、というよりだからこそ、彼女がたんなるフィクショナル・キャラクターでしかないことを強調しなければならない。そうしなければ、「戦士」たちの休息の場はたやすく失われてしまう(と信じられている)からだ。愛することが同時に愛の否認でもあるようなこの新たな分裂は、ポストモダンな社会構造というより、リベラル+フェミニスト連合軍に対する防衛戦というきわめて政治的な状況布置によって引き起こされている。党派的なアンチ・リベラルやアンチ・フェミニズム、あるいはミソジニーに陥ることなく、この分裂をひとつの倫理として保ち続けるのは難しい。

 すでに述べたとおり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会はいまのところ、こうした批評=批判のアリーナには上がろうとしていない。セカイ系的な「ダメな僕ら」を自己否定し、サバイブ系の主人公のように戦うそぶりを見せているわけではない。その代わりに、彼らは「表現の自由戦士」とは異なる仕方で、現代の男性性それ自体の困難、もっと言えば「敗北」と向き合っているように見える。もちろん、なかには女性会員や年長/年少の会員もいるのかもしれないし、そもそも公式には「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も若年男性限定のトピックというわけではないのだが、それでも私の目には、彼らが同世代のオタク男性にうっすらと共有されている「敗北感」に訴えることで、ある種のホモソーシャルな「連帯」を呼びかけているように映るのだ。そこでは誰が、何に敗北したかさえもはや重要ではない。それは青春かもしれず、受験かもしれず、就職かもしれず、あるいは人生そのものかもしれない。負けたのはヒロインではなく、自分だったかもしれない。

 感傷マゾ・負けヒロイン両研究会が「批評」というフォーマットを採用しないのは、こうした「連帯」を呼びかけるうえで合理的な選択であるように思える。繰り返しになるが、彼らが目指しているのは価値観の異なる他者、たとえば急進的なリベラルやフェミニスト、あるいは頭の固い先行世代を「説得」することではない。そうではなく、おそらくは似たような敗北感を抱える男性の「共感」を呼び起こし、彼らを迎え入れることで、ある種の互助的なコミュニティを形成することにある。先に触れた「自分語り」的な文体に加え、たとえば複数人でのリレー形式による連載記事*10などには、そうした方向性が端的に表れている。「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といったキャッチーな言葉を重視するのも、それらが一種のタグとして機能し、SNS上でのマッチング精度を高めてくれるからだろう。その意味で両研究会の戦略は、どちらかというとフェミニズムの文脈における「#MeToo」運動に近い。とはいえ、彼らは社会変革を志向していないという点で、ベクトルが大きく異なるのだが。

 仕事以外に社会とつながる回路を事実上持たなかった男性にとって、フィクションを含む「趣味」を媒介にしたゆるやかな相互扶助は、精神衛生上、きわめて重要な意味を持つ。それがいわゆる「メンズリブ」と異なるのは、両研究会が「有害な男らしさ」からの脱却を目指すどころか、むしろ自身の家父長制的な欲望をかなりの程度容認しつつ、半ば自虐的・自嘲的な振る舞いを通じて「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を実践していることだろう。

 冒頭で紹介した動画のなかで、「感傷マゾ」の創始者であるかつて敗れていったツンデレ系サブヒロインは、宇野による美少女ゲーム批判に言及した私に対し「でも『安全に痛い自己反省パフォーマンス』だから気持ちいいんじゃないですか」と応答している。一見するとただの居直りにも思えるこの切り返しに、私はたいへん感銘を受けた。自身の趣味嗜好に対するフェミニズム的な批判に向き合ったうえで、いたずらに反論や自己正当化を試みるのではなく、あえて「それが気持ちいい」という美学的なカテゴリーへとずらしてみせること。家父長制的な欲望から自由になれない「ダメな僕ら」を引き受けつつ、「政治的正しさ」の要求をフィクションのただなかで美的に、あるいはマゾヒスティックに反芻し続けること。私の見るかぎり、ここには東の美少女ゲーム論の最も核心的な部分が、いわゆる「批評」とは異なる仕方で引き継がれている。そして、このぎりぎりの肯定/抵抗の身ぶりは、多かれ少なかれ、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会にも共通して見られるような気がするのだ。

 もちろん、そこに何か新しさがあるかと言えば、必ずしもそうではないかもしれない。2000年代以前、それどころか先の戦争での敗北からずっと、男性の屈折した自意識の問題を引きずっているだけなのかもしれない(私には十分展開することができないが、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、江藤淳加藤典洋の問題意識に接続することは決して不可能ではないように見える)。両研究会が志向するホモソーシャルな互助的コミュニティに関しても、すでに宇野の『ゼロ年代の想像力』のなかに、セカイ系・サバイブ系を乗り越える「空気系(日常系)」の可能性としてあらかじめ書き込まれている。「敗北感」を共有する若者たちが集い、まだ何者でもない自分自身への不安に駆られ、互いの傷を舐め合いながら最後のモラトリアムを謳歌する──思えばいつの時代の青年も、そうやって大人になっていったのだろう。

 「自分がいかに負けたか」を切々と語れるだけの教育環境で育った彼らの多くは、各研究会に冠された一流大学を卒業した後、名だたる企業に就職し、あるいは大学院に進み、やがて家庭を持ち、相対的に安定した生活を送れる可能性が高い。目の前の仕事に忙殺されるうちに、いつしか「ダメな僕ら」という自意識は薄れ、かつての「敗北」の記憶も遠ざかり、いやおうなく社会人としての自負と責任感が芽生えていくだろう。「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、いまとなっては大学時代の気恥ずかしい「黒歴史」のひとつにすぎなかったと、懐かしく思い出す日が来るのかもしれない。

 それでも彼らが、というより私たちが人生のどこかで運悪くつまずき、望まないn度目の「敗北」を喫したとき、せめてその「敗北感」を受け止めてくれるコミュニティが、あるいはフィクションが用意されていてほしい。公共空間でガソリンを撒き散らすことも、SNSでヘイトを書き散らすこともなく、ただ自虐的・自嘲的なネタでともに笑い合い、慰め合えるささやかなアジールが存在してほしい。いまだ制度的救済のおぼつかないこの社会にあって、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の扉に掲げられているのは、かつて敗れていった者たちへの、そしてこれから敗れていく者たちへの親愛と連帯の挨拶なのだ。

 

*1:

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*2:

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*3:たとえばノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年などを参照

*4:宇野常寛ゼロ年代の想像力』、早川書房、2011年、237頁

*5:ゼロ年代の想像力』、241頁

*6:2021年12月5日追記:東による宇野への反論は、たとえば『PLANETS』vol.4(2008)に収録された両者の対談などに見てとることができる。この点については完全に私の不勉強で、同書を貸してくれた倉津拓也さん(@columbus20)に感謝したい

*7:東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年、320頁

*8:以下の2つの記事などを参照

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*9:かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインが本稿のラフに寄せてくれたコメント

*10:

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ポスト日常系アニメのハード・コア:室内空間の解体と『とある科学の超電磁砲S』

本稿は2014年3月に開催されたイベント《日常系アニメのソフト・コア》での発表原稿をまとめた同名の評論集に「あとがき」として収録したものです。

評論集のダウンロードは下記サイトより

secondafter.hatenablog.com

 

 日常系アニメに関するイベントをやろう、という話が最初に持ち上がったのは、たしか2013年秋の文学フリマ会場でのことだったように思う。今回のパネリストのひとりであるnoirse氏(@noirse)との立ち話のなかで、都内某所にある秘密の映画上映スペース「visualab」を借りて、アニメのトークイベントのようなものを開催できないか、という話になったのが発端だった。そのときは具体的な進展もなく別れてしまったが、その後、Twitterでのやりとりを通じて、評論系同人誌『セカンドアフター』主宰の志津A氏(@ashizu)に声をかけ、またS治氏(@esuji)にも参加してもらい、日常系アニメを振り返るシンポジウムを企画することになった。

 こうして2014年3月、visualabで《日常系アニメのソフト・コア》が開催された。シンポジウム当日の模様については、すでにtogetterにまとめられているので*1、詳しくはそちらを参照してほしい。このあとがきでは、そもそもなぜ日常系アニメに関するイベントを企画しようと考えたのか、その個人的な意図や動機を出発点に、昨今の「日常系アニメ以後」をめぐる状況を整理することにしたい。なお、シンポジウムおよび論集では、京都アニメーションを中心に日常系アニメの変遷について論じられているため、ここではやや異なった観点から、ポスト日常系アニメの物語=歴史を構築することを試みる。

日常系アニメのソフト・コアとは何か?

 今回のシンポジウムの目的は、「日常系アニメのソフト・コア」というタイトル通り、日常系アニメの「壊れやすい核(ソフト・コア)」を救い出すことにあった。というのも、ここ数年のあいだに日常系アニメを支えてきた社会的・経済的・技術的条件が変化するにつれて、その繊細な核が脅かされているように思われたからだ。

 では、日常系アニメのソフト・コアとはどのようなものか。ごく大雑把にまとめるなら、それは「ありふれた日常のうちに輝きを見出す」という価値観のことである*2

 日常系アニメのうちにこうした価値観が見出されることは、いまさら指摘するまでもないだろう。最近の事例をひとつ挙げるなら、たとえば2013年7月から9月にかけてテレビ放送された日常系アニメ『きんいろモザイク』のオープニング曲「Your Voice」では、冒頭から次のように歌われている。

ありふれた日々の

素晴らしさに 気づくまでに

ふたりはただ いたずらに時を重ねて過ごしたね*3

 日常系アニメの基本的なモチーフは、まさにこの「ありふれた日々の/素晴らしさ」をアニメートすることにある。それは典型的には、仲の良い女子高生や女子中学生のグループが、部活や恋愛や学業などに熱中しすぎることなく、学校の教室や部室でたわいないおしゃべりを繰り広げる──とはつまり「いたずらに時を重ねて過ご」す──ことによって表現される。一見どこにでもありそうな「日常」の風景を、ありそうもない「奇跡」として描くこと。さしあたってこれが、日常系アニメのソフト・コアと言えるだろう。

「日常」を支える室内空間

 では、この核が脅かされているとはどういうことか。危機の徴候はさまざまなかたちで表れているが、ここでは議論をわかりやすくするために、ある特定のカテゴリーに注目することにしよう。そのカテゴリーとは、少女たちの日常生活が営まれる「空間」である。

 そもそも、日常系アニメの前提となる「ありふれた日々」を成立させるためには、たとえば戦争や災害といったさまざまな生の理不尽から、少女たちを徹底して遠ざけなければならない。さもなければ、ある日突然大地震に襲われたり、テロに巻き込まれたりする可能性が生まれる──とまでは言わなくても、彼女たちのおしゃべりのなかに、政治や社会、経済、宗教などの物騒な話題が入り込んできてしまうだろう。これらは「現実」のままならなさを視聴者に思い起こさせ、作中で描かれる「ありふれた日々の/素晴らしさ」に影を落とすため、可能なかぎり排除することが望ましい。

 そこで、多くの日常系アニメでは、そうした面倒事から少女たちを隔離・保護するために、あたかも「繭」のような室内空間が用意されている。それが『らき☆すた』(2007年4~9月)や『けいおん!』(1期:2009年4~6月、2期:2010年4~9月)の教室/部室であり、また『ひだまりスケッチ』(一期:2007年1~3月、2期:2008年7~9月、3期:2010年1~3月、4期:2012年10~12月)のひだまり荘である。この安心・安全な空間は、彼女たちを優しく包み込み、外部からのわずらわしい情報を──まるで浸透膜のように──フィルタリングしてくれる。そこで描かれる「日常」は、作品外の「現実」と地続きのようでいて、(当たり前だが)実はまったく非現実的な「フィクション」にすぎないのだ。

 にもかかわらず、2000年代後半以降、一部の日常系アニメが熱狂的な支持を集めたのは、おそらくそれがたんなる「嘘」ではなく、ある種の「夢」を体現していたからだろう。1990年代後半から続く深刻な社会不安や経済不況のなかで、少なからぬ人々がそうした「現実」から解放された「ユートピア(どこにもない場所)」としての「日常」を夢見たとしても、決して不思議ではない*4

 いずれにせよ、ここで強調しておきたいのは、日常系アニメの舞台となる教室や部室、さらにはアパートといった室内空間が、少女たちを生の理不尽から隔離・保護する繭として機能していることだ。そして、それは同時に、この空間がたんに作品内の内部/外部を隔てるだけではなく、作品そのものを外部環境から閉じる「枠」としても理解可能であることを示している。つまり、作中で少女たちを戦争や災害、あるいはそれらの情報から遠ざけることが、その作品をまるごと「現実」から切り離し、ひとつのフィクションとして自律させるのである。『けいおん!』の音楽準備室の分厚い防音壁は、作品外からの騒音を遮断するフィクションの防波堤でもあるのだ。

室内空間の解体──進撃の巨人

 ところが、2010年代を過ぎた頃から、この安定した空間=作品構造がしだいに揺らぎはじめる。より正確に言えば、もはや安心・安全な空間を無条件に前提とするのではなく、むしろそうした空間の「破れ」や「綻び」に注目し、それに対処しようとする作品が増加しつつあるように思われるのだ。したがって、当然ながらそこでは、従来の日常系アニメとは大きく異なるタイプの物語および映像が生成されることになる。日常系アニメのソフト・コアが脅かされているというのは、このような状況認識を踏まえてのことである。

 たとえば、おそらく2010年代最大のヒット作のひとつである『進撃の巨人』(2013年4~9月)は、文字通り「壁」の外側から侵入してくる「巨人」に立ち向かう物語だった。巨大な壁に守られてきた「日常」はあっけなく崩壊し、人々はなすすべなく巨人に食い殺される。「ありふれた日々」を支える室内空間としての城壁都市が、巨人によって体現される生の理不尽──さしあたって巨人が(自然)災害の隠喩、というよりほとんど直喩であることは明らかだろう──を、もはや押しとどめられなくなっているのだ。こうして少年/少女たちは、たわいないおしゃべりで「いたずらに時を重ね」る暇もなく、巨人との絶望的な戦いに身を投じていく。

 その一方で、アニメ化された『進撃の巨人』では、自閉的な室内空間の解体にともない、より自由で解放的な運動が生み出されることになる。特殊な「立体機動装置」を装着した少年/少女たちは、建物の屋根や壁にワイヤーを打ち込み、まるでジャングルのターザンのように、あるいは遊園地のジェットコースターのように街中を自由自在に飛び回るのだ。教室や部室の壁に阻まれ、透明なカメラで少女たちの「日常」をこっそり覗き見ることしかできなかった視聴者は*5、いまや戦場の若い兵士の一人称視点を借りて、建物や巨人すれすれの空中を猛スピードで滑走する。

 こうしためくるめく運動の快楽は、今日ではCG技術の飛躍的な発展とカメラの小型化・高性能化によって広く一般化しており、たとえば『スパイダーマン』(2002年)をはじめとするハリウッド映画から、ウェアラブルカメラGoPro」によるパルクールやマウンテンバイクの動画にいたるまで、さまざまな映像作品に見出すことができる*6。だが、とりわけ『進撃の巨人』の場合、それが室内空間の解体と密接に結びついていることに注目すべきだろう。

 そもそも、日常系アニメの舞台となる教室や部室には、猛スピードで突進することを可能にするだけの十分な「奥行き」が不足している。だからこそ、『けいおん!』のオープニング映像では、カメラがまるで閉じ込められたハエのように、演奏する少女たちの周りをぐるぐると旋回し続ける(ことしかできない)のだ。つまり、『進撃の巨人』の目が回るような立体機動シーンは、舞台の書割のような室内空間を解体することで、はじめてアニメートすることが可能になったのである*7

学校の外へ──ラブライブ!』『ガールズ&パンツァー

 このような空間の変容は、たとえば『ラブライブ!』(1期:2013年1~3月、2期:2014年4~6月)や『ガールズ&パンツァー』(2012年10~12月)といった他の人気アニメにも見てとることができる。アイドルものと戦車ものという違いはあるが、どちらも学校を廃校の危機から救うために、少女たちが一致団結して「スクールアイドル」や「戦車道」の全国大会に挑む物語だ。とくに『ガルパン』では、少女たちの通う高校が空母の上に建てられており、彼女たちはいわば部室の代わりに戦車に乗り込むのである。

 これらの作品からうかがえるのは、室内空間の不安定化(廃校の危機)に直面した少女たちが、ときに空間そのものを頑丈で移動可能な兵器に作り変えながら、積極的に外部(全国大会)へと進出している──あるいは、進出せざるをえない──ことだろう。そこに競争や努力、あるいは勝利の肯定といった日常系アニメとは相容れない価値観が見られるとすれば、それはこうした空間の変容ないし解体と無関係ではありえない。外皮を失った日常系アニメのソフト・コアは、さまざまな生の理不尽にさらされることで、しだいに硬質化しつつあるかのようだ。

 もちろん、年間100本以上のアニメが放映される現在では、このような見立てはあくまで恣意的なものにすぎない。取り上げる作品やアプローチを少し変えるだけで、異なった歴史=物語をいくらでも紡ぐことができるだろう。

 しかしながら、空間のあり方に注目して作品を読み解くことは、まったくのこじつけというわけでもない。その有力な手がかりを与えてくれるのが、2012年7月から9月にかけてテレビ放送されたギャグアニメ『じょしらく』である。というのも、この作品では、まさに日常系アニメのパロディを通じて、室内空間の破れが鮮やかに描き出されているからだ*8

日常系アニメのパロディ──じょしらく

 久米田康治原作の『じょしらく』は、五人の女性落語家たちが舞台裏の楽屋でおしゃべりを繰り広げる作品である。一見すると、よくある日常系アニメのようにも思えるが、この作品が決定的に異なるのは、久米田作品らしい社会風刺やブラックユーモア、パロディ、時事問題への言及などが随所に散りばめられている点だ。しかも、そうした話題がたんにセリフのなかに出てくるだけではなく、その話題に関連した不審者が毎週のように楽屋に上がり込み、彼女たちのおしゃべりに割り込んでくるのである。つまり『じょしらく』では、日常系アニメから徹底して排除されてきた「現実」のさまざまな面倒事が、きわどい話題や人物といったかたちで、やすやすと室内空間に入り込んできてしまうのだ。

 これは言い換えると、少女たちを隔離・保護してくれるはずの閉じた空間=作品構造が、いまや決定的に破綻しつつあることを示している。実際『じょしらく』のあるエピソードでは、楽屋の壁がまるで舞台の書割のように外側に倒れ、また別のエピソードでは、大量のネズミが天井裏で楽屋の柱をかじっている(その上、畳の下にはなぜか力士が寝ており、壁紙の裏にはお札が何枚も貼り付けられている──不気味な空間だ)。さらに、オープニング映像では、女性落語家たちが『けいおん!』オープニングとまったく同じ姿勢・構図で、ハリボテのような楽屋をぶち破って外に飛び出していく。

 だが、やはり最も印象的かつ論争的なエピソードは、「原発ピタゴラ装置」に関するものだろう。これは楽屋のなかから転がり出たボールが、まるでピタゴラ装置のようにさまざまな出来事を連鎖的に引き起こし、最終的に主人公の虫歯が抜けるというものだが、その途中で福島第一原発の建屋と思われる建物が爆発するのである。このあまりにもブラックなエピソードには、日常系アニメを支える自律的な空間=作品構造の解体がはっきりと刻印されている。ボールは室内空間=フィクションの内部と外部を貫通し、原発事故という「現実」の大事件を、虫歯の治療という「日常」に結びつけてしまうのだ。

 こうして『じょしらく』は、閉じた室内空間=フィクションとしての枠を壊すことで、作中にわずらわしい「現実」を次々と侵入させ、日常系アニメの核となる「ありふれた日々の/素晴らしさ」をパロディ化する。しかも、猥雑な「現実」をただ露悪的に突きつけるのではなく、それによって汚染された「日常」を(ブラック)ユーモアによって笑い飛ばし、あくまで肯定してみせるのだ。

何が室内空間の解体を引き起こすのか?

 このように、2010年代以降の少なくないアニメ作品が、日常系アニメを支える室内空間の解体ないし変容を描き出している。しかし、だからといって、すべての日常系アニメが無価値になってしまったというわけではもちろんない。放映される数こそ少なくなったものの、2010年代以降も先に挙げた『きんいろモザイク』や『のんのんびより』(2013年10~12月)など、バリエーションに富んだ魅力的な作品が制作され続けている。

 その一方で、これらの作品もまた、それぞれの仕方で室内空間の不安定化に対応しているように見える。たとえば『きんいろモザイク』では、イギリスからの留学生(外部からの侵入者)を極端な日本好きの美少女に設定することで、異なる文化間の衝突や摩擦を回避している*9。また『のんのんびより』では、あちこち傷んでいる木造の学校(室内空間)を、理想化された安心・安全な「田舎」によってまるごと隔離し、不都合な「現実」の侵入を防いでいる*10。だが、そうだとすれば、いったい何がこうした空間の解体と再編を引き起こしているのか。

 制作側の事情を別にすると、おそらく最もわかりやすい説明のひとつは、2011年に発生した東日本大震災および原発事故と関連づけることだろう。巨大な地震津波、それに目に見えない放射線の脅威が、「ありふれた日々」を支える生活インフラを文字通り動揺させ、安心・安全な室内空間への信頼を打ち砕いたというわけだ。

 もちろん、これは素朴に社会反映論的な見方であり、実際には複雑に絡み合った社会的・経済的・技術的要因のごく一部でしかない。この結び目を正確に解きほぐすためには、それなりに時間と手間をかけて統計的・実証的な分析を積み重ねなければならないだろう。だが、さしあたってここでは、考えられる要因をもうひとつだけ指摘するにとどめたい。その要因とは、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化である。

アニメ実況と情報環境の変化

 2000年代後半の日常系アニメの隆盛を支えた要因のひとつに、いわゆる「実況」文化の普及がある。これは複数の人間が同じアニメ作品を視聴しながら、思い思いのコメントを書き込んで文字通り「実況」することだ。ネット掲示板からはじまったこの視聴スタイルは、2006年末のニコニコ動画のプレオープン、2008年のTwitterの日本サービス開始を経て、いまではアニメ視聴の主要な形式として完全に定着している。

 アニメ実況の大きな特徴は、文字と映像という2つの画面、あるいは2種類の情報を目で追いながら、同時に手元のキーボードやタッチパネルでコメントを書き込まなければならないということだ。この複雑な処理のおかげで、視聴者は画面に集中して物語に没入するというよりも、むしろ気が散った状態で作品と向き合うことになる。そのため、実況コメントの大半は、物語の展開を長々と解説したり予想したりするものではなく、キャラクターの言動に対して反射的・感情的に反応するものになる。その結果、たとえば作品内のキャラクター同士のおしゃべりが、それに対する類型化された共感や反感、パロディやツッコミを通じて、作品外の視聴者同士のコミュニケーションへと連鎖していく。日常系アニメとの親和性の高さは明らかだ*11

 しかし、これは逆に言えば、アニメ作品の視聴体験が、それを取り巻くネット上の無数のコメントに大きく左右されるということでもある。したがって、何かのきっかけでコメントが「荒れる」と、作品に対する評価はもとより、視聴そのものが困難になりかねない*12。とくに震災の前後から、ネット上では原発の事故処理や再稼働、放射能汚染、領土紛争、ヘイトスピーチなどをめぐる議論が紛糾し、SNSまとめサイトを中心に罵詈雑言が目立ちはじめていたが、そうした問題がアニメ作品に飛び火することも稀ではない*13

 いまやアニメを見ることは、部屋に閉じこもってテレビ画面に没入するのではなく、パソコンやスマートフォンタブレットなどの複数の画面を通じて、部屋の外部から侵入するさまざまな情報にさらされることを意味している。これは言い換えると、アニメ視聴を支えてきた「現実」の室内空間そのものが解体しつつあるということだ*14。そうだとすれば、作品内で描かれる室内空間の破れや綻びは、そのまま作品外の視聴環境をめぐる変化としても理解することができるのではないか。実際『じょしらく』では(これは久米田作品すべてに言えることだが)、ネット上で話題になったさまざまな人物や出来事、スラングジャーゴンなどが、作中に数多く取り入れられていた。

 もちろん、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化が、作中の室内空間の不安定化を直接引き起こしたとは考えづらい。素朴な社会反映論と同様、素朴な技術決定論に陥ることもやはり避けなければならない。とはいえ、そうした環境下にある視聴者の多くが、もはや「ありふれた日々」を夢見るだけでは飽きたらず、それを脅かす生の理不尽にまで関心を広げつつあるとしても、それほど不自然ではないだろう。安定した空間=作品構造の変容は、それを見る視聴者自身の状況を部分的に映し出しているというわけだ。

「日常」に守るべき価値はあるのか?

 いずれにせよ、画面のなかの少女たちは、もはや視聴者に一方的に夢見られ、覗き込まれるだけのモルモットではいられない。なぜなら、いまや彼女たちも視聴者と同様、あるいはより緊急かつ大胆に、室内空間の不安定化に対処しなければならないからだ。こうして少女たちは、危機に対する自らの態度決定を通じて、ある根本的な問いを画面の外へと投げかけてくる。その問いとは、そもそもこの「日常」に守るべき価値などあるのか、というものだ。

 フィクションとしての「日常」を維持するためには、当然ながら、室内空間=作品に入り込んでくる猥雑な「現実」を──ちょうど視聴者が不都合なコメントを「ブロック」するように──粛々と排除しなければならない。だが、そうすることの心理的・身体的な負担は、「ありふれた日々の/素晴らしさ」を謳う日常系アニメのソフト・コアを傷つける。というのも、この「日常」が誰かの犠牲の上に成立していることに気づいてしまったら、もはや「いたずらに時を重ねて過ご」すことなど不可能だからである。

 そのため、多くの日常系アニメでは、不安定化した室内空間を補修することで「日常」を延長し、問題を先送りしているように見える。だが、いまや「ありふれた日々」を肯定的に描くこと自体が、良くも悪くも、すでにひとつの政治的・倫理的な態度表明にほかならない。なぜなら、少女たちに「日常」に対する疑問を抱かせないためには、その背後で作動する排除のメカニズム、つまりは室内空間の「壁」をいっそう強固にしなければならないからだ。

 もちろん、すべての作品がこうした問題に無自覚であるわけではない。なかでも、2013年4月から9月にかけてテレビ放送された『とある科学の超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を支えるセキュリティの暴力が真正面から描かれており、その意味で日常系アニメの最も正統な進化系のひとつと見なすことができる。そこで最後に、この作品を取り上げてこのあとがきを締めくくることにしよう。

学校から路上へ──とある科学の超電磁砲S』(1

 『超電磁砲S』は、人気アニメ『とある科学の超電磁砲』(2009年10月~2010年3月)の続編であり、超能力をもつ少女たちの戦いと友情を描いた作品である。強力な超能力者である主人公の御坂美琴が、友人たちと協力して「学園都市」の安全を脅かすテロリストに立ち向かうというストーリーだ。

 これは一見すると、日常系アニメとは無関係のようにも思えるが、必ずしもそうではない。それどころか『超電磁砲』シリーズは、いわば「戦う日常系アニメ」とでも呼ぶべき作品なのである。というのも、このシリーズの最大の特徴は、凶悪なテロリストと渡り合う迫力満点の戦闘シーンの合間を縫うようにして、友人との買い物やおしゃべり、お菓子作りといった女子中学生らしい「ありふれた日々」が織り込まれていることにあるからだ。しかも、少女たちはこの引き裂かれた状況をごく当たり前のように生きている。つまり、彼女たちの「日常」には最初から、そうした「日常」を脅かすテロリストを掃討することが含まれているのである。

 この自己言及的な「日常」設定は、室内空間の不安定さと深くかかわっている。『超電磁砲』シリーズでは、少女たちは学校の教室や部室ではなく、もっぱら学園都市のファミリーレストランでおしゃべりを繰り広げる。彼女たちはそれぞれ別の中学校に通っているため、互いに顔を合わせるには学校の外に出なければならないのだ*15。ガラス一枚を隔てて路上に面したファミリーレストランは、たとえば『けいおん!』の静謐な音楽準備室というよりも、むしろ『じょしらく』の猥雑な楽屋に近い。このガラス張りの室内空間では、内部と外部が視覚的に貫通しているため、学園都市にうごめくさまざまな事件や人物が目撃されることになる。そして、そのたびごとに少女たちは、たわいないおしゃべりを中断し、学園都市の路上へと足を踏み出していく。

 こうした傾向に拍車をかけているのが、主人公の親友(白井黒子)の空間転移能力である。この超能力のおかげで、少女たちは学校やファミリーレストランから、遠く離れた事件現場まで一瞬のうちに移動することができる。つまり『超電磁砲』シリーズでは、安心・安全な室内空間がほぼ完全に無効化され、学園都市の路上へとさらけ出されているのである。だからこそ、彼女たちは自らの「ありふれた日々」を守るために、生身でテロリストと対決しなければならないのだ。

 その結果、これまで室内空間が担っていた排除のメカニズムが少女たち自身に委託され、ほとんど剥き出しの暴力となって「日常」に回帰する。ここに現在の日常系アニメのひとつの帰結を見ないでいることは難しい。

セキュリティの暴力を引き受けること──とある科学の超電磁砲S』(2

 さらに、このシリーズで注目すべきなのは、美琴たちと敵対するテロリストが、憎むべき悪というよりも、むしろ「ありふれた日々」から排除された生の理不尽を体現していることだ。彼女たちが生活する学園都市では、美しく整えられた近未来的な「日常」の裏側で、実は都市ぐるみの凶悪な犯罪や陰謀が横行している。ごく大雑把にまとめれば、こうした「闇」を告発し、また根絶するためにこそ、テロリストは暴力に訴えてまで学園都市に挑戦するのである。

 したがって、彼らを追いかける少女たちもまた、学園都市の「闇」を目の当たりにすることになる。その結果、彼女たちは昨今のアメコミ・ヒーローのように、この「日常」が本当に守るに値するものなのかどうか自問しはじめる。とくに『超電磁砲S』では、学園都市でひそかに進行するおぞましい人体実験を止めるために、主人公自身がテロリストとなって関連施設を次々と爆破していくのである。

 美琴を突き動かしていたのは、自分と瓜二つのクローン少女たちが毎日殺されているにもかかわらず、自分だけが「ありふれた日々の/素晴らしさ」を享受してきたことへの強烈な罪悪感によるものだった。こうして彼女は、これまでの「日常」の代償を支払うかのように、学園都市のセキュリティ・システムとの激しい戦闘に身を投じる。つまり『超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を守るヒーローとしての自己懐疑のみならず、ヒーローからテロリストへのラディカルな「転向」まで描かれているのだ。

 それでも最終的には、主人公はテロリストとして学園都市を壊滅させるのではなく、これまで通り治安維持に務めることを再帰的に選択する。「闇」にうごめく生の理不尽に絶望してなお、友人たちとの「日常」を守るために戦い続けることを決意するのである。その選択の是非はともかく、おそらくここには、日常系アニメの最も正統な進化系のひとつがあると言えるだろう。なぜなら、彼女は日常系アニメが先送りし続ける問い──「この日常に守るべき価値はあるのか」──に対して、自分なりの答えを見つけ出したからだ。それはつまり、フィクションとしての「ありふれた日々」と引き換えに、セキュリティの暴力を真正面から引き受けることにほかならない。

魔法少女とは別の仕方で──とある科学の超電磁砲S』(3

 美琴のこうした決断は、別の言い方をすると、彼女があくまで学園都市=フィクションの内部にとどまり、外部から侵入してくる「現実」と戦い続けることを意味している。これはたとえば、2010年代を象徴する作品である『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年1~4月)と比較するとわかりやすいだろう。というのも『まどマギ』では、最終的に主人公の鹿目まどかが、「日常」に侵入してくる生の理不尽(強大な魔女による街の壊滅、魔法少女の魔女化)を根絶するために、超越的=メタフィクショナルな「概念」(アルティメットまどか)となって作品の外部へと突き抜けてしまうからだ。

 まどかは自らを犠牲にすることで、すなわちキャラクターをやめることで、いわば「外側から」作品を閉じる。だからこそ、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2014年)では、まどかとの「日常」を取り戻すために、親友の暁美ほむらが彼女を再び作品内へと引きずり下ろすことになるわけだ。

 これに対して、美琴はやはり生の理不尽に直面しながらも、あくまで「学園都市の実験動物」、つまりフィクションのキャラクターであり続けることを選択する。彼女はテロリストとして「闇」を告発するのでも、また超越的な概念として「闇」を根絶するのでもない。そうではなくて、あくまでひとりのキャラクターとして、所詮は脆弱なフィクションにすぎない「ありふれた日々」を前向きに生きようとするのである。そのためなら、少女たちは「日常」を脅かすテロリストを力づくで排除することもいとわないだろう。

 もちろん、美琴がいかに強力な超能力者とはいえ、たとえばアルティメットまどかのように、学園都市の「闇」をまるごと浄化しつつ救済する「神的」な暴力を行使できるわけではない。というよりむしろ、そうした絶対的な力に抗うためにこそ、少女たちは互いに連携してテロリストに立ち向かうのだ。なぜなら、「ありふれた日々」を断罪する神的暴力を追い求めるのは、たいていの場合、学園都市もろとも「闇」を根絶しようと企むテロリストの側だからである。

 したがって、いまや美琴たちの戦いは、たんなる作中人物同士の争いを超えて、フィクションとしての「日常」を一刀両断する「現実」の暴力──「そんなことは現実にはありえない、あるべきではない」──に抵抗することを意味するだろう。作品外から降り注ぐこの道徳的な命法に対して、彼女たちはまさにフィクションそのものであるような力、すなわち「超能力」を武器に立ち上がるのだ*16

ポスト日常系アニメのハード・コア──とある科学の超電磁砲S』(4

 こうして『超電磁砲S』最終話では、超能力レベルに応じたヒエラルキーを打倒し、学園都市に「革命」を起こそうとするテロリストとの大規模な戦闘が繰り広げられる。巨大ロボットに乗り込んだ美琴は、友人たちの力を借りて成層圏へと上昇し、学園都市に飛来するミサイルの迎撃に向かう。守るべき「日常」を背中に背負い、渾身の右ストレートで撃ち出された大質量の超電磁砲が、迫りくるミサイルもろとも宇宙空間を一直線に切り裂いていく。

 美琴の放つ超電磁砲は、押し寄せる生の理不尽をことごとく跳ね返し、テロリストの目論見を完膚なきまでに叩き潰す。だが、そうすることによって彼女は、この不安定化した空間=作品構造に恒常的な安定をもたらそうとしているわけではない。むしろ、不安定な室内空間をあくまで不安定なままにとどめつつ、内部から外部へと貫通する解放的な視野をもたらそうとするのである。なぜなら、そもそも超電磁砲とは、外部から侵入する「現実」を打ち払う力であると同時に、閉塞した「日常」を内部から突き破る力でもあるからだ。逆に言えば、教室や部室といった室内空間が破綻しているからこそ、彼女はそのポテンシャルをいかんなく発揮することができる。

 超電磁砲のまばゆい閃光は、視界をさえぎるビルの外壁をやすやすと貫通し、路上を占拠するテロリストの集団を一掃する。こうして切り開かれた消失点の向こう側から、清々しい風が吹き込んでくる。学園都市に林立する風車がゆっくりと回転し、また束の間の「ありふれた日々」が訪れる。いまや美琴にとって、友人たちとのたわいないおしゃべりと同様、テロリストとの激しい戦いもまた、この「日常」を生きるに値するものへと変えてくれるにちがいない。だからこそ、彼女はそれらすべてをひっくるめて「ほんと退屈しないわね、この街」と言い放つことができるのだろう。

 英雄的・宗教的な自己犠牲による最終解決を拒み、さまざまな矛盾や欺瞞に満ちた「日常」をあくまで肯定すること。そのためにセキュリティの暴力という十字架を背負い、フィクションとしての「日常」を脅かす「現実」と対峙し続けること……

 『超電磁砲S』に見出されるのは、もはや堅固な外皮に守られた「日常系アニメのソフト・コア」ではない。そうではなくて、さまざまな生の理不尽に脅かされ、鍛え上げられた「ポスト日常系アニメのハード・コア」とでも言うべきものである。

 この硬質化したコアは、すでにいくつもの作品に受け継がれ、これまでの日常系アニメとは大きく異なった果実をつけはじめている。それが私たちにどのような滋養をもたらしてくれるのか、いまはまだわからない。

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anime.dmkt-sp.jp

 

*1:《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》映像+まとめ #日常系ソフトコア - Togetter

*2:この点については、志津A「日常における遠景――エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」(『アニメルカvol.2、二〇一〇年、九~二〇頁)で詳細かつ説得的に論じられている。本論集に収録された志津A氏の論考と合わせて参照してほしい。

*3:なお、この曲はアニメオリジナルではなく、中塚武土岐麻子によるデュエットをRhodanthe*がカバーしたものである。原曲は中塚のアルバム『GIRLS&BOYS』(2006年)に収録されている。

*4:日常系アニメと社会情勢のかかわりについては、たとえばキネマ旬報映画総合研究所編『日常系アニメヒットの法則』(キネ旬総研エンタメ叢書、2011年)の75~79頁で簡単に触れられている。

*5:映画けいおん!』冒頭のミュージカルシーンでは、この透明なカメラの存在がはっきりと示唆されている。部室で踊る少女たちがさまざまな角度から描かれているのだが、その都度彼女たちが画面のこちら側に視線を送るため、まるでカメラが部屋中を飛び回っているかのように感じられるのだ。このミュージカルは最終的に、仮想的なカメラが部室の片隅にある鏡の前に回り込み、何も映らない鏡を正面からとらえて幕を閉じる。

*6:画面の奥へと突進する運動は、必ずしも現代のデジタル映画に特有の現象ではない。むしろ、リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)をはじめ、見世物的な要素の強い「初期映画」に頻繁に登場する。これについては、トム・ガニングの古典的な論文「驚きの美学──初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(濱口幸一訳、『「新」映画理論集成①』岩本憲児・武田潔斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年、102~105頁)を参照してほしい。また、初期映画と現代の映画との親和性に関しては、ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画──公共圏のトランスフォーメーション」(瓜生吉則北田暁大訳、『メディア・スタディーズ』吉見俊哉編、せりか書房、2000年、279~297頁)などがある。さらに、これらの議論を踏まえて、現代日本の映像環境渡について縦横に論じた渡邉大輔『イメージの進行形──ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年)も併せて参照すること。

*7:トーマス・ラマールは『アニメ・マシーン──グローバル・メディアとしての日本アニメーション』(藤木秀朗監訳、大崎晴美訳、名古屋大学出版会、2013年)のなかで、ポール・ヴィリリオのいう「シネマティズム」、すなわち可動式カメラによる奥行きへの運動に対して、複数のレイヤーを利用した側方からの運動の感覚を「アニメティズム」と呼んでいる。ラマールは一貫して、宮崎駿のアニメ映画などに見出されるアニメティズムを高く評価しているが、他方でアニメ化された『進撃の巨人』は、明らかにシネマティズムによって特徴づけられているように見える。そこでは壁(アニメティズムを生み出すレイヤー構造)がいたるところで巨人に突破され、キャラクターはデジタル技術を駆使したワイヤーアクション(シネマティズムの弾道的なカメラ)でこれに対抗するのだ。全編フルCGの『シドニアの騎士』(2014年4~6月)にも、『進撃の巨人』と似たような傾向が見出だせるかもしれない。

*8:じょしらく』については、すでに別のところで何度か論じている。志津A氏との対談「震災後の遠景──アニメから見た二〇一二年の風景」(『セカンドアフター EX 2012』、2012年、6~26頁)および藤津亮太氏のメルマガに寄せた拙稿「どんでん返しのヘテロトピア――じょしらく』に見る不安定な日常」(「アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門ブロマガ 第8号(2012/12/28号/月2回発行):アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門メールマガジン:藤津亮太のアニメの門チャンネル(藤津亮太) - ニコニコチャンネル:社会・言論」)を参照してほしい。

*9:もっとも、これは『きんいろモザイク』にかぎらず、さまざまなアニメやマンガ、ゲーム、ライトノベル、さらには広報戦略にまで広く見られる手法である。対象を萌えキャラ化することで、それに対する(主にオタク層からの)親近感を高めることができるというわけだ。しかし、その政治的な可能性の中心は、たんに商品の売れ行きを伸ばすことにではなく、生理的・文化的に受け入れがたい他者を受け入れ可能なものに変形することにあるのではないか。日常系アニメではないが、たとえば『這いよれ!ニャル子さん』(1期:2012年4~6月、2期:2013年4~6月)は、その最も印象的な事例のひとつと言えるだろう。この作品では、無貌の神「ニャルラトホテプ」をはじめ、クトゥルー神話に登場する禍々しい神々が魅力的な美少女キャラクターとして登場し、主人公とのラブコメが繰り広げられる。彼は少女の容姿や言動に惹かれながらも、その正体が人間ではないことを思い出して思い悩むのである。

*10:のんのんびより』第1話では、まさにこの防護壁としての田舎によって、外部からの侵入者(東京からの転入生)が無力化され、視聴者とともに作品内へと受け入れられる。都会との文化的ギャップに戸惑う少女が、半ばステレオタイプ的に描かれた田舎の魅力(豊かな自然、ゆっくりとした生活リズム)に触れることで、しだいに現地の「日常」に溶け込んでいくのだ。この武装解除プロセスは、同時に、転入生に同一化する視聴者──両者とも作品/田舎にとってのよそ者という点で共通する──をストレスなく作中に招き入れる役割を果たしている。ところが、第2話では一転して、同性の「小さくて可愛い先輩」に対する転入生の異常な愛情が描かれ、視聴者は作品から半強制的に引き剥がされることになる。というのも、この一方的な愛着は、理想化された田舎に対する都会のまなざしであると同時に、外部から作中のキャラクターを覗き込む視聴者自身のまなざしでもあるからだ。つまり、そこでは日常系アニメをめぐる内部と外部の非対称性が作品内へと折り返され、ひどく誇張して描かれることで、視聴者の無反省的な没入が阻害されるのである。思えばすでに第1話から、最年少の幼女が「ここ、田舎なのん?」という自己言及的な疑問を繰り返し発していた。これらもまた、室内空間の変容のひとつのヴァリアントとして理解できるかもしれない。

*11:SNSの普及と日常系アニメのかかわりについては、たとえば前掲『ヒットの法則』の82~87頁などを参照してほしい。

*12:ニコニコ動画をはじめとする各種動画サイトで放送ないし(違法)アップロードされるアニメ作品には、その作品とほとんど関係のない差別的な誹謗中傷が多数書き込まれ、画面が埋めつくされることもしばしばである。作品を快適に試聴するためには、これらを一括してブロックするか、もしくはコメントそのものを非表示にする必要があるが、不快感そのものまで消せるわけではない。

*13:近年で最も物議を醸したのが、『さくら荘のペットな彼女』(2012年10月~2013年3月)第6話をめぐる原作改変問題だろう。これは原作ライトノベルで「おかゆ」と記されていた箇所が、アニメ化にあたってなぜか韓国料理の「サムゲタン」に差し替えられたことで、ネット上に蔓延する嫌韓感情を刺激し、いわゆる「炎上」にいたったものだ。後日ニコニコ動画で問題の第6話が生放送された際には、案の定、画面上がスタッフや韓国を揶揄する差別的なコメントで埋めつくされることになった。この問題の是非や真相はともかく、それが『さくら荘のペットな彼女』の視聴体験や評価に深刻なダメージを与えたことは明らかだろう。詳しくは、たとえば「さくら荘のペットな彼女原作改変問題とは (サクラソウノペットナカノジョゲンサクカイヘンモンダイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科」などを参照してほしい。

*14:とくに近年では、スマートフォンタブレットが普及したことで、そもそも室内空間の外部──たとえば通勤・通学の途中──でアニメを見ることも一般化しつつある。

*15:名門の常盤台中学に通う美琴は、親友の白井黒子とともに、厳しくスケジュール管理された寮で生活している。彼女たちはこの寮をしばしば勝手に抜け出し、門限を破っては寮監に怒られており、ここにも室内空間の無効化というモチーフを見てとることができる。

*16:超電磁砲』シリーズは、人気ライトノベルとある魔術の禁書目録』からのスピンオフだが、両主人公の方向性の違いはきわめて興味深い。『禁書目録』の主人公である上条当麻は、魔術や超能力を打ち消す「幻想殺しイマジンブレイカー)」と呼ばれる力をもっている。このメタフィクショナルな能力は、彼が「現実」にはありそうもない出来事、つまり「幻想」をことごとく「ぶち壊す」──それも道徳的な説教を垂れながら──という点で、本来なら作品外にあるはずの「現実」を体現していると言えるだろう。上条の存在は『とある~』シリーズにとっての理不尽そのものであり、だからこそ「これは現実ではない、フィクションにすぎない」ということを知っている視聴者の特権的なアバターとして機能しうる。これは『超電磁砲』の美琴があくまで「幻想」(フィクションとしての「日常」)の側に立つのとは対照的だ。

わたしのなかのハリガネムシ:ロニ・ホーン展について

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 先日、箱根のポーラ美術館で開催されている「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」展を見に行ってきた。

www.polamuseum.or.jp

 本展はアメリカの現代美術を代表するアーティスト、ロニ・ホーンの国内初となる美術館個展だ。といっても、現代美術にうといわたしには、恥ずかしながら初めて聞く名前だった。展覧会の公式サイトによると、彼女は1955年、アメリカ生まれのアーティストで、ロンドンのテート・モダンやニューヨークのホイットニー美術館といった世界有数の美術館で個展を開催し、国際的な注目を集めてきたらしい。そんな大物の国内初個展とあって注目度は高く、ポーラ美術館としても同時代のアーティストを単独で取り上げる初めての試みとのことだった。

 ロニ・ホーン展を鑑賞してわたしが最初に感じたのは「やっぱり現代美術はよくわからん」ということだった。これはもっぱらわたしに美術の素養がないせいだが、たぶんそれだけが理由ではない。今回の大規模個展には、1980年代初頭から現在にいたるまでの、およそ40年にわたるホーンの作品が展示されていて、当然ながら媒体も形式もバラバラだ。ガラスの彫刻、巨大なドローイング、連作の肖像写真、朗読映像……。もちろん「アイスランド」「自然」「水」などの家族的に類似したモチーフがないわけではないが、多様な展示作品すべてを一貫した「物語」に落とし込むのはかなり難しい。わたしの「わからん」という第一印象は、たぶんそのことに由来している。きれいとかかっこいいとかおもしろいとかいった美的な感覚を、どうやって意味づけたらいいのかよくわからないのだ。

 とはいえ、矛盾に満ちたひとりの人間、それもアーティストが半生をかけて生み出した作品群を、なんらかの「意味(意図)」や「物語」に回収しようとすること自体が、そもそも間違いなのかもしれない。かつて美学者の西村清和は、芸術作品を媒介として芸術家と鑑賞者が互いに精神的に交流する、コミュニケーションするという近代美学の枠組みを「精神の美学」と呼んで批判したが、このパラダイムは現代でもしぶとく(少なくともわたしのなかには)生き延びている。そこには他者を安易に「理解」できる、あるいは「理解」したつもりになるという、危険な思い上がりが見え隠れする。そうだとしたら、鑑賞者はただ虚心坦懐に作品を眺め、そこから得られる美的な感覚や印象を味わい、そしてそれ以上踏み込むべきではないのかもしれない。実際、公式サイトにはこんなふうに記されている。

本展では、[…]水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる彼女の作品のあり方を探ります。価値観や「正しさ」がめまぐるしく入れ替わるこの時代において、周囲に惑わされず、 川のように静かに絶えず本質を見つめながら制作を続ける彼女の作品と姿勢は、私たちに強く生きるヒントと、Reflection(内省)の時間を与えてくれるでしょう。

 ここで言われているのは、要するに、作品鑑賞を通じて作家の「精神」(内面とか世界観とか)にアクセスしようとするのではなく、むしろ作家の創作姿勢にならって鑑賞者が自分自身を見つめ直すこと、つまりは作品を一種の「鏡」として、自分自身へとまなざしを「Reflection(反省=反射)」することが求められている、ということだ。この自己啓発的な鑑賞態度は、たしかに「価値観や『正しさ』がめまぐるしく入れ替わるこの時代」には有効、というより必然なのかもしれない。作家の「意図」が明らかで解釈の余地がない、あるいは少ない作品よりも、ホーンの「水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる」作品のほうが、鑑賞者自身の価値観と作家のそれとが正面衝突しないぶん、多くの人に受け入れられやすいにちがいない。わたしのようにあわてて「意味」や「物語」を探し求めるのではなく、まずは作品から感じたことを素直に受け止め、自分自身を省みて「強く生きるヒント」(?)にすることが大事、というわけだ。

 一見したところ、これはもっともらしい考え方のように思える。けれども、鑑賞後にポーラ美術館のレストランで昼食をとりながら、いま見てきたものをぼんやり反芻していると、何か重要なことを見落としているような気がしてきた。先に引用した展覧会の導入文が間違っているとまでは言わないが、少なくともわたしにとってはミスリーディングな内容が含まれているように思えたのだ。以下では、あいかわらず「よくわからん」なりに、わたしがロニ・ホーン展について考えたこと、感じたことをかんたんに記してみる。

 先の引用文中の「Reflection」という言葉は、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」のもとになった英文「When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?」から採られたものだ。さらにこのフレーズそのものは、正確に覚えているわけではないが、本展に出品されていた映像作品《水と言う》(2021)に登場するものだと思う。これはホーンが日没の迫る夕闇の屋外で、十数人ほどの聴衆を前に「水」や「川」についての文章を朗読するという作品だ。ミニマルかつコンセプチュアルな展示作品が多く、鑑賞者の側に解釈の大部分が委ねられている──言い換えれば、作家の「意図」を汲み取りづらい──なか、この《水と言う》では、だいぶ思弁的ではあるものの、水や川といった主要モチーフに対する作家の思いがかなり率直に語られている。じつはわたしは前日夜ふかししたせいで、映像を見ながらときどき寝落ちしてしまい、断片的にしか覚えていないのだが、本展の根幹にかかわるようなエピソードがいくつか紹介されていた。

 いちばんわたしの印象に残ったのは、さまざまな文学作品や出来事を引きながら、川に身投げする人の話が繰り返し語られていたことだった。これらのエピソードと、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」をあわせて考えると、先の自己啓発的な導入文とは少し違った風景が見えてくる。たぶん力点が置かれるべきなのは、水面を鏡として自分自身を「内省(Reflection)」する(そして「強く生きるヒント」を得る)ことではない。そうではなく、文字どおり自分のなかに「水」を感じる、つまりは自分を超えたもの、自分にとってよそよそしいもの、自分ではないものを自分のなかに「認識する(Recognize)」ことが目指されているのではないか。わたしは寝落ちして見逃してしまったが、実際に《水と言う》には「水と一緒にいると/わたしの中に自分を超越した存在を感じる」という決定的なセリフがある、らしい。

 「Reflection」という言葉でわたしがまず思い浮かべるのは、ギリシャ神話のナルキッソスの物語だ。若く美しい青年であるナルキッソスは、あるとき神の怒りに触れ、水面に映った自分の姿に一目惚れし、そのまま衰弱して死ぬ(水中に落ちて溺死するバージョンもある)。ここでナルキッソスは、たぶんホーンとは異なり、自分のなかに「水」を認識していない。彼の目に映っているのは美しい自分自身だけであり、自分を超えるものや自分ではないものへの感覚が決定的に欠けている。ナルキッソスを死にいたらしめたのは、直接的には彼自身の美しさであると同時に、彼をはるかに超えたもの、つまりは神の怒りなのだが、そのことには気づかないまま死んでいくのだ。とすれば、ホーンが映像作品のなかで入水自殺のエピソードを繰り返し語ったのは、個々の自殺の具体的な動機や要因とは別に、彼ら/彼女らをときに死へと追いやる超越的なもの、他なるもの、不気味なものとしての「水」に注目していたからではないか。それは擬似的な鏡としてあなた自身の姿を映し出し、この鏡像の背後からあなたをひそかに突き動かす。あたかもあなたの自由意志の帰結であるかのように、あなたの死を偽装する。こうした存在を「認識する」ことが、ホーンのいくつかの作品の核心にあると考えることは、それほど的外れではないように思う。

 カマキリに寄生するハリガネムシという寄生虫は、繁殖のために宿主のカマキリを操り、川や池に飛び込ませる。帰路の箱根ケーブルカーに揺られながら、わたしはそんなことを思い出していた。最近の研究によると、ハリガネムシは水面の反射光に多く含まれる「水平偏光」という光のパターンを利用し、カマキリを誘導しているらしい。ハリガネムシに寄生されたカマキリは、いったいどんな気持ちで水辺を目指し、水面を覗き込み、そこに身を躍らせるのだろう。この六本足の哀れなナルキッソスは、わたしたちとどれほど違い、どれほど同じなのか。

 もちろん、ホーンのいう「自分を超越した存在」とは、ギリシャ神話の神々ではないし、ましてやハリガネムシのような寄生虫を指すわけでもない。彼女にとってそれはおそらく、繰り返し作品に現れるアイスランドの自然であり、また人体の70%を占めるという「水」そのものなのだろう。そこにはたしかに、自然を人間がコントロール可能な客体=対象と見なす、一昔前の西洋的・近代的思考とは異なる感性が息づいているように見える。しかし、だからといってホーンの作品を人間も自然の一部だとか、自然を大切にしようとかいった安っぽいメッセージに回収することはできないし、そうすべきでもない。むしろ彼女のいくつかの作品は、わたしたち自身のなかに、目覚めた意識には決して現れない暗い存在、わたしたちの身体の大部分を構成するにもかかわらず、わたしたちにとって永久によそよそしいものであり続ける「水」がたゆたっていることを、ひそかに告げ知らせてくれる。この「水」はわたしたちの意識の裏門から流れ出し、目の前の水面へと流れ込み、混ざり合って再びわたしたちのなかへと還っていく。ガラス彫刻の輝く水面も、大量の脚注が付されたテムズ川の水面も、そうやってわたしたちのなかのわたしたち自身とは異なる何か、果てしない「Reflection」の背後にいる見知らぬ誰かに向けて、解読不可能な合図を送り続けている。これはある意味で、裏返った「精神の美学」といえるのかもしれない。

 わたしのなかのハリガネムシが、わたしの後ろから見つめている。「強く生きる」とは結局のところ、やがて水辺に誘われ水中に沈むそのときに、まさにこれこそがわたしの望んだ生だったのだと、ハリガネムシに虚勢を張ってみせることなのかもしれない。

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『竜とそばかすの姫』はクソデカ感情百合バトルアニメになるはずだった

 2021年7月に公開された細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を見てきた。わたしの観測範囲ではいつもどおり賛否が割れていて、個人的にはけっこう期待していたのだが、見終わったあとの感想は「うーん……?」という感じだった。

 細田監督が何を描きたかったのかはよくわかる。過酷な現実に耐えられず心を閉ざしてしまった少女が、SNSでの出会いを通じて成長していくというテーマ自体にも、とくに異論はない(その「成長」の方向性にはいろいろ議論があると思うけれど)。にもかかわらず、わたしが物語にうまく入り込めなかったのは、途中から本編とは全然ちがう物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 なお、以下では重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 

 『竜とそばかすの姫』は、幼少期に母親を失い、心に深い傷を負った女子高生「すず」が、仮想空間「U」で絶大な支持を集める歌姫「ベル」となり、世界中から追われる謎の存在「竜」を救うために仲間たちと奮闘する物語だ。SNSという現代的なモチーフはあるものの、基本設定としてはほとんど『美女と野獣』(1991)そのままである。

 とはいえ、そこには細田監督らしい重要なアレンジが施されている。『竜とそばかすの姫』の物語構造をごく単純化して取り出すと、主人公のすずが〈母=ヒーロー〉になるまでのプロセスを描いた作品として読むことができる。彼女の母親は、中洲に取り残された見ず知らずの幼い少女を救うために増水した川に飛び込み、命を落とす。すずは自分を残して死んでしまった母親の行動が理解できず、父親や幼なじみともうまく話せなくなり、大好きだった歌も歌えなくなってしまう。物語終盤ではそんな彼女が、やはり見ず知らずの他人である竜(のなかの人)のもとに駆けつけ、身を挺して彼を守ろうとする。つまり、すずは母親の行動を反復することで母親の死を受け入れ、精神的に乗り越えるとともに、自ら〈母=ヒーロー〉になるわけだ。これが『竜とそばかすの姫』の基本的な構造である。

 もちろん、ある意味で保守的なこうした母親像や家族観に対し、拒否反応を示す観客もいるだろう。近年の細田監督作品はだいたい賛否両論真っ二つで、ネットでは「脚本だけ他人に書かせろ」という意見もよく見かけるが、そういう意味では『竜とそばかすの姫』も例外ではないかもしれない。けれども、わたしが「うーん……?」となってしまったのは、本作の〈母=ヒーロー〉というやや問題含みのメッセージが受け入れられなかったからではない(多少の疑問はあるが、ここでは論じない)。そうではなく、冒頭でも述べたように、本編とは異なるもうひとつの物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 『竜とそばかすの姫』後半では、謎に包まれた竜の正体を突き止めることが物語の主題となる。わたしは物語のかなり早い段階で、竜の正体はこいつにちがいないと勝手に確信していたキャラクターがいる。すずの回想に登場する、彼女の母親が自らの命と引き換えに救った少女だ。わたしは十中八九、この少女が竜の正体だと考えていた。なぜなら、彼女こそがすずの人生を根底からひっくり返し、その運命を決定づけた張本人だからである。本編では描写されないが、すずがこの少女を強く憎んでいたとしてもおかしくない。さらに「50億人の中から、たった一人を探し出せ」という本作のキャッチコピーも、わたしの確信を後押しした。50億人のなかから探すに値する運命の人物、因縁の相手は、あの少女以外にありえない、と。

 だから、竜の正体が本当に主人公とまったく関係ない赤の他人、遠く離れた東京に住む虐待被害者の少年だと判明したときは、正直びっくりしてしまった。もちろん、すでに述べたとおり、すずは見ず知らずの他人を救うことで初めて母親の死を受け入れ、自らも〈母=ヒーロー〉になるわけだから、物語構造としては文句なく正しい。けれども、わたしが勝手に思い描いていたのは、これとはまったく異なる物語だった。

 以下はすべてわたしの妄想である。だいぶ気持ち悪いことに、クライマックスのセリフまで考えてある。物語の基本路線はいちおう踏襲したつもりだが、家族や親子の関係にフォーカスしてきた細田監督は、たぶんこういう話は決して書かないだろう。百合(およびBL)とはまさに、家族や親子といった枠組みをいわば水平方向に破っていく、正反対のモチーフだからである。百合の先に、細田監督が思い描くような再生産をベースとした家族は存在しえない。

 本作を見ながらそんな妄想ばかりしていたせいか、とくに終盤は本編の内容がうまく頭に入ってこず、結果として「うーん……?」みたいな感想になってしまった。それでもわたしは、この妄想が『竜とそばかすの姫』という作品にあらかじめ畳み込まれている──とまでは言わないけれど、抑圧されたもうひとつの可能性として、まるで幽霊のように作品にとりついているような気がしてしまうのだ。

 

 少女は小さい頃、増水した川の中洲に取り残され、見知らぬ勇敢な女性に助けられた。お礼を言うひまもなかった。女性は幼い少女に自分のライフジャケットを着せると、そのまま流されて見えなくなった。成長してからずっと、少女はそのことで思い悩んでいた。自分が他人の人生を永久に奪ってしまったこと、そしておそらく、その人の家族の運命さえもねじ曲げてしまったこと。少女は自分を責め続けていた。自分には生きる価値がないと思い込んでいた。ままならない現実に絶望し、やがて精神に変調をきたし、醜い竜の姿で自傷行為のように仮想空間で暴れまわるようになった。

 そんなとき、彗星のごとく現れたひとりの歌姫と出会う。明るく澄んだ彼女の歌声には、しかしどこか深い悲しみと寂しさがにじんでおり、少女はすぐに彼女のファンになる。まるで自分の苦しみを代わりに歌ってくれているような、そんな気がした。2人はしだいに絆を深め、追手をかいくぐりながら束の間の逢瀬を重ねる。ところが、ひょんなことから歌姫の正体が露見し、彼女が自分を救ってくれた=自分が死なせてしまった女性の娘であること、そしてそのせいでずっと苦しんでいたことを知る。少女は絶望し、歌姫=すずの前から姿を消す。もはや現実にも、仮想空間にも居場所がないと悟った少女は、ただ愛する彼女に罰してもらうこと、殺し/赦してもらうことだけを望むようになる。

 やがて再び現れた竜は、仮想空間のすべてを敵に回し、すずの友人や家族、その他大勢のアカウントを人質にとる。すずは彼らを救うことで〈母=ヒーロー〉として覚醒し、さまざまな人々の協力のもと、謎のスーパー歌パワーで邪悪な竜を追い詰める。激突する2人。すずは裏切られた怒りと悲しみに震え、戦いのさなかに理由を問いただそうとするも、竜は何も答えようとしない。仮想空間が崩壊しかねないほどの激しい戦闘の末、50億アカウントによるスーパー歌の元気玉(『サマーウォーズ』(2009)のラストみたいな感じ)が炸裂し、ついに竜は打ち倒される。

 いまにも息絶えようとする竜の剥がれたウロコの隙間から、同世代くらいの少女の素顔がのぞいている。思わず駆け寄ったすずは、彼女の口からようやく真意を告げられる。

「わたし、すずの歌が、すずのことが大好き」

「でもわたしは、すずからお母さんをとっちゃった、悪者だから」

「だから一緒にいられないし、赦してももらえない」

「だけど、いっぱい考えて、悪者にもできることがあるって、気づいた」

「すずがヒーローになるための、お手伝い」

「本物のヒーローになって、それでわたしをやっつけてほしいって、そう思ったんだ」

「わがままだよね……でもわたし、やっと」

 泣きそうな笑顔で、淡い光のなかに溶けていく少女。呆然とするすず。ややあって、ベランダから飛び降りる音。

(暗転、スタッフロール)

 病室のカーテンが揺れている。寝台に横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開ける。誰かが手を握っている感触。セーラー服を着た、そばかすの、よく知っている顔──。

(終劇)

 


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映画の死体に魂を吹き込む:『映画大好きポンポさん』とネクロ゠シネフィリア

 2021年6月は、コロナ禍にともなう緊急事態宣言で公開延期されていた話題のアニメ映画が続々と封切られ、アニメファンにとってはちょっとした「まつり」になった。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『シドニアの騎士 あいつむぐほし』『映画大好きポンポさん』──いずれもたいへん見応えのある作品で、それぞれについて何か書きたい気持ちはあるものの、残念ながらわたしにはそのための時間と能力がない。いちおう、これらすべてに言及したバ美肉配信があるので、興味のある人はそちらを見てほしい。

てらまっとの怒られ☆アニメ批評 第3回:ポンポさん、ハサウェイ、シドニア、レヴュースタァライト - てらまっと (@teramat) - TwitCasting

 そういうわけで、ここではわたしがいちばん楽しめた、というか唸らされた作品について書こうと思う。それが『映画大好きポンポさん』だ。

 『ポンポさん』は杉谷庄吾人間プラモ】による同名の漫画作品を劇場アニメ化したもの。ハリウッドならぬ「ニャリウッド」を舞台に、超大物映画プロデューサーの祖父から才能を受け継いだ「ポンポさん」のもとで、いわゆる「映画狂(シネフィル)」の主人公、ジーンくんが新作映画の監督に抜擢され、さまざまな人に助けられながら一本の映画を完成させるという物語だ。「映画大好き」というタイトルからもわかるとおり、この作品は映画の制作プロセスそのものを描いた映画、つまりは映画についての映画であり、映画という娯楽・芸術形式への愛(フィリア)が全編にあふれている。

 けれども、わたしにはこの愛が、ある種の「死体愛好(ネクロフィリア)」に見えてしまった。もっと正確にいうと、自らの手で殺めてしまった最愛の人を蘇らせようとする、倒錯した愛情をそこに感じてしまったのだ。

 『ポンポさん』には、映画の素晴らしさを物語るシーンやセリフがいくつも挿入されている。たとえば新作の主演を務める伝説の俳優、マーティンの演技をじかに目にしたジーンくんは、完全に役になりきる圧倒的な演技力と存在感に衝撃を受ける。あるいは、スイスの高原での野外撮影中に偶然雨が上がり、雲間に虹がかかるシーン。ほかにもいろいろあった気がするが、これらはすべて、映画のある特別な性質を前提とし、またそれを祝福するために描き込まれている。その性質とは、いわば「世界の実在への信」を呼び起こすことだ。

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映に参加した人々は、カメラに向かって突進してくる列車の映像に驚き、逃げ惑ったといわれている。このエピソードの信憑性はいまではだいぶあやしいが、それでも現代の初期映画研究によると、当時の観客たちが風に揺れる木々の葉や水しぶき、土煙などの「自然現象」に感銘を受けていたことは間違いないらしい。彼らはそこに人間的な意味や作為を超えた、それ自体として存在する「自生的世界」*1が映し出されていると信じたのだ。さしあたってこれを、わたしは「世界の実在への信」と呼ぶことにしたい。

 この信仰は言うまでもなく、レンズの前の事象を機械的に写し取ることのできるカメラの存在に支えられている。かつての映画のイメージには、写真と同様、そこに映し出されている対象との物理的な結びつきがあった。哲学者のチャールズ・サンダース・パースのいう「指標(インデックス)性」というやつだ。映画のイメージはフィルムに焼き付けられた世界それ自体の光学的な痕跡であり、たとえば画家の意図に従って構成される一般的な絵画とは性質がまったく異なる。古き良き映画における恩寵のごとき聖なるイメージ、あるいは奇跡的な瞬間といったものがあるとすれば、それは映画監督の天才や創意工夫のおかげというよりも(もちろんそれもあるが)、むしろ「自生的世界」の出現をカメラが偶然記録していたからにほかならない──少なくとも、そのように解釈することも不可能ではなかった。

 いちおう断っておくと、これはひどく雑で、単純化されたものの見方である。実際には、もっと複雑かつ難解な議論がたくさん積み重ねられている。けれども、人間の意図とは無関係に、無意味にただ存在し続ける世界への物理的な結びつきこそが、映画を特別な娯楽・芸術形式たらしめていた──あるいはそのような信仰を可能にしていた──ことは否定できないように思う(そんな信仰なんて最初から存在しない、存在したとしても本質的ではない、という異論は当然ありうるけれど、ここでは措いておく)。

 『ポンポさん』で描かれる映画の素晴らしさも、基本的にはこの信仰の延長線上にある。マーティンの存在感は彼自身の実在と切り離すことができないし、雨上がりの虹は世界の偶然性の現れだ。けれども、こうした「世界の実在への信」は、いまやCGの普及とデジタル化によって永久にその根拠を喪失してしまった。デジタルカメラで撮影されたイメージは当然ながら指標性をもたないし、CGでモデリングされたキャラクターはそもそも世界に存在しない。だからといってわたしは、映画全体のクオリティが下がったとか、昔の映画のほうがおもしろかったと言っているわけではまったくない。そうではなく、映画の素晴らしさを世界の実在へと結びつけて語るための根拠が、とはつまり映画に対する信仰の基盤そのものが崩壊してしまったことを確認したいのだ。

 メディア研究者のレフ・マノヴィッチは、このドラスティックな変化を「映画のアニメーション化」と要約している。

ライヴ・アクションのフッテージ[=映像素材]は、いまや手によって操作される材料にすぎない──それはアニメーション化され、3DのCGシーンと合成され、塗りつぶされる。最終的な画像はさまざまな要素から手作業で構築され、しかもすべての要素はゼロから作られているか、手によって修正を加えられているのである。いまや、私たちはようやく「デジタル映画とは何か?」という問いに答えることができる。デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである。

[…]アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである。*2

 デジタル化された映画は「アニメーションの特殊なケース」、つまりはサブジャンルになった。そのイメージはもはや世界の実在とはなんの関係もなく、人間の「手」で、制作者の意図に従って自由自在に修正・加工・再現されるものにすぎない。かくして人間とは無関係に存在する「自生的世界」への信仰は決定的に崩れ、人間的な意図と作為が充満する別の世界に取って代わられる。この新たな世界では、もはや永久に失われてしまったモメント、つまりは人間の意思とは無関係に生成する「偶然」や「奇跡」の希少性が劇的に高まり、その不可能な再導入が目指されるだろう。自分自身の想定を超えるために絵コンテを放棄した庵野秀明や、日常における偶然的・無意識的な身ぶりを描き続けた京都アニメーションのように。

 『ポンポさん』もまた、こうした不可逆的な変化と無関係ではない。というより、いまや映画がアニメーションの一部になってしまったからこそ、映画についてのアニメ映画というものが成立するのであり、むしろこの変化の帰結をグロテスクなまでにさらけ出している。何度か言及しているマーティンの例でいえば、作中で彼は身体から謎の黒いオーラのようなものが立ち昇り、眼がLED電球のように光るのである。わたしはこのシーンを見たとき、あまりにもアイロニカルすぎて思わず笑ってしまった。映画の素晴らしさをあれほど説いておきながら、そこで描かれているのはきわめて漫画的・アニメ的な記号表現であって、それはまさに古き良き映画が滅びてしまったこと、そして映画がアニメーションのサブジャンルになってしまったことをはっきりと物語っている。

 そもそも俳優の存在感というものは、失われた信仰によれば、彼自身の実在と固く結びついていたはずだ。それはフィルムに物理的に焼き付けられることで、初めて保存・伝達可能なものになる。けれどもデジタル映画では、俳優の存在感なんて後からCGで簡単に修正・加工・再現される「エフェクト」のひとつにすぎない。マーティンの身体から謎のオーラが出たり眼が光ったりする『ポンポさん』も、当然そのように作られている。にもかかわらず、「世界の実在への信」がいまだ生きているかのように語られ、現代では必須ともいえるCGを用いたVFX作業のプロセスは一切描かれない。これがアイロニーでなければなんだろうか。

 『ポンポさん』の最も印象的な場面、ジーンくんが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに映像編集を行うシークエンスにも、この倒錯的な愛が色濃く表れている。剣のような大きな片刃のはさみを手にしたジーンくんが、まるで『ソード・アート・オンライン』シリーズの主人公のように、もつれた映画フィルムの束をばっさばっさと切り捨てていく。かつての映画メディウム(フィルム)をわざわざCGで再現しているのも暗示的だが、それよりも映画制作の最重要プロセスとされる映像編集をこのように、きわめて漫画的・アニメ的に表現することへの躊躇のなさ──そもそも原作は漫画だし、これはアニメ映画だから当然だけれども──に、わたしはひどく感動してしまった。

 『ポンポさん』が描いているのは、たしかに映画への愛にはちがいない。けれども、その愛すべき映画はもうとっくに死んでいて、お墓の下で安らかに眠っていたのである。『ポンポさん』の映画愛とは文字どおり、古き良き映画の死体に魂を吹き込む=アニメートすることであって、それはもはや「世界の実在への信」が決定的に壊れてしまった時代に、動く死体としての、ゾンビとしての余生=死後の生を与えることにほかならない。映画が「アニメーションの特殊なケース」になってしまった時代をこれほど鮮やかに、アイロニカルに描いてみせたアニメ作品がかつてあっただろうか。

 ところで、世界の実在から永久に切り離されたデジタル映画=アニメーションは、自らの存在意義をまったく別の場所に求めることになる。それが人間の感情や情動だ。「映画の観客は実在しないと知っているスクリーン上の怪物をなぜ怖がるのか」というパラドクスが哲学者のあいだで真剣に議論されるほどに、私たちの感情は現実とフィクションの境界をやすやすと超えていく。フィクショナル・キャラクターに対するオタクの「萌え」や「推し」はその最たる例だろう。かくして観客の情動を呼び起こし、揺り動かし、吐き出させることが映画の新たな至上命令となり、そのためにありとあらゆるCGやデジタル技術、広告宣伝戦略が動員される。詳しくは説明しないが『ポンポさん』のストーリーもまた、現代のこうした傾向を忠実になぞりながら展開していく。

 わたしは最初に『ポンポさん』を「映画についての映画」と表現した。けれども、これはあまり正確ではない。そこには死者と生者を分かつ切断線が引かれており、自己言及的・自己批評的な対称性はとっくに解体されている。繰り返しになるが、この作品は死せる映画を墓穴から蘇らせ、失われた「世界の実在への信」を人間の手で、とはつまりアニメーションによって人為的に立て直そうとする試みなのだ。感動的なストーリーの結末とはまったく別に、わたしはこのきわめてアイロニカルな、ともすれば悪意さえ感じられる挑戦に胸を打たれた。こうした非対称的で倒錯的な愛のかたち──ネクロ゠シネフィリアとでも言えるだろうか──こそが、『ポンポさん』を比類ないアニメ映画たらしめている。

 


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*1:長谷正人『映画というテクノロジー経験』、青弓社、2010年

*2:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤介訳、みすず書房、2013年、413~414頁、強調原文