てらまっとのアニメ批評ブログ

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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(8):自然に言語を与える

 現代の高度な科学技術を「第二の技術」として社会に内蔵し、自然と人類との調和的な共演を実現すること。これがベンヤミンのいう生産力の自然な利用であり、革命の最終目標とも言うべきものだった。

 このように述べるとき、さしあたってベンヤミンの念頭に置かれていたのは、空想的社会主義者として知られるシャルル・フーリエユートピア構想である。ベンヤミンは「複製技術論」をはじめとするいくつかのテクストでフーリエに言及しているが、とりわけ晩年の「歴史の概念について」(1940年)では、フーリエの労働概念が高く評価されている。

 ベンヤミンによれば、俗流マルクス主義的な労働賛美が、ファシズムと同様に「自然支配」ないし「自然の搾取」へといたるのに対して、フーリエの空想的なユートピアは、それよりもはるかに健康的な感覚によって生み出されたのだという。

 「フーリエによれば」とベンヤミンは手短に要約している。「健全な社会的労働を確立すれば、いずれは四つの月が地球の夜を照らし、両極からは氷が消え去り、海水はもう塩辛くなくなり、猛獣が人間の用を足すことになっていた」(UB: 1, 699)。そして、こうした労働のあり方は「自然を搾取することからはるかに遠く、自然の胎内に可能性として眠っている創造の子供たちを出産させるもの」(ibid.)であるという。

 さらに、フーリエとならんでしばしば言及されるのが、ドイツの作家パウル・シェーアバルトである。第二の技術による自然と人類との共演というモチーフは、『レザベンディオ』(1913年)をはじめとするシェーアバルトの作品に深く影響を受けていると考えられる。

 ベンヤミンは1930年代後半頃に書かれたと見られるシェーアバルト論のなかで、彼の作品のうちに「技術と調和し、技術を人間的に用いる人類」(GS: 2, 630)という理念が刻印されていることを指摘する。それは自然を支配するための技術ではなく、逆に人間を解放すると同時に「人間を介して被造物のすべてを友愛の心で解放する」(GS: 2, 631)技術なのだという。ベンヤミンはシェーアバルトを「フーリエの双子の兄弟」と呼んでいた。

 自然と人類との共演という表現のうちには、こうしたユートピア的な労働観・技術観が含まれている。ここには明らかに、正統的なマルクス主義とは異なる、神学的ないし神秘主義的な響きがある。そして、より決定的なのは、ベンヤミンが「ドイツ・ファシズムの理論」のなかで、第一次世界大戦の惨状について次のように語っていたことだ。

 

技術は砲火の帯と塹壕によって、ドイツ観念論の顔の英雄的な相貌をなぞろうとした。技術は思いちがいをしていた。というのも技術が英雄的な相貌と見なしたものは、ヒポクラテスの相貌、すなわち死相だったからだ。このように技術は、自らの邪悪さに深く浸透されて、自然の黙示録的な顔貌を刻印し、自然を沈黙へといたらせたのだが、それでもやはり自然に言語を与ええたかもしれない力ではあった。(TF: 3, 247)

 

 技術は自然に「言語」を与える力を持っていた。けれども、戦争に利用されてしまったことで、逆に自然を「沈黙」させてしまった。

 とすれば、逆にここでベンヤミンが目指しているのは、自然に言語を与えることだと考えられる。自然と人類との共演は、彼が初期から一貫して取り組んできた「言語」のモティーフと密接に結びついているのだ。

 では、自然の言語およびその沈黙とは、いったい何を意味しているのだろうか。次回は、ベンヤミンの初期言語論を参照しつつ、自然と言語、人間との関わりについて詳しく見ていくことになる。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(7):第一の技術と第二の技術

 政治の美学化は、戦争において頂点に達する。戦争は生産力の「不自然な」利用であり、これに対してベンヤミンは、生産力の「自然な」利用を目指している。

 では、生産力の自然な利用とはどのようなものか。これを理解するうえで重要なのは、ベンヤミンが「複製技術論」のなかで、二種類の技術を区別していることだ。

 ベンヤミンは、原始時代の魔術や呪術を「第一の技術」と呼び、他方で、現代の科学技術を「第二の技術」(KZ: 7, 359)と呼んでいる。前者の特徴が「一度きり」であるのに対して、後者においては「一度[の失敗]は数のうちに入らない」(ibid.)。この二つの技術は、伝統的な芸術作品の「いま・ここ」における「一回性」と、大量生産を可能にする複製技術の「反復可能性」(KZ: 7, 355)にそれぞれ対応する。

 だが、ここで注意すべきなのは、それらが生産手段の違いにのみ還元されるわけではない、ということだ。しばしば誤解されているが、両者は相互排他的なカテゴリーではない。実際、ベンヤミンは「芸術は第一の技術にも第二の技術にも結ばれている」(KZ: 7, 359)と明確に述べている。そして現代においては、第一の技術から第二の技術へと大きく重心が移りつつあるのだという。

 したがって、ここで区別されている二種類の技術は、具体的な道具や生産手段を指すというよりも、むしろ、自然と人間との関係のあり方そのものを指していると考えるべきだろう。ベンヤミンは以下のように続けている。

 

第一の技術は実際、自然の支配を目指していた。第二の技術はむしろ、自然と人類との共演を目指すところがずっと大きい。(ibid.)

 

  ベンヤミンが社会の「器官」とすることを目指していたのは、機械的な複製技術に代表される現代の高度な科学技術である。つまり、彼はこうした技術を第二の技術として使いこなすことで、自然と人類との調和的な「共演[共同遊戯]」を実現しようとしていたのだ。

 他方で、第一の技術による自然の「支配」とは、自然の持つ力と解放的に戯れるのではなく、それを魔術的なやり方で利用することである。ベンヤミンの考えでは、原始時代の芸術作品はそうした魔術の道具だった。先祖の像を彫刻することは魔術の実行であり、またその像は、儀式の際にとるべき姿勢の手本であり、さらにその像を眺めることで、自らの魔術的な力が強められるのだという。

 こうした記述には明らかに、ファシズムによる「政治の美学化」が重ね合わされている。すでに確認したように、ファシズムによる大衆の表現とは、先祖の像の代わりに総統を礼拝させることで大衆を呪縛し、人間素材に変えてしまうファシズム的芸術にほかならなかった。「ファシズムの教えによれば、呪縛が彼らに強制する姿勢とともに、大衆ははじめて自らの表現にいたる」(PB: 3, 489)とベンヤミンは述べている。

 したがってファシズムは、現代の科学技術をあくまで第一の技術として、とはつまり「魔術」として反動的に利用することを試みている、と言えるだろう。本来であれば「第一の技術、原始時代の技術ができるだけ多く人間を投入したのに対し、第二の技術、現代の技術はできるだけ少なく人間を投入する」(KZ: 7, 359)。ところが、ファシズムはむしろ、大衆を動員するためにこそ現代の技術を利用する。そこでは「石のかたまりBlöckeからピラミッドを建てた奴隷たちと、広場や練兵場において総統の前で自らかたまりをなすプロレタリアの大衆とのちがいはほとんどない」(PB: 3, 489)。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、「一個の石塊から」(KZ: 7, 362)[強調原文]創造される古代ギリシャ彫刻の「永遠性の価値」に言及している。これとまったく同様にファシズムは、人間素材としての大衆の「かたまり」を記念碑へと造形することで、自らの支配を永遠化しようとするのだ。

 このような「政治の美学化」の頂点としての戦争は、自然との「調和的な共演を放棄すること」(TF: 3, 238)を意味する。これがベンヤミンのいう、ファシズムによる生産力の「不自然な」利用である。ファシズムは現代の高度な科学技術を、魔術的な自然支配の道具として用いる。これに対して、生産力の「自然な」利用とは、現代の技術を「第二の技術」として社会に実装し、自然と人類との「調和的な共演」を実現することにほかならない。

 では、ベンヤミンの目指す「自然と人類との共演」とは、いったいどのような事態を指すのだろうか。次回は彼の初期言語論にまでさかのぼり、そこに込められた神学的・神秘主義的含意をくみ取ることにしたい。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(6):戦争の美学

 ファシズムは大衆にスペクタクルな表現を与え、記念碑的造形のための人間素材として呪縛する。ひとかたまりになった大衆は、階級認識と自己認識を欠いた集団へと変えられてしまう。

 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、このような「政治の美学化」の臨界点について、以下のように述べている。

 

政治を美学化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる政治の美学化は、「戦争」において頂点に達する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の数年前に発表した「ドイツ・ファシズムの理論――エルンスト・ユンガー編の論集『戦争と戦士』について」(1930年)のなかで、戦争を「ドイツ国民の最高次の表現」(TF: 3, 241)と呼んでいる。彼の考えでは、戦争だけが従来の所有関係を保存したまま、最大規模の大衆を動員することができるという。ここで重要なのは、ファシズムの戦争賛美がこうした政治的な側面からだけではなく、同時に技術的な側面からもとらえ返されていることである。

 ベンヤミンによれば、戦争はやはり所有関係を保存したまま、現代の高度な「技術」をあますところなく、しかも美的に利用することを可能にする。彼は「パリ書簡」のなかで、より直接的に「戦争芸術」という言い方をしているが、それは戦争が「ファシズムの芸術理念を、人間素材の記念碑的投入を通じて、そしてまた全技術の、卑俗な諸目的から完全に解放された投入を通じて体現する」(PB: 3, 492)からだ。

 このときベンヤミンが念頭に置いているのは、未来派の詩人マリネッティの「戦争の美学」である。そこでは「戦争は美しい」というフレーズが何度も繰り返され、炸裂する近代兵器や荒廃した戦場の風景が美的に描き出される。マリネッティは、戦争において利用されるさまざまな技術的手段のうちに、これまでとは異なった「新しいポエジーと新しい造形」の可能性を見出すのだ。

 マリネッティの美学は、人類の絶滅そのものを美的に享受するという点で、自己目的化した「芸術のための芸術」の完成であるという。ベンヤミンマリネッティの宣言文の明快さを評価しつつ、ファシズムにおける「戦争の美学」を次のように定式化している。

 

生産力の自然な利用が所有秩序によって妨げられると、技術的手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官とするまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を克服するまでに成長していなかったことである。(KZ: 7, 383)

 

 戦争は「生産力」の「不自然な」利用法である。これはベンヤミンの考えでは、社会と技術がともに未成熟であることに由来する。つまり、技術を社会の「器官」として適切に使いこなすことができないために、行き場を失った社会的生産力が暴走し、結果的に戦争が引き起こされるというのだ。

 したがって、戦争とは「技術の反乱」であり、「技術の要求に対して社会が自然素材を与えなくなったので、技術はその要求をいまや「人間素材」に向けている」(ibid.)[強調原文]。ベンヤミンが目指すのは、これとは逆に、技術を社会の器官として適切に用いること、すなわち生産力の「自然な」利用である。だが、それは具体的に何を意味しているのか。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(5):大衆をほぐすこと、あるいは芸術の政治化

 党大会に動員され、総統の前で「かたまり」となる大衆。ベンヤミンはそのような現象を彫刻的なメタファーでとらえ、「ファシズム的芸術」と呼んだ。それは「人間素材」としての大衆を、「記念碑的造形」へと彫刻することを意味する。

 ベンヤミンは「複製技術論」の注のなかで、かたまりとなった大衆を「ひとまとまりの大衆」(KZ: 7, 371)と呼び、プロレタリア大衆とはっきり区別している。後者が自律的・革命的な「行動」を可能とするのに対して、前者はパニック的・反革命的な「反応」に支配されているという。

 なぜなら、ひとまとまりの大衆は、プロレタリア大衆のように「階級意識」を通じて連帯しているのではなく、ファシズムに動員された「小市民大衆」(ibid.)にすぎないからだ。ベンヤミンは「小市民層は階級ではない」(ibid.)と述べているが、これは彼らが、プロレタリアとしての自己認識ないし階級認識を欠いていることを意味する。

 さらに「複製技術論」の翌年、1937年から38年にかけて書かれた「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」のなかにも、小市民大衆についての記述がある。それによれば、こうした大衆は「運命」や「人種」といった全体主義イデオロギーによって自らを合理化し、あたかも動物のように「群棲衝動と反射的な振る舞いを自由に戯れさせる」(PS: 1, 565)。

 ベンヤミンはそのことを、必ずしも否定的にのみ評価しているわけではない。とはいえ「ファシズムが動員する大衆がひとまとまりのものであればあるほど、この大衆の反応が小市民のもつ反革命的本能に規定される可能性がそれだけ多くなるということが、ファシズムには分かっていた」(KZ: 7, 371)。だからこそファシズムは、プロレタリア大衆に表現を与え、人間素材として「呪縛」することで、彼らをひとまとまりの大衆へと変えようとする。これが、ファシズムによる「政治の美学化」の内実である。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、大衆にプロレタリアとしての自己了解を促すことで、彼らをファシズムの呪縛から解放することだと言えるだろう。それは彼の言葉を借りるなら、呪縛されたひとまとまりの大衆を「ほぐす」(ibid.)ことである。

 このように考えれば、ベンヤミンの唱える「芸術の政治化」の内実もおのずと明らかになる。それはすなわち、ファシズムの戦略とは逆に、大衆の自己了解のために芸術を利用することだ。ひとまとまりの大衆にプロレタリアとしての階級認識・自己認識をもたらし、資本主義的な所有関係を廃絶する「革命」を成し遂げること。次回以降は、その具体的な戦略について見ていくことになる。

 ただし、このとき注意すべきなのは、ファシズムに対するベンヤミンの批判が、必ずしも正統なマルクス主義の枠組みにはとどまらないということだ。それは彼生来の、神学的・神秘主義的なパースペクティブへと拡張されていく。そこではファシズムコミュニズムの対立が、所有関係の変革についての政治的・経済的な問題としてだけではなく、人類と自然との関係性をめぐる宇宙論的な思弁において再編成されることになる。さらに詳しく見ていこう。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(4):ファシズム芸術と大衆の彫刻

 政治の美学化は、ナチスの党大会に代表されるような「大衆の表現」によって実現する。ベンヤミンは「複製技術論」の第二稿と同年に発表した「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年、以下「パリ書簡」)のなかで、そうした大衆のあり方をさらに詳しく分析している。

 「パリ書簡」では、大衆の表現という言い方ではなく、より直接的に「ファシズム的芸術」(PB: 3, 487)と言い換えられる。ベンヤミンファシズムによる政治の美学化の試みを、一種の「芸術」として、それも大衆に働きかける「プロパガンダ芸術」(PB: 3, 488)としてとらえているのだ。

 大衆の表現=ファシズム的芸術においては、「大衆の自己了解」(ibid.)の可能性が排除されている。たしかに「ファシズム的芸術は、大衆のためにだけではなく、また大衆によって実行される」(ibid.)[強調原文]のだが、にもかかわらず大衆は、そうした芸術において自分自身を対象とし、自分自身と了解し合うことができない。

 これは言い換えると、自らの表現を通じて、プロレタリア大衆としての「自己認識」を獲得することができないということだ。なぜなら「もしそうなったら、この芸術はプロレタリア階級芸術であらざるをえず、そうした階級芸術を通じて、賃金労働と搾取という現実は正当に扱われることに、つまりそれが廃絶される道にいたるだろう」(ibid.)からである。

 ファシズム的芸術は、動員された大衆の正当な自己認識を阻害し、現実の変革を不可能にする。ベンヤミンはこのような作用を、ファシズム的芸術における「記念碑的造形」(PB: 3, 489)のうちに見ている。彼の考えでは、ナチスは政治を国家の造形芸術としてとらえ、大衆から民族を、民族から国家を造形することを目指していたという。ニュルンベルク党大会の壮麗なスペクタクルは、そのことをよく表している。全国各地から動員され、会場を埋めつくす大衆が「民族共同体」の記念碑へと造形される。

 ベンヤミンは「パリ書簡」のなかで、この点について次のように述べている。

 

ファシズムは自らの記念碑を堅固なものと見なしており、その記念碑を製作するのに用いる素材がとりわけ、いわゆる人間素材である。エリートは彼らの支配を、それらの記念碑において永遠化する。そしてこれらの記念碑こそ、人間素材が造形されうる唯一の手段である。(ibid.)

 

 ファシズムによる大衆の表現とは、ベンヤミンによれば、大衆そのものを「人間素材[人的資源]」として造形される記念碑的芸術のことである。そしてこの記念碑は、二重の仕方でファシズムの目的に役立つという。

 ひとつは、資本主義的な経済秩序の記念碑として、現在の所有関係が永遠に続くものであるかのように表象すること。そしてもうひとつは、記念碑的造形の実行者と受容者をともに「呪縛」することで、彼らから自律的に行動する能力を奪うことである。これは、芸術が本来もっているはずの「知的・啓蒙的エネルギーを犠牲にして、その作用の暗示的エネルギーを強化する」(ibid.)ことだという。

 ファシズム的芸術においては、大衆は芸術を通じて自己認識を獲得するどころか、逆に自律的な能力を持たない人間素材に変えられてしまう。こうして暗示にかけられた大衆は、所有関係を変革する権利を骨抜きにされ、総統の前で自ら「かたまり」を形成することになる。

 ひとつのかたまりとしての人間素材を加工し、永続的な記念碑を作り出すこと。この彫刻的な隠喩こそが、ベンヤミンのいう「政治の美学化」の核心なのだ。

 

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(3):ファシズムと大衆の表現

 これまでの繰り返しになるが、ベンヤミンコミュニズムによる「芸術の政治化」を主張したのは、ファシズムによる「政治の美学化」に対抗するためだった。とすれば、ファシズムの戦略についての彼の分析を参照することで、コミュニズムに期待していたものを明らかにすることができるはずだ。

 では、ファシズムによる「政治の美学化」とは具体的に何を意味するのか。ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、次のように説明している。

 

大衆は所有関係の変革に対する権利をもっている。ところがファシズムは、所有関係を保存しつつ、大衆に表現を与えようとする。ファシズムは一貫して、政治的な生の美学化を目指している。(KZ: 7, 382)[強調原文]

 

 ファシズムによる「政治の美学化」とは、一言で言えば、大衆に「権利」ではなく「表現」を与えることである。これはどういうことだろうか。

 まず、ここで言われている大衆の権利とは、引用箇所にもあるように、マルクス主義的な「所有関係」を変革する権利のことだ。これは言い換えれば、革命によって資本主義的な経済秩序を打倒することを意味している。というのも、この大衆とは、ベンヤミンの考えでは、貧しい賃金労働者からなる「プロレタリア大衆」だからである。

 ベンヤミンは「複製技術論」の別の箇所で、現代社会では「大衆がますます増大していること、そして大衆の運動がますます強力になっていること」(KZ: 7, 355)を指摘しているが、これは「現代人のプロレタリア化の進行」(KZ: 7, 382)と表裏一体の出来事であるという。そして彼の考えでは、ファシズムは従来の所有関係を保存したまま、新たに生み出されたプロレタリア大衆を組織しようと試みている。しかしそのためには、所有関係を変革しようとする大衆の正当な要求、つまりは「権利」を抑え込まなければならない。そこで要請されたのが、大衆の「表現」である。

 では、ファシズムによる大衆の表現とは具体的にどのようなものか。ここではほとんど説明されていないが、先の引用箇所に関連した注のなかで、「大がかりな祝賀パレードやマンモス集会、スポーツ大会、そして戦争」(ibid.)といったものが挙げられている。さしあたって大衆の表現とは、大衆を動員して盛大に行われる国家的規模のイベントを指す、と考えていいだろう。

 このときベンヤミンが念頭に置いていたのは、おそらく、ニュルンベルクで毎年開催されていたナチスの党大会だと思われる。ドイツ史研究者の田野大輔が指摘するように、それはまさに「壮大な規模で上演されたスペクタクル、メディアを動員したアウラの祭典」であり、そこでは「整然と行進する隊列、大量のハーケンクロイツの旗、サーチライトの照明効果など、視覚に訴える象徴的・祭儀的演出が利用されただけでなく、ファンファーレや「ハイル」の斉唱、ドラムの連打といった聴覚的な演出手法もふんだんに導入されて、ナチズムの提唱する「民族共同体」がオーディオ・ヴィジュアルに表現された」*1

 ナチスの党大会は、視覚や聴覚に訴えかけるさまざまな趣向を通じて、集められた大衆を「民族共同体」として演出する。ベンヤミンが「大衆の表現」と言い表したのは、具体的にはこのような事態である。

 ところで、ここで用いられている「表現」という言葉は、ベンヤミンの初期言語論においても重要な役割を持っている。この点については後述するが、彼がファシズムによる大衆の表現と言うとき、そこで含意されているのは、大衆をあたかもひとつの事物であるかのように、魔術的に「呪縛」することである。ベンヤミンは書記言語論のなかで、このような結びつきを「言語」に基づいた精神的共同性と対置し、「類似性」による魔術的共同性と呼んでいた。

 いずれにせよ、ここで重要なのは、政治の美学化が「大衆の表現」によって引き起こされるということだ。では、それがなぜファシズムに有利に働くのか。次回は「複製技術論」の第二稿と同年に発表された「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年)を参照しつつ、政治の美学化がいかにしてファシズムを強化すると考えられるのか、ベンヤミンの思考過程をたどることにしよう。

*1:田野大輔『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』名古屋大学出版会、2007年、30頁。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(2):集団的身体における自然との共演

 前回述べたとおり、ベンヤミンファシズムによる「政治の美学化」に対抗するために、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張していた。けれども、彼はその具体的な中身についてほとんど説明していない。ベンヤミンが「芸術の政治化」に直接言及しているのは、「コミュニズムは芸術の政治化をもってそれ[ファシズム]に応える」(KZ: 7, 384)[強調原文]という、「複製技術論」の最後の一文においてのみである。

 このそっけない終わり方は、たしかに「芸術の政治化」という言葉を強く印象づけることにはなった。しかし、同時にその内容のわかりにくさから、マルクス主義に対する素朴な期待を表明するものとして批判されることにもなった。もちろん、そうした側面を完全に否定することはできないが、しかしベンヤミンが思い描いていたヴィジョンは、正統的なマルクス主義の枠組みから大きく逸脱するものだった。彼は「複製技術論」の注のなかで、「革命」について以下のように語っている。

 

革命とは集団の神経刺激である。より正確には、史上はじめて成立した新しい集団に神経刺激を通わせる試みであり、この集団は第二の技術においてその器官をもつ。第二の技術という体系においては、社会の根元的な諸力を制御することが、自然の根元的な諸力との遊戯を行うための前提をなす。(KZ: 7, 360)

 

 ベンヤミンにとっての革命とは、人間の集団に「神経刺激」を通わせることを意味していた。そして、この集団の「器官」となるのが、「第二の技術」であるという。

 これらの概念については後ほど詳しく説明するが、ここで注目したいのは、ベンヤミンが「神経刺激」や「器官」といった生理学的・生物学的な用語を用いていることだ。要するに彼は、革命の主体となるべき人間集団を、さまざまな器官を持ち神経が張り巡らされた、ひとつの「身体」としてとらえていたのである。そして引用箇所にあるように、この集合的身体を通じて「社会の根源的な諸力」を制御し、「自然の根源的な諸力」との「遊戯」を行うことが、革命の最終目標として位置づけられる。

 あらかじめ結論を述べておこう。コミュニズムによる「芸術の政治化」とは、現代の高度なテクノロジーに適応した集合的な「身体」を組織することで、自然と人類との調和的な「共演」を目指すものにほかならなかった。

 自然やテクノロジーに対する、このきわめて神学的・神秘主義的なとらえ方は、ベンヤミン最初期の言語論から一貫して受け継がれ、後期の模倣論などで大きく読み替えられた後、「複製技術論」のうちに流れ込んだ。この特異な神学的次元を押さえないかぎり、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」は、たんなるマルクス主義プロパガンダ政策と同一視されてしまうだろう。

 そこで次回は、ファシズムによる「政治の美学化」との対立関係を通じて、コミュニズムによる「芸術の政治化」の輪郭を浮かび上がらせることを目指す。政治の美学化とは、具体的に何を意味していたのか。