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ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(2):集団的身体における自然との共演

 前回述べたとおり、ベンヤミンファシズムによる「政治の美学化」に対抗するために、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張していた。けれども、彼はその具体的な中身についてほとんど説明していない。ベンヤミンが「芸術の政治化」に直接言及しているのは、「コミュニズムは芸術の政治化をもってそれ[ファシズム]に応える」(KZ: 7, 384)[強調原文]という、「複製技術論」の最後の一文においてのみである。

 このそっけない終わり方は、たしかに「芸術の政治化」という言葉を強く印象づけることにはなった。しかし、同時にその内容のわかりにくさから、マルクス主義に対する素朴な期待を表明するものとして批判されることにもなった。もちろん、そうした側面を完全に否定することはできないが、しかしベンヤミンが思い描いていたヴィジョンは、正統的なマルクス主義の枠組みから大きく逸脱するものだった。彼は「複製技術論」の注のなかで、「革命」について以下のように語っている。

 

革命とは集団の神経刺激である。より正確には、史上はじめて成立した新しい集団に神経刺激を通わせる試みであり、この集団は第二の技術においてその器官をもつ。第二の技術という体系においては、社会の根元的な諸力を制御することが、自然の根元的な諸力との遊戯を行うための前提をなす。(KZ: 7, 360)

 

 ベンヤミンにとっての革命とは、人間の集団に「神経刺激」を通わせることを意味していた。そして、この集団の「器官」となるのが、「第二の技術」であるという。

 これらの概念については後ほど詳しく説明するが、ここで注目したいのは、ベンヤミンが「神経刺激」や「器官」といった生理学的・生物学的な用語を用いていることだ。要するに彼は、革命の主体となるべき人間集団を、さまざまな器官を持ち神経が張り巡らされた、ひとつの「身体」としてとらえていたのである。そして引用箇所にあるように、この集合的身体を通じて「社会の根源的な諸力」を制御し、「自然の根源的な諸力」との「遊戯」を行うことが、革命の最終目標として位置づけられる。

 あらかじめ結論を述べておこう。コミュニズムによる「芸術の政治化」とは、現代の高度なテクノロジーに適応した集合的な「身体」を組織することで、自然と人類との調和的な「共演」を目指すものにほかならなかった。

 自然やテクノロジーに対する、このきわめて神学的・神秘主義的なとらえ方は、ベンヤミン最初期の言語論から一貫して受け継がれ、後期の模倣論などで大きく読み替えられた後、「複製技術論」のうちに流れ込んだ。この特異な神学的次元を押さえないかぎり、ベンヤミンのいう「芸術の政治化」は、たんなるマルクス主義プロパガンダ政策と同一視されてしまうだろう。

 そこで次回は、ファシズムによる「政治の美学化」との対立関係を通じて、コミュニズムによる「芸術の政治化」の輪郭を浮かび上がらせることを目指す。政治の美学化とは、具体的に何を意味していたのか。