てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(11):仮象と遊戯

「初期言語論」でベンヤミンは、沈黙する自然を名づけることで、自然と人類との言語的・精神的共同性を打ち立てることを目指していた。これに対し「複製技術論」では、自然を名づけることに代えて、自然との「遊戯」という言い方が強調される。ここには、どのような理論的変化があるのだろうか。

 ベンヤミンは「複製技術論」の重要な注のなかで、「第一の技術」と「第二の技術」をそれぞれ「仮象Schein」と「遊戯Spiel」に関連づけている。それによると、前者が「第一の技術のもつ呪術的なやり方すべての、最も抽象化された、しかしそれゆえに最も恒常的な図式」である一方で、後者は「第二の技術のもつ実験的なやり方すべての、無尽蔵の貯蔵庫」(KZ: 7, 368)なのだという。

 ベンヤミンはこの二つの概念を「あらゆる芸術活動の原現象UrphänomenとしてのミメーシスMimesis」(ibid.)を構成する両極として位置づけ、次のように説明している。

模倣する人は彼が行うことを、ただ見かけ[仮象]のうえでのみ行う。しかも最も古い模倣には、たったひとつの素材しかなかった。それはすなわち模倣する人自身の身体である。踊りと言語、肉体および唇の仕草は、ミメーシスの発現として最も早いものである。――模倣する人は、彼が行う事柄を見かけのうえで行う。彼はこの事柄を演じる[遊戯する]と言ってもいい。こうしてミメーシスのうちに両極性があることが分かってくる。(ibid.) 

 ミメーシスはある事柄を「見かけ[仮象]のうえでscheinbar」模倣することであると同時に、踊りや言語においてその事柄を「演じる[遊戯する]spielen」ことでもある。これがミメーシスのもつ「両極性」である。

 すでに見たように「初期言語論」では、人間の非物質的な音声言語が特権的な役割を与えられていたが、ここではそれがより原初的なレベルで、とはつまり「唇の仕草」として具体的にとらえ返されていることに注意しよう。要するに「複製技術論」においては、いわばミメーシスの媒質としての人間の「身体Leib」に焦点が当てられているのだ。これは「初期言語論」とは明らかに異なる点であり、そしてこの点を理解するためには、「後期模倣論」とも言うべき「類似したものについての理論Lehre von Ähnlichen」(1933年)を参照する必要がある。

 このなかでベンヤミンは、人間のあらゆる高次の働きを規定するものとして「模倣の能力mimetische Vermögen」を位置づけている。これは自らの身体において「類似性Ähnlichkeit」を産出する能力であり、系統発生と個体発生という二重の歴史を持つとされる。

 ベンヤミンに言わせると、かつて類似性の法則に支配されていた領域は、現代におけるそれよりもはるかに広大であり、たとえば占星術における天空の諸事象と人間の運命との魔術的な「照応Korrespondenz」として経験されていた。したがって「私たちが日常のなかで類似性を意識的に知覚する事例は、類似性が私たちを無意識のうちに規定している無数の事例の、ごくわずかな一部でしかない」(LA: 2, 205)。

 ベンヤミンはこのような「無意識的に知覚された、あるいはまったく知覚されなかった、無数に多くの類似性」(ibid.)を「非感性的類似unsinnliche Ähnlichkeit」と呼んでいる。そして古代人は近代人よりも優れた模倣の能力をもっていたために、非感性的類似に応答することができたのだという。

 とはいえ人間の模倣の能力は、歴史のなかで跡形もなく消滅してしまったわけではない。そうではなくて、ベンヤミンによれば、この能力はいまや「言語Sprache」および「文字Schrift」のうちに流れ込んでいるというのである。