てらまっとのアニメ批評ブログ

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『からかい上手の高木さん』とメタフィクション

 2019年7月、『からかい上手の高木さん』2期の放送がスタートした。これは山本崇一郎が『ゲッサン』で連載中の漫画を原作としたテレビアニメだ。

 『からかい上手の高木さんの構造はきわめてシンプルかつミニマルで、女子中学生の高木さんがクラスメイトの西片に思わせぶりなことをいい、動揺する彼の姿を見てよろこぶ、というものだ。どのエピソードも基本的に一話完結型で、同じパターンが延々と繰り返される。

 西片は毎回「ひょっとして高木さんにからかわれているのか?」とか「このままではまた高木さんにからかわれてしまう!」とかモノローグで煩悶するのだが、彼女を出し抜こうとする彼の試みはことごとく空振りに終わる。高木さんはといえば、西片のそういう反応を見ること自体が目的なので、最初から勝利を約束されている。

 この作品の重要なところは、西片がさまざまな可能性を模索しつつも、高木さんの挑戦にたえず敗北し続ける点だ。彼は負け続け、彼女は勝ち続ける。西片はからかわれていることを根に持っており、今度こそはと策略をめぐらすのだが、どうしても負けてしまう。この意味で『からかい上手の高木さん』は、昨今放送したアニメのなかで、もっともカフカ的な作品のひとつである。

 『からかい上手の高木さん』を見る私たちは、西片をからかう高木さんの動機が、彼への好意であることに気づいている。高木さんは、西片が好きだからこそからかう。西片はそのことにうすうす感づいてはいるようだが、いまひとつ確信がもてずにおり、そのためにいつもからかわれてしまう。そんな彼らの様子を見て私たちが楽しめるのは、かつて私たちもまた、似たような願望を抱いたことがあったからだ。

 もちろん、それはたんなる願望にすぎなかった。自分のことが好きだからからかってくるなどという都合のよい想定は、多くの場合、ただの妄想(フィクション)である。『からかい上手の高木さん』は、この妄想をそのままかたちにした作品でありながら、西片の「からかっているにちがいない」という執拗な疑念を通じて、妄想へのメタ的な批判をさしはさむ。「これは自分の妄想ではないか」という疑いが、『からかい上手の高木さん』というフィクションを成立させている。

  作家の森見登美彦は、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」と書いた。いわゆる「ラブコメ」の大前提となるのは、物語の結末としての恋愛の成就、つまり「告白」を無限に遅延させることだ。しかし、高木さんのからかいは、事実上の告白といってもさしつかえないほど露骨なものである。作中でも何度か言及されるとおり、第三者からすると、互いに好き合っている高木さんと西片が、登下校中、授業中、休み時間、放課後と、ずっといちゃいちゃしているようにしか見えない。

 それを「成就した恋」にせず、あくまでひとつのフィクションとして成立させているのは、西片の「からかっているにちがいない、からかわれたくない」という不自然なまでにかたくなな信念だ。

 この信念がどこからやってきたのか、過去になんらかのトラウマ的経験があったのか、作中で明らかにされることはない。いずれにせよ重要なのは、それがラブコメをラブコメとして、フィクションをフィクションとして成立させるために要請された身ぶりである、ということだ。そこには世界観の構築や視聴者との諸前提の共有といった約束事がほとんど介在せず、ただ西片の信念だけが、ラブコメとしての物語を延命させている。

 西片の信念が崩れ、恋愛が成就してしまった瞬間、この共犯的なコミュニケーションも終わりを迎える。作中で唯一、そのきざしが見えた回は「クリティカル」と題されており、それが文字通り、この作品にとって「クリティカル=危機的/批評的」な瞬間であることを暗示していた。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(10):沈黙する自然を翻訳する

 事物は人間のように音声言語によってではなく、魔術的・物質的共同性によって自己を伝達し合う。これが自然の沈黙であり、他方でベンヤミンによれば、この沈黙する自然を人間において音声言語へといたらせること、つまりは名づけることが、人間に課せられた「課題[使命]」なのだという。

 人間は名づけることによって、あらゆる事物との「非物質的で、純粋に精神的」(US: 3, 147)な共同性を実現する。ベンヤミンは自然と人間との関係について、次のように述べている。

すべての自然は自己を伝達するかぎり、言語において、とはつまり結局は人間において自己を伝達する。それゆえに人間は自然の主人なのであり、事物を名づけることができるのである。事物の言語的本質を通してのみ、人間は自分自身のうちから事物の認識へと到達することができる――すなわち名において。神の創造が成就されるのは、事物が自身の名を人間から得ることによってであり、ひとり言語だけが名において人間から語り出すのである。(US: 3, 144)

 人間は沈黙する事物を名づけることで、その事物の「認識」へといたることができる。ここで注目すべきなのは、同時にそのことが神の「創造」の成就であると言われていることだ。

 ベンヤミンは『創世記』の天地創造物語を参照しながら、人間の精神的本質を神の創造する「言葉」としてとらえ返している。

 神は言葉において自然を創造したのだが、しかし人間だけは言葉から造るのではなく、逆に創造の媒質としての言葉を人間のうちに解き放ったのだという。それゆえ、神の創造する言葉は「事物にあっては魔術的共同性によってなされる物質の伝達となっており、人間にあっては至福の精神のうちにある認識と名の言語となっている」(US: 3, 151)。

 そしてこの言葉は、人間においてはもはや創造する力をもってはいないものの、沈黙する自然のうちに宿っている神の言葉を「受容[受胎]」する力をもっているとされる。このことが人間による事物の名づけ、すなわち認識を可能にする。

 つまり、人間は沈黙する自然の言語を受容し、それを音声言語としての名へと移すことによって、自然の不完全な言語をより完全なものに、とはつまり神の言語に「翻訳」するのだ。これが名づけによる創造の成就であり、そこにおいてあらゆる被造物との言語的・精神的共同性が成立するとベンヤミンは述べる。

 ところが、人間が楽園から追放されたことで、完全な認識を可能にする楽園の「純粋言語」は、無数の言語へと分割されてしまった。そしてそのことによって、「自然のもうひとつの沈黙」が始まる。この沈黙が自然の「悲しみ」である。「もしも自然に言語が授けられたなら、すべての自然は嘆きはじめるだろうということは、ひとつの形而上学的真理である」(US: 3, 155)。

 このような自然の「嘆き」は、二重の意味を持つ。ひとつは話すことができないという嘆きであり、もうひとつは沈黙していることそれ自体の嘆きである。というのも嘆きとは「未分化で無力な言語表現」であり、そして「すべての悲しみのうちには、言語を欠いた状態へと陥っていく最も深い傾向が潜んでいる」(ibid.)からだ。

 このような悲しみの原因となるのが、楽園を追放された人間の諸言語による「過剰命名」である。自然は神の言語によってではなく、分割されたいくつもの言語によって過剰に名づけられている。そして、これをより高次の言語へと翻訳し、神の言葉へと近づけていくことが、人間に課せられた課題なのだという。

 ベンヤミンフーリエやシェーアバルトユートピア構想のうちに、こうした神学的・形而上学的プログラムを読み込んでいる。それはたとえば「自然による創造の子供たちの出産」や「被造物の解放」といった言い方からも明らかであり、「初期言語論」のおよそ20年後に書かれた「複製技術論」もその例外ではない。

 つまり、ベンヤミンマルクス主義的な革命を通じて、たんに資本主義の打倒と階級格差の廃絶を目指していたわけではない。そうではなく、あらゆる事物との言語的・精神的共同性を打ち立てようとしていたのだ。これが彼のいう「自然と人類との共演」の内実である。

 ただし「複製技術論」においては、沈黙する自然を「名づける」という言語論的なモチーフが後退し、代わりに自然との「遊戯」というモチーフが前景化している。ここにはどのような変化が認められるのか。自然との「遊戯」とは具体的に何を意味するのか。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(9):初期言語論における自然の沈黙

 ベンヤミンが目指す自然と人類との共演は、自然に言語を与えることと言い換えられる。これはどのような事態を指すのだろうか。彼は1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」(以下「初期言語論」)のなかで、きわめて神学的・形而上学的な言語論を展開している。

 ベンヤミンによると、生物と無生物とを問わず、あらゆる事物は言語を持っている。そして、それらの言語において自らの「精神的本質」を伝達するのだという。人間による事物の表象は、この伝達によって初めて成立する。「自らの精神的本質を表現において伝達しないようなものを、私たちは何ひとつ表象することができない」(US: 3, 141)と彼は述べている。

 つまり、ここでベンヤミンは、そもそも人間による「認識」を可能にする条件として、人間側の知覚や理解の枠組みを前提とするのではなく、事物の側に精神的本質の伝達可能性、すなわち言語の存在を認めているのだ。

 この精神的本質は、言語によってdurchではなく、言語においてin自らを伝達する、そのような自己であるとされる。ベンヤミンは精神的本質にあって伝達可能なものを「言語的本質」と呼び、そしてそのかぎりでの精神的本質が、言語において伝達されると述べている(ただし、後にこの二つは同一視されることになる)。

 たとえばランプの言語が伝達するものは、いま・ここにあるランプそれ自体ではなく、伝達可能なかぎりでのランプの精神的本質、つまり表現となった「言語―ランプ」(ランプの言語)である。したがって、事物の言語的本質とは、その事物の言語そのものなのだが、そうなると「どの言語も自分自身を伝達する」(US: 3. 142)[強調原文]ということになる。

 つまり、ベンヤミンにとって言語とは、自分自身において「自らを伝える=伝わる」もの、すなわち能動的であると同時に受動的でもあるような、いわば「中動態的なもの」にほかならない。

 ベンヤミンは言語を伝達の手段として、事柄を伝達の対象として、そして人間を伝達の受け手としてとらえる一般的な言語観を「市民的言語観」と呼んで批判する。彼にとって言語とは、たんなる伝達の手段ではなく、そこにおいて伝達そのものが生じる「媒質」なのだ。

 このように言語を定義づけたうえで、ベンヤミンは「人間の言語」をそれ以外の言語から区別する。人間の言語は他の言語とは異なり、「名づける言語」なのだという。

 ベンヤミンによれば、人間の言語的本質、すなわちその言語は名づけることであり、人間は事物を名づけることによって自らの精神的本質を伝達する。このとき精神的本質は、「名」において完全に言語そのものになっている。というのも「名とは、それによってdurchはもはや何ものも自己を伝達せず、それにおいてin自己が自ら、そして絶対的に自己を伝達するもの」(US: 3, 144)[強調原文]とされるからだ。

 したがって、人間が事物を名づけうるということは、人間の精神的本質があますところなく伝達可能であること、それゆえ人間の精神的本質が言語そのものであることを意味している。

 これに対して事物の精神的本質は、人間のそれとは異なり、完全に伝達可能なものにはなっていない。なぜなら、ベンヤミンの考えでは、事物は「純粋な言語的形成原理」としての「音声」を欠いているために、精神的本質を伝達する媒質として不完全だからである。

 事物は音声言語によってではなく、「魔術的」な「物質的共同性」によって互いに自己を伝達し合う。さしあたってこれが、ベンヤミンのいう自然の沈黙である。

 さらに、ベンヤミンは彫刻や絵画の言語といったものが、事物の言語、すなわち「名を欠いた非音響的な言語、物質からなる言語」に基礎づけられていることを指摘する。つまり、彼がファシズムによる大衆の表現を「芸術」と同一視するのは、それがより高次の音声言語へと翻訳されないまま、大衆を物質的・魔術的共同性のうちに呪縛するためにほかならない。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、人間と事物とのより解放的な関係、すなわち言語的・精神的共同性を打ち立てることである。したがって「複製技術論」における「政治の美学化」と「芸術の政治化」、あるいはファシズムコミュニズムの対立は、「初期言語論」における二つの共同性をそれぞれ変奏したものと考えることができるのだ。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(8):自然に言語を与える

 現代の高度な科学技術を「第二の技術」として社会に内蔵し、自然と人類との調和的な共演を実現すること。これがベンヤミンのいう生産力の自然な利用であり、革命の最終目標とも言うべきものだった。

 このように述べるとき、さしあたってベンヤミンの念頭に置かれていたのは、空想的社会主義者として知られるシャルル・フーリエユートピア構想である。ベンヤミンは「複製技術論」をはじめとするいくつかのテクストでフーリエに言及しているが、とりわけ晩年の「歴史の概念について」(1940年)では、フーリエの労働概念が高く評価されている。

 ベンヤミンによれば、俗流マルクス主義的な労働賛美が、ファシズムと同様に「自然支配」ないし「自然の搾取」へといたるのに対して、フーリエの空想的なユートピアは、それよりもはるかに健康的な感覚によって生み出されたのだという。

 「フーリエによれば」とベンヤミンは手短に要約している。「健全な社会的労働を確立すれば、いずれは四つの月が地球の夜を照らし、両極からは氷が消え去り、海水はもう塩辛くなくなり、猛獣が人間の用を足すことになっていた」(UB: 1, 699)。そして、こうした労働のあり方は「自然を搾取することからはるかに遠く、自然の胎内に可能性として眠っている創造の子供たちを出産させるもの」(ibid.)であるという。

 さらに、フーリエとならんでしばしば言及されるのが、ドイツの作家パウル・シェーアバルトである。第二の技術による自然と人類との共演というモチーフは、『レザベンディオ』(1913年)をはじめとするシェーアバルトの作品に深く影響を受けていると考えられる。

 ベンヤミンは1930年代後半頃に書かれたと見られるシェーアバルト論のなかで、彼の作品のうちに「技術と調和し、技術を人間的に用いる人類」(GS: 2, 630)という理念が刻印されていることを指摘する。それは自然を支配するための技術ではなく、逆に人間を解放すると同時に「人間を介して被造物のすべてを友愛の心で解放する」(GS: 2, 631)技術なのだという。ベンヤミンはシェーアバルトを「フーリエの双子の兄弟」と呼んでいた。

 自然と人類との共演という表現のうちには、こうしたユートピア的な労働観・技術観が含まれている。ここには明らかに、正統的なマルクス主義とは異なる、神学的ないし神秘主義的な響きがある。そして、より決定的なのは、ベンヤミンが「ドイツ・ファシズムの理論」のなかで、第一次世界大戦の惨状について次のように語っていたことだ。

 

技術は砲火の帯と塹壕によって、ドイツ観念論の顔の英雄的な相貌をなぞろうとした。技術は思いちがいをしていた。というのも技術が英雄的な相貌と見なしたものは、ヒポクラテスの相貌、すなわち死相だったからだ。このように技術は、自らの邪悪さに深く浸透されて、自然の黙示録的な顔貌を刻印し、自然を沈黙へといたらせたのだが、それでもやはり自然に言語を与ええたかもしれない力ではあった。(TF: 3, 247)

 

 技術は自然に「言語」を与える力を持っていた。けれども、戦争に利用されてしまったことで、逆に自然を「沈黙」させてしまった。

 とすれば、逆にここでベンヤミンが目指しているのは、自然に言語を与えることだと考えられる。自然と人類との共演は、彼が初期から一貫して取り組んできた「言語」のモティーフと密接に結びついているのだ。

 では、自然の言語およびその沈黙とは、いったい何を意味しているのだろうか。次回は、ベンヤミンの初期言語論を参照しつつ、自然と言語、人間との関わりについて詳しく見ていくことになる。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(7):第一の技術と第二の技術

 政治の美学化は、戦争において頂点に達する。戦争は生産力の「不自然な」利用であり、これに対してベンヤミンは、生産力の「自然な」利用を目指している。

 では、生産力の自然な利用とはどのようなものか。これを理解するうえで重要なのは、ベンヤミンが「複製技術論」のなかで、二種類の技術を区別していることだ。

 ベンヤミンは、原始時代の魔術や呪術を「第一の技術」と呼び、他方で、現代の科学技術を「第二の技術」(KZ: 7, 359)と呼んでいる。前者の特徴が「一度きり」であるのに対して、後者においては「一度[の失敗]は数のうちに入らない」(ibid.)。この二つの技術は、伝統的な芸術作品の「いま・ここ」における「一回性」と、大量生産を可能にする複製技術の「反復可能性」(KZ: 7, 355)にそれぞれ対応する。

 だが、ここで注意すべきなのは、それらが生産手段の違いにのみ還元されるわけではない、ということだ。しばしば誤解されているが、両者は相互排他的なカテゴリーではない。実際、ベンヤミンは「芸術は第一の技術にも第二の技術にも結ばれている」(KZ: 7, 359)と明確に述べている。そして現代においては、第一の技術から第二の技術へと大きく重心が移りつつあるのだという。

 したがって、ここで区別されている二種類の技術は、具体的な道具や生産手段を指すというよりも、むしろ、自然と人間との関係のあり方そのものを指していると考えるべきだろう。ベンヤミンは以下のように続けている。

 

第一の技術は実際、自然の支配を目指していた。第二の技術はむしろ、自然と人類との共演を目指すところがずっと大きい。(ibid.)

 

  ベンヤミンが社会の「器官」とすることを目指していたのは、機械的な複製技術に代表される現代の高度な科学技術である。つまり、彼はこうした技術を第二の技術として使いこなすことで、自然と人類との調和的な「共演[共同遊戯]」を実現しようとしていたのだ。

 他方で、第一の技術による自然の「支配」とは、自然の持つ力と解放的に戯れるのではなく、それを魔術的なやり方で利用することである。ベンヤミンの考えでは、原始時代の芸術作品はそうした魔術の道具だった。先祖の像を彫刻することは魔術の実行であり、またその像は、儀式の際にとるべき姿勢の手本であり、さらにその像を眺めることで、自らの魔術的な力が強められるのだという。

 こうした記述には明らかに、ファシズムによる「政治の美学化」が重ね合わされている。すでに確認したように、ファシズムによる大衆の表現とは、先祖の像の代わりに総統を礼拝させることで大衆を呪縛し、人間素材に変えてしまうファシズム的芸術にほかならなかった。「ファシズムの教えによれば、呪縛が彼らに強制する姿勢とともに、大衆ははじめて自らの表現にいたる」(PB: 3, 489)とベンヤミンは述べている。

 したがってファシズムは、現代の科学技術をあくまで第一の技術として、とはつまり「魔術」として反動的に利用することを試みている、と言えるだろう。本来であれば「第一の技術、原始時代の技術ができるだけ多く人間を投入したのに対し、第二の技術、現代の技術はできるだけ少なく人間を投入する」(KZ: 7, 359)。ところが、ファシズムはむしろ、大衆を動員するためにこそ現代の技術を利用する。そこでは「石のかたまりBlöckeからピラミッドを建てた奴隷たちと、広場や練兵場において総統の前で自らかたまりをなすプロレタリアの大衆とのちがいはほとんどない」(PB: 3, 489)。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、「一個の石塊から」(KZ: 7, 362)[強調原文]創造される古代ギリシャ彫刻の「永遠性の価値」に言及している。これとまったく同様にファシズムは、人間素材としての大衆の「かたまり」を記念碑へと造形することで、自らの支配を永遠化しようとするのだ。

 このような「政治の美学化」の頂点としての戦争は、自然との「調和的な共演を放棄すること」(TF: 3, 238)を意味する。これがベンヤミンのいう、ファシズムによる生産力の「不自然な」利用である。ファシズムは現代の高度な科学技術を、魔術的な自然支配の道具として用いる。これに対して、生産力の「自然な」利用とは、現代の技術を「第二の技術」として社会に実装し、自然と人類との「調和的な共演」を実現することにほかならない。

 では、ベンヤミンの目指す「自然と人類との共演」とは、いったいどのような事態を指すのだろうか。次回は彼の初期言語論にまでさかのぼり、そこに込められた神学的・神秘主義的含意をくみ取ることにしたい。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(6):戦争の美学

 ファシズムは大衆にスペクタクルな表現を与え、記念碑的造形のための人間素材として呪縛する。ひとかたまりになった大衆は、階級認識と自己認識を欠いた集団へと変えられてしまう。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、このような「政治の美学化」の臨界点について、以下のように述べている。

 

政治を美学化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる政治の美学化は、「戦争」において頂点に達する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の数年前に発表した「ドイツ・ファシズムの理論――エルンスト・ユンガー編の論集『戦争と戦士』について」(1930年)のなかで、戦争を「ドイツ国民の最高次の表現」(TF: 3, 241)と呼んでいる。彼の考えでは、戦争だけが従来の所有関係を保存したまま、最大規模の大衆を動員することができるという。ここで重要なのは、ファシズムの戦争賛美がこうした政治的な側面からだけではなく、同時に技術的な側面からもとらえ返されていることである。

 ベンヤミンによれば、戦争はやはり所有関係を保存したまま、現代の高度な「技術」をあますところなく、しかも美的に利用することを可能にする。彼は「パリ書簡」のなかで、より直接的に「戦争芸術」という言い方をしているが、それは戦争が「ファシズムの芸術理念を、人間素材の記念碑的投入を通じて、そしてまた全技術の、卑俗な諸目的から完全に解放された投入を通じて体現する」(PB: 3, 492)からだ。

 このときベンヤミンが念頭に置いているのは、未来派の詩人マリネッティの「戦争の美学」である。そこでは「戦争は美しい」というフレーズが何度も繰り返され、炸裂する近代兵器や荒廃した戦場の風景が美的に描き出される。マリネッティは、戦争において利用されるさまざまな技術的手段のうちに、これまでとは異なった「新しいポエジーと新しい造形」の可能性を見出すのだ。

 マリネッティの美学は、人類の絶滅そのものを美的に享受するという点で、自己目的化した「芸術のための芸術」の完成であるという。ベンヤミンマリネッティの宣言文の明快さを評価しつつ、ファシズムにおける「戦争の美学」を次のように定式化している。

 

生産力の自然な利用が所有秩序によって妨げられると、技術的手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官とするまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を克服するまでに成長していなかったことである。(KZ: 7, 383)

 

 戦争は「生産力」の「不自然な」利用法である。これはベンヤミンの考えでは、社会と技術がともに未成熟であることに由来する。つまり、技術を社会の「器官」として適切に使いこなすことができないために、行き場を失った社会的生産力が暴走し、結果的に戦争が引き起こされるというのだ。

 したがって、戦争とは「技術の反乱」であり、「技術の要求に対して社会が自然素材を与えなくなったので、技術はその要求をいまや「人間素材」に向けている」(ibid.)[強調原文]。ベンヤミンが目指すのは、これとは逆に、技術を社会の器官として適切に用いること、すなわち生産力の「自然な」利用である。だが、それは具体的に何を意味しているのか。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(5):大衆をほぐすこと、あるいは芸術の政治化

 党大会に動員され、総統の前で「かたまり」となる大衆。ベンヤミンはそのような現象を彫刻的なメタファーでとらえ、「ファシズム的芸術」と呼んだ。それは「人間素材」としての大衆を、「記念碑的造形」へと彫刻することを意味する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の注のなかで、かたまりとなった大衆を「ひとまとまりの大衆」(KZ: 7, 371)と呼び、プロレタリア大衆とはっきり区別している。後者が自律的・革命的な「行動」を可能とするのに対して、前者はパニック的・反革命的な「反応」に支配されているという。

 なぜなら、ひとまとまりの大衆は、プロレタリア大衆のように「階級意識」を通じて連帯しているのではなく、ファシズムに動員された「小市民大衆」(ibid.)にすぎないからだ。ベンヤミンは「小市民層は階級ではない」(ibid.)と述べているが、これは彼らが、プロレタリアとしての自己認識ないし階級認識を欠いていることを意味する。

 さらに「複製技術論」の翌年、1937年から38年にかけて書かれた「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」のなかにも、小市民大衆についての記述がある。それによれば、こうした大衆は「運命」や「人種」といった全体主義イデオロギーによって自らを合理化し、あたかも動物のように「群棲衝動と反射的な振る舞いを自由に戯れさせる」(PS: 1, 565)。

 ベンヤミンはそのことを、必ずしも否定的にのみ評価しているわけではない。とはいえ「ファシズムが動員する大衆がひとまとまりのものであればあるほど、この大衆の反応が小市民のもつ反革命的本能に規定される可能性がそれだけ多くなるということが、ファシズムには分かっていた」(KZ: 7, 371)。だからこそファシズムは、プロレタリア大衆に表現を与え、人間素材として「呪縛」することで、彼らをひとまとまりの大衆へと変えようとする。これが、ファシズムによる「政治の美学化」の内実である。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、大衆にプロレタリアとしての自己了解を促すことで、彼らをファシズムの呪縛から解放することだと言えるだろう。それは彼の言葉を借りるなら、呪縛されたひとまとまりの大衆を「ほぐす」(ibid.)ことである。

 このように考えれば、ベンヤミンの唱える「芸術の政治化」の内実もおのずと明らかになる。それはすなわち、ファシズムの戦略とは逆に、大衆の自己了解のために芸術を利用することだ。ひとまとまりの大衆にプロレタリアとしての階級認識・自己認識をもたらし、資本主義的な所有関係を廃絶する「革命」を成し遂げること。次回以降は、その具体的な戦略について見ていくことになる。

 ただし、このとき注意すべきなのは、ファシズムに対するベンヤミンの批判が、必ずしも正統なマルクス主義の枠組みにはとどまらないということだ。それは彼生来の、神学的・神秘主義的なパースペクティブへと拡張されていく。そこではファシズムコミュニズムの対立が、所有関係の変革についての政治的・経済的な問題としてだけではなく、人類と自然との関係性をめぐる宇宙論的な思弁において再編成されることになる。さらに詳しく見ていこう。