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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(7):第一の技術と第二の技術

 政治の美学化は、戦争において頂点に達する。戦争は生産力の「不自然な」利用であり、これに対してベンヤミンは、生産力の「自然な」利用を目指している。

 では、生産力の自然な利用とはどのようなものか。これを理解するうえで重要なのは、ベンヤミンが「複製技術論」のなかで、二種類の技術を区別していることだ。

 ベンヤミンは、原始時代の魔術や呪術を「第一の技術」と呼び、他方で、現代の科学技術を「第二の技術」(KZ: 7, 359)と呼んでいる。前者の特徴が「一度きり」であるのに対して、後者においては「一度[の失敗]は数のうちに入らない」(ibid.)。この二つの技術は、伝統的な芸術作品の「いま・ここ」における「一回性」と、大量生産を可能にする複製技術の「反復可能性」(KZ: 7, 355)にそれぞれ対応する。

 だが、ここで注意すべきなのは、それらが生産手段の違いにのみ還元されるわけではない、ということだ。しばしば誤解されているが、両者は相互排他的なカテゴリーではない。実際、ベンヤミンは「芸術は第一の技術にも第二の技術にも結ばれている」(KZ: 7, 359)と明確に述べている。そして現代においては、第一の技術から第二の技術へと大きく重心が移りつつあるのだという。

 したがって、ここで区別されている二種類の技術は、具体的な道具や生産手段を指すというよりも、むしろ、自然と人間との関係のあり方そのものを指していると考えるべきだろう。ベンヤミンは以下のように続けている。

 

第一の技術は実際、自然の支配を目指していた。第二の技術はむしろ、自然と人類との共演を目指すところがずっと大きい。(ibid.)

 

  ベンヤミンが社会の「器官」とすることを目指していたのは、機械的な複製技術に代表される現代の高度な科学技術である。つまり、彼はこうした技術を第二の技術として使いこなすことで、自然と人類との調和的な「共演[共同遊戯]」を実現しようとしていたのだ。

 他方で、第一の技術による自然の「支配」とは、自然の持つ力と解放的に戯れるのではなく、それを魔術的なやり方で利用することである。ベンヤミンの考えでは、原始時代の芸術作品はそうした魔術の道具だった。先祖の像を彫刻することは魔術の実行であり、またその像は、儀式の際にとるべき姿勢の手本であり、さらにその像を眺めることで、自らの魔術的な力が強められるのだという。

 こうした記述には明らかに、ファシズムによる「政治の美学化」が重ね合わされている。すでに確認したように、ファシズムによる大衆の表現とは、先祖の像の代わりに総統を礼拝させることで大衆を呪縛し、人間素材に変えてしまうファシズム的芸術にほかならなかった。「ファシズムの教えによれば、呪縛が彼らに強制する姿勢とともに、大衆ははじめて自らの表現にいたる」(PB: 3, 489)とベンヤミンは述べている。

 したがってファシズムは、現代の科学技術をあくまで第一の技術として、とはつまり「魔術」として反動的に利用することを試みている、と言えるだろう。本来であれば「第一の技術、原始時代の技術ができるだけ多く人間を投入したのに対し、第二の技術、現代の技術はできるだけ少なく人間を投入する」(KZ: 7, 359)。ところが、ファシズムはむしろ、大衆を動員するためにこそ現代の技術を利用する。そこでは「石のかたまりBlöckeからピラミッドを建てた奴隷たちと、広場や練兵場において総統の前で自らかたまりをなすプロレタリアの大衆とのちがいはほとんどない」(PB: 3, 489)。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、「一個の石塊から」(KZ: 7, 362)[強調原文]創造される古代ギリシャ彫刻の「永遠性の価値」に言及している。これとまったく同様にファシズムは、人間素材としての大衆の「かたまり」を記念碑へと造形することで、自らの支配を永遠化しようとするのだ。

 このような「政治の美学化」の頂点としての戦争は、自然との「調和的な共演を放棄すること」(TF: 3, 238)を意味する。これがベンヤミンのいう、ファシズムによる生産力の「不自然な」利用である。ファシズムは現代の高度な科学技術を、魔術的な自然支配の道具として用いる。これに対して、生産力の「自然な」利用とは、現代の技術を「第二の技術」として社会に実装し、自然と人類との「調和的な共演」を実現することにほかならない。

 では、ベンヤミンの目指す「自然と人類との共演」とは、いったいどのような事態を指すのだろうか。次回は彼の初期言語論にまでさかのぼり、そこに込められた神学的・神秘主義的含意をくみ取ることにしたい。