ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(8):自然に言語を与える

 現代の高度な科学技術を「第二の技術」として社会に内蔵し、自然と人類との調和的な共演を実現すること。これがベンヤミンのいう生産力の自然な利用であり、革命の最終目標とも言うべきものだった。

 このように述べるとき、さしあたってベンヤミンの念頭に置かれていたのは、空想的社会主義者として知られるシャルル・フーリエユートピア構想である。ベンヤミンは「複製技術論」をはじめとするいくつかのテクストでフーリエに言及しているが、とりわけ晩年の「歴史の概念について」(1940年)では、フーリエの労働概念が高く評価されている。

 ベンヤミンによれば、俗流マルクス主義的な労働賛美が、ファシズムと同様に「自然支配」ないし「自然の搾取」へといたるのに対して、フーリエの空想的なユートピアは、それよりもはるかに健康的な感覚によって生み出されたのだという。

 「フーリエによれば」とベンヤミンは手短に要約している。「健全な社会的労働を確立すれば、いずれは四つの月が地球の夜を照らし、両極からは氷が消え去り、海水はもう塩辛くなくなり、猛獣が人間の用を足すことになっていた」(UB: 1, 699)。そして、こうした労働のあり方は「自然を搾取することからはるかに遠く、自然の胎内に可能性として眠っている創造の子供たちを出産させるもの」(ibid.)であるという。

 さらに、フーリエとならんでしばしば言及されるのが、ドイツの作家パウル・シェーアバルトである。第二の技術による自然と人類との共演というモチーフは、『レザベンディオ』(1913年)をはじめとするシェーアバルトの作品に深く影響を受けていると考えられる。

 ベンヤミンは1930年代後半頃に書かれたと見られるシェーアバルト論のなかで、彼の作品のうちに「技術と調和し、技術を人間的に用いる人類」(GS: 2, 630)という理念が刻印されていることを指摘する。それは自然を支配するための技術ではなく、逆に人間を解放すると同時に「人間を介して被造物のすべてを友愛の心で解放する」(GS: 2, 631)技術なのだという。ベンヤミンはシェーアバルトを「フーリエの双子の兄弟」と呼んでいた。

 自然と人類との共演という表現のうちには、こうしたユートピア的な労働観・技術観が含まれている。ここには明らかに、正統的なマルクス主義とは異なる、神学的ないし神秘主義的な響きがある。そして、より決定的なのは、ベンヤミンが「ドイツ・ファシズムの理論」のなかで、第一次世界大戦の惨状について次のように語っていたことだ。

 

技術は砲火の帯と塹壕によって、ドイツ観念論の顔の英雄的な相貌をなぞろうとした。技術は思いちがいをしていた。というのも技術が英雄的な相貌と見なしたものは、ヒポクラテスの相貌、すなわち死相だったからだ。このように技術は、自らの邪悪さに深く浸透されて、自然の黙示録的な顔貌を刻印し、自然を沈黙へといたらせたのだが、それでもやはり自然に言語を与ええたかもしれない力ではあった。(TF: 3, 247)

 

 技術は自然に「言語」を与える力を持っていた。けれども、戦争に利用されてしまったことで、逆に自然を「沈黙」させてしまった。

 とすれば、逆にここでベンヤミンが目指しているのは、自然に言語を与えることだと考えられる。自然と人類との共演は、彼が初期から一貫して取り組んできた「言語」のモティーフと密接に結びついているのだ。

 では、自然の言語およびその沈黙とは、いったい何を意味しているのだろうか。次回は、ベンヤミンの初期言語論を参照しつつ、自然と言語、人間との関わりについて詳しく見ていくことになる。