美少女はじめました(バ美肉についての覚え書き)
最近いろいろ思うところがあり、美少女をはじめることにした。
美少女といっても、現実に肉体改造したりコスプレしたりするわけではなく、バーチャル美少女セルフ受肉、いわゆる「バ美肉」である。これは文字どおり、2Dや3Dの美少女の姿をしたバーチャルな身体(アバター)に「受肉」し、YouTuberなどとして活動することだ。とくに中高年男性が行う場合は「バ美肉おじさん」と呼ばれる。わたしの場合はさしずめ「バ美肉アニメ批評愛好家おじさん」といったところだろうか。
バ美肉にはさまざまな方法があるが、いまではスマートフォンひとつで受肉・配信できる手軽なアプリが複数リリースされている。わたしはキャラクターデザインのかわいさに惹かれて、3Dアダルトゲームのモデルをベースにした「カスタムキャスト」というアプリを利用することにした。このアプリでつくったわたしの新たな身体がこれである。控えめにいってかわいすぎる。完全に『けいおん!』シリーズのあずにゃんだが、わたしはあずにゃんに強い思い入れがあるのでむべなるかなという感じである。
なぜ急に美少女をはじめたかというと、端的に言って、いまの自分の思考の枠組みに限界を感じていたからだ。『放課後ていぼう日誌』や『のんのんびより』、さらには『スーパーカブ』について書いた過去の文章からも明らかなように、わたしは一貫して、フィクション(とりわけ日常系アニメ)から徹底して排除される、もしくは性機能を抹消された「非人間」として包摂される男性身体の問題に関心を抱いてきた。詳しい議論は繰り返さないが、要するにそれらの背景にあるのは、自分が本来あるべき自分自身から追放されている、疎外されているという感覚である。この感覚をマルクス-ベンヤミンにならって「自己疎外」と呼ぶことにしよう。もともとは自分の労働力を他者(資本家)に奪われているという文脈だが、ここではもっと広く、自分自身が自分にとってよそよそしいもの、否定的なものに感じられるというほどの意味でとらえてほしい。これはたとえば「弱者男性」論などに少なからず共感してしまう男性なら、直感的に理解できるかもしれない。
現代の日本社会で、とりわけ社会的地位や収入や家庭に恵まれているわけではない一部の男性にとって、自分の存在を肯定するのは決して簡単なことではない。フェミニストからはしばしば「(有害な)男らしさから降りる」ことが処方箋として提示されるが、まさにその男らしい男性が依然として恋愛市場・経済市場で勝利しているように見える現状では、そもそも「降りる」ことのインセンティブが見えづらいし、具体的な降り方もよくわからない。男らしさにとらわれた自分をひたすら反省し、否定していくしかないのだろうか。それはあまりにも苛酷すぎる──というより、そうした絶え間ない自己否定の圧力こそが、男らしさの呪縛以上に、一部男性の深刻な自己疎外につながっているようにも見える。わたしだって好き好んで男性をやっているわけではない。性的に呪われた身体をもって生まれてきたかったわけではない。
わたしはアニメを見るとき、いつしかこのような問題関心から逃れられなくなってしまった。自分自身の身体に引っ張られて、以前ほど自由気ままにアニメを見ることができなくなってしまった。とはいえ、それで文章が書けなくなるわけではなく、むしろ関心がはっきりしているせいでスラスラ書けるのだが、これは逆に言えば、いつまで経っても自分の思考の枠組みを超えられないということでもある。同じテーマ、同じモチーフをめぐって延々と書き続けたところで、一時的に慰められこそすれ、わたし自身の自己疎外が解消されるわけではない。
バ美肉は、そんな悩めるわたしの目に技術的福音として映った。
わたしの好きな『つぐもも』という青年向けエロバトル漫画に、「斑井枡次(まだらい・ますじ)」という中高年男性キャラクターがいる。斑井は当初、主人公たちに敵対する悪役として彼らの前に立ちふさがるのだが、禁断のアイテムを使用した副作用で醜い化け物のような姿に変わってしまい、敗北の末に殺してくれと懇願する。しかし、主人公の仲間たちは彼を殺すのではなく、特殊な力をもったキャラクター(とある神社の祭神)の手で、かわいらしい「幼女」として生まれ変わらせる。唖然とする斑井に対し、この祭神が発した次のようなセリフが、わたしは強く印象に残っている。
魂の器たる人の形は!
“魂の在りよう”にそってなくては定着に支障があるにぃ!
んでもって
傀儡帯[=禁断のアイテム]の呪いによりゆがめられたおまえの魂に
ふさわしい形がそれ[=幼女]だっただけにぃ!(引用者注)
「呪い」により化け物と化してしまった、とはつまり自己疎外に陥った中高年男性が、まさにその「ゆがめられた魂の在りよう」ゆえに、まったく異なる存在として生まれ変わること。わたしはここに、バ美肉の最も解放的なポテンシャルがあると考えている。それは一言でいえば、自己疎外を生成変化の可能性の条件としてとらえ直すことだ。自分自身から追放され、疎外されているからこそ、たとえば『放課後ていぼう日誌』の魚や『スーパーカブ』のバイクのように、これまでの自分とは似ても似つかぬ存在へと生成変化することができる──あるいは少なくとも、生成変化へと動機づけられることができる。バ美肉はわたしがわたしにしかなれず、いまやそのわたしともうまくやっていけないという自縄自縛をひっくり返し、別の何者かになりうるための前提条件としてポジティブに価値づけてくれる。自己疎外をたんに解消したり低減したりするのではなく、まさにそれこそが新生への敷居であることを教えてくれるのだ。これが福音でなければなんだろうか。
とはいえ、カスタムキャストによるバ美肉は、VRヘッドマウントディスプレイを装着する本格的な「受肉」ではない。スマートフォンを自分の正面に固定し、ディスプレイ上の美少女と向き合うことで、搭載カメラのフェイストラッキング機能を利用して目や口、頭の動きを追尾・再現するだけだ。さまざまな表情やポーズが用意されてはいるものの、それらをアバターに反映させるには、その都度画面をフリックしなければならない。そのため、カスタムキャストの操作感はVR機器による全方位的な没入とは大きく異なるのだが、わたしにはそれがかえって示唆的に感じられた。
スマートフォンを自分の正面に立てるということは、つまるところ「鏡」を見るように画面のなかの美少女と向き合うことを意味する。そして鏡とは言うまでもなく、わたしがわたしになるための、ひいてはわたしであり続けるためのきわめて強力な視覚的メディウムである。ある高名な精神分析家は、幼児にとって鏡に映った自分の姿が「自我」の形成に決定的な役割を果たすと述べている。その科学的な真偽はさておき、鏡のなかのわたしがわたし自身の自己イメージをかなりの程度規定していることは間違いない。それは裏返せば、わたしにとってよそよそしいものとなってしまったわたし自身を、にもかかわらずいつまでもわたしにつきまとわせる──つまりは自己疎外を生産し続けるメディウムであるということだ。
カスタムキャストの配信画面には、そんな逃れがたい自己イメージの代わりに、理想化された仮想身体が表示されている。この美少女はわたしのまばたきに合わせてまばたきし、口の動きに合わせて口を動かし、顔の傾きに合わせて顔を傾ける。画面に近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなる。タイムラグはまったく感じられず、あたかも鏡に映った像であるかのように、わたしの顔面運動の一部を模倣する。これはとても不思議な感覚だ。線と色彩の集積にすぎないモノが、わたしのしぐさを真似ることで、わたしを受け入れようとしてくれている。あるいはそれは罠で、わたしを誘い込み、わたしのような何者かになり、ついにはわたしに取って代わろうとしているのだろうか。
いずれにせよ、彼女は鏡であって鏡ではない。それは言ってみれば「ゆがんだ鏡」であり、しかしだからこそ、斑井の新たな身体がそうであったように、わたしの「ゆがめられた魂」を“正しく”映し出すことができる。幼少期に埋め込まれた自己イメージを否定するとまではいかなくても、その輪郭をあいまいにぼかし、たわませ、粗いスケッチの線のように複数化してくれる。
だがそうだとしても、なぜ美少女なのだろうか。動物や植物、鉱物、あるいは偉大な先人にならって「毒虫」ではいけないのだろうか。ほかならぬ美少女であることは、一部の中高年男性にとって代替不可能な価値をもつ。そのことは「バーチャル美少女セルフ受肉」という言葉自体が雄弁に語っている。
ドイツのある哲学者は、人間だけが「世界」を創り上げることができると述べた。彼に言わせると、動物は世界が貧しく、鉱物にはそもそも世界がない。とすれば、これにならって次のように言うことができるかもしれない──二次元(または3D)美少女は、そのように創られた世界から祝福された存在、あるいは世界を祝福する存在である、と。たとえフィクションや二次創作のなかでどれほどひどい目に遭わされようと、彼女たちはまさにそのことを通じて、当の作品世界を輝かしく意味あるもの、鑑賞に値するものへと変容させる。
美少女のこのような存在様式は、たんなる世界の貧困(動物)や不在(鉱物)よりも、わたしにとってはるかに遠く隔たって感じられる。というより、フィクションのなかの魚やバイクがそうであるように、むしろ動植物や無機物といった非人間のほうが、自分自身から疎外された中高年男性にはずっと近しい存在なのだ。言い換えれば、わたしはつねにすでに毒虫なのであり、それゆえに毒虫“への”生成変化ではなく、毒虫“からの”生成変化こそが救いとして立ち現れる。
多くの中高年男性が「バ美肉」するのも、おそらく似たような理由からだろう。そこには美少女への、つまりは世界を祝福し祝福される存在への、やみがたい憧憬と嫉妬の感情がある。彼女たちがしばしば男性向けエロ同人誌で陵辱されるのは、たんに男性読者の性的欲望を想像的に満たすためだけではない。それは存在論的に隔絶された世界へのアクセスを試みる、憧れと妬みとが入り混じった宗教的な営みでもあるのだ。そこでは自慰行為が聖なる儀式となり、射精が祈りの一形態となる。罪を犯すことで罰を待望し、それによって逆説的に超越者の存在を証そうとする転倒した信仰告白……。
バ美肉は、それまでひとつの方法しか知らなかったわたしに、存在の祝福へといたる別の手段、別の可能性を暗示してくれた。それはわたしの自己疎外を意味あるものに変え、この生を生きるに値するものに変えてくれるかもしれない。呪いを解くのではなく、呪いを新生の糧とすること。救済へといたる扉は、最も呪われた存在にこそ開かれている。