ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(6):戦争の美学

 ファシズムは大衆にスペクタクルな表現を与え、記念碑的造形のための人間素材として呪縛する。ひとかたまりになった大衆は、階級認識と自己認識を欠いた集団へと変えられてしまう。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、このような「政治の美学化」の臨界点について、以下のように述べている。

 

政治を美学化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる政治の美学化は、「戦争」において頂点に達する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の数年前に発表した「ドイツ・ファシズムの理論――エルンスト・ユンガー編の論集『戦争と戦士』について」(1930年)のなかで、戦争を「ドイツ国民の最高次の表現」(TF: 3, 241)と呼んでいる。彼の考えでは、戦争だけが従来の所有関係を保存したまま、最大規模の大衆を動員することができるという。ここで重要なのは、ファシズムの戦争賛美がこうした政治的な側面からだけではなく、同時に技術的な側面からもとらえ返されていることである。

 ベンヤミンによれば、戦争はやはり所有関係を保存したまま、現代の高度な「技術」をあますところなく、しかも美的に利用することを可能にする。彼は「パリ書簡」のなかで、より直接的に「戦争芸術」という言い方をしているが、それは戦争が「ファシズムの芸術理念を、人間素材の記念碑的投入を通じて、そしてまた全技術の、卑俗な諸目的から完全に解放された投入を通じて体現する」(PB: 3, 492)からだ。

 このときベンヤミンが念頭に置いているのは、未来派の詩人マリネッティの「戦争の美学」である。そこでは「戦争は美しい」というフレーズが何度も繰り返され、炸裂する近代兵器や荒廃した戦場の風景が美的に描き出される。マリネッティは、戦争において利用されるさまざまな技術的手段のうちに、これまでとは異なった「新しいポエジーと新しい造形」の可能性を見出すのだ。

 マリネッティの美学は、人類の絶滅そのものを美的に享受するという点で、自己目的化した「芸術のための芸術」の完成であるという。ベンヤミンマリネッティの宣言文の明快さを評価しつつ、ファシズムにおける「戦争の美学」を次のように定式化している。

 

生産力の自然な利用が所有秩序によって妨げられると、技術的手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官とするまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を克服するまでに成長していなかったことである。(KZ: 7, 383)

 

 戦争は「生産力」の「不自然な」利用法である。これはベンヤミンの考えでは、社会と技術がともに未成熟であることに由来する。つまり、技術を社会の「器官」として適切に使いこなすことができないために、行き場を失った社会的生産力が暴走し、結果的に戦争が引き起こされるというのだ。

 したがって、戦争とは「技術の反乱」であり、「技術の要求に対して社会が自然素材を与えなくなったので、技術はその要求をいまや「人間素材」に向けている」(ibid.)[強調原文]。ベンヤミンが目指すのは、これとは逆に、技術を社会の器官として適切に用いること、すなわち生産力の「自然な」利用である。だが、それは具体的に何を意味しているのか。