てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

杖としての批評(1)最近作ったサイトの名前の話

 今年5月に「週末批評」というサイトを立ち上げた。その名のとおり、週末の休みにひとつかふたつ、アニメや映画、漫画などの批評を掲載するサイトだ。「週末批評」という名前は、東浩紀クラスタとしてもう10年ほどの付き合いのあるコロンブスさんこと、倉津拓也氏に付けてもらった。ありがたいことに、倉津氏にはサイトが出来たてほやほやの段階で『闇の自己啓発』についての書評も寄稿してもらっている。

worldend-critic.com

 週末批評を立ち上げてからというもの、ほぼ毎週末の更新作業で私自身の余暇がつぶれ、こちらのブログを更新する余裕がなくなってしまった。「アニメ批評ブログ」と銘打ってはいるものの、わかりやすく批評っぽい文章は今後、サイトのほうに集約するつもりだから、存在意義がいわば宙に浮いた状態にある。どうしようかしらんと悩んだすえ、ごく短い、あまり批評っぽくない文章をときどき載せることにした。最近一部で流行しているように見える日記とかエッセイみたいなものだ。もはや看板に偽りしかない。

 「批評っぽくない」といっても、私自身の関心や文体が批評に向いている以上、中身としては中途半端に「批評っぽい」ものになってしまう可能性が高い。じつをいえば、批評それ自体に対する批評的なアプローチとしての、批評っぽくない文章を書いてみたいという気持ちは以前からあった。ただ私の作文能力だとさすがに難しそうだから、二の足を踏んでいたのだけれど、はたと気づいてしまったのだ。週末批評について思うところを書くだけでなかば自動的に、批評っぽくて批評っぽくない、少し批評っぽいエッセイになるのではないか? ということに(結論からいうと、ならなかった)。

 ともあれ、このところ形式と内容のズレというか、文体と機能の乖離みたいなものが気にかかっている。つまりは「批評が批評的に機能しない(批評ではないものが批評的に機能する)」という逆説のことだ。しょせんは批評愛好家(ワナビー)である私個人の思い込みにすぎないかもしれないが、とはいえ、これがブログとは別に週末批評を立ち上げた動機のひとつでもあったりする。この思い込みについてはいずれ書こうと思う。個人的なことをストレートに書けるのが、批評っぽくない文章のいちばん良いところだ。

 

 初回はサイトの名前を皮切りに、ちょっとした思い込みや思いつきを書き連ねてみる。刻一刻と積み上がっていくタスクを前にすると「そんなことやってる場合じゃない」感がいやおうなく高まるのだが、だいたいそういうときのほうが書きたくなるので不思議だ。多くの男性にとっての自慰と同様、ときどき自己表現として文章を出力しないとストレスが溜まってしまうたちなので、どうしようもない。ちなみに「杖としての批評」というのは、とりあえず付けた暫定的なタイトルである。いつかのツイキャスで大雑把なアイデアを話した記憶があるので、もしかしたら何のことかわかる人もいるかもしれないが、これについて書くのはたぶんもう少し先のことになる。

 

 倉津氏が提案してくれた「週末批評」には、どこか「日曜大工」を思わせる響きがある。週末の休みにホームセンターでネジや木材を買ってきて、ちょっとした棚などを自作したことのある人も多いと思う。いまでは「DIY」と横文字で呼ぶほうが一般的だけれど、この少し野暮ったい四字熟語にも独特の味わいがあって、私は好きだ。子どもの頃に「日曜日」という言葉から感じられた、あの晴れやかな気持ちがよみがえってくるといったら大げさだろうか。批評もまた、日曜大工のように週末のささやかな楽しみを提供してくれるはずだし、そうあってほしいという願いを込めて「週末批評」と名づけた──という心温まる話をいま思いついた。いや、倉津氏がそう考えていた可能性は否定できない。ここでは社会の多数派に合わせて週末=土日としているけれど、土日休みではない人にとってはもちろん、休みの日がその人にとっての週末である。

 サイトのトップページには、私の好きなカール・マルクスの言葉を掲げている。「私たちは狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」──『ドイツ・イデオロギー』の有名な一節(の一部)だ。じつをいうと、もともとはこの「そして食後には批評を nach dem Essen zu kritisieren」というフレーズをそのまま、あるいは短縮してサイトの名前にするつもりだった。サイトの更新タイミングもだいたい週末の20~21時、つまりは「食後」である。

 「週末批評」という名前が気に入ったのは、このマルクスの言葉と響き合うニュアンスが感じられたからだ。一週間の終わりとしての週末、あるいは一日の終わりとしての食後。「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく」という但し書きは(マルクスに詳しい人には怒られそうだが)まさに「日曜大工」の精神そのものにも思える。怒られついでにいうと、私は『ドイツ・イデオロギー』から先の一節を引くにあたって、きわめて重要な前提条件を勝手に省略している。私たちが「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」ようになるためには、マルクスによれば、共産主義社会が到来しなければならない。

 いまのところ、日本では共産主義社会は実現していない。幸か不幸か、当面は実現する見込みもなさそうだ。マーク・フィッシャーが流行らせた「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という言葉のとおり、2000年前後のフィクションでさんざん描かれた「世界(セカイ)の終わり」に比べたら、たしかに「資本主義の終わり」を想像するのは難しい。元ネタとされるフレドリック・ジェイムソンによると、それは私たちの想像力の貧困ゆえらしいのだが。

 私が『ドイツ・イデオロギー』の記述から「共産主義社会が到来したら」という前提を外したのは、ひとつにはそういう理由からだ。マルクス主義はあいかわらず、現状の社会に対するもっとも鋭い批評=批判の源泉であり続けている。けれど、もはや一部の運動家を除けば、この国でドラスティックな革命が起こりうるなんて誰も信じていない。百歩譲っていつか起こるとしても、私にとっては千年王国のキリスト再臨とか56億7000万年後の弥勒菩薩の救済とか、ほとんどそういう信仰のたぐいに見えてしまう。資本主義の終わりが想像できない以上、世界の終わり──懐かしい言い方をすると「デカい一発」──を夢見ながら、死ぬまで賃労働に耐えるしかないのだろうか。そのためのお助けアイテムは、なるほど、いくつも用意されている。ストロングゼロとかソシャゲとかアニメとかだ。

 私がマルクスのあの一節を気に入っているのは、さっき述べたとおり、なんとなく「日曜大工」っぽいからである。ここで語られているのは分業の話なのだが、それはそれとして、妙に具体的な手触りのようなものが感じられるのだ。そしてこの感触は、私たち──と、あえて一人称複数形で書くけれど──が一日や一週間の賃労働の終わりに感じる、あの解放感や高揚感と結びついているような気がする。たとえ「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」としても、当然ながら、世界の終わりだけが唯一想像可能な終わりではない。いまとは別の生を新たに始めるためには、世界の終わり=終末よりも、むしろ一週間の終わり=週末のほうがふさわしいかもしれない。資本主義が終わるのはたぶん、大恐慌や暴力革命が起こるときではなく、カレンダーの大半の日付が青と赤に塗り替えられるときなのだろう。

 これはもちろん、ただのレトリックである。私はこういうふわんとした書き方が好きで、批評っぽい文章を書くときも、だいたい最後はレトリカルな一文で締めたくなる。この癖は「鳩を飛ばす」と揶揄されていて、妻には「おっ、今回もたくさん鳩飛ばしてるね~」などとからかわ……褒められることもある。書くことはしばしば投瓶通信や手紙の誤配に喩えられるが、私にとっては何よりもまず「鳩を飛ばす」ことであるらしい。できるかぎり多くの鳩を、できるかぎり高く、できるかぎり遠くまで飛ばす──そのために書いているといってもいいかもしれない。問題があるとしたら、伝書鳩ですらないことだろうか。

 とはいうものの、カレンダーの比喩は文字どおりに理解することもできる。急に身も蓋もない話になるが、宇野常寛氏は最近の著書で、土日に加えて水曜日を休みにすることを主張している。これは同氏のこれまでの主張のなかで、個人的にいちばん共感できるものだ。すでに週休3日制を試験的に導入している国や企業もいくつかあるらしい。新型コロナウイルスパンデミックによって在宅勤務が一気に普及したように、平均的な労働日もじわじわ削減していくことができれば、共産主義社会が到来しようとしまいと「狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなく、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕方には家畜を追い、そして食後には批評をすることができる」ようになるかもしれない。

 おそらく現実的には、ベーシック・インカムなどと同様、いろいろな困難にぶつかってなかなかうまくはいかないだろう。ライバルの国や企業に後れをとるとか、給料が減るとかいった危惧はすでに出ているし、仮に段階的に導入されたとしても、今度は労働日格差のようなものが生まれて、社会的分断を深める可能性さえある。その一方で加速主義などのラディカルな立場と比べると、いかにも素朴で散文的、言ってみれば「ぬるい」主張に思えてしまう。しかし、それでも私が「週末の休みを増やそう」という素朴すぎる提案に共感してしまうのは、誰もが一度はあの土曜の夜の解放感を、あるいは日曜の朝の高揚感を味わったことがあるはずだからだ。それらは書物と革命家の頭のなかにしかない共産主義社会とは違って、私たちの身体に深く根ざした束の間のユートピアの記憶なのである。

 週末への期待が世界を変える。それはいつか古い世界を終わらせる。週末批評のURLがworldend-critic.comなのは、そんな大げさな願いが込められているからでもある(鳩が「飛ぶの?」みたいな顔でこっちを見ている)。

 書いてみると結局、いつもとほとんど同じノリの文章になってしまった。初回なんてどうせこんなものである。中途半端に論文を書く訓練しか受けていないのに、いきなり軽妙なエッセイが書けたら誰も苦労しない。それから、週末批評にはじつはもうひとつ「週末思想研究会」という文脈があるのだけれど、これについてはたぶん長くなるので別の機会に譲りたい。次回はまた気が向いたときに、サイトを立ち上げた動機とかについて書こうと思う。