魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、『プリキュア』や『ONE PIECE』など、さまざまなアニメが新作の放送を延期している。私が今期楽しみにしていた『放課後ていぼう日誌』も、4話以降の放送を休止するという。これは同作を含む「日常系」と呼ばれるジ…

失われた過去の可能性:『映像研には手を出すな!』について

2020年1月から放送されているアニメ『映像研には手を出すな!』の第1話には、宮崎駿監督が手がけた『未来少年コナン』(1978)を思わせるアニメが登場する。主人公の浅草みどりは、幼少期にこの作品を見たことがきっかけで、アニメーション制作の道を志すこ…

京都アニメーション放火事件へのアーティストの応答

東京駅近くのTODA BUILDINGで開催されているTOKYO 2021美術展「un/real engine──慰霊のエンジニアリング」に、アーティスト集団「カオス*ラウンジ」による京都アニメーション放火事件への応答とも言うべき作品が展示されている。 www.tokyo2021.jp 藤城嘘を…

『まちカドまぞく』、あるいは震災後の日常について

「日常系」と呼ばれるアニメのジャンルがある。1999年に連載が開始された『あずまんが大王』を嚆矢とし、『らき☆すた』(2004~)や『けいおん!』(2007~)などに代表されるアニメ作品の総称で、2000年代中盤から後半にかけて隆盛した。その多くは『まんが…

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈3〉

11 丸く切り抜かれたあずにゃんの顔写真が、第一期『けいおん!』の集合写真が象徴する「終わりなき日常」を地として浮かび上がる。私たちはそれが最初から二重化されていたこと、遍在する天使に見守られていたことに気づく。断片化され、重ね合わされたあず…

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈2〉

6 『けいおん!!』は『まんがタイムきらら』に連載中の萌え四コマを原作とするアニメ『けいおん!』の第二期として制作され、前作に続いて「社会現象」と言われるほどの大ヒットを記録したアニメである。第一期から引き継がれた高いクオリティや、モデルと…

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈1〉

以下のテクストは2011年に頒布された同人誌『セカンドアフター』に掲載されたものです。 希望なき人々のためにのみ、希望は私たちに与えられている。——ヴァルター・ベンヤミン 1 2011年3月11日――あの日を境に、オタク文化もまた変わってしまったのだろうか。…

アニメはひとを救わない:京都アニメーションに献花する

8月24日、放火事件のあった京都アニメーション第一スタジオに献花してきた。26日以降は献花台が撤去されるため、花を手向けることもかなわなくなる。 あの日、ぼくは妻の展示の搬入と設営のために脚立にまたがり、白い展示室のなかで悪戦苦闘していた。一息…

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノと…

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想を…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(11):仮象と遊戯

「初期言語論」でベンヤミンは、沈黙する自然を名づけることで、自然と人類との言語的・精神的共同性を打ち立てることを目指していた。これに対し「複製技術論」では、自然を名づけることに代えて、自然との「遊戯」という言い方が強調される。ここには、ど…

平和の少女像はかわいいか?

著名なアニメーター・漫画家として知られる貞本義行氏が、展示中止となった「表現の不自由展・その後」に出展されていた『平和の少女像』について、「キッタネー少女像」などとツイッターで発信し、物議を醸している。 キッタネー少女像。天皇の写真を燃やし…

あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。 ツイッターなどで検索する…

『天気の子』の見取り図

新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。鑑賞者それぞれの感想に資するために、過去の「批評」や「評論」から使えそうな部分をピックアップし、かんたんにまとめておく。 すでに多くのひとが感想を述べているように、『天気の子』は、2000年代前半に一部…

フェミニズム以後のオタク2:「安全に痛い自己反省パフォーマンス」について

前回の記事の続きを書こうと思ったのは、いただいたコメントのなかに、自分でもなんとなく感じていた問題点、というより既視感を指摘したものがあったからだ。いわゆる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」というものである。 teramat.hatenablog.com 安全…

フェミニズム以後のオタク

タイトルにつけた「フェミニズム以後」というのは、フェミニズムが終わったあとという意味ではない。そうではなくて、これはフェミニストによる批判を踏まえてなお、ひとがオタクであるとはどういうことか、どのようにあるべきか、という問いだ。 オタクであ…

『からかい上手の高木さん』とメタフィクション

2019年7月、『からかい上手の高木さん』2期の放送がスタートした。これは山本崇一郎が『ゲッサン』で連載中の漫画を原作としたテレビアニメだ。 『からかい上手の高木さん』の構造はきわめてシンプルかつミニマルで、女子中学生の高木さんがクラスメイトの西…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(10):沈黙する自然を翻訳する

事物は人間のように音声言語によってではなく、魔術的・物質的共同性によって自己を伝達し合う。これが自然の沈黙であり、他方でベンヤミンによれば、この沈黙する自然を人間において音声言語へといたらせること、つまりは名づけることが、人間に課せられた…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(9):初期言語論における自然の沈黙

ベンヤミンが目指す自然と人類との共演は、自然に言語を与えることと言い換えられる。これはどのような事態を指すのだろうか。彼は1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」(以下「初期言語論」)のなかで、きわめて神学的・形而上学的な言語論…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(8):自然に言語を与える

現代の高度な科学技術を「第二の技術」として社会に内蔵し、自然と人類との調和的な共演を実現すること。これがベンヤミンのいう生産力の自然な利用であり、革命の最終目標とも言うべきものだった。 このように述べるとき、さしあたってベンヤミンの念頭に置…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(7):第一の技術と第二の技術

政治の美学化は、戦争において頂点に達する。戦争は生産力の「不自然な」利用であり、これに対してベンヤミンは、生産力の「自然な」利用を目指している。 では、生産力の自然な利用とはどのようなものか。これを理解するうえで重要なのは、ベンヤミンが「複…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(6):戦争の美学

ファシズムは大衆にスペクタクルな表現を与え、記念碑的造形のための人間素材として呪縛する。ひとかたまりになった大衆は、階級認識と自己認識を欠いた集団へと変えられてしまう。 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、このような「政治の美学化」の臨界点…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(5):大衆をほぐすこと、あるいは芸術の政治化

党大会に動員され、総統の前で「かたまり」となる大衆。ベンヤミンはそのような現象を彫刻的なメタファーでとらえ、「ファシズム的芸術」と呼んだ。それは「人間素材」としての大衆を、「記念碑的造形」へと彫刻することを意味する。 ベンヤミンは「複製技術…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(4):ファシズム芸術と大衆の彫刻

政治の美学化は、ナチスの党大会に代表されるような「大衆の表現」によって実現する。ベンヤミンは「複製技術論」の第二稿と同年に発表した「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年、以下「パリ書簡」)のなかで、そうした大衆のあり方を…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(3):ファシズムと大衆の表現

これまでの繰り返しになるが、ベンヤミンがコミュニズムによる「芸術の政治化」を主張したのは、ファシズムによる「政治の美学化」に対抗するためだった。とすれば、ファシズムの戦略についての彼の分析を参照することで、コミュニズムに期待していたものを…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(2):集団的身体における自然との共演

前回述べたとおり、ベンヤミンはファシズムによる「政治の美学化」に対抗するために、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張していた。けれども、彼はその具体的な中身についてほとんど説明していない。ベンヤミンが「芸術の政治化」に直接言及している…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(1):「複製技術時代の芸術作品」における内部分裂

20世紀ドイツの思想家・批評家として知られるヴァルター・ベンヤミンは、1936年に「複製技術時代の芸術作品」(以下「複製技術論」)と題された有名な論考を発表している。この論考の末尾でベンヤミンは、ファシズムが進める「政治の美学化」に対して、コミ…

多層化するスーパーフラット(5.0):起源の暴力を乗り越える

村上がスーパーフラットを発表した当時、批評家の椹木野衣は、スーパーフラットという概念それ自体というよりも、展示された作品から受ける触覚的印象と、あらゆる文化現象を等価なものとして扱うパフォーマティブな側面に注目し、それを戦後の日本社会と重…

多層化するスーパーフラット(4.0):藍嘉比沙耶とレイヤーの理論

2018年10月から放送されているアニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』(以下『いもいも』)の「作画崩壊」がネットの話題をさらった。とくに注目を集めたのは、キャラクターがしゃべっている口元だけが顔から分離し、宙に浮かんでいるという前代未聞の…

多層化するスーパーフラット(2.1)

村上の「スーパーフラット」概念に対する、理論的側面からの包括的な批判は、日本の現代美術とはかなり異なる文脈から現れた。アニメ研究者のトーマス・ラマールは、宮崎駿をはじめとする現代日本のアニメについて論じた著書『アニメ・マシーン』(2013年)…