てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

わたしのなかのハリガネムシ:ロニ・ホーン展について

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 先日、箱根のポーラ美術館で開催されている「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」展を見に行ってきた。

www.polamuseum.or.jp

 本展はアメリカの現代美術を代表するアーティスト、ロニ・ホーンの国内初となる美術館個展だ。といっても、現代美術にうといわたしには、恥ずかしながら初めて聞く名前だった。展覧会の公式サイトによると、彼女は1955年、アメリカ生まれのアーティストで、ロンドンのテート・モダンやニューヨークのホイットニー美術館といった世界有数の美術館で個展を開催し、国際的な注目を集めてきたらしい。そんな大物の国内初個展とあって注目度は高く、ポーラ美術館としても同時代のアーティストを単独で取り上げる初めての試みとのことだった。

 ロニ・ホーン展を鑑賞してわたしが最初に感じたのは「やっぱり現代美術はよくわからん」ということだった。これはもっぱらわたしに美術の素養がないせいだが、たぶんそれだけが理由ではない。今回の大規模個展には、1980年代初頭から現在にいたるまでの、およそ40年にわたるホーンの作品が展示されていて、当然ながら媒体も形式もバラバラだ。ガラスの彫刻、巨大なドローイング、連作の肖像写真、朗読映像……。もちろん「アイスランド」「自然」「水」などの家族的に類似したモチーフがないわけではないが、多様な展示作品すべてを一貫した「物語」に落とし込むのはかなり難しい。わたしの「わからん」という第一印象は、たぶんそのことに由来している。きれいとかかっこいいとかおもしろいとかいった美的な感覚を、どうやって意味づけたらいいのかよくわからないのだ。

 とはいえ、矛盾に満ちたひとりの人間、それもアーティストが半生をかけて生み出した作品群を、なんらかの「意味(意図)」や「物語」に回収しようとすること自体が、そもそも間違いなのかもしれない。かつて美学者の西村清和は、芸術作品を媒介として芸術家と鑑賞者が互いに精神的に交流する、コミュニケーションするという近代美学の枠組みを「精神の美学」と呼んで批判したが、このパラダイムは現代でもしぶとく(少なくともわたしのなかには)生き延びている。そこには他者を安易に「理解」できる、あるいは「理解」したつもりになるという、危険な思い上がりが見え隠れする。そうだとしたら、鑑賞者はただ虚心坦懐に作品を眺め、そこから得られる美的な感覚や印象を味わい、そしてそれ以上踏み込むべきではないのかもしれない。実際、公式サイトにはこんなふうに記されている。

本展では、[…]水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる彼女の作品のあり方を探ります。価値観や「正しさ」がめまぐるしく入れ替わるこの時代において、周囲に惑わされず、 川のように静かに絶えず本質を見つめながら制作を続ける彼女の作品と姿勢は、私たちに強く生きるヒントと、Reflection(内省)の時間を与えてくれるでしょう。

 ここで言われているのは、要するに、作品鑑賞を通じて作家の「精神」(内面とか世界観とか)にアクセスしようとするのではなく、むしろ作家の創作姿勢にならって鑑賞者が自分自身を見つめ直すこと、つまりは作品を一種の「鏡」として、自分自身へとまなざしを「Reflection(反省=反射)」することが求められている、ということだ。この自己啓発的な鑑賞態度は、たしかに「価値観や『正しさ』がめまぐるしく入れ替わるこの時代」には有効、というより必然なのかもしれない。作家の「意図」が明らかで解釈の余地がない、あるいは少ない作品よりも、ホーンの「水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる」作品のほうが、鑑賞者自身の価値観と作家のそれとが正面衝突しないぶん、多くの人に受け入れられやすいにちがいない。わたしのようにあわてて「意味」や「物語」を探し求めるのではなく、まずは作品から感じたことを素直に受け止め、自分自身を省みて「強く生きるヒント」(?)にすることが大事、というわけだ。

 一見したところ、これはもっともらしい考え方のように思える。けれども、鑑賞後にポーラ美術館のレストランで昼食をとりながら、いま見てきたものをぼんやり反芻していると、何か重要なことを見落としているような気がしてきた。先に引用した展覧会の導入文が間違っているとまでは言わないが、少なくともわたしにとってはミスリーディングな内容が含まれているように思えたのだ。以下では、あいかわらず「よくわからん」なりに、わたしがロニ・ホーン展について考えたこと、感じたことをかんたんに記してみる。

 先の引用文中の「Reflection」という言葉は、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」のもとになった英文「When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?」から採られたものだ。さらにこのフレーズそのものは、正確に覚えているわけではないが、本展に出品されていた映像作品《水と言う》(2021)に登場するものだと思う。これはホーンが日没の迫る夕闇の屋外で、十数人ほどの聴衆を前に「水」や「川」についての文章を朗読するという作品だ。ミニマルかつコンセプチュアルな展示作品が多く、鑑賞者の側に解釈の大部分が委ねられている──言い換えれば、作家の「意図」を汲み取りづらい──なか、この《水と言う》では、だいぶ思弁的ではあるものの、水や川といった主要モチーフに対する作家の思いがかなり率直に語られている。じつはわたしは前日夜ふかししたせいで、映像を見ながらときどき寝落ちしてしまい、断片的にしか覚えていないのだが、本展の根幹にかかわるようなエピソードがいくつか紹介されていた。

 いちばんわたしの印象に残ったのは、さまざまな文学作品や出来事を引きながら、川に身投げする人の話が繰り返し語られていたことだった。これらのエピソードと、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」をあわせて考えると、先の自己啓発的な導入文とは少し違った風景が見えてくる。たぶん力点が置かれるべきなのは、水面を鏡として自分自身を「内省(Reflection)」する(そして「強く生きるヒント」を得る)ことではない。そうではなく、文字どおり自分のなかに「水」を感じる、つまりは自分を超えたもの、自分にとってよそよそしいもの、自分ではないものを自分のなかに「認識する(Recognize)」ことが目指されているのではないか。わたしは寝落ちして見逃してしまったが、実際に《水と言う》には「水と一緒にいると/わたしの中に自分を超越した存在を感じる」という決定的なセリフがある、らしい。

 「Reflection」という言葉でわたしがまず思い浮かべるのは、ギリシャ神話のナルキッソスの物語だ。若く美しい青年であるナルキッソスは、あるとき神の怒りに触れ、水面に映った自分の姿に一目惚れし、そのまま衰弱して死ぬ(水中に落ちて溺死するバージョンもある)。ここでナルキッソスは、たぶんホーンとは異なり、自分のなかに「水」を認識していない。彼の目に映っているのは美しい自分自身だけであり、自分を超えるものや自分ではないものへの感覚が決定的に欠けている。ナルキッソスを死にいたらしめたのは、直接的には彼自身の美しさであると同時に、彼をはるかに超えたもの、つまりは神の怒りなのだが、そのことには気づかないまま死んでいくのだ。とすれば、ホーンが映像作品のなかで入水自殺のエピソードを繰り返し語ったのは、個々の自殺の具体的な動機や要因とは別に、彼ら/彼女らをときに死へと追いやる超越的なもの、他なるもの、不気味なものとしての「水」に注目していたからではないか。それは擬似的な鏡としてあなた自身の姿を映し出し、この鏡像の背後からあなたをひそかに突き動かす。あたかもあなたの自由意志の帰結であるかのように、あなたの死を偽装する。こうした存在を「認識する」ことが、ホーンのいくつかの作品の核心にあると考えることは、それほど的外れではないように思う。

 カマキリに寄生するハリガネムシという寄生虫は、繁殖のために宿主のカマキリを操り、川や池に飛び込ませる。帰路の箱根ケーブルカーに揺られながら、わたしはそんなことを思い出していた。最近の研究によると、ハリガネムシは水面の反射光に多く含まれる「水平偏光」という光のパターンを利用し、カマキリを誘導しているらしい。ハリガネムシに寄生されたカマキリは、いったいどんな気持ちで水辺を目指し、水面を覗き込み、そこに身を躍らせるのだろう。この六本足の哀れなナルキッソスは、わたしたちとどれほど違い、どれほど同じなのか。

 もちろん、ホーンのいう「自分を超越した存在」とは、ギリシャ神話の神々ではないし、ましてやハリガネムシのような寄生虫を指すわけでもない。彼女にとってそれはおそらく、繰り返し作品に現れるアイスランドの自然であり、また人体の70%を占めるという「水」そのものなのだろう。そこにはたしかに、自然を人間がコントロール可能な客体=対象と見なす、一昔前の西洋的・近代的思考とは異なる感性が息づいているように見える。しかし、だからといってホーンの作品を人間も自然の一部だとか、自然を大切にしようとかいった安っぽいメッセージに回収することはできないし、そうすべきでもない。むしろ彼女のいくつかの作品は、わたしたち自身のなかに、目覚めた意識には決して現れない暗い存在、わたしたちの身体の大部分を構成するにもかかわらず、わたしたちにとって永久によそよそしいものであり続ける「水」がたゆたっていることを、ひそかに告げ知らせてくれる。この「水」はわたしたちの意識の裏門から流れ出し、目の前の水面へと流れ込み、混ざり合って再びわたしたちのなかへと還っていく。ガラス彫刻の輝く水面も、大量の脚注が付されたテムズ川の水面も、そうやってわたしたちのなかのわたしたち自身とは異なる何か、果てしない「Reflection」の背後にいる見知らぬ誰かに向けて、解読不可能な合図を送り続けている。これはある意味で、裏返った「精神の美学」といえるのかもしれない。

 わたしのなかのハリガネムシが、わたしの後ろから見つめている。「強く生きる」とは結局のところ、やがて水辺に誘われ水中に沈むそのときに、まさにこれこそがわたしの望んだ生だったのだと、ハリガネムシに虚勢を張ってみせることなのかもしれない。

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『竜とそばかすの姫』はクソデカ感情百合バトルアニメになるはずだった

 2021年7月に公開された細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を見てきた。わたしの観測範囲ではいつもどおり賛否が割れていて、個人的にはけっこう期待していたのだが、見終わったあとの感想は「うーん……?」という感じだった。

 細田監督が何を描きたかったのかはよくわかる。過酷な現実に耐えられず心を閉ざしてしまった少女が、SNSでの出会いを通じて成長していくというテーマ自体にも、とくに異論はない(その「成長」の方向性にはいろいろ議論があると思うけれど)。にもかかわらず、わたしが物語にうまく入り込めなかったのは、途中から本編とは全然ちがう物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 なお、以下では重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 

 『竜とそばかすの姫』は、幼少期に母親を失い、心に深い傷を負った女子高生「すず」が、仮想空間「U」で絶大な支持を集める歌姫「ベル」となり、世界中から追われる謎の存在「竜」を救うために仲間たちと奮闘する物語だ。SNSという現代的なモチーフはあるものの、基本設定としてはほとんど『美女と野獣』(1991)そのままである。

 とはいえ、そこには細田監督らしい重要なアレンジが施されている。『竜とそばかすの姫』の物語構造をごく単純化して取り出すと、主人公のすずが〈母=ヒーロー〉になるまでのプロセスを描いた作品として読むことができる。彼女の母親は、中洲に取り残された見ず知らずの幼い少女を救うために増水した川に飛び込み、命を落とす。すずは自分を残して死んでしまった母親の行動が理解できず、父親や幼なじみともうまく話せなくなり、大好きだった歌も歌えなくなってしまう。物語終盤ではそんな彼女が、やはり見ず知らずの他人である竜(のなかの人)のもとに駆けつけ、身を挺して彼を守ろうとする。つまり、すずは母親の行動を反復することで母親の死を受け入れ、精神的に乗り越えるとともに、自ら〈母=ヒーロー〉になるわけだ。これが『竜とそばかすの姫』の基本的な構造である。

 もちろん、ある意味で保守的なこうした母親像や家族観に対し、拒否反応を示す観客もいるだろう。近年の細田監督作品はだいたい賛否両論真っ二つで、ネットでは「脚本だけ他人に書かせろ」という意見もよく見かけるが、そういう意味では『竜とそばかすの姫』も例外ではないかもしれない。けれども、わたしが「うーん……?」となってしまったのは、本作の〈母=ヒーロー〉というやや問題含みのメッセージが受け入れられなかったからではない(多少の疑問はあるが、ここでは論じない)。そうではなく、冒頭でも述べたように、本編とは異なるもうひとつの物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 『竜とそばかすの姫』後半では、謎に包まれた竜の正体を突き止めることが物語の主題となる。わたしは物語のかなり早い段階で、竜の正体はこいつにちがいないと勝手に確信していたキャラクターがいる。すずの回想に登場する、彼女の母親が自らの命と引き換えに救った少女だ。わたしは十中八九、この少女が竜の正体だと考えていた。なぜなら、彼女こそがすずの人生を根底からひっくり返し、その運命を決定づけた張本人だからである。本編では描写されないが、すずがこの少女を強く憎んでいたとしてもおかしくない。さらに「50億人の中から、たった一人を探し出せ」という本作のキャッチコピーも、わたしの確信を後押しした。50億人のなかから探すに値する運命の人物、因縁の相手は、あの少女以外にありえない、と。

 だから、竜の正体が本当に主人公とまったく関係ない赤の他人、遠く離れた東京に住む虐待被害者の少年だと判明したときは、正直びっくりしてしまった。もちろん、すでに述べたとおり、すずは見ず知らずの他人を救うことで初めて母親の死を受け入れ、自らも〈母=ヒーロー〉になるわけだから、物語構造としては文句なく正しい。けれども、わたしが勝手に思い描いていたのは、これとはまったく異なる物語だった。

 以下はすべてわたしの妄想である。だいぶ気持ち悪いことに、クライマックスのセリフまで考えてある。物語の基本路線はいちおう踏襲したつもりだが、家族や親子の関係にフォーカスしてきた細田監督は、たぶんこういう話は決して書かないだろう。百合(およびBL)とはまさに、家族や親子といった枠組みをいわば水平方向に破っていく、正反対のモチーフだからである。百合の先に、細田監督が思い描くような再生産をベースとした家族は存在しえない。

 本作を見ながらそんな妄想ばかりしていたせいか、とくに終盤は本編の内容がうまく頭に入ってこず、結果として「うーん……?」みたいな感想になってしまった。それでもわたしは、この妄想が『竜とそばかすの姫』という作品にあらかじめ畳み込まれている──とまでは言わないけれど、抑圧されたもうひとつの可能性として、まるで幽霊のように作品にとりついているような気がしてしまうのだ。

 

 少女は小さい頃、増水した川の中洲に取り残され、見知らぬ勇敢な女性に助けられた。お礼を言うひまもなかった。女性は幼い少女に自分のライフジャケットを着せると、そのまま流されて見えなくなった。成長してからずっと、少女はそのことで思い悩んでいた。自分が他人の人生を永久に奪ってしまったこと、そしておそらく、その人の家族の運命さえもねじ曲げてしまったこと。少女は自分を責め続けていた。自分には生きる価値がないと思い込んでいた。ままならない現実に絶望し、やがて精神に変調をきたし、醜い竜の姿で自傷行為のように仮想空間で暴れまわるようになった。

 そんなとき、彗星のごとく現れたひとりの歌姫と出会う。明るく澄んだ彼女の歌声には、しかしどこか深い悲しみと寂しさがにじんでおり、少女はすぐに彼女のファンになる。まるで自分の苦しみを代わりに歌ってくれているような、そんな気がした。2人はしだいに絆を深め、追手をかいくぐりながら束の間の逢瀬を重ねる。ところが、ひょんなことから歌姫の正体が露見し、彼女が自分を救ってくれた=自分が死なせてしまった女性の娘であること、そしてそのせいでずっと苦しんでいたことを知る。少女は絶望し、歌姫=すずの前から姿を消す。もはや現実にも、仮想空間にも居場所がないと悟った少女は、ただ愛する彼女に罰してもらうこと、殺し/赦してもらうことだけを望むようになる。

 やがて再び現れた竜は、仮想空間のすべてを敵に回し、すずの友人や家族、その他大勢のアカウントを人質にとる。すずは彼らを救うことで〈母=ヒーロー〉として覚醒し、さまざまな人々の協力のもと、謎のスーパー歌パワーで邪悪な竜を追い詰める。激突する2人。すずは裏切られた怒りと悲しみに震え、戦いのさなかに理由を問いただそうとするも、竜は何も答えようとしない。仮想空間が崩壊しかねないほどの激しい戦闘の末、50億アカウントによるスーパー歌の元気玉(『サマーウォーズ』(2009)のラストみたいな感じ)が炸裂し、ついに竜は打ち倒される。

 いまにも息絶えようとする竜の剥がれたウロコの隙間から、同世代くらいの少女の素顔がのぞいている。思わず駆け寄ったすずは、彼女の口からようやく真意を告げられる。

「わたし、すずの歌が、すずのことが大好き」

「でもわたしは、すずからお母さんをとっちゃった、悪者だから」

「だから一緒にいられないし、赦してももらえない」

「だけど、いっぱい考えて、悪者にもできることがあるって、気づいた」

「すずがヒーローになるための、お手伝い」

「本物のヒーローになって、それでわたしをやっつけてほしいって、そう思ったんだ」

「わがままだよね……でもわたし、やっと」

 泣きそうな笑顔で、淡い光のなかに溶けていく少女。呆然とするすず。ややあって、ベランダから飛び降りる音。

(暗転、スタッフロール)

 病室のカーテンが揺れている。寝台に横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開ける。誰かが手を握っている感触。セーラー服を着た、そばかすの、よく知っている顔──。

(終劇)

 


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映画の死体に魂を吹き込む:『映画大好きポンポさん』とネクロ゠シネフィリア

 2021年6月は、コロナ禍にともなう緊急事態宣言で公開延期されていた話題のアニメ映画が続々と封切られ、アニメファンにとってはちょっとした「まつり」になった。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『シドニアの騎士 あいつむぐほし』『映画大好きポンポさん』──いずれもたいへん見応えのある作品で、それぞれについて何か書きたい気持ちはあるものの、残念ながらわたしにはそのための時間と能力がない。いちおう、これらすべてに言及したバ美肉配信があるので、興味のある人はそちらを見てほしい。

てらまっとの怒られ☆アニメ批評 第3回:ポンポさん、ハサウェイ、シドニア、レヴュースタァライト - てらまっと (@teramat) - TwitCasting

 そういうわけで、ここではわたしがいちばん楽しめた、というか唸らされた作品について書こうと思う。それが『映画大好きポンポさん』だ。

 『ポンポさん』は杉谷庄吾人間プラモ】による同名の漫画作品を劇場アニメ化したもの。ハリウッドならぬ「ニャリウッド」を舞台に、超大物映画プロデューサーの祖父から才能を受け継いだ「ポンポさん」のもとで、いわゆる「映画狂(シネフィル)」の主人公、ジーンくんが新作映画の監督に抜擢され、さまざまな人に助けられながら一本の映画を完成させるという物語だ。「映画大好き」というタイトルからもわかるとおり、この作品は映画の制作プロセスそのものを描いた映画、つまりは映画についての映画であり、映画という娯楽・芸術形式への愛(フィリア)が全編にあふれている。

 けれども、わたしにはこの愛が、ある種の「死体愛好(ネクロフィリア)」に見えてしまった。もっと正確にいうと、自らの手で殺めてしまった最愛の人を蘇らせようとする、倒錯した愛情をそこに感じてしまったのだ。

 『ポンポさん』には、映画の素晴らしさを物語るシーンやセリフがいくつも挿入されている。たとえば新作の主演を務める伝説の俳優、マーティンの演技をじかに目にしたジーンくんは、完全に役になりきる圧倒的な演技力と存在感に衝撃を受ける。あるいは、スイスの高原での野外撮影中に偶然雨が上がり、雲間に虹がかかるシーン。ほかにもいろいろあった気がするが、これらはすべて、映画のある特別な性質を前提とし、またそれを祝福するために描き込まれている。その性質とは、いわば「世界の実在への信」を呼び起こすことだ。

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映に参加した人々は、カメラに向かって突進してくる列車の映像に驚き、逃げ惑ったといわれている。このエピソードの信憑性はいまではだいぶあやしいが、それでも現代の初期映画研究によると、当時の観客たちが風に揺れる木々の葉や水しぶき、土煙などの「自然現象」に感銘を受けていたことは間違いないらしい。彼らはそこに人間的な意味や作為を超えた、それ自体として存在する「自生的世界」*1が映し出されていると信じたのだ。さしあたってこれを、わたしは「世界の実在への信」と呼ぶことにしたい。

 この信仰は言うまでもなく、レンズの前の事象を機械的に写し取ることのできるカメラの存在に支えられている。かつての映画のイメージには、写真と同様、そこに映し出されている対象との物理的な結びつきがあった。哲学者のチャールズ・サンダース・パースのいう「指標(インデックス)性」というやつだ。映画のイメージはフィルムに焼き付けられた世界それ自体の光学的な痕跡であり、たとえば画家の意図に従って構成される一般的な絵画とは性質がまったく異なる。古き良き映画における恩寵のごとき聖なるイメージ、あるいは奇跡的な瞬間といったものがあるとすれば、それは映画監督の天才や創意工夫のおかげというよりも(もちろんそれもあるが)、むしろ「自生的世界」の出現をカメラが偶然記録していたからにほかならない──少なくとも、そのように解釈することも不可能ではなかった。

 いちおう断っておくと、これはひどく雑で、単純化されたものの見方である。実際には、もっと複雑かつ難解な議論がたくさん積み重ねられている。けれども、人間の意図とは無関係に、無意味にただ存在し続ける世界への物理的な結びつきこそが、映画を特別な娯楽・芸術形式たらしめていた──あるいはそのような信仰を可能にしていた──ことは否定できないように思う(そんな信仰なんて最初から存在しない、存在したとしても本質的ではない、という異論は当然ありうるけれど、ここでは措いておく)。

 『ポンポさん』で描かれる映画の素晴らしさも、基本的にはこの信仰の延長線上にある。マーティンの存在感は彼自身の実在と切り離すことができないし、雨上がりの虹は世界の偶然性の現れだ。けれども、こうした「世界の実在への信」は、いまやCGの普及とデジタル化によって永久にその根拠を喪失してしまった。デジタルカメラで撮影されたイメージは当然ながら指標性をもたないし、CGでモデリングされたキャラクターはそもそも世界に存在しない。だからといってわたしは、映画全体のクオリティが下がったとか、昔の映画のほうがおもしろかったと言っているわけではまったくない。そうではなく、映画の素晴らしさを世界の実在へと結びつけて語るための根拠が、とはつまり映画に対する信仰の基盤そのものが崩壊してしまったことを確認したいのだ。

 メディア研究者のレフ・マノヴィッチは、このドラスティックな変化を「映画のアニメーション化」と要約している。

ライヴ・アクションのフッテージ[=映像素材]は、いまや手によって操作される材料にすぎない──それはアニメーション化され、3DのCGシーンと合成され、塗りつぶされる。最終的な画像はさまざまな要素から手作業で構築され、しかもすべての要素はゼロから作られているか、手によって修正を加えられているのである。いまや、私たちはようやく「デジタル映画とは何か?」という問いに答えることができる。デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである。

[…]アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである。*2

 デジタル化された映画は「アニメーションの特殊なケース」、つまりはサブジャンルになった。そのイメージはもはや世界の実在とはなんの関係もなく、人間の「手」で、制作者の意図に従って自由自在に修正・加工・再現されるものにすぎない。かくして人間とは無関係に存在する「自生的世界」への信仰は決定的に崩れ、人間的な意図と作為が充満する別の世界に取って代わられる。この新たな世界では、もはや永久に失われてしまったモメント、つまりは人間の意思とは無関係に生成する「偶然」や「奇跡」の希少性が劇的に高まり、その不可能な再導入が目指されるだろう。自分自身の想定を超えるために絵コンテを放棄した庵野秀明や、日常における偶然的・無意識的な身ぶりを描き続けた京都アニメーションのように。

 『ポンポさん』もまた、こうした不可逆的な変化と無関係ではない。というより、いまや映画がアニメーションの一部になってしまったからこそ、映画についてのアニメ映画というものが成立するのであり、むしろこの変化の帰結をグロテスクなまでにさらけ出している。何度か言及しているマーティンの例でいえば、作中で彼は身体から謎の黒いオーラのようなものが立ち昇り、眼がLED電球のように光るのである。わたしはこのシーンを見たとき、あまりにもアイロニカルすぎて思わず笑ってしまった。映画の素晴らしさをあれほど説いておきながら、そこで描かれているのはきわめて漫画的・アニメ的な記号表現であって、それはまさに古き良き映画が滅びてしまったこと、そして映画がアニメーションのサブジャンルになってしまったことをはっきりと物語っている。

 そもそも俳優の存在感というものは、失われた信仰によれば、彼自身の実在と固く結びついていたはずだ。それはフィルムに物理的に焼き付けられることで、初めて保存・伝達可能なものになる。けれどもデジタル映画では、俳優の存在感なんて後からCGで簡単に修正・加工・再現される「エフェクト」のひとつにすぎない。マーティンの身体から謎のオーラが出たり眼が光ったりする『ポンポさん』も、当然そのように作られている。にもかかわらず、「世界の実在への信」がいまだ生きているかのように語られ、現代では必須ともいえるCGを用いたVFX作業のプロセスは一切描かれない。これがアイロニーでなければなんだろうか。

 『ポンポさん』の最も印象的な場面、ジーンくんが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに映像編集を行うシークエンスにも、この倒錯的な愛が色濃く表れている。剣のような大きな片刃のはさみを手にしたジーンくんが、まるで『ソード・アート・オンライン』シリーズの主人公のように、もつれた映画フィルムの束をばっさばっさと切り捨てていく。かつての映画メディウム(フィルム)をわざわざCGで再現しているのも暗示的だが、それよりも映画制作の最重要プロセスとされる映像編集をこのように、きわめて漫画的・アニメ的に表現することへの躊躇のなさ──そもそも原作は漫画だし、これはアニメ映画だから当然だけれども──に、わたしはひどく感動してしまった。

 『ポンポさん』が描いているのは、たしかに映画への愛にはちがいない。けれども、その愛すべき映画はもうとっくに死んでいて、お墓の下で安らかに眠っていたのである。『ポンポさん』の映画愛とは文字どおり、古き良き映画の死体に魂を吹き込む=アニメートすることであって、それはもはや「世界の実在への信」が決定的に壊れてしまった時代に、動く死体としての、ゾンビとしての余生=死後の生を与えることにほかならない。映画が「アニメーションの特殊なケース」になってしまった時代をこれほど鮮やかに、アイロニカルに描いてみせたアニメ作品がかつてあっただろうか。

 ところで、世界の実在から永久に切り離されたデジタル映画=アニメーションは、自らの存在意義をまったく別の場所に求めることになる。それが人間の感情や情動だ。「映画の観客は実在しないと知っているスクリーン上の怪物をなぜ怖がるのか」というパラドクスが哲学者のあいだで真剣に議論されるほどに、私たちの感情は現実とフィクションの境界をやすやすと超えていく。フィクショナル・キャラクターに対するオタクの「萌え」や「推し」はその最たる例だろう。かくして観客の情動を呼び起こし、揺り動かし、吐き出させることが映画の新たな至上命令となり、そのためにありとあらゆるCGやデジタル技術、広告宣伝戦略が動員される。詳しくは説明しないが『ポンポさん』のストーリーもまた、現代のこうした傾向を忠実になぞりながら展開していく。

 わたしは最初に『ポンポさん』を「映画についての映画」と表現した。けれども、これはあまり正確ではない。そこには死者と生者を分かつ切断線が引かれており、自己言及的・自己批評的な対称性はとっくに解体されている。繰り返しになるが、この作品は死せる映画を墓穴から蘇らせ、失われた「世界の実在への信」を人間の手で、とはつまりアニメーションによって人為的に立て直そうとする試みなのだ。感動的なストーリーの結末とはまったく別に、わたしはこのきわめてアイロニカルな、ともすれば悪意さえ感じられる挑戦に胸を打たれた。こうした非対称的で倒錯的な愛のかたち──ネクロ゠シネフィリアとでも言えるだろうか──こそが、『ポンポさん』を比類ないアニメ映画たらしめている。

 


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*1:長谷正人『映画というテクノロジー経験』、青弓社、2010年

*2:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤介訳、みすず書房、2013年、413~414頁、強調原文

美少女はじめました(バ美肉についての覚え書き)

 最近いろいろ思うところがあり、美少女をはじめることにした。

 美少女といっても、現実に肉体改造したりコスプレしたりするわけではなく、バーチャル美少女セルフ受肉、いわゆる「バ美肉」である。これは文字どおり、2Dや3Dの美少女の姿をしたバーチャルな身体(アバター)に「受肉」し、YouTuberなどとして活動することだ。とくに中高年男性が行う場合は「バ美肉おじさん」と呼ばれる。わたしの場合はさしずめ「バ美肉アニメ批評愛好家おじさん」といったところだろうか。

 バ美肉にはさまざまな方法があるが、いまではスマートフォンひとつで受肉・配信できる手軽なアプリが複数リリースされている。わたしはキャラクターデザインのかわいさに惹かれて、3Dアダルトゲームのモデルをベースにした「カスタムキャスト」というアプリを利用することにした。このアプリでつくったわたしの新たな身体がこれである。控えめにいってかわいすぎる。完全に『けいおん!』シリーズのあずにゃんだが、わたしはあずにゃんに強い思い入れがあるのでむべなるかなという感じである。

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カスタムキャストで作成したわたし

 なぜ急に美少女をはじめたかというと、端的に言って、いまの自分の思考の枠組みに限界を感じていたからだ。『放課後ていぼう日誌』や『のんのんびより』、さらには『スーパーカブ』について書いた過去の文章からも明らかなように、わたしは一貫して、フィクション(とりわけ日常系アニメ)から徹底して排除される、もしくは性機能を抹消された「非人間」として包摂される男性身体の問題に関心を抱いてきた。詳しい議論は繰り返さないが、要するにそれらの背景にあるのは、自分が本来あるべき自分自身から追放されている、疎外されているという感覚である。この感覚をマルクスベンヤミンにならって「自己疎外」と呼ぶことにしよう。もともとは自分の労働力を他者(資本家)に奪われているという文脈だが、ここではもっと広く、自分自身が自分にとってよそよそしいもの、否定的なものに感じられるというほどの意味でとらえてほしい。これはたとえば「弱者男性」論などに少なからず共感してしまう男性なら、直感的に理解できるかもしれない。

 現代の日本社会で、とりわけ社会的地位や収入や家庭に恵まれているわけではない一部の男性にとって、自分の存在を肯定するのは決して簡単なことではない。フェミニストからはしばしば「(有害な)男らしさから降りる」ことが処方箋として提示されるが、まさにその男らしい男性が依然として恋愛市場・経済市場で勝利しているように見える現状では、そもそも「降りる」ことのインセンティブが見えづらいし、具体的な降り方もよくわからない。男らしさにとらわれた自分をひたすら反省し、否定していくしかないのだろうか。それはあまりにも苛酷すぎる──というより、そうした絶え間ない自己否定の圧力こそが、男らしさの呪縛以上に、一部男性の深刻な自己疎外につながっているようにも見える。わたしだって好き好んで男性をやっているわけではない。性的に呪われた身体をもって生まれてきたかったわけではない。

 わたしはアニメを見るとき、いつしかこのような問題関心から逃れられなくなってしまった。自分自身の身体に引っ張られて、以前ほど自由気ままにアニメを見ることができなくなってしまった。とはいえ、それで文章が書けなくなるわけではなく、むしろ関心がはっきりしているせいでスラスラ書けるのだが、これは逆に言えば、いつまで経っても自分の思考の枠組みを超えられないということでもある。同じテーマ、同じモチーフをめぐって延々と書き続けたところで、一時的に慰められこそすれ、わたし自身の自己疎外が解消されるわけではない。

 バ美肉は、そんな悩めるわたしの目に技術的福音として映った。

 わたしの好きな『つぐもも』という青年向けエロバトル漫画に、「斑井枡次(まだらい・ますじ)」という中高年男性キャラクターがいる。斑井は当初、主人公たちに敵対する悪役として彼らの前に立ちふさがるのだが、禁断のアイテムを使用した副作用で醜い化け物のような姿に変わってしまい、敗北の末に殺してくれと懇願する。しかし、主人公の仲間たちは彼を殺すのではなく、特殊な力をもったキャラクター(とある神社の祭神)の手で、かわいらしい「幼女」として生まれ変わらせる。唖然とする斑井に対し、この祭神が発した次のようなセリフが、わたしは強く印象に残っている。

魂の器たる人の形は!

“魂の在りよう”にそってなくては定着に支障があるにぃ!

んでもって

傀儡帯[=禁断のアイテム]の呪いによりゆがめられたおまえの魂に

ふさわしい形がそれ[=幼女]だっただけにぃ!(引用者注)

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つぐもも』26巻、第130話「まあちゃんとたぐり」より

 「呪い」により化け物と化してしまった、とはつまり自己疎外に陥った中高年男性が、まさにその「ゆがめられた魂の在りよう」ゆえに、まったく異なる存在として生まれ変わること。わたしはここに、バ美肉の最も解放的なポテンシャルがあると考えている。それは一言でいえば、自己疎外を生成変化の可能性の条件としてとらえ直すことだ。自分自身から追放され、疎外されているからこそ、たとえば『放課後ていぼう日誌』の魚や『スーパーカブ』のバイクのように、これまでの自分とは似ても似つかぬ存在へと生成変化することができる──あるいは少なくとも、生成変化へと動機づけられることができる。バ美肉はわたしがわたしにしかなれず、いまやそのわたしともうまくやっていけないという自縄自縛をひっくり返し、別の何者かになりうるための前提条件としてポジティブに価値づけてくれる。自己疎外をたんに解消したり低減したりするのではなく、まさにそれこそが新生への敷居であることを教えてくれるのだ。これが福音でなければなんだろうか。

 とはいえ、カスタムキャストによるバ美肉は、VRヘッドマウントディスプレイを装着する本格的な「受肉」ではない。スマートフォンを自分の正面に固定し、ディスプレイ上の美少女と向き合うことで、搭載カメラのフェイストラッキング機能を利用して目や口、頭の動きを追尾・再現するだけだ。さまざまな表情やポーズが用意されてはいるものの、それらをアバターに反映させるには、その都度画面をフリックしなければならない。そのため、カスタムキャストの操作感はVR機器による全方位的な没入とは大きく異なるのだが、わたしにはそれがかえって示唆的に感じられた。

 スマートフォンを自分の正面に立てるということは、つまるところ「鏡」を見るように画面のなかの美少女と向き合うことを意味する。そして鏡とは言うまでもなく、わたしがわたしになるための、ひいてはわたしであり続けるためのきわめて強力な視覚的メディウムである。ある高名な精神分析家は、幼児にとって鏡に映った自分の姿が「自我」の形成に決定的な役割を果たすと述べている。その科学的な真偽はさておき、鏡のなかのわたしがわたし自身の自己イメージをかなりの程度規定していることは間違いない。それは裏返せば、わたしにとってよそよそしいものとなってしまったわたし自身を、にもかかわらずいつまでもわたしにつきまとわせる──つまりは自己疎外を生産し続けるメディウムであるということだ。

 カスタムキャストの配信画面には、そんな逃れがたい自己イメージの代わりに、理想化された仮想身体が表示されている。この美少女はわたしのまばたきに合わせてまばたきし、口の動きに合わせて口を動かし、顔の傾きに合わせて顔を傾ける。画面に近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなる。タイムラグはまったく感じられず、あたかも鏡に映った像であるかのように、わたしの顔面運動の一部を模倣する。これはとても不思議な感覚だ。線と色彩の集積にすぎないモノが、わたしのしぐさを真似ることで、わたしを受け入れようとしてくれている。あるいはそれは罠で、わたしを誘い込み、わたしのような何者かになり、ついにはわたしに取って代わろうとしているのだろうか。

 いずれにせよ、彼女は鏡であって鏡ではない。それは言ってみれば「ゆがんだ鏡」であり、しかしだからこそ、斑井の新たな身体がそうであったように、わたしの「ゆがめられた魂」を“正しく”映し出すことができる。幼少期に埋め込まれた自己イメージを否定するとまではいかなくても、その輪郭をあいまいにぼかし、たわませ、粗いスケッチの線のように複数化してくれる。

 だがそうだとしても、なぜ美少女なのだろうか。動物や植物、鉱物、あるいは偉大な先人にならって「毒虫」ではいけないのだろうか。ほかならぬ美少女であることは、一部の中高年男性にとって代替不可能な価値をもつ。そのことは「バーチャル美少女セルフ受肉」という言葉自体が雄弁に語っている。

 ドイツのある哲学者は、人間だけが「世界」を創り上げることができると述べた。彼に言わせると、動物は世界が貧しく、鉱物にはそもそも世界がない。とすれば、これにならって次のように言うことができるかもしれない──二次元(または3D)美少女は、そのように創られた世界から祝福された存在、あるいは世界を祝福する存在である、と。たとえフィクションや二次創作のなかでどれほどひどい目に遭わされようと、彼女たちはまさにそのことを通じて、当の作品世界を輝かしく意味あるもの、鑑賞に値するものへと変容させる。

 美少女のこのような存在様式は、たんなる世界の貧困(動物)や不在(鉱物)よりも、わたしにとってはるかに遠く隔たって感じられる。というより、フィクションのなかの魚やバイクがそうであるように、むしろ動植物や無機物といった非人間のほうが、自分自身から疎外された中高年男性にはずっと近しい存在なのだ。言い換えれば、わたしはつねにすでに毒虫なのであり、それゆえに毒虫“への”生成変化ではなく、毒虫“からの”生成変化こそが救いとして立ち現れる。

 多くの中高年男性が「バ美肉」するのも、おそらく似たような理由からだろう。そこには美少女への、つまりは世界を祝福し祝福される存在への、やみがたい憧憬と嫉妬の感情がある。彼女たちがしばしば男性向けエロ同人誌で陵辱されるのは、たんに男性読者の性的欲望を想像的に満たすためだけではない。それは存在論的に隔絶された世界へのアクセスを試みる、憧れと妬みとが入り混じった宗教的な営みでもあるのだ。そこでは自慰行為が聖なる儀式となり、射精が祈りの一形態となる。罪を犯すことで罰を待望し、それによって逆説的に超越者の存在を証そうとする転倒した信仰告白……。

 バ美肉は、それまでひとつの方法しか知らなかったわたしに、存在の祝福へといたる別の手段、別の可能性を暗示してくれた。それはわたしの自己疎外を意味あるものに変え、この生を生きるに値するものに変えてくれるかもしれない。呪いを解くのではなく、呪いを新生の糧とすること。救済へといたる扉は、最も呪われた存在にこそ開かれている。

無意識をアニメートする2:『たまこラブストーリー』と非人間への愛

〈以下のテクストは2014年11月に発行されたククラス主宰の批評同人誌『ビンダー vol.1』に寄稿したものです。〉

 

 20144月に劇場公開された『たまこラブストーリー』は、一見したところ、恋愛の痛みと喜びを真正面から描いた王道青春映画であるように思える。しかし、よくよく内容を振り返ってみると、これほどおかしな「ラブストーリー」も他にないのではないか。というのも、このアニメ作品では、あたかも言葉遊びをなぞるようにして物語が展開し、人間ではないものへの愛が人間へとスライドしていくように見えるからだ。これはいったいどういうことなのか。

たまこラブストーリー』はどこがおかしいか

 『たまこラブストーリー』(以下『たまラブ』と略称)は、20131月から3月にかけて放映された京都アニメーション制作のテレビアニメ『たまこまーけっと』(以下『たまこま』と略称)の続編である。前作に引き続き、『けいおん!』シリーズの山田尚子が監督をつとめ、吉田玲子が脚本を手がけている。

 さしあたって『たまラブ』は、とても「わかりやすい」作品であるように思われる。ストーリーはいたってシンプルで、思春期の少年が意を決して幼なじみの少女に告白し、気まずくなってギクシャクするものの、最終的には結ばれるというものだ。こうした王道展開にくわえて、この作品では、さりげない表情やちょっとした仕草、たわいない会話のなかに、それぞれのキャラクターの心の揺れ動きが丁寧に描き込まれている。そのため、同じような恋愛経験のある観客はもとより、残念ながら心当たりのない観客にとっても、ストレスなく物語に入り込めるようになっているのだ。

 しかし、こうしたわかりやすさのおかげで、かえって『たまラブ』の「おかしさ」が見えづらくなっているのではないか。いや、むしろこのおかしさを目立たなくするためにこそ、過剰なほどのわかりやすさが要求されたとさえ言えるかもしれない。では、このおかしさとはどのようなものか。

 映画冒頭から強調されているように、『たまラブ』のヒロインである北白川たまこは、かなり変わった性格付けがなされている。彼女は商店街の餅屋「たまや」の看板娘で、家業である餅作りに異常なほどの情熱を注いでおり、いつも新しい商品を考案するのに余念がない。友人の牧野かんないわく、たまこは餅以外に興味のない「変態餅娘」なのだ。

 こうした性格付けは、当然ながら、彼女を恋愛から遠ざけるように作用する。実際、たまこは面と向かって告白されるまで、幼なじみのあからさまな好意にまったく気がつかなかった。したがって、そんな彼女のラブストーリーを描くにあたっては、山田監督自身が述べている通り、「ずっと脇目も振らずお餅を大事にしていた子がどうやって(恋愛に)転ぶのか」*1ということが決定的な重要性をもつ。そして、まさにこの点にこそ、『たまラブ』のおかしさがあるのだ。

 誤解を恐れずに言えば、たまこが幼なじみの告白を受け入れたのは、彼の名前が「大路もち蔵」だったからだ。つまり、彼女の大好きな「餅(もち)」という言葉が名前に含まれていたおかげで、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことが可能になったのである。これはこじつけでも何でもなく、作中ではっきりとそう描かれている。たまこは告白された後、動揺のあまり日常会話のなかの「餅」という言葉がすべて「もち蔵」に置き換わってしまい、彼のことを一日中意識せざるをえなくなってしまうのだ。

 こうして『たまラブ』では、それまでもっぱら餅に向けられていた愛着が、「もち」という「音像」の同一性を介して、もち蔵に対する愛着へとスライドしていく。要するに、〈たまこは餅が好き=もち蔵が好き〉というわけだ。

 しかし、冷静に考えてみると、これは少々──いや、相当おかしな話ではないか。餅屋の娘が「変態餅娘」なのはまだいいとしても、その幼なじみの名前が「もち蔵」で、さらに名前をめぐる言い間違いや言葉遊びによって「(恋愛に)転ぶ」という超展開は、一般的なラブストーリーの定石を大きく踏み越えているように思われる。

 さらに『たまラブ』には、ほかにも同じような言葉遊びが隠されている。たとえば、映画冒頭では、たまこが友人たちとの会話のなかで、お尻のかたちをした「お尻餅」という新しい商品を思いつくシーンがある。そしてその後、たまこはもち蔵に告白されたショックでバランスを崩し、川に落ちて「尻もち」をつく。ここでも〈餅=もち蔵〉と同様、〈お尻餅=尻もち〉という駄洒落が成立しているわけだ。

 このように『たまラブ』では、わかりやすい物語展開や心情描写とは裏腹に、きわめておかしな作劇手法が用いられている。よくある王道青春映画かと思いきや、唐突にくだらない駄洒落がはじまり、そしてそれをなぞるようにして物語が進行していくのである。だが、そうだとすれば、なぜわざわざそんな手の込んだことをするのか。物語に言い間違いや言葉遊びを織り込むことで、いったい何を描き出そうとしているのか。

無意識をアニメートする(1)──映画けいおん!』と天使のメタファー

 作中に言葉遊びが登場するのは、『たまラブ』だけではない。というより、これまで山田尚子と吉田玲子がタッグを組んだ作品(『けいおん!』および『たまこま』シリーズ)のほとんどすべてに、同じような駄洒落が散りばめられている。したがって、このおかしな作劇手法は、たんなる思いつきではなく、何らかの意図をもって用いられていると考えるべきだろう。では、その意図とはどのようなものか。

 この問題を解くヒントを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。というのも、フロイトは『日常生活の精神病理学』(1901年)や『機知』(1905年)といった著作のなかで、数多くの具体例を引用しながら、言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのメカニズムについて論じているからだ。

 フロイトにしたがうなら、これらの現象はすべて、本来意識的であるはずの思考プロセスが「無意識」の働きにゆだねられることで生み出される。無意識の領域では、あらゆる語がその固有の「意味」から切り離され、聴覚的な「音像」へと還元されるため、あたかも言葉遊びのように、語の構造や音韻の共通性にもとづいて変形することが可能になる──たとえば、ひとつの語をいくつかに分解したり、それらの一部を別の語に遷移したり、いくつかの語をひとつに縮合したりといったように*2。抑圧された潜在的な記憶や感情は、いわば無意識の言葉遊びとなって日常生活に回帰してくるのだ。

 そうだとすれば、山田監督&吉田脚本の作品に頻出する駄洒落もまた、こうした無意識の働きと関連づけることができるのではないか。つまり、これらの作品では、目覚めた意識ではとらえられない無意識の思考プロセスをアニメートするためにこそ、言葉遊びが用いられているのではないか。具体的な事例を見てみよう。

 言葉遊びが全面的に導入されたのは、おそらく『映画けいおん!』(2012年)が最初である。この作品は人気テレビアニメ『けいおん!』シリーズの劇場版で、高校卒業を間近にひかえた軽音楽部のメンバーたちがロンドンに卒業旅行に出かけ、現地でライブを披露するというストーリーだ。

 実はこのロンドン旅行には、観光以外にもうひとつ重要なミッションが課せられている。そのミッションとは、軽音楽部ただひとりの後輩である中野梓のために曲を制作するというものだ。これはより直接的には、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーを創り出すことを意味している。なぜなら、最終的に梓のために演奏される曲「天使にふれたよ!」のなかで、彼女はタイトル通り「天使」にたとえられているからだ。

 ところが、この曲の制作プロセスが作中で明示的に説明されることは一度もない。ロンドンから帰国した後、主人公の平沢唯はあたかも「霊感」を受けたかのように、突然「天使」という歌詞を思いつくのである。だが、そうだとすれば、〈梓=天使〉というインスピレーションはいったいどこから、どのようにもたらされたのか。『映画けいおん!』では、この無意識の思考=制作プロセスを描き出すために、名前をめぐるきわめて複雑な言葉遊びが用いられている。

 まず、唯は梓のことを一貫して「あずにゃん」と呼んでおり、すでに〈梓=猫〉というメタファーが成立していることを押さえておこう。劇場版では、この愛称がロンドン行きの飛行機のなかで部分的に英訳され、「あずキャット(as-cat)[猫として]」へと変化する。続いて、ロンドン市内の観光中に、この新たな愛称がさらに変化して「(荷物などを)あずきゃっとく[預かっておく]」という駄洒落が生み出される。つまり、〈梓+猫→あずにゃん→あずキャット→あずきゃっとく〉というわけだ。

 この一連の変形によって、これまでの〈梓=猫〉というメタファーはいったん断ち切られ、梓の愛称がたんなる「音像」へと還元される。では、この〈梓猫〉がどのようにして〈梓=天使〉に置き換わるのか。

 ロンドンで演奏する機会にめぐまれた軽音楽部の一行は、最終日のライブに向けて歌詞の英訳を試みる。その際に「not so much A as BAというよりむしろB]」という受験英語の構文が参照されるのだが、唯はそこに梓の愛称を代入するのである。つまり、「あずにゃん」を「あず(as)」と「にゃん[猫]」に再び分解し、それらを「as B」の位置に遷移することで、「not so much A as にゃん[Aというよりむしろ猫]」という言葉遊びを創り出すのだ。まとめると、〈あずにゃん→あず/にゃん+not so much A as Bnot so much A as にゃん〉となるだろう。

 この言葉遊びは、一見したところ、〈梓=猫〉というこれまでのメタファーを強調しているように思える。だが、すでに〈梓猫〉である以上、ここで注目すべきなのは、「Aというよりむしろ猫」という文字通りの意味ではない。そうではなくて、「あずにゃん」という愛称の分解と遷移を通じて、いわば二重の仕方で「あず」と「にゃん[猫]」の関係が問い直されていることだ。

 まず(1)「というよりむしろ」という「否定(not)」の契機によって、「にゃん[猫]」が「A」を抑圧していることが明らかになる。次に(2)「にゃん[猫]」が「B」に代入されることで、それとは別の選択肢「B」を消去していることが明らかになる。要するに、この言葉遊びでは、「あずにゃん」が隠蔽しているものを暴露することで、〈梓=猫〉とは異なるメタファーの可能性を暗示しているのである。では、この「A」と「B」はそれぞれ何を意味するのか。

 さしあたって「A」は、「梓(Azusa)」の頭文字であると同時に、髪をツインテールにした彼女自身の姿をかたどっていると考えられる。他方で「B」は、その後のライブシーンではじめてその正体が明らかになる。舞台上で演奏する主人公の視線の先には、観客席で母親に抱かれた「赤ん坊(Baby)」と、その周囲を気ままに歩きまわる「鳥(Bird)」の姿がある。繰り返し挿入されるこの二つのモチーフは、ある明確な意図をもって描き込まれたものと見て間違いない。つまり、これらは「にゃん(猫)」に置き換えられる前の「BBabyBird)」なのである。

 このように考えたとき、ようやく〈梓=天使〉へといたる通路が切り開かれる。「not so much A as にゃん」という言葉遊びは、これまでの〈梓=猫〉よりも前に、あるいはそれとは別の可能性として〈梓(A)=赤ん坊+鳥(B)〉というメタファーがありうることを示している。そして、この〈赤ん坊+鳥〉が縮合することで、翼をもった無垢な子供、すなわち「天使」の像が生み出されるのである。こうして〈梓=赤ん坊+鳥=天使〉というメタファーが成立する。いまやこの「A」は、長いツインテールを翼のように垂らした〈梓(Azusa)=天使(Angel)〉の象形文字でもあるのだ。

 一見すると荒唐無稽な解釈に思えるかもしれないが、おそらくこれ以外に「天使にふれたよ!」の制作プロセスを説明することは困難だろう。唯が「天使」という歌詞を思いついたのは、たんなる偶然ではなく、ロンドン旅行をきっかけに〈梓=猫〉が〈梓=天使〉へと変形されたためなのだ*3。作中に織り込まれた言葉遊びは、こうした無意識の思考=制作プロセスをアニメートしていたのである。

無意識をアニメートする(2)──たまこラブストーリー』と非人間への愛

 『映画けいおん!』の複雑な言葉遊びにくらべると、『たまラブ』の駄洒落や言い間違いはひどく単純なものに思える。しかし、それによって無意識の思考プロセスをアニメートしているという点では、どちらも変わりがない。違いがあるとすれば、前者が創造的な「霊感」を扱っているのに対して、後者は抑圧された「感情」や忘却された「記憶」に焦点を当てていることだろう。

 すでに見たように、『たまラブ』では、餅に対するたまこの異常な愛着が、〈餅=もち蔵〉という駄洒落を通じて、最終的にもち蔵に対する愛着へとスライドしていく。では、これはいったいどのような無意識の働きによるものなのか。

 おそらく最もわかりやすい解釈は、もともとたまこは餅に対してだけではなく、幼なじみのもち蔵に対しても強い愛着を抱いていた、というものだ。前作の『たまこま』でそのことがはっきりと描かれなかったのは、たまこが自分自身の恋愛よりも、家族や友人、さらには商店街の人々との人間関係を優先していたからだろう。つまり、正確にはたまこの愛着が餅からもち蔵へとスライドしたのではなく、最初からもち蔵のことを好きだったからこそ、大好きな餅と言い間違えてしまったというわけだ。

 この解釈が正しければ、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びには、たまこの抑圧された恋愛感情がアニメートされていることになる。なるほど、たしかに『たまこま』では、これとよく似た言葉遊びを通じて、さまざまなキャラクターの恋愛感情が物語に織り込まれている。前作についてはすでに別の機会に詳しく論じたので*4、ここではひとつだけ例を挙げておこう。

 たまこの妹の北白川あんこは、小学校のクラスメイトである「柚季(ゆずき)」に淡い恋心を抱いている。ある日、彼が転校してしまうことを知ったあんこは、意を決して彼のもとに走り、実家の餅屋で作ったばかりの「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出す。彼女は柚季に餅の入った袋を手渡し、その中身を説明しようとするのだが、みるみるうちに顔が真っ赤になってしまう。なぜなら、餅に入っている「餡子(あんこ)」と自分の名前である「あんこ」が混ざってしまい、まるで自分自身をプレゼントしているかのように聞こえてしまうからだ。つまり、ここでも〈餅=もち蔵〉と同じように、〈餡子=あんこ〉という駄洒落を通じて、彼女のひそやかな恋愛感情が描き込まれているのである。

 だが、このように比較すると、二人の違いもまたはっきりと見えてくる。というのも、あんこの反応がきわめてわかりやすいのに対して、たまこは物語の終盤にいたるまで、もち蔵の告白に応えるかどうか決めかねているように見えるからだ。それどころか、彼女は告白された気まずさで、あれほど執着していた餅を一度は嫌いになりかけるのである。

 ここからうかがえるのは、たまこの餅に対する愛着ともち蔵に対する愛着が切り離されているのではなく、無意識のうちに結びついているということだ。そうでなければ、もち蔵に対する気まずさが餅にまで影響することなどありえない。おそらくたまこは、最初からもち蔵を好きだったのではなく、餅に対する愛着を無意識のうちにスライドさせることで、ようやく彼を好きになることができたのだろう。

 つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、あんこの場合とは異なり、たまこの恋愛感情をアニメートしていたわけではなかったのだ。そうではなくて、もち蔵に対する彼女の愛着が餅に対するものと基本的に同じであること、あるいはそこから二次的に派生してきたことを示しているのである。

 『たまラブ』の物語終盤には、そのことを裏づけるようなエピソードが挿入されている。そもそも、たまこが現在のような「変態餅娘」になったのは、幼少期に母親を失ってひどく落ち込んでいた彼女を、顔のかたちをした餅が優しく励ましてくれたからだった。もちろん、餅が言葉を話すわけはないから、実際には誰かが背後で操り人形のように餅を動かし、声を当てていたことになる。たまこはずっとこの餅の正体が自分の父親だと思い込んでいたのだが、実はそれがもち蔵だったことに気づくのだ。

 このエピソードが重要なのは、たまこが「(恋愛に)転ぶ」直接的な動機を説明しているためだけではない。むしろ、その動機が〈餅=もち蔵〉という駄洒落をそのまま反復していることが重要なのだ。しゃべる餅の正体がもち蔵だったということは、たまこにとって彼が文字通り「餅」そのものだったことを意味している。だからこそ、ちょうど言葉遊びをなぞるようにして、餅に対する愛着をもち蔵へとスライドすることが可能になったのだ。つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、たまこの忘れられた幼少期の記憶そのものであり、餅からもち蔵へとスライドする彼女の無意識の思考=愛着プロセスをアニメートしていたのである。

 このように『たまラブ』は、くだらない駄洒落や言い間違いを物語に織り込むことで、目覚めた意識ではとらえられない恋愛のダイナミズムを描き出している。恋愛に興味がないはずの「変態餅娘」は、まさに「変態餅娘」であることによって、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことができたのだ。そこには人と餅、いや物の区別はない。すべてが等しく「音像」として処理される無意識の領域では、潜在的にあらゆる事物、あらゆる出来事がさまざまな変形を施され、愛することの可能性の条件を形作るのだから。

 たまこのもち蔵への愛は、いわば非人間への愛である。だが、それはちょうど私たちの愛がそうであるのと同じように、真剣で、滑稽で、ときに泣きたくなるほど凡庸なひとつの生の全体を包み込んでいる。何であれ愛することができるということ──それは自分自身の生を肯定する無意識の身振りにほかならない。

 『たまこラブストーリー』は、餅愛づる姫君がめでたく餅と結ばれる、いわゆる「異類婚姻譚」である。私たちは何よりもそのことに慰められ、そして勇気づけられるのだ。

 

 

*1:京都アニメーションの新たな代表作「たまこラブストーリー」ロングランの秘密。山田尚子監督に聞く1 - エキサイトニュース

*2:たとえば、フロイトは『機知』のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する次のような言葉遊びを例に挙げている。「というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように[famillionär]扱ってくれたんですよ」。この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。

*3:実際、唯は「天使」という言葉を思いつくまで、「君」や「子猫」といった歌詞を検討していた。それらがしっくりこなかったのは、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーが無意識のうちに成立していたためだろう。このメタファーがようやく彼女の意識へと浮上したのは、学校の屋上から羽ばたく鳥の姿を見上げたときだった。

*4:日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ - teramat’s diary

去勢されたおっさんの身体:『スーパーカブ』とぼく(ら)の異常な愛情

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 いわゆる「日常系」がアニメのいちジャンルとして定着して久しい。この間、軽音楽や登山、サバイバルゲーム、釣り、漫画、陶芸、キャンプなど、あらゆる趣味やレジャー活動をテーマにした日常系作品が次々と生み出され、アニメ化もされてきた。当初は「セカイ系」信奉者から「物語がない」とか「奇跡が描けない」とかさんざん批判されたことを考えると、往時ほどの勢いはないとはいえ、それらしい作品が毎クールひとつかふたつ放送される現在の状況は、このジャンルのファンにとって悪いことではない。

 ところで、これらの作品群に対して、ネットの一部では非常に興味深い意見が寄せられている。「女子高生がおっさん趣味をやる作品」というものだ。一見するとあまりにも大雑把なラベリングで、まともな議論には堪えないように思えるかもしれない。一部の趣味を「おっさん」の占有物のように捉えていることも、ジェンダー的な観点から批判の余地があるだろう。けれども、ぼくはこの意見にはひとかけらの真実というか、ある種の切迫感や悲壮感のようなものがあると考えている。「女子高生がおっさん趣味をやる」ということは、裏を返せば、ぼくを含む中年男性にはもはや、趣味にまつわる物語の主人公としての資格が決定的に欠けているということでもある。この痛切な認識を透かし見るかぎり、このラベリングはぼく(ら)が日常系アニメ(に限らない一部作品)をどのように受け入れているか、あるいはどのように受け入れざるをえないかを、ひそかに教えてくれる。

 2021年4月から放送されているアニメ『スーパーカブ』も、広く見れば「女子高生がおっさん趣味をやる作品」に分類できるかもしれない。これはトネ・コーケンによる同名の小説をアニメ化したもので、両親のいない孤独で無口な女子高生が、1台のホンダ・スーパーカブ50を手に入れたことをきっかけに、自分の世界と可能性を広げていく物語だ。

 もちろん、スーパーカブに乗ることをただちに「おっさん趣味」と決めつけるのは、単純に間違っている。新海誠の『秒速5センチメートル』(2007)でも描かれたように、男女問わずスーパーカブを通学の足として使っている高校生は少なくない。デザインや操作性、頑丈さに惹かれて乗っている女性もたくさんいるだろう。

 にもかかわらず、この作品にはたしかに「おっさんの影」がちらついている。これはぼく自身が中年男性だから、色眼鏡でそういうふうに見てしまうというだけではない。作品冒頭、主人公が格安で購入した中古のスーパーカブは、乗り手を3人殺した「呪いのカブ」と呼ばれていた。といっても、最初のオーナー(蕎麦屋のじいさん)は酒の飲みすぎで死に、2人目(本屋のおやじ)は借金で夜逃げ、3人目(神父)は免許停止で手放しただけなのだが、ともかくここで重要なのは、いずれの元オーナーも中高年男性であるということだ。つまり、主人公のスーパーカブは、いわば人生に躓いた見知らぬおっさんたちから、ひとりの女子高生へと受け継がれたバイクなのである。

 これは作中では、たんなる笑い話として言及される些末なエピソードにすぎない。だが、ぼくはこの設定に、ある種の屈折した男性性のようなものを感じてしまう。

 よく知られているように、たいていの日常系アニメには男性キャラクターがほとんど登場しない。その理由についてはいろいろ考えられるが、ぼく個人としては、同時期にSNSによる集団的視聴が一般化し、視聴者の一人称が複数形に変わったことで、ヒロインを独占する特権的な男性主人公への共感や同一化が難しくなったせいではないかと考えている。他方で、こうした変化を男性向けフィクションの物語傾向の変遷という観点から眺めてみると、もう少し大きな流れのなかに位置づけることができるかもしれない。そこには「男性主人公がヒロインを救えなくなっていく」という傾向があるように思われるのだ。

 かつて少女を救うことで自らの「生きる意味」を調達していた男性主人公=視聴者は、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『AIR』(原作:2000)、さらには先の『秒速5センチメートル』などを経て、しだいにヒロインの生に能動的に介入できなくなっていく。男性が抱きがちな素朴なヒーロー願望と、その報酬として少女を獲得・所有することへの暗い欲望は、もはやフィクションのなかでさえ持ち堪えられなくなりつつある。そこには昨今の「弱者男性」論の引き金となった「有害な男性性」への批判や、さまざまな社会経済的要因も関わっているのかもしれない。男性キャラクターを排除した日常系アニメは、おそらくこうした系譜の延長線上に位置している。

 いまやぼく(ら)は、美少女キャラクターをかつてのように無根拠に救うことができないし、それによって自分自身を救うこともできない。彼女たちはぼく(ら)がいなくても、というよりいないからこそ、画面のなかであれほど生き生きと輝くことができる。とりわけ『スーパーカブ』では、主人公が自分の力で未来を切り開いていく姿が、画面の彩度の変化などを通じて印象的に描き出されている。

 もちろん、あいかわらず男性主人公がヒロインを救う作品も山ほどあるし、まったく正反対の歴史を編むことも可能かもしれない。けれども、女性同士の恋愛を描く「百合」や、別の男性キャラクターにヒロインを奪われる「NTR(寝取られ)」といった他ジャンルの流行を見るかぎり、存在理由を見失った男性主人公=視聴者の苦悩とマゾヒズム的な欲望が一部のフィクションの背後にあるのは、ほとんど疑いないように思われる。これはもしかしたら、かつて批評家の江藤淳が指摘したように、先の敗戦に起因する日本人男性の困難に根ざしているのかもしれない。

 ともあれ、こうした文脈を踏まえるなら、『スーパーカブ』に屈折した男性性を読み込むのもそれほどおかしな話ではない。先に述べたとおり、主人公がわずか1万円という超低価格でスーパーカブを手に入れることができたのは、バイク屋の寡黙なおっさんが気を利かせてくれたからであり、そしてなによりも、元オーナーのおっさんたちがそれぞれの人生に躓いてくれたからだ。ぼくはここに「女子高生がおっさん趣味をやる」ことの、あるいはそのように曲解してしまうことの本質的な理由があると考えている。つまり、ぼく(ら)は元オーナーのおっさんたちのようにフィクションから追放され、疎外されているのだが、まさにそのことによって逆説的に少女たちをエンパワーしていると、そう思いたがっているのではないか。救うこととは別の仕方で、自分の生を意味あるものにするために。

 さらに言えば、ぼく(ら)はたんにフィクションから排除されているのではなく、人間性をすっかり失ったかたちで、たとえば別の生物や無機物、機械としてひそかに描き込まれているのかもしれない。これはだいぶひねくれた見方だが、昨年アニメ化された『放課後ていぼう日誌』では、主人公たちに釣り上げられる魚に男性視聴者の欲望が仮託されていた。第1話冒頭では、魚嫌いの主人公のスカートのなかに触手を伸ばす「気持ち悪い」タコが描かれる。

魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について - teramat’s diary

 このように考えると、おっさんたちから女子高生に受け継がれたスーパーカブは、まさに物語から排除された男性性の残滓、あるいは去勢された男性身体のようなものとして解釈できる。さらに重要なのは、このおっさんたちが作中に登場しないことによって、そして本田技研工業の協力と監修のもと実際のデザインが再現されることによって、スーパーカブ自体がフィクションの内と外をつなぐ特別な存在として位置づけられていることだ。現実とフィクションを架橋する男性性の抜け殻──これが凋落した男性主人公に代わる、男性視聴者の分身(アバター)でなければなんだろうか。つまり、ぼく(ら)はスーパーカブを通じて、というよりスーパーカブそのものとして、画面のなかの少女と想像的に接触するのである。

 とはいえ、この作品では女子高生とスーパーカブとの関係に、セクシュアルな含意はまったくない。それこそがぼく(ら)の払った代償であり、人間であることをやめ、セックスを持たない機械と化すことによってのみ、ようやくフィクションへの参入を許されたのだから。けれども、主人公がスーパーカブと同じく3DCGで描画され、文字どおり一体化して通学路を滑走するとき、人間的な性愛とは別の、もうひとつのコミュニケーションの可能性が垣間見える。それはモノになることがひとつの救済であり、解放でもあるような古いユートピアの入り口を指し示している。すべてが線と色彩に還元され、人間も動物も植物も無機物も、あらゆる存在が調和的に混交し相互浸透する神話的乱婚制の世界──初期アニメーションに胚胎していたアンチ・ヒューマニズムカオスモスが、女子高生のゆるやかな日常と重なり合う。

 タンデムする2人の少女をシートに乗せてひた走るとき、それが「百合に挟まりたい」という許されざる欲望の最終的解決であることは疑いえない。ぼくらはついに男性であることを、人間であることをやめる。少女の世界を拡張するうつろな抜け殻となり、意思や感情、欲望と引き換えに自らの存在理由を獲得する。それが幸福と言えるかどうかはわからないが、少なくともそこには、免罪され祝福された存在へのたしかな予感がある。無機物であることの楽しみ、死体であることの喜び……。

「女子高生がおっさん趣味をやる作品」という歪んだ認識の果てには、深刻な自己疎外が突如として救済の至福へと反転する、革命的瞬間が待ち受けている。そのときまでぼくらは、いましばらく瓦礫のあいだをさまよわなければならないのだが。

 

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)

  • 作者:蟹丹
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Kindle
 


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意味から効果へ:あるラブひなおじさんの感傷(「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」後記)

 先日、zoom+YouTubeで「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」という謎企画を開催したのだが、個人的にたいへん楽しく、また学びも多かったので、自分の感想の一部をまとめておくことにした。3時間ほどのアーカイブ動画は以下から。配信エラーで唐突に終了するが、ご容赦願いたい。

 


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ラブひな』は赤松健によるラブコメ漫画で、1998年から2001年にかけて『週刊少年マガジン』で連載された。今年は完結20周年にあたるが、コロナ禍のせいか国際シンポジウムのひとつも見当たらないので、かつて『ラブひな』に躓いたおじさんのひとりとして、急遽座談会を開催することにした。これが「ラブひなおじさん座談会」のあらましである。

 

 今回の座談会のためにおよそ20年ぶりに『ラブひな』を再読して気づいたことがある。自分のおぼろげな記憶のなかの話とだいぶ違うということだ。

ラブひな』は幼い頃に「一緒にトーダイに行こう」と誓い合った初恋の女の子との約束を果たすために、さえない浪人生が女子寮の管理人をやりながら東大合格を目指す物語である。女子寮にはさまざまな美少女が暮らしており、主人公の浦島景太郎はやはり東大を目指している全国模試1位の秀才、成瀬川なるに惹かれていく。

 ぼくの記憶では、名前も覚えていない約束の女の子と成瀬川とのあいだで揺れ動く主人公の葛藤が物語の中心にあったような気がしていたのだが、読み直してみるとどうもそういう感じではない。いちおう葛藤も描かれてはいるものの、景太郎はかなり序盤から一貫して、思い出の女の子ではなく目の前の成瀬川のために、成瀬川と一緒に東大合格を目指すと繰り返し明言している。ぼくはこの20年のあいだに記憶を改竄していたか、もしくは最初から誤読していたらしい。

 思い出のなかの女の子よりも「いま・ここ」にいる美少女のほうが動機として強い。これはとてもよくわかる話だ。景太郎の東大受験のモチベーションは、物語のごく早い段階で約束の女の子から成瀬川へとシフトする。にもかかわらず、ぼくが長らく話の内容を勘違いしていたのは、結局のところ「人生の意味」みたいなものに固執していたからではないかと思う。

 たいがいの中学生と同様、当時のぼくも自分がなんのために生きているのかわからず、そのわからなさを埋めてくれる理由や根拠のようなものを求めていた。その頃太宰治ドストエフスキーなどに触れていれば、ぼくの人生もいまとは違ったものになっていたのかもしれない。だが、文化資本にとぼしいぼくが手に取ったのは純文学ではなく、美少女ゲームのコミカライズであり、週刊誌のラブコメ漫画だった。

 生きる意味に飢えている人間にとって、「約束」という言葉には抗いがたい魅力がある。大切な約束を果たすという大義名分さえあれば、それを目的として生きることができるからだ。当時のぼくはたぶん、景太郎と成瀬川の恋の行方以上に「約束の女の子」の正体を気にしていたのだと思う(しのぶちゃんのほうが好きだったし)。

 けれども、本来『ラブひな』はそういう話ではない。あやふやな約束によって無理やり人生を意味づけるよりも、一緒にいると楽しい・うれしいという身も蓋もない事実性こそが人を前に進ませる。当時の宮台真司なら「意味から強度へ」と表現したにちがいない。ぼくは全然わかっていなかったが、それこそがこの作品に一貫して流れる通奏低音だった。物語の中盤で景太郎が3浪の末に東大に合格できたのは、幼い頃の約束があったからではない。そうではなくて、苛酷な受験勉強をともに乗り切る仲間が、つまりは成瀬川がいたからだ。

 広告などでよく利用されるように、人間は特定の対象に繰り返し接すると、いつのまにかその対象に好意を抱くようになる。これが人間相手にも適用可能なのかはわからないが、少なくともこの作品のなかで景太郎が成瀬川に、そして成瀬川をはじめ女子寮の美少女たちが景太郎に好意を寄せる理由の一端を説明してくれる。つまり『ラブひな』は「(人生の)意味」ではなく、心理学でいうところの「単純接触効果」が勝利する物語なのだ。だからこそ成瀬川は、毎回その場の雰囲気にのまれて景太郎とキスしそうになり、慌てて殴り飛ばすのである。

 当時の記憶と大きく違っていた点はもうひとつある。景太郎は3回目の挑戦で成瀬川とともに東大合格を果たすのだが、物語はそこでは終わらない。というより、そこからが合格までと同じくらい長い。にもかかわらず、ぼくはその後の展開をほとんど覚えていなかった。 

 作者の赤松健が『ラブひな∞』収録のインタビューで述べているとおり、東大合格に前後して物語の主人公は景太郎から成瀬川へと交代する。景太郎は成瀬川に自分の気持ちを打ち明けると、考古学という夢に向かって突き進んでいく。一方の成瀬川は景太郎に好意を抱きつつも、さまざまな理由をつけて告白の返事を引き延ばそうとする。いつまでもはっきりしない態度を取り続ける成瀬川に対し、周囲がしびれを切らして彼女に決断を迫るというのが、物語後半のおおまかなあらすじだ。

 あらためて読み直してみると、そこで描かれている成瀬川の逡巡や葛藤はとてもよくわかる。先に述べたように、景太郎は単純接触効果によって成瀬川を好きになる。それは彼女のほうも同じだ。しかし、これは逆に言えば、2人の関係がなんらかの「意味」によって裏付けられているわけではない、ということでもある。彼らが互いを好いているのは、約束でも運命でもなく、心理学的な「効果」にすぎない。だからこそ成瀬川は不安になる。景太郎の好意がたんに自分との接触頻度の高さによるものだとしたら、それが低下したら自分を嫌いになってしまうかもしれない。別の誰かを好きになってしまうかもしれない。座談会でKitagawaさんが指摘していたとおり、2人の関係はあくまで偶然的なものにすぎないのだから。

ラブひな』終盤で、成瀬川がかつての景太郎以上に「約束の女の子」にこだわるのは、彼女が当時のぼくと同じように意味に飢えているためだ。成瀬川は自分こそがその女の子であると信じ込もうとする(結末としては実際にそうなのだが)。2人の関係を意味づけるための特別な理由や根拠がないかぎり、成瀬川は景太郎の気持ちにうまく応えることができない。東大合格後の長いドタバタは、ごく単純化して言えば、追い詰められた成瀬川がようやく自分の気持ちに素直になる──とはつまり、「意味」への渇望を振り切って「効果」を受け入れるまでのプロセスとして読むことができる。

 当時のぼくはこうした構造にまったく無頓着だった。というより、ほとんど理解できていなかった。だからすぐに忘れてしまったのだと思う。過去の約束のことばかりを覚えていたのも、景太郎や成瀬川とは対照的に、ぼく自身がいつまでも意味にとらわれていたからだろう。

 あれからおよそ20年を経て、ようやく『ラブひな』が何を描こうとしていたのか、おぼろげながら理解できたような気がする。それは結局のところ、人生に意味があろうがなかろうが人は生きていけるのだし、実際にこうして生きているという当たり前の事実に気づくまでの時間だったのかもしれない。その歳月は決して無駄ではなかったと思いたいが、ぼくにとってはいささか長く、また苦しい日々ではあった。

 じつを言えば、『ラブひな』を読んでいた当時の自分が何を感じ、何を考えていたのか、いまとなってはうまく思い出せない。意味に飢えていたのはたしかだと思うが、どのくらい深刻に悩んでいたのかは疑問の余地がある。それでもひとつ言えるのは、この作品が鬱々としたぼくの中学時代に寄り添い、ぼんやりとした希望を抱かせてくれたということだ。高校・大学に進学し、やがてきれいに挫折するまでの人生の束の間、ぼくが人並みに努力できたのは、多かれ少なかれ『ラブひな』のおかげだったと思う。

 それだけに、いま読み返すと物語後半の景太郎の成長がとてもまぶしく感じられる。「ドジでアホでスケベ」と罵られていた彼が、東大受験を機に考古学という夢を見つけ、遺跡を発掘するために世界中を飛び回る。できることなら、ぼくもそんなふうになりたかった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見たときも、似たような印象を受けたのを覚えている。さえない主人公に自分を重ねていた物語が、いつのまにか反実仮想の物語になっていた寂しさとでも言えるだろうか。

 たぶん、それがおじさんになるということなのだろう。『ラブひな』を夢中で読んでいたあの頃の自分に、景太郎のようには生きられなかったというほろ苦い認識が、古い枕の染みのように滲んでいる。

 

ラブひな(1) (Jコミックテラス×ナンバーナイン)