『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で成仏できない人のために

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 これは2012年に放送されたアニメ『キルミーベイベー』のファンが、放送終了後にネット掲示板に書き込んだとされる有名なアスキーアート(AA)だ。たんなる自虐的な冗談のようにも見えるが、実のところフィクションというものの本質を突いたきわめて鋭い警句ではないかと思う。アニメは終わる。そして私たちはそのたびごとに、自分の人生と向き合わなければならない。

 先日封切りされた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン・エヴァ』)は、まさにこのAAどおりの結末を迎えた。人類補完計画を発動した父・ゲンドウとの対話の末、彼を含めレイやアスカ、カヲルなどをそれぞれの居場所へと送り出したシンジは、エヴァンゲリオンの存在しない世界を創り出し、マリとともにこの“現実”へと駆け出していく。アニメではなく実写で撮られたラストシーンには、いまや彼らと同じ世界を生きる私たちへのエールが込められているようにも見える。今度は君たちが自分の人生と向き合うときだ──作中でシンジがそうしたように、と。

 テレビシリーズから20年以上を経て、名実ともに「エヴァ」は完結した。1990年代のテレビ放送時から追いかけてきたような古参ファンにとっては、人間的に大きく成長したシンジの姿に感慨もひとしおだったにちがいない。ツイッターなどではすでに「大傑作」との呼び声も高く、完結を長年待ち続けてきた亡霊のごときファンが“成仏”したとの報告も多数ある。だが、私自身は成仏どころか、しばらく途方に暮れてしまった。自分の人生と向き合うにあたって、シンジの生き方はほとんど参考にならないように思えたからだ。

 前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)には、このシリーズを見続けているあいだに法律上の大人になってしまったファンを意識したと思われる奇妙な設定が登場する。それが「エヴァの呪縛」だ。エヴァンゲリオンパイロットであるシンジやアスカ、レイ、マリは作中で10年以上の月日が流れているにもかかわらず、この「呪縛」によって肉体的にまったく成長しない。他方で、彼ら以外のキャラクターは相応に年を重ね、内面的にも外見的にも変化している。この設定は『シン・エヴァ』にも引き継がれ、シンジの同級生だったトウジやケンスケが立派な大人になって再登場する。

 これは明らかに、いつのまにか大人になってしまったが、いつまでも“大人”になりきれない一部の(私のような)ファンを意識したものだろう。トウジはニアサードインパクトを生き延び、結婚して子供をもうけ、いまは村医として人々のために働いている。ケンスケも村の「なんでも屋」としてインフラのメンテナンスなどをしながら、シンジやアスカの一時的な保護者役を買って出る。彼らとシンジとのあいだの精神的・肉体的なギャップは、辛い目に遭うたびに引きこもってしまう彼の、そして私の未成熟さを容赦なくあらわにする。

 ここにはひとつのスタンダードな“大人”像、つまりは成熟のモデルが示されている。家族やコミュニティの一員としての役割と責任を引き受けることだ。もちろん、トウジやケンスケのような生き方がすべてではないし、これとはまったく別の成熟のかたちもありうるかもしれない。けれども、結局のところ『シン・エヴァ』では、オルタナティブな成熟のあり方はほとんど示されていなかったように思う。物語の後半で立ち直ったシンジは、自分の、そして父のやったことに決着をつけるために再びエヴァンゲリオンに乗る。これは言い換えれば、「この父の子供」としての役割と責任を自ら引き受けるということでもある。

 私も多くのファンと同様、シンジの成長を心からうれしく思っている。だが、それはもはや私個人とはなんの関係もない、ひとりのフィクショナル・キャラクターに対する感慨にすぎない。すべてのエヴァンゲリオンを消し去った後、真新しいスーツ姿でマリの手をとり、神木隆之介の声で歯の浮くような台詞を口にするシンジに、私は少なからずショックを受けた。こんな、最近の新海誠映画のパロディのようなシーンが、あの「エヴァ」の結末なのか。シンジとマリが結ばれること自体には何も文句はない。ただ、社会や他者への違和感など微塵も感じさせず、ふたりで手をつないで“現実”の世界を軽やかに駆けていく彼らの姿が、どうしようもなく遠くに感じられてしまったのだ。

 もちろん、シンジ本人にとってはそれこそが幸せなのだろう。トウジやケンスケのように順調に“大人”になれた多くのファンにとっても、そうかもしれない(だからこそ『シン・エヴァ』を見て“成仏”できるわけだ)。しかし、相変わらず「エヴァの呪縛」にとらわれた一部のファンは、シリーズの完結によって解放されるどころか、むしろますますがんじがらめになっていく。トウジやケンスケは言うまでもなく、もはやシンジのように生きることさえかなわない。「槍」を持たない私たちに、人生をやり直すことなんてできない。定型的な成熟を阻む「呪縛」は、もう手の施しようがない深みまで浸透してしまった。それほどこの年月は長く、重い。

 先に「シンジは参考にならない」と書いたのは、このような理由による。私たちには、というより私には、彼とは別の仕方で“大人”になるための、あるいは大人とは別の何者かになるためのオルタナティブな回路が必要なのだ。そして、その手がかりはシンジではなく、彼の父にしてすべての元凶でもあるゲンドウのほうにあるように思う。

 亡くなった妻と再会するためだけに躊躇なく人類全体を巻き込み、人間すらやめてしまうゲンドウこそ、完結してなお「エヴァの呪縛」にとらわれ続ける私(たち)の似姿ではないか。かつてのシンジと同じく、いやそれ以上に他者を恐れ、わが子にさえおびえる彼は、唯一の理解者だった妻の喪失をいつまでも受け入れることができない。結局、ゲンドウはシンジとの対話を通じて彼のなかに妻の存在を見いだし、彼女の魂が封じられたエヴァンゲリオン初号機とともに自らを槍で貫く。

 これがもうひとつの成熟の可能性なのかと言われれば、もちろんそんなことはない。最後まで他者を拒み、妻に依存していた身勝手な男が、周囲にさんざん迷惑をかけたあげく自分の子供に尻ぬぐいをさせるという、およそ褒めるべきところのない事例にすぎない。むしろ私(たち)がここから学ぶべきなのは、どうしたらゲンドウにならずに済むかということであり、そして万一なってしまったら、自分の子供=シンジなしでどうやって自分を救うかということだ。

 少なくとも私の見るかぎり、シンジの物語である『シン・エヴァ』にこの問いの答えはない。だが、たとえば新海誠監督の『秒速5センチメートル』(2007)などは、同様の問題に真正面から取り組んでいる。もう戻らない日々、もう会えない人々をうらやみ嘆くのではなく、その記憶こそをかけがえのないものとして保持し、喪失の経験を含めて自らの生を肯定すること。それが成熟のありうべき別のかたちと言えるのかどうかはわからない。しょせんナルシシスティックな自己憐憫にすぎないのかもしれない。けれども、たぶんそうやって私(たち)は、自分で自分の「呪縛」を少しずつ解いていくしかないのだ。

エヴァ」は完結した。いくら呼んでも帰ってこない。もうあの幸せな時間は終わって、次のアニメが始まるまでのあいだ、私も自分の人生と向き合わなければならない。シンジになれなかった私にとって、それは相変わらず途方に暮れるほかない代物だったが、それでも『シン・エヴァ』を見終わった後の人生が、以前よりもほんの少し明るく、色づいたものになっていてほしいと願っている。