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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(5):大衆をほぐすこと、あるいは芸術の政治化

 党大会に動員され、総統の前で「かたまり」となる大衆。ベンヤミンはそのような現象を彫刻的なメタファーでとらえ、「ファシズム的芸術」と呼んだ。それは「人間素材」としての大衆を、「記念碑的造形」へと彫刻することを意味する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の注のなかで、かたまりとなった大衆を「ひとまとまりの大衆」(KZ: 7, 371)と呼び、プロレタリア大衆とはっきり区別している。後者が自律的・革命的な「行動」を可能とするのに対して、前者はパニック的・反革命的な「反応」に支配されているという。

 なぜなら、ひとまとまりの大衆は、プロレタリア大衆のように「階級意識」を通じて連帯しているのではなく、ファシズムに動員された「小市民大衆」(ibid.)にすぎないからだ。ベンヤミンは「小市民層は階級ではない」(ibid.)と述べているが、これは彼らが、プロレタリアとしての自己認識ないし階級認識を欠いていることを意味する。

 さらに「複製技術論」の翌年、1937年から38年にかけて書かれた「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」のなかにも、小市民大衆についての記述がある。それによれば、こうした大衆は「運命」や「人種」といった全体主義イデオロギーによって自らを合理化し、あたかも動物のように「群棲衝動と反射的な振る舞いを自由に戯れさせる」(PS: 1, 565)。

 ベンヤミンはそのことを、必ずしも否定的にのみ評価しているわけではない。とはいえ「ファシズムが動員する大衆がひとまとまりのものであればあるほど、この大衆の反応が小市民のもつ反革命的本能に規定される可能性がそれだけ多くなるということが、ファシズムには分かっていた」(KZ: 7, 371)。だからこそファシズムは、プロレタリア大衆に表現を与え、人間素材として「呪縛」することで、彼らをひとまとまりの大衆へと変えようとする。これが、ファシズムによる「政治の美学化」の内実である。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、大衆にプロレタリアとしての自己了解を促すことで、彼らをファシズムの呪縛から解放することだと言えるだろう。それは彼の言葉を借りるなら、呪縛されたひとまとまりの大衆を「ほぐす」(ibid.)ことである。

 このように考えれば、ベンヤミンの唱える「芸術の政治化」の内実もおのずと明らかになる。それはすなわち、ファシズムの戦略とは逆に、大衆の自己了解のために芸術を利用することだ。ひとまとまりの大衆にプロレタリアとしての階級認識・自己認識をもたらし、資本主義的な所有関係を廃絶する「革命」を成し遂げること。次回以降は、その具体的な戦略について見ていくことになる。

 ただし、このとき注意すべきなのは、ファシズムに対するベンヤミンの批判が、必ずしも正統なマルクス主義の枠組みにはとどまらないということだ。それは彼生来の、神学的・神秘主義的なパースペクティブへと拡張されていく。そこではファシズムコミュニズムの対立が、所有関係の変革についての政治的・経済的な問題としてだけではなく、人類と自然との関係性をめぐる宇宙論的な思弁において再編成されることになる。さらに詳しく見ていこう。