ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(10):沈黙する自然を翻訳する

 事物は人間のように音声言語によってではなく、魔術的・物質的共同性によって自己を伝達し合う。これが自然の沈黙であり、他方でベンヤミンによれば、この沈黙する自然を人間において音声言語へといたらせること、つまりは名づけることが、人間に課せられた「課題[使命]」なのだという。

 人間は名づけることによって、あらゆる事物との「非物質的で、純粋に精神的」(US: 3, 147)な共同性を実現する。ベンヤミンは自然と人間との関係について、次のように述べている。

すべての自然は自己を伝達するかぎり、言語において、とはつまり結局は人間において自己を伝達する。それゆえに人間は自然の主人なのであり、事物を名づけることができるのである。事物の言語的本質を通してのみ、人間は自分自身のうちから事物の認識へと到達することができる――すなわち名において。神の創造が成就されるのは、事物が自身の名を人間から得ることによってであり、ひとり言語だけが名において人間から語り出すのである。(US: 3, 144)

 人間は沈黙する事物を名づけることで、その事物の「認識」へといたることができる。ここで注目すべきなのは、同時にそのことが神の「創造」の成就であると言われていることだ。

 ベンヤミンは『創世記』の天地創造物語を参照しながら、人間の精神的本質を神の創造する「言葉」としてとらえ返している。

 神は言葉において自然を創造したのだが、しかし人間だけは言葉から造るのではなく、逆に創造の媒質としての言葉を人間のうちに解き放ったのだという。それゆえ、神の創造する言葉は「事物にあっては魔術的共同性によってなされる物質の伝達となっており、人間にあっては至福の精神のうちにある認識と名の言語となっている」(US: 3, 151)。

 そしてこの言葉は、人間においてはもはや創造する力をもってはいないものの、沈黙する自然のうちに宿っている神の言葉を「受容[受胎]」する力をもっているとされる。このことが人間による事物の名づけ、すなわち認識を可能にする。

 つまり、人間は沈黙する自然の言語を受容し、それを音声言語としての名へと移すことによって、自然の不完全な言語をより完全なものに、とはつまり神の言語に「翻訳」するのだ。これが名づけによる創造の成就であり、そこにおいてあらゆる被造物との言語的・精神的共同性が成立するとベンヤミンは述べる。

 ところが、人間が楽園から追放されたことで、完全な認識を可能にする楽園の「純粋言語」は、無数の言語へと分割されてしまった。そしてそのことによって、「自然のもうひとつの沈黙」が始まる。この沈黙が自然の「悲しみ」である。「もしも自然に言語が授けられたなら、すべての自然は嘆きはじめるだろうということは、ひとつの形而上学的真理である」(US: 3, 155)。

 このような自然の「嘆き」は、二重の意味を持つ。ひとつは話すことができないという嘆きであり、もうひとつは沈黙していることそれ自体の嘆きである。というのも嘆きとは「未分化で無力な言語表現」であり、そして「すべての悲しみのうちには、言語を欠いた状態へと陥っていく最も深い傾向が潜んでいる」(ibid.)からだ。

 このような悲しみの原因となるのが、楽園を追放された人間の諸言語による「過剰命名」である。自然は神の言語によってではなく、分割されたいくつもの言語によって過剰に名づけられている。そして、これをより高次の言語へと翻訳し、神の言葉へと近づけていくことが、人間に課せられた課題なのだという。

 ベンヤミンフーリエやシェーアバルトユートピア構想のうちに、こうした神学的・形而上学的プログラムを読み込んでいる。それはたとえば「自然による創造の子供たちの出産」や「被造物の解放」といった言い方からも明らかであり、「初期言語論」のおよそ20年後に書かれた「複製技術論」もその例外ではない。

 つまり、ベンヤミンマルクス主義的な革命を通じて、たんに資本主義の打倒と階級格差の廃絶を目指していたわけではない。そうではなく、あらゆる事物との言語的・精神的共同性を打ち立てようとしていたのだ。これが彼のいう「自然と人類との共演」の内実である。

 ただし「複製技術論」においては、沈黙する自然を「名づける」という言語論的なモチーフが後退し、代わりに自然との「遊戯」というモチーフが前景化している。ここにはどのような変化が認められるのか。自然との「遊戯」とは具体的に何を意味するのか。