てらまっとのアニメ批評ブログ

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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(4):ファシズム芸術と大衆の彫刻

 政治の美学化は、ナチスの党大会に代表されるような「大衆の表現」によって実現する。ベンヤミンは「複製技術論」の第二稿と同年に発表した「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年、以下「パリ書簡」)のなかで、そうした大衆のあり方をさらに詳しく分析している。

 「パリ書簡」では、大衆の表現という言い方ではなく、より直接的に「ファシズム的芸術」(PB: 3, 487)と言い換えられる。ベンヤミンファシズムによる政治の美学化の試みを、一種の「芸術」として、それも大衆に働きかける「プロパガンダ芸術」(PB: 3, 488)としてとらえているのだ。

 大衆の表現=ファシズム的芸術においては、「大衆の自己了解」(ibid.)の可能性が排除されている。たしかに「ファシズム的芸術は、大衆のためにだけではなく、また大衆によって実行される」(ibid.)[強調原文]のだが、にもかかわらず大衆は、そうした芸術において自分自身を対象とし、自分自身と了解し合うことができない。

 これは言い換えると、自らの表現を通じて、プロレタリア大衆としての「自己認識」を獲得することができないということだ。なぜなら「もしそうなったら、この芸術はプロレタリア階級芸術であらざるをえず、そうした階級芸術を通じて、賃金労働と搾取という現実は正当に扱われることに、つまりそれが廃絶される道にいたるだろう」(ibid.)からである。

 ファシズム的芸術は、動員された大衆の正当な自己認識を阻害し、現実の変革を不可能にする。ベンヤミンはこのような作用を、ファシズム的芸術における「記念碑的造形」(PB: 3, 489)のうちに見ている。彼の考えでは、ナチスは政治を国家の造形芸術としてとらえ、大衆から民族を、民族から国家を造形することを目指していたという。ニュルンベルク党大会の壮麗なスペクタクルは、そのことをよく表している。全国各地から動員され、会場を埋めつくす大衆が「民族共同体」の記念碑へと造形される。

 ベンヤミンは「パリ書簡」のなかで、この点について次のように述べている。

 

ファシズムは自らの記念碑を堅固なものと見なしており、その記念碑を製作するのに用いる素材がとりわけ、いわゆる人間素材である。エリートは彼らの支配を、それらの記念碑において永遠化する。そしてこれらの記念碑こそ、人間素材が造形されうる唯一の手段である。(ibid.)

 

 ファシズムによる大衆の表現とは、ベンヤミンによれば、大衆そのものを「人間素材[人的資源]」として造形される記念碑的芸術のことである。そしてこの記念碑は、二重の仕方でファシズムの目的に役立つという。

 ひとつは、資本主義的な経済秩序の記念碑として、現在の所有関係が永遠に続くものであるかのように表象すること。そしてもうひとつは、記念碑的造形の実行者と受容者をともに「呪縛」することで、彼らから自律的に行動する能力を奪うことである。これは、芸術が本来もっているはずの「知的・啓蒙的エネルギーを犠牲にして、その作用の暗示的エネルギーを強化する」(ibid.)ことだという。

 ファシズム的芸術においては、大衆は芸術を通じて自己認識を獲得するどころか、逆に自律的な能力を持たない人間素材に変えられてしまう。こうして暗示にかけられた大衆は、所有関係を変革する権利を骨抜きにされ、総統の前で自ら「かたまり」を形成することになる。

 ひとつのかたまりとしての人間素材を加工し、永続的な記念碑を作り出すこと。この彫刻的な隠喩こそが、ベンヤミンのいう「政治の美学化」の核心なのだ。

 

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(3):ファシズムと大衆の表現

 これまでの繰り返しになるが、ベンヤミンコミュニズムによる「芸術の政治化」を主張したのは、ファシズムによる「政治の美学化」に対抗するためだった。とすれば、ファシズムの戦略についての彼の分析を参照することで、コミュニズムに期待していたものを明らかにすることができるはずだ。

 では、ファシズムによる「政治の美学化」とは具体的に何を意味するのか。ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、次のように説明している。

 

大衆は所有関係の変革に対する権利をもっている。ところがファシズムは、所有関係を保存しつつ、大衆に表現を与えようとする。ファシズムは一貫して、政治的な生の美学化を目指している。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる「政治の美学化」とは、一言で言えば、大衆に「権利」ではなく「表現」を与えることである。これはどういうことだろうか。

 まず、ここで言われている大衆の権利とは、引用箇所にもあるように、マルクス主義的な「所有関係」を変革する権利のことだ。これは言い換えれば、革命によって資本主義的な経済秩序を打倒することを意味している。というのも、この大衆とは、ベンヤミンの考えでは、貧しい賃金労働者からなる「プロレタリア大衆」だからである。

 ベンヤミンは「複製技術論」の別の箇所で、現代社会では「大衆がますます増大していること、そして大衆の運動がますます強力になっていること」(KZ: 7, 355)を指摘しているが、これは「現代人のプロレタリア化の進行」(KZ: 7, 382)と表裏一体の出来事であるという。そして彼の考えでは、ファシズムは従来の所有関係を保存したまま、新たに生み出されたプロレタリア大衆を組織しようと試みている。しかしそのためには、所有関係を変革しようとする大衆の正当な要求、つまりは「権利」を抑え込まなければならない。そこで要請されたのが、大衆の「表現」である。

 では、ファシズムによる大衆の表現とは具体的にどのようなものか。ここではほとんど説明されていないが、先の引用箇所に関連した注のなかで、「大がかりな祝賀パレードやマンモス集会、スポーツ大会、そして戦争」(ibid.)といったものが挙げられている。さしあたって大衆の表現とは、大衆を動員して盛大に行われる国家的規模のイベントを指す、と考えていいだろう。

 このときベンヤミンが念頭に置いていたのは、おそらく、ニュルンベルクで毎年開催されていたナチスの党大会だと思われる。ドイツ史研究者の田野大輔が指摘するように、それはまさに「壮大な規模で上演されたスペクタクル、メディアを動員したアウラの祭典」であり、そこでは「整然と行進する隊列、大量のハーケンクロイツの旗、サーチライトの照明効果など、視覚に訴える象徴的・祭儀的演出が利用されただけでなく、ファンファーレや「ハイル」の斉唱、ドラムの連打といった聴覚的な演出手法もふんだんに導入されて、ナチズムの提唱する「民族共同体」がオーディオ・ヴィジュアルに表現された」*1

 ナチスの党大会は、視覚や聴覚に訴えかけるさまざまな趣向を通じて、集められた大衆を「民族共同体」として演出する。ベンヤミンが「大衆の表現」と言い表したのは、具体的にはこのような事態である。

 ところで、ここで用いられている「表現」という言葉は、ベンヤミンの初期言語論においても重要な役割を持っている。この点については後述するが、彼がファシズムによる大衆の表現と言うとき、そこで含意されているのは、大衆をあたかもひとつの事物であるかのように、魔術的に「呪縛」することである。ベンヤミンは書記言語論のなかで、このような結びつきを「言語」に基づいた精神的共同性と対置し、「類似性」による魔術的共同性と呼んでいた。

 いずれにせよ、ここで重要なのは、政治の美学化が「大衆の表現」によって引き起こされるということだ。では、それがなぜファシズムに有利に働くのか。次回は「複製技術論」の第二稿と同年に発表された「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年)を参照しつつ、政治の美学化がいかにしてファシズムを強化すると考えられるのか、ベンヤミンの思考過程をたどることにしよう。

*1:田野大輔『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』名古屋大学出版会、2007年、30頁。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(2):集団的身体における自然との共演

 前回述べたとおり、ベンヤミンファシズムによる「政治の美学化」に対抗するために、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張していた。けれども、彼はその具体的な中身についてほとんど説明していない。ベンヤミンが「芸術の政治化」に直接言及しているのは、「コミュニズムは芸術の政治化をもってそれ[ファシズム]に応える」(KZ: 7, 384)[強調原文]という、「複製技術論」の最後の一文においてのみである。

 このそっけない終わり方は、たしかに「芸術の政治化」という言葉を強く印象づけることにはなった。しかし、同時にその内容のわかりにくさから、マルクス主義に対する素朴な期待を表明するものとして批判されることにもなった。もちろん、そうした側面を完全に否定することはできないが、しかしベンヤミンが思い描いていたヴィジョンは、正統的なマルクス主義の枠組みから大きく逸脱するものだった。彼は「複製技術論」の注のなかで、「革命」について以下のように語っている。

 

革命とは集団の神経刺激である。より正確には、史上はじめて成立した新しい集団に神経刺激を通わせる試みであり、この集団は第二の技術においてその器官をもつ。第二の技術という体系においては、社会の根元的な諸力を制御することが、自然の根元的な諸力との遊戯を行うための前提をなす。(KZ: 7, 360)

 

 ベンヤミンにとっての革命とは、人間の集団に「神経刺激」を通わせることを意味していた。そして、この集団の「器官」となるのが、「第二の技術」であるという。

 これらの概念については後ほど詳しく説明するが、ここで注目したいのは、ベンヤミンが「神経刺激」や「器官」といった生理学的・生物学的な用語を用いていることだ。要するに彼は、革命の主体となるべき人間集団を、さまざまな器官を持ち神経が張り巡らされた、ひとつの「身体」としてとらえていたのである。そして引用箇所にあるように、この集合的身体を通じて「社会の根源的な諸力」を制御し、「自然の根源的な諸力」との「遊戯」を行うことが、革命の最終目標として位置づけられる。

 あらかじめ結論を述べておこう。コミュニズムによる「芸術の政治化」とは、現代の高度なテクノロジーに適応した集合的な「身体」を組織することで、自然と人類との調和的な「共演」を目指すものにほかならなかった。

 自然やテクノロジーに対する、このきわめて神学的・神秘主義的なとらえ方は、ベンヤミン最初期の言語論から一貫して受け継がれ、後期の模倣論などで大きく読み替えられた後、「複製技術論」のうちに流れ込んだ。この特異な神学的次元を押さえないかぎり、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」は、たんなるマルクス主義プロパガンダ政策と同一視されてしまうだろう。

 そこで次回は、ファシズムによる「政治の美学化」との対立関係を通じて、コミュニズムによる「芸術の政治化」の輪郭を浮かび上がらせることを目指す。政治の美学化とは、具体的に何を意味していたのか。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(1):「複製技術時代の芸術作品」における内部分裂

 20世紀ドイツの思想家・批評家として知られるヴァルター・ベンヤミンは、1936年に「複製技術時代の芸術作品」(以下「複製技術論」)と題された有名な論考を発表している。この論考の末尾でベンヤミンは、ファシズムが進める「政治の美学化」に対して、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張した。

 「政治の美学化」とは、ごく簡単に言うと、絵画や音楽などの美的・芸術的な手段を用いて、人々を政治的に動員することである。ベンヤミンによれば、この傾向は最終的に戦争へと行き着き、人類は自分自身の絶滅を美的に享受することになるのだという。

 では、これに対抗する「芸術の政治化」とは、具体的に何を指しているのか。芸術を通じてファシズムへの反対を呼びかけることだろうか。だが、それでは単に逆向きの「政治の美学化」にすぎない。ベンヤミンの言う「芸術の政治化」は、ファシズムに対抗するものでありながら、芸術を政治的宣伝や動員の道具として利用することではない。とすれば、それはいったい何を意味しているのか。

 「複製技術論」では、踏み込んで説明されていないこともあり、この問いに対する答えは必ずしも明確ではなかった。本稿の目的は、同論考をベンヤミンの他のさまざまなテクストと関連づけることで、彼が提唱した「芸術の政治化」の内実を明らかにすることにある。

 議論に入る前に、「複製技術論」の成り立ちについて簡単に確認しておこう。このテクストは、ナチス政権から逃れたベンヤミンが、亡命先のパリで書き上げたものである。現在までに三種類のドイツ語稿(初稿1935年、第二稿1935~36年、第三稿1939年)に加えて、ピエール・クロソフスキーとの共訳によるフランス語稿の存在が知られている。

 ベンヤミンの生前に発表されたのは、ドイツ語の第二稿をもとにしたフランス語稿のみだが、論考を掲載したフランクフルト社会研究所の意向に沿って改変が加えられているため、現在ではドイツ語の第二稿および第三稿が事実上の完成稿と見なされている。本稿では、とくに断りのないかぎり第二稿を参照する。その理由については後述することにして、次に、同論考に対する今日までの評価を見ていくことにしよう。

 「複製技術論」はベンヤミンの多岐にわたる仕事のなかでも、とりわけ広く読まれているテクストのひとつである。しかし、同論考が発表される以前から、その内容や主張の妥当性を疑問視する声も少なくなかった。

 10歳年下の盟友であるテオドール・W・アドルノは、ベンヤミンから送られてきた草稿にかなり手厳しい批判を加えている。一貫して二項対立的に見えるベンヤミンの議論に対し、アドルノは「もっと多くの弁証法を」と繰り返し要求したが、同様の疑念を抱いたのは彼ばかりではなかった。

 アドルノと並び、ベンヤミンの古くからの友人であるゲルショム・ショーレムは、「複製技術論」のテクストそれ自体が引き裂かれていることを指摘する。ショーレムによれば、同論考は複製技術による「アウラの凋落」について論じた前半部と、映画の政治的・社会的機能について論じた後半部とのあいだに、深刻な内部分裂を抱えているという。彼は前半部の形而上学的な議論を高く評価する一方で、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張する後半部の記述を「魅惑的な誤り」と切り捨てる。

 他方で、ベンヤミンマルクス主義へと傾倒するきっかけとなった劇作家のベルトルト・ブレヒトは、ショーレムとは対照的に、テクストの前半部に見られる「アウラ」概念を「まったくの神秘主義」と非難している。つまり「複製技術論」は、後にユルゲン・ハーバーマスが指摘するように、ベンヤミン生来の神学的・神秘主義的な傾向と、1920年代以降のマルクス主義的な立場を統合しようとする、不可能な試みとして位置づけられるのだ。

 そしてこの分裂は、今日にいたるまで解消されていないように思われる。たとえばメディア論や記号論の領域では、前半部の「アウラの凋落」に関する議論が繰り返し参照されるのに対し、後半部の映画についてのマルクス主義的な分析のほうは、ほとんど取り上げられることがない。また近年では、トム・ガニングをはじめとする初期映画研究の文脈で言及されることも少なくないが、「ショック」や「気散じ」といった個別の概念への注目にとどまり、映画の政治的な位置づけについてはやはり語られていない。テクストそれ自体の内部分裂という問題は、事実上棚上げされているのである。

 本稿では「芸術の政治化」を論じるにあたって、後半部の映画に関する議論を主題的に扱うことになるため、この問題を避けて通ることはできない。だが、ハーバーマスの言うように、「複製技術論」の前半部と後半部、すなわち神学とマルクス主義は、本当に対立関係にあるのだろうか。両者は本来緊密に結びついているにもかかわらず、あえてそのことが見えづらくなっているのではないか。

 ベンヤミン晩年の断章集「歴史の概念について」(1940年)には、マルクス主義と神学との関係について、印象的なメタファーを交えて語った箇所がある。彼は「トルコ人」と呼ばれた有名なチェスの自動人形を念頭に置きながら、歴史的唯物論マルクス主義)をその人形に、そして神学をテーブルの下からひそかに人形を操る「せむしの小人」にたとえて次のように述べている。

 

〈歴史的唯物論〉と呼ばれるこの人形は、いつでも勝つことになっている。この人形は誰とでも楽々と渡りあえるのだ。ただし、今日では周知のように小さくて醜くなっていて、しかもそうでなくても人の目に姿を曝してはならない神学を、この人形がうまく働かせるならば、である。

 

 このチェス人形は常に勝利することができる。けれども、それは操作される側の人形(唯物論)が、操作する側の小人(神学)をうまく働かせるかぎりにおいてである、という。この転倒した不思議な主従関係は、その数年前に書かれた「複製技術論」にも同様に当てはまるのではないか。言い換えれば、同論考に見られる内部分裂は、マルクス主義と神学との対立や矛盾が露呈したものというよりも、両者の関係性についてのベンヤミン自身の意図的な配置によるものなのではないか。彼は自身の神学を「働かせる」ために、マルクス主義という人形を必要としたのだ。

 とすれば、1920年代後半以降のベンヤミンマルクス主義への接近は、単なる転向や政治的妥協の結果として見られるべきではない。そうではなく、ノルベルト・ボルツが指摘するように、神学を世俗化する試みとして積極的に理解されなければならない。

 「複製技術論」前半部から後半部への、すなわち「アウラの凋落」から「芸術の政治化」への断絶ないし飛躍は、テクストに明示的に表れることのない、隠された神学によって結びつけられている。したがって、テクスト後半部に見られる映画への過剰なほどの期待は、しばしば批判されるようなマルクス主義への素朴な信頼によるものではない。それはむしろ、そのような楽観論を読み込むことを可能にする、神学的な思考の枠組みによるものと考えるべきだろう。

 「芸術の政治化」の内実を問うためには、ベンヤミンが人形を通じてテーブルの下の小人を働かせる、とはつまりマルクス主義を通じて神学を機能させる、その具体的なメカニズムを明らかにする必要がある。本稿でドイツ語の(第三稿ではなく)第二稿を取り上げる理由はここにある。というのも、たしかに第三稿には、第二稿にはないさまざまな補足や修正が加えられているが、その一方で、テクストの内部分裂を解消するための鍵となる概念、すなわち「遊戯」に関する記述がほぼすべて削除されているからだ。

 これに対して第二稿では、本文や註釈で繰り返し遊戯のモチーフが登場し、テクストの前半部と後半部を接続する、蝶番としての役割を果たしている。「複製技術論」における「せむしの小人」とは、第三稿には見られない遊戯概念、とりわけ「自然と人類との共演(共同遊戯)」というきわめて神学的な構想にほかならない。第三稿から遊戯に関する記述が削除されているのは、アドルノらの批判に応えるという意味ではもちろん、小人としての神学を完全に不可視化するためでもあったのではないか。

 いずれにせよ、「複製技術論」の内部分裂に架橋し、後半部における「芸術の政治化」の内実を明らかにするためには、第二稿に頻出する遊戯概念に注目する必要がある。そして、近年におけるその最も重要な成果が、同論考についてのミリアム・B・ハンセンによる包括的な読解である。

 ハンセンは遊戯をはじめ、第二稿に登場する重要概念をいくつも取り上げ、「アウラの凋落」に偏向した従来の解釈とは一線を画した議論を展開している。本稿もまたハンセンの読解に多くを負っているが、その一方で、彼女の議論はあくまで個々の概念の詳細な解説にとどまっており、「複製技術論」を支えるベンヤミンの神学的思考の道筋を説明するにはいたっていない。それぞれの概念の由来や用法、またはその多義性を強調するあまり、それらを内在的に結びつけている理論的な枠組みを取り逃がしているように思われるのだ。

 この問題を明らかにするためには、ベンヤミンが、革命の主体となるプロレタリア大衆をひとつの「身体」として捉えていたことを理解しておく必要がある。すでに何度か指摘されているように、彼は1920年代前半頃から「人類の身体」という神学的・宇宙論的な構想を抱いており、これが1920年代後半以降、マルクス主義的な革命の理論へと重ね合わされていく。

 「複製技術論」においては、革命が集団的身体による「自然との共演(共同遊戯)」として新たに位置づけられるのだが、そのこと自体はテクストのなかでは明示されず、大衆の「器官」や「神経刺激」といった生理学的な用語によって暗示されるにとどまっている。これが同論考における、隠された神学的次元である。したがって、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」とは、「自然との共演(共同遊戯)」を可能にする集団的身体を組織するために、芸術、とりわけ映画を役立てることを意味する。彼の考えでは、映画はこの遊戯のための格好の練習道具なのだ。

 本稿ではこのような前提に基づき、「複製技術論」後半部の議論をベンヤミンの他のさまざまなテクストと関連づけ、映画による集団的身体の組織化プロセスを説明したものとして読み解いていく。それでは、はじめよう。

多層化するスーパーフラット(5.0):起源の暴力を乗り越える

 村上がスーパーフラットを発表した当時、批評家の椹木野衣は、スーパーフラットという概念それ自体というよりも、展示された作品から受ける触覚的印象と、あらゆる文化現象を等価なものとして扱うパフォーマティブな側面に注目し、それを戦後の日本社会と重ね合わせている。

 椹木によれば、画一的で均質な戦後民主主義社会としての平成日本は、文字通りの意味で「スーパーフラット社会」である。「そこでは、ハイアートとサブカルチャーとの力関係はもちろん、漫画からファッション、写真からフィギュア、グラフィック・デザインから現代美術に至るまで、すべてのジャンルは横並びに等価であり、そこに価値の優劣は存在しない」*1。文化的な「深さ」や「厚み」を欠き、「ピカピカ/ツルツル」な表面へと還元されるスーパーフラットな作品群には、無個性で交換可能で薄っぺらな人間や風景が増殖する、戦後日本の現状が透けて見える。

 けれども、椹木の考えでは、このスーパーフラットな平成日本の起源には、第二次世界大戦という巨大な暴力が潜んでいるという。一見するとピカピカ/ツルツルな表面には、かつての戦争による「回復不可能な無数のヒビや亀裂」*2が刻み込まれている。村上のいうスーパーフラットは、この暴力的な起源を忘却し、あるいは隠蔽することで初めて成立する。「スーパーフラットを生み出したのは日本社会の固有性であるというよりも、アメリカが日本に対して打ち振るった暴力と占領こそが、それを生み出した」*3。にもかかわらず、ロサンゼルスでの「Superflat」展では、太平洋戦争における「アメリカの暴力」の痕跡が消去され、だからこそ同地で広く受け入れられた――このように椹木は説明する。

 欺瞞に満ちた平和や戦後民主主義に安住することなく、スーパーフラットの均質な表面にひそかに刻み込まれた暴力の痕跡をたどること。またそれを通じて「よりリアルな「いま」の社会変革へ向けての想像力」*4を養うこと。これが椹木のいうポスト・スーパーフラットの地平である。

 椹木の議論は、スーパーフラットの盲点を言語化するという点で、きわめてクリティカルな意味を持つ。けれども、その政治的・社会的なスーパーフラット解釈からは、村上があれほど執拗に若冲蕭白といった絵師による画面構成を分析し、言語化しようとしたモチベーションへの目配りが欠けている。画面のダイナミックな構図、それらを走査するジグザグの視線運動、そしてレイヤーを結合する際の身体的な感覚……こうしたスーパーフラットの鍵となる概念をほとんど顧みることなく、もっぱらそのパフォーマティブな側面に注目し、起源の暴力の隠蔽という観点からのみ評価する。スーパーフラットとして提示される作品や運動、文化現象は、椹木にとってあくまで、外部から批判され転覆されるべきネガティブな意味合いしか持っていない。椹木のポスト・スーパーフラットは、良くも悪くも、アンチ・スーパーフラットなのだ。

 これに対し、私たちはスーパーフラットに内在的な価値を認めている。ピカピカ/ツルツルな表面が生成する、その具体的なメカニズムとしての「レイヤーの結合」とその感覚。繰り返し述べているように、「マルチレイヤード」という聞き慣れない単語は、走査的な超平面をつくり出すために村上が抑圧した、複数的なレイヤーの解放という契機を持っていた。だが、それだけではない。分解されたレイヤーは、椹木が指摘したような、スーパーフラットの忘却された起源をも赤裸々に映し出す。スーパーフラットが語ろうとしない起源にある暴力を、マルチレイヤードはその多層性ゆえに内部から相対化し、乗り越えることができる。

 具体的な作品を通じて見ていこう。ここで取り上げるのは、谷口真人による一連の作品だ。よく似た二つのキャラクターの図像が重なっているように見える。近づいて見ると、手前の図像は透明なアクリル板の上に絵の具で描かれており、奥の図像はそれが鏡に反射したものであることがわかる。つまり、これらの作品は、アクリル板と鏡という二枚のレイヤーからなる多層的な構造を持っており、さらにそれらのレイヤー同士の関係性(アクリル板による透過と鏡による反射)を主題としているのだ。ここでもやはり、手前と奥という二つの平面への距離が発生することで、視点の切り替えという脱遠近法的な視覚体験が誘発される。

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谷口真人 グーグル画像検索結果

 だが、これらの作品においてまず注目すべきなのは、焦点距離の変化による視線の往還ではない。そうではなくて、アクリル板上の図像と鏡に映った図像の明らかなタッチの違いであり、その存在論的な差異である。アクリル板に実際に描かれたイメージのほうは、絵の具が過剰に盛り上がり、ベタベタとした作家の筆触が現れている。これに対し、鏡に映り込んだイメージのほうは、村上のスーパーフラット絵画と同じく、いやそれよりも徹底してピカピカ/ツルツルである。なぜならそれは、手前のレイヤーに描かれた図像を裏側から映し出したものにすぎず、鏡の平面それ自体にはひとかけらの絵の具も付着していないからだ。そしてこの透明板越しの鏡のイメージからは、デコボコとした絵の具の隆起がすべて消去され、まるでアニメのキャラクターのような、平板な色彩によって再現された少女の顔が浮かび上がる。

 谷口のこの手法は、実際、アニメーションにおけるセル画から着想されたものだろう。セル画では平面を均一に塗るために、透明なセルロイド・シートの裏側から着色し、それをひっくり返して撮影する。谷口の一連の作品は、それをあえて裏返しにしたまま、デコボコ/ベタベタな表面とピカピカ/ツルツルな裏面を共存させようとする試みだ。そしてこのことは、スーパーフラットの文字通り「裏側」を提示することで、椹木が指摘した起源の暴力、つまりは図像それ自体を生み出す筆触の存在をあらわにしつつ、それを内在的に乗り越えるプロセスをも示している。

 アクリル板上のデコボコした筆跡は、あたかも、アニメの美少女キャラクターに向けられる鑑賞者の身勝手な欲望を体現し、その暴力的な内容を示唆しているかのようだ。他方で、鏡に映ったはかなげな表情は、彼女が本来そこには存在しない、にもかかわらず鑑賞者の錯覚と想像のなかにたしかに場を占めているという、今日の特徴的なキャラクターの存在様式を暗示する。鏡に映り込む展示空間と鑑賞者のイメージの上に、浮遊する少女の顔が出現する。

 谷口が描き、映し出す二重化された少女たちは、スーパーフラットとその起源の暴力とのあいだで引き裂かれつつ、鑑賞者の視線に差し出されている。マルチレイヤードなイメージが可能にするのは、スーパーフラットな鏡面とその起源の暴力としての絵の具であり、それらを往復する視線の動きである。視点はどちらにも定まらず、両者のあいだをぐるぐると回り続ける――複数のレイヤーからなる多層的な平面だけが、この脱遠近法的でポスト・スーパーフラットな視覚体験をつくり出す。谷口の作品は、スーパーフラット以後の諸平面に住まう、キャラクターという存在の横顔を描写している。

makototaniguchi.com

*1:椹木野衣『「爆心地」の芸術』、晶文社、2002年、312〜313頁。

*2:同書、316頁。

*3:同書、322頁。

*4:同書、324頁。

多層化するスーパーフラット(4.0):藍嘉比沙耶とレイヤーの理論

 2018年10月から放送されているアニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』(以下『いもいも』)の「作画崩壊」がネットの話題をさらった。とくに注目を集めたのは、キャラクターがしゃべっている口元だけが顔から分離し、宙に浮かんでいるという前代未聞のカットだ。

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 この奇怪な現象は、アニメに描かれるキャラクターという存在の技術的なあり方と無関係ではない。そのあり方とは、これらのキャラクターの図像が一枚の平面からではなく、複数枚の「レイヤー」から構成されているということだ。

 アニメやゲームの背景やキャラクターの画像、または日々ネットにアップされるそれらのイラストの多くは、基本的にPhotoshopをはじめとするデジタル制作ソフトを用いてつくられている。一見したところそれは、水彩画や油絵、ドローイングといったアナログな制作手法を、そのままデジタル環境へと移し替えただけにすぎないようにも思える。実際、PhotoshopやCLIP STUDIO、SAIといったソフトでは、鉛筆や筆、ペンなどから選択できるのはもちろん、線の太さ、濃さ、筆圧、かすれ具合まで細かくカスタマイズすることができる。マウスに代えてペンタブレットを利用すれば、紙の上に描くのと実質的にほとんど変わらないとさえ言えるかもしれない。

 けれども、これらのソフトには、本物の紙やキャンバスなどの平面に描画・着色するのとは決定的に異なる、独自のメカニズムが存在する。それが「レイヤー」と呼ばれる層状構造だ。手近な解説書、たとえば『はじめてさんのPhotoshopおえかき入門』(ソシム、2016)では、レイヤーについて次のように解説している。

レイヤーは、いくつも積み重ねることができる透明なフィルムのようなものです。そのフィルムには画像をペイントして重ねたり、加工したりすることができます。レイヤー上の何も描かれていない部分は、通常、透明として扱われ、透明部分からは下のレイヤーが透けて見えます。*1

 デジタル環境で制作されるイラストの多くは、一枚の平面上にすべての要素が描かれているわけではない。たとえばこの『おえかき入門』では、Photoshopを用いた美少女キャラクターの基本的な描き方が紹介されているが、比較的シンプルなアニメ風のイラストでも「背景」「ラフ」「肌」「髪」「服」「目」「口」「顔」「影」「線画」といったように、10枚以上のレイヤーを積み重ねた多層的な構造をもっている。しかも、これらはたんに重ね合わされているだけではなく、個々のレイヤーの重なり具合を調整する「透明度」、さらにはレイヤーどうしの重ね方を決定する「描画モード」によって、微妙なニュアンスまでコントロールすることができる。

 レイヤーの枚数や分け方は作家によって異なるが、湾曲した緻密な背景と美少女キャラクターのイラストで知られるJohnHathwayは、じつに3000~4000枚ものレイヤーを駆使しているという。私たちがPixivやSNSなどで通常目にするイラストは、それらのレイヤーを圧縮し、一枚の平面へと「結合」することで初めて完成する。アニメーションのセル画、あるいはデジタル化されたカットもまた、レイヤーの枚数こそ少ないが、基本的な制作プロセスは変わらない。アニメやゲームなどの現代のキャラクター文化を根底から支えているのが、この多層的なレイヤー構造なのだ。

 「多層化するスーパーフラット(1.0)」で引用したように、村上隆スーパーフラットな感覚を説明するにあたって、「コンピュータのデスクトップ上でグラフィックを制作する際の、いくつにも分かれたレイヤーを一つの絵に統合する瞬間*2を挙げていた。これは言い換えると、デジタルイラストの潜在的な多層性を「抑圧」することで、スーパーフラットが成立することを意味する。とすれば、それを乗り越えるポスト・スーパーフラットの地平とは、冒頭の作画崩壊に見られるような結合の「失敗」、もしくは圧縮されたイラスト本来の層状構造が解凍・露出した「マルチレイヤード」な視覚的経験にほかならないだろう。

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 そのような試みを最もわかりやすい仕方で、また現在進行系で行っている作家として、藍嘉比沙耶を挙げることができる。藍嘉比の作品は、『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめとする日本アニメの「セル画」を主要な着想源としている。それらのアニメに登場するような美少女キャラクターの輪郭線をキャンバス上で正確になぞりつつ、キャラクターの顔や手足をいくつも重ねたりつなぎ合わせたりすることで、レイヤーの正常な結合が崩れ、多層的な構造があらわになった諸平面をつくり出す。それはどこか、作画崩壊を起こしたキャラクターの図像に通じるものがないだろうか。

 「重なり」と題されたシリーズでは、運動の痕跡のようにずらされたレイヤー間の同色部分が塗りつぶされ、顔や瞳が細胞分裂的に増殖したキメラ的なキャラクターが現れている。そこでは、通常のレイヤーの階層秩序が逆転し、輪郭線のレイヤーよりも着色されたレイヤーが上位にくる。また「滲み」では、一部の輪郭線を除いてぼやけた色彩で表現することで、線画レイヤーが背景のレイヤーから切り出され、浮かび上がって見える。さらに「線」シリーズは、複数の線画を重ね合わせることにより、混沌とした輪郭線の渦を通じてレイヤーの多層性を可視化している。

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 これらの多様な試みは、表面的には従来のスーパーフラット絵画と近いようでいて、その内実は正反対である。スーパーフラットが、あるいは一般的なデジタルイラストが完成の段階で圧縮・消去してしまう、多層的なレイヤー構造に焦点を当てているからだ。もろもろのレイヤー間の隔たりが消し去られるというよりも、むしろ際立たせられる。そこから開けてくる視覚的経験は、村上のいう、画面を走査するようなジグザグの視線の動きではない。そうではなくて、折り重なった複数のレイヤーへと焦点が次々に切り替わるような、脱遠近法的で、しかしスーパーフラットとは異なる諸平面の現れである。

 目を閉じ、また開くたびに異なる階層のレイヤーに焦点が当たり、別の瞳と目が合う。あたかもそれは、複数回の「まばたき」を前提とする空間であるかのようだ。藍嘉比のマルチレイヤードな作品は、スーパーフラットを水平に割き、瞳の連続による時間的継起を積み重ねていく試みとも言えるだろう。

 作画崩壊によりときおり垣間見える、デジタルイラストの層状構造を意識的に描き出すこと。その営みの先にあるのは、ジャンルの境界を超えて、硬直した平面性を揺るがすポジティブな多元性の経験だ。『いもいも』の作画崩壊と藍嘉比の作品はともに、アートとアニメを分かち、接する敷居の上に立っている。

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藍嘉比沙耶

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*1:riresu『はじめてさんのPhotoshopおえかき入門』フロッグデザイン編、ソシム、2016年、28頁。

*2:村上隆『SUPERFLAT』、マドラ出版、1頁。

多層化するスーパーフラット(2.1)

 村上の「スーパーフラット」概念に対する、理論的側面からの包括的な批判は、日本の現代美術とはかなり異なる文脈から現れた。アニメ研究者のトーマス・ラマールは、宮崎駿をはじめとする現代日本のアニメについて論じた著書『アニメ・マシーン』(2013年)のなかで、スーパーフラットを批判的に取り上げている。

 ラマールに言わせると、スーパーフラットについての村上の議論が「日本の近代についての問い、および日本の近代と西洋の近代との関係についての問いを扱うことを避けようとしているのは何よりも明らかである」*1。というのも、そこでは「西洋近代 vs. ポストモダンな日本」という二項対立的な枠組みに焦点が当てられ、アニメーションの「運動」についての考察が抜け落ちているからだ。

 すでに見たように、スーパーフラットにおいて強調されるのは、運動としてのアニメーションではなく、画面の平面的な「構図」とそれを追う走査的な視線の動きである。そして、その日本的な独自性を主張するために、西洋由来の一点透視図法を用いた奥行きのある構図が対置させられている。つまり「スーパーフラットというまさにその観念が、一方では平板な構図もしくは平面的な構図という日本の伝統と、他方では一点透視図法、線遠近法もしくは幾何学遠近法という西洋の伝統との根本的な差異の設定に依拠している」*2のだ。

 けれども、ラマールが指摘するように、この対立図式はいささか安易であり、適切とは言いがたい。なぜなら、村上が仮想敵として想定する一点透視図法ないし幾何学遠近法は、近代的な主体のあり方を生み出す唯一のメカニズムというわけではないからだ。ラマールはミシェル・フーコーやジョナサン・クレーリー、フリードリヒ・キットラーらの議論を参照しながら、それがいかに問題含みの前提であるかを論証している。

 「階層的な奥行きという近代的な西洋の構造(幾何学遠近法)と、階層的な分配というポストモダン的な日本の構造(スーパーフラット)」*3という構図に由来する二項対立にこだわるかぎり、江戸時代の絵師と現代のアニメーターが等価に並ぶ、ポストモダンな日本の礼賛に陥ることは避けられない。そこからは、主体性や規律化、権力、テクノロジーといった、日本の近代をめぐるもろもろの問いが抜け落ちてしまう。

 ラマールによる批判は、おおむね次のようにまとめることができる。

 

村上は全面的に、イメージの構造的な構図という観点から思考している。彼は、運動としてのアニメーションについてはほとんど何も言っていない。[……]アニメーションや、物理的な連続としての動画に内在している力よりも、イメージの構図の技法の方が強調されているのである。言うまでもなく、動画を排除することで、村上は近代や近代テクノロジーについての問いを効果的に排除している。それによって彼は、構図のレベルでの江戸美術と現代のオタク・アニメの類似性を――あたかもそれらが近代をはるかに超えているものであるかのように――容易に主張することができているのである。*4

 

 スーパーフラットに対するこのような批判は、必ずしもラマール独自のものというわけではない。しかし、彼の議論が私たちにとって重要なのは、「西洋近代 vs. ポストモダンな日本」という対立図式をキャンセルするための道すじとして、村上が排除したとされる「動画」、すなわち「運動としてのアニメーション」という契機が提示されているためだ。そして、この点において「レイヤー」がきわめて大きな役割を果たしている。

 村上のいうスーパーフラットな画面は、先に見たとおり、複数のレイヤーを「結合」することによって成立する。それは言い換えれば、個々のレイヤーのあいだにある「隔たり」を圧縮し、消去することにほかならない。その結果、鑑賞者の視線はそれぞれのレイヤーを区別して階層化することができなくなり、葛飾北斎木版画金田伊功のアニメーションに見られるような「ジグザグに走り、弧を描き、長く伸びる線」に従って、「目は絶え間なくスキャンしながら、イメージの表面の上をさまようよう促される」*5

 これに対し、ラマールは『アニメ・マシーン』のなかで、スーパーフラットとは異なるレイヤーの編集、つまり「コンポジティング」のあり方を詳細に論じている。その主要なひとつである「開いたコンポジティング」は、セル・アニメーションにおけるレイヤー間の隔たりを強調する方法であり、その基本的な制作手法と密接に関わっている。

 デジタル化される以前のセル・アニメーションは、透明なセルロイド・シートにキャラクターや背景などを描き、それらを層状に重ね合わせることでつくられる。これにより、前景・中景・後景といった複数のレイヤーから構成される「多平面的イメージ」が生み出され、それらを別々に操作することによって、さまざまな「運動」の感覚を引き起こすことができる。

 開いたコンポジティングの最もわかりやすい例は、列車や自動車の窓とそこから見える風景のシークエンスである。手前のレイヤーに窓、背後のレイヤーに風景を描き、後者だけを1ショットごとに横に動かすことで、あたかも移動する列車の窓から風景を眺めているかのような印象がもたらされる。「それはまるで、列車の速度によって、風景が別々のレイヤーや平面へと分離されたかのようだ。そして、窓の外を見ながら加速していくにつれ、実際にレイヤー間の隔たりが感じられるようになる」*6。前景と後景というレイヤー間の隔たりを利用して、車窓に流れる風景という運動の感覚が生み出されているわけだ。

 ラマールの議論は、アニメーションの運動という観点からすると、スーパーフラットを特徴づけるレイヤーの「結合」とは別のコンポジティングのバリエーションがありうることを示している。そこでは、複数のレイヤーのあいだの差異が消去されるのではなく、逆に強調され、それらが別々に操作されることで、ひとつの運動の感覚を呼び起こす。

 けれどもこのことは、アニメーションの運動にのみ限定されるべきではない。なぜなら、いまやレイヤーを用いてつくられるのは、狭義のセル・アニメーションだけではないからである。Photoshopをはじめとする画像編集ソフトウェアによって制作される図像の多くが、文字通りいくつもの「レイヤー」を結合することでつくり出される。レイヤーは、アニメーションにおける運動の感覚をもたらす前提条件であると同時に、デジタル環境下で制作されたキャラクター・イメージ一般の基礎的な「メディウム」となりつつある。そして、ここで取り上げる現代美術作家たちは、このレイヤー化されたデジタル制作環境に浸りつつ、そのことに自覚的であろうとするという点で、ポスト・スーパーフラットとも言うべき新たな方向を指し示している。

 レイヤーを結合するのではなく、レイヤーへと分解すること。レイヤーのあいだの隔たりを消し去るのではなく、目に見えるものに変えること。圧縮された超平面とは逆方向に向かう、多層的な諸平面の解凍と可視化。私たちはその試みを暫定的に「マルチレイヤード」と呼ぶことにしよう。

*1:トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』、藤木秀朗監訳・大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年、152頁。

*2:同書、150頁。

*3:同書、152頁。

*4:同書、150頁。

*5:同前。

*6:同書、30頁。