てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

映画の死体に魂を吹き込む:『映画大好きポンポさん』とネクロ゠シネフィリア

 2021年6月は、コロナ禍にともなう緊急事態宣言で公開延期されていた話題のアニメ映画が続々と封切られ、アニメファンにとってはちょっとした「まつり」になった。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『シドニアの騎士 あいつむぐほし』『映画大好きポンポさん』──いずれもたいへん見応えのある作品で、それぞれについて何か書きたい気持ちはあるものの、残念ながらわたしにはそのための時間と能力がない。いちおう、これらすべてに言及したバ美肉配信があるので、興味のある人はそちらを見てほしい。

てらまっとの怒られ☆アニメ批評 第3回:ポンポさん、ハサウェイ、シドニア、レヴュースタァライト - てらまっと (@teramat) - TwitCasting

 そういうわけで、ここではわたしがいちばん楽しめた、というか唸らされた作品について書こうと思う。それが『映画大好きポンポさん』だ。

 『ポンポさん』は杉谷庄吾人間プラモ】による同名の漫画作品を劇場アニメ化したもの。ハリウッドならぬ「ニャリウッド」を舞台に、超大物映画プロデューサーの祖父から才能を受け継いだ「ポンポさん」のもとで、いわゆる「映画狂(シネフィル)」の主人公、ジーンくんが新作映画の監督に抜擢され、さまざまな人に助けられながら一本の映画を完成させるという物語だ。「映画大好き」というタイトルからもわかるとおり、この作品は映画の制作プロセスそのものを描いた映画、つまりは映画についての映画であり、映画という娯楽・芸術形式への愛(フィリア)が全編にあふれている。

 けれども、わたしにはこの愛が、ある種の「死体愛好(ネクロフィリア)」に見えてしまった。もっと正確にいうと、自らの手で殺めてしまった最愛の人を蘇らせようとする、倒錯した愛情をそこに感じてしまったのだ。

 『ポンポさん』には、映画の素晴らしさを物語るシーンやセリフがいくつも挿入されている。たとえば新作の主演を務める伝説の俳優、マーティンの演技をじかに目にしたジーンくんは、完全に役になりきる圧倒的な演技力と存在感に衝撃を受ける。あるいは、スイスの高原での野外撮影中に偶然雨が上がり、雲間に虹がかかるシーン。ほかにもいろいろあった気がするが、これらはすべて、映画のある特別な性質を前提とし、またそれを祝福するために描き込まれている。その性質とは、いわば「世界の実在への信」を呼び起こすことだ。

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映に参加した人々は、カメラに向かって突進してくる列車の映像に驚き、逃げ惑ったといわれている。このエピソードの信憑性はいまではだいぶあやしいが、それでも現代の初期映画研究によると、当時の観客たちが風に揺れる木々の葉や水しぶき、土煙などの「自然現象」に感銘を受けていたことは間違いないらしい。彼らはそこに人間的な意味や作為を超えた、それ自体として存在する「自生的世界」*1が映し出されていると信じたのだ。さしあたってこれを、わたしは「世界の実在への信」と呼ぶことにしたい。

 この信仰は言うまでもなく、レンズの前の事象を機械的に写し取ることのできるカメラの存在に支えられている。かつての映画のイメージには、写真と同様、そこに映し出されている対象との物理的な結びつきがあった。哲学者のチャールズ・サンダース・パースのいう「指標(インデックス)性」というやつだ。映画のイメージはフィルムに焼き付けられた世界それ自体の光学的な痕跡であり、たとえば画家の意図に従って構成される一般的な絵画とは性質がまったく異なる。古き良き映画における恩寵のごとき聖なるイメージ、あるいは奇跡的な瞬間といったものがあるとすれば、それは映画監督の天才や創意工夫のおかげというよりも(もちろんそれもあるが)、むしろ「自生的世界」の出現をカメラが偶然記録していたからにほかならない──少なくとも、そのように解釈することも不可能ではなかった。

 いちおう断っておくと、これはひどく雑で、単純化されたものの見方である。実際には、もっと複雑かつ難解な議論がたくさん積み重ねられている。けれども、人間の意図とは無関係に、無意味にただ存在し続ける世界への物理的な結びつきこそが、映画を特別な娯楽・芸術形式たらしめていた──あるいはそのような信仰を可能にしていた──ことは否定できないように思う(そんな信仰なんて最初から存在しない、存在したとしても本質的ではない、という異論は当然ありうるけれど、ここでは措いておく)。

 『ポンポさん』で描かれる映画の素晴らしさも、基本的にはこの信仰の延長線上にある。マーティンの存在感は彼自身の実在と切り離すことができないし、雨上がりの虹は世界の偶然性の現れだ。けれども、こうした「世界の実在への信」は、いまやCGの普及とデジタル化によって永久にその根拠を喪失してしまった。デジタルカメラで撮影されたイメージは当然ながら指標性をもたないし、CGでモデリングされたキャラクターはそもそも世界に存在しない。だからといってわたしは、映画全体のクオリティが下がったとか、昔の映画のほうがおもしろかったと言っているわけではまったくない。そうではなく、映画の素晴らしさを世界の実在へと結びつけて語るための根拠が、とはつまり映画に対する信仰の基盤そのものが崩壊してしまったことを確認したいのだ。

 メディア研究者のレフ・マノヴィッチは、このドラスティックな変化を「映画のアニメーション化」と要約している。

ライヴ・アクションのフッテージ[=映像素材]は、いまや手によって操作される材料にすぎない──それはアニメーション化され、3DのCGシーンと合成され、塗りつぶされる。最終的な画像はさまざまな要素から手作業で構築され、しかもすべての要素はゼロから作られているか、手によって修正を加えられているのである。いまや、私たちはようやく「デジタル映画とは何か?」という問いに答えることができる。デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである。

[…]アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである。*2

 デジタル化された映画は「アニメーションの特殊なケース」、つまりはサブジャンルになった。そのイメージはもはや世界の実在とはなんの関係もなく、人間の「手」で、制作者の意図に従って自由自在に修正・加工・再現されるものにすぎない。かくして人間とは無関係に存在する「自生的世界」への信仰は決定的に崩れ、人間的な意図と作為が充満する別の世界に取って代わられる。この新たな世界では、もはや永久に失われてしまったモメント、つまりは人間の意思とは無関係に生成する「偶然」や「奇跡」の希少性が劇的に高まり、その不可能な再導入が目指されるだろう。自分自身の想定を超えるために絵コンテを放棄した庵野秀明や、日常における偶然的・無意識的な身ぶりを描き続けた京都アニメーションのように。

 『ポンポさん』もまた、こうした不可逆的な変化と無関係ではない。というより、いまや映画がアニメーションの一部になってしまったからこそ、映画についてのアニメ映画というものが成立するのであり、むしろこの変化の帰結をグロテスクなまでにさらけ出している。何度か言及しているマーティンの例でいえば、作中で彼は身体から謎の黒いオーラのようなものが立ち昇り、眼がLED電球のように光るのである。わたしはこのシーンを見たとき、あまりにもアイロニカルすぎて思わず笑ってしまった。映画の素晴らしさをあれほど説いておきながら、そこで描かれているのはきわめて漫画的・アニメ的な記号表現であって、それはまさに古き良き映画が滅びてしまったこと、そして映画がアニメーションのサブジャンルになってしまったことをはっきりと物語っている。

 そもそも俳優の存在感というものは、失われた信仰によれば、彼自身の実在と固く結びついていたはずだ。それはフィルムに物理的に焼き付けられることで、初めて保存・伝達可能なものになる。けれどもデジタル映画では、俳優の存在感なんて後からCGで簡単に修正・加工・再現される「エフェクト」のひとつにすぎない。マーティンの身体から謎のオーラが出たり眼が光ったりする『ポンポさん』も、当然そのように作られている。にもかかわらず、「世界の実在への信」がいまだ生きているかのように語られ、現代では必須ともいえるCGを用いたVFX作業のプロセスは一切描かれない。これがアイロニーでなければなんだろうか。

 『ポンポさん』の最も印象的な場面、ジーンくんが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに映像編集を行うシークエンスにも、この倒錯的な愛が色濃く表れている。剣のような大きな片刃のはさみを手にしたジーンくんが、まるで『ソード・アート・オンライン』シリーズの主人公のように、もつれた映画フィルムの束をばっさばっさと切り捨てていく。かつての映画メディウム(フィルム)をわざわざCGで再現しているのも暗示的だが、それよりも映画制作の最重要プロセスとされる映像編集をこのように、きわめて漫画的・アニメ的に表現することへの躊躇のなさ──そもそも原作は漫画だし、これはアニメ映画だから当然だけれども──に、わたしはひどく感動してしまった。

 『ポンポさん』が描いているのは、たしかに映画への愛にはちがいない。けれども、その愛すべき映画はもうとっくに死んでいて、お墓の下で安らかに眠っていたのである。『ポンポさん』の映画愛とは文字どおり、古き良き映画の死体に魂を吹き込む=アニメートすることであって、それはもはや「世界の実在への信」が決定的に壊れてしまった時代に、動く死体としての、ゾンビとしての余生=死後の生を与えることにほかならない。映画が「アニメーションの特殊なケース」になってしまった時代をこれほど鮮やかに、アイロニカルに描いてみせたアニメ作品がかつてあっただろうか。

 ところで、世界の実在から永久に切り離されたデジタル映画=アニメーションは、自らの存在意義をまったく別の場所に求めることになる。それが人間の感情や情動だ。「映画の観客は実在しないと知っているスクリーン上の怪物をなぜ怖がるのか」というパラドクスが哲学者のあいだで真剣に議論されるほどに、私たちの感情は現実とフィクションの境界をやすやすと超えていく。フィクショナル・キャラクターに対するオタクの「萌え」や「推し」はその最たる例だろう。かくして観客の情動を呼び起こし、揺り動かし、吐き出させることが映画の新たな至上命令となり、そのためにありとあらゆるCGやデジタル技術、広告宣伝戦略が動員される。詳しくは説明しないが『ポンポさん』のストーリーもまた、現代のこうした傾向を忠実になぞりながら展開していく。

 わたしは最初に『ポンポさん』を「映画についての映画」と表現した。けれども、これはあまり正確ではない。そこには死者と生者を分かつ切断線が引かれており、自己言及的・自己批評的な対称性はとっくに解体されている。繰り返しになるが、この作品は死せる映画を墓穴から蘇らせ、失われた「世界の実在への信」を人間の手で、とはつまりアニメーションによって人為的に立て直そうとする試みなのだ。感動的なストーリーの結末とはまったく別に、わたしはこのきわめてアイロニカルな、ともすれば悪意さえ感じられる挑戦に胸を打たれた。こうした非対称的で倒錯的な愛のかたち──ネクロ゠シネフィリアとでも言えるだろうか──こそが、『ポンポさん』を比類ないアニメ映画たらしめている。

 


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*1:長谷正人『映画というテクノロジー経験』、青弓社、2010年

*2:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤介訳、みすず書房、2013年、413~414頁、強調原文

美少女はじめました(バ美肉についての覚え書き)

 最近いろいろ思うところがあり、美少女をはじめることにした。

 美少女といっても、現実に肉体改造したりコスプレしたりするわけではなく、バーチャル美少女セルフ受肉、いわゆる「バ美肉」である。これは文字どおり、2Dや3Dの美少女の姿をしたバーチャルな身体(アバター)に「受肉」し、YouTuberなどとして活動することだ。とくに中高年男性が行う場合は「バ美肉おじさん」と呼ばれる。わたしの場合はさしずめ「バ美肉アニメ批評愛好家おじさん」といったところだろうか。

 バ美肉にはさまざまな方法があるが、いまではスマートフォンひとつで受肉・配信できる手軽なアプリが複数リリースされている。わたしはキャラクターデザインのかわいさに惹かれて、3Dアダルトゲームのモデルをベースにした「カスタムキャスト」というアプリを利用することにした。このアプリでつくったわたしの新たな身体がこれである。控えめにいってかわいすぎる。完全に『けいおん!』シリーズのあずにゃんだが、わたしはあずにゃんに強い思い入れがあるのでむべなるかなという感じである。

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カスタムキャストで作成したわたし

 なぜ急に美少女をはじめたかというと、端的に言って、いまの自分の思考の枠組みに限界を感じていたからだ。『放課後ていぼう日誌』や『のんのんびより』、さらには『スーパーカブ』について書いた過去の文章からも明らかなように、わたしは一貫して、フィクション(とりわけ日常系アニメ)から徹底して排除される、もしくは性機能を抹消された「非人間」として包摂される男性身体の問題に関心を抱いてきた。詳しい議論は繰り返さないが、要するにそれらの背景にあるのは、自分が本来あるべき自分自身から追放されている、疎外されているという感覚である。この感覚をマルクスベンヤミンにならって「自己疎外」と呼ぶことにしよう。もともとは自分の労働力を他者(資本家)に奪われているという文脈だが、ここではもっと広く、自分自身が自分にとってよそよそしいもの、否定的なものに感じられるというほどの意味でとらえてほしい。これはたとえば「弱者男性」論などに少なからず共感してしまう男性なら、直感的に理解できるかもしれない。

 現代の日本社会で、とりわけ社会的地位や収入や家庭に恵まれているわけではない一部の男性にとって、自分の存在を肯定するのは決して簡単なことではない。フェミニストからはしばしば「(有害な)男らしさから降りる」ことが処方箋として提示されるが、まさにその男らしい男性が依然として恋愛市場・経済市場で勝利しているように見える現状では、そもそも「降りる」ことのインセンティブが見えづらいし、具体的な降り方もよくわからない。男らしさにとらわれた自分をひたすら反省し、否定していくしかないのだろうか。それはあまりにも苛酷すぎる──というより、そうした絶え間ない自己否定の圧力こそが、男らしさの呪縛以上に、一部男性の深刻な自己疎外につながっているようにも見える。わたしだって好き好んで男性をやっているわけではない。性的に呪われた身体をもって生まれてきたかったわけではない。

 わたしはアニメを見るとき、いつしかこのような問題関心から逃れられなくなってしまった。自分自身の身体に引っ張られて、以前ほど自由気ままにアニメを見ることができなくなってしまった。とはいえ、それで文章が書けなくなるわけではなく、むしろ関心がはっきりしているせいでスラスラ書けるのだが、これは逆に言えば、いつまで経っても自分の思考の枠組みを超えられないということでもある。同じテーマ、同じモチーフをめぐって延々と書き続けたところで、一時的に慰められこそすれ、わたし自身の自己疎外が解消されるわけではない。

 バ美肉は、そんな悩めるわたしの目に技術的福音として映った。

 わたしの好きな『つぐもも』という青年向けエロバトル漫画に、「斑井枡次(まだらい・ますじ)」という中高年男性キャラクターがいる。斑井は当初、主人公たちに敵対する悪役として彼らの前に立ちふさがるのだが、禁断のアイテムを使用した副作用で醜い化け物のような姿に変わってしまい、敗北の末に殺してくれと懇願する。しかし、主人公の仲間たちは彼を殺すのではなく、特殊な力をもったキャラクター(とある神社の祭神)の手で、かわいらしい「幼女」として生まれ変わらせる。唖然とする斑井に対し、この祭神が発した次のようなセリフが、わたしは強く印象に残っている。

魂の器たる人の形は!

“魂の在りよう”にそってなくては定着に支障があるにぃ!

んでもって

傀儡帯[=禁断のアイテム]の呪いによりゆがめられたおまえの魂に

ふさわしい形がそれ[=幼女]だっただけにぃ!(引用者注)

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つぐもも』26巻、第130話「まあちゃんとたぐり」より

 「呪い」により化け物と化してしまった、とはつまり自己疎外に陥った中高年男性が、まさにその「ゆがめられた魂の在りよう」ゆえに、まったく異なる存在として生まれ変わること。わたしはここに、バ美肉の最も解放的なポテンシャルがあると考えている。それは一言でいえば、自己疎外を生成変化の可能性の条件としてとらえ直すことだ。自分自身から追放され、疎外されているからこそ、たとえば『放課後ていぼう日誌』の魚や『スーパーカブ』のバイクのように、これまでの自分とは似ても似つかぬ存在へと生成変化することができる──あるいは少なくとも、生成変化へと動機づけられることができる。バ美肉はわたしがわたしにしかなれず、いまやそのわたしともうまくやっていけないという自縄自縛をひっくり返し、別の何者かになりうるための前提条件としてポジティブに価値づけてくれる。自己疎外をたんに解消したり低減したりするのではなく、まさにそれこそが新生への敷居であることを教えてくれるのだ。これが福音でなければなんだろうか。

 とはいえ、カスタムキャストによるバ美肉は、VRヘッドマウントディスプレイを装着する本格的な「受肉」ではない。スマートフォンを自分の正面に固定し、ディスプレイ上の美少女と向き合うことで、搭載カメラのフェイストラッキング機能を利用して目や口、頭の動きを追尾・再現するだけだ。さまざまな表情やポーズが用意されてはいるものの、それらをアバターに反映させるには、その都度画面をフリックしなければならない。そのため、カスタムキャストの操作感はVR機器による全方位的な没入とは大きく異なるのだが、わたしにはそれがかえって示唆的に感じられた。

 スマートフォンを自分の正面に立てるということは、つまるところ「鏡」を見るように画面のなかの美少女と向き合うことを意味する。そして鏡とは言うまでもなく、わたしがわたしになるための、ひいてはわたしであり続けるためのきわめて強力な視覚的メディウムである。ある高名な精神分析家は、幼児にとって鏡に映った自分の姿が「自我」の形成に決定的な役割を果たすと述べている。その科学的な真偽はさておき、鏡のなかのわたしがわたし自身の自己イメージをかなりの程度規定していることは間違いない。それは裏返せば、わたしにとってよそよそしいものとなってしまったわたし自身を、にもかかわらずいつまでもわたしにつきまとわせる──つまりは自己疎外を生産し続けるメディウムであるということだ。

 カスタムキャストの配信画面には、そんな逃れがたい自己イメージの代わりに、理想化された仮想身体が表示されている。この美少女はわたしのまばたきに合わせてまばたきし、口の動きに合わせて口を動かし、顔の傾きに合わせて顔を傾ける。画面に近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなる。タイムラグはまったく感じられず、あたかも鏡に映った像であるかのように、わたしの顔面運動の一部を模倣する。これはとても不思議な感覚だ。線と色彩の集積にすぎないモノが、わたしのしぐさを真似ることで、わたしを受け入れようとしてくれている。あるいはそれは罠で、わたしを誘い込み、わたしのような何者かになり、ついにはわたしに取って代わろうとしているのだろうか。

 いずれにせよ、彼女は鏡であって鏡ではない。それは言ってみれば「ゆがんだ鏡」であり、しかしだからこそ、斑井の新たな身体がそうであったように、わたしの「ゆがめられた魂」を“正しく”映し出すことができる。幼少期に埋め込まれた自己イメージを否定するとまではいかなくても、その輪郭をあいまいにぼかし、たわませ、粗いスケッチの線のように複数化してくれる。

 だがそうだとしても、なぜ美少女なのだろうか。動物や植物、鉱物、あるいは偉大な先人にならって「毒虫」ではいけないのだろうか。ほかならぬ美少女であることは、一部の中高年男性にとって代替不可能な価値をもつ。そのことは「バーチャル美少女セルフ受肉」という言葉自体が雄弁に語っている。

 ドイツのある哲学者は、人間だけが「世界」を創り上げることができると述べた。彼に言わせると、動物は世界が貧しく、鉱物にはそもそも世界がない。とすれば、これにならって次のように言うことができるかもしれない──二次元(または3D)美少女は、そのように創られた世界から祝福された存在、あるいは世界を祝福する存在である、と。たとえフィクションや二次創作のなかでどれほどひどい目に遭わされようと、彼女たちはまさにそのことを通じて、当の作品世界を輝かしく意味あるもの、鑑賞に値するものへと変容させる。

 美少女のこのような存在様式は、たんなる世界の貧困(動物)や不在(鉱物)よりも、わたしにとってはるかに遠く隔たって感じられる。というより、フィクションのなかの魚やバイクがそうであるように、むしろ動植物や無機物といった非人間のほうが、自分自身から疎外された中高年男性にはずっと近しい存在なのだ。言い換えれば、わたしはつねにすでに毒虫なのであり、それゆえに毒虫“への”生成変化ではなく、毒虫“からの”生成変化こそが救いとして立ち現れる。

 多くの中高年男性が「バ美肉」するのも、おそらく似たような理由からだろう。そこには美少女への、つまりは世界を祝福し祝福される存在への、やみがたい憧憬と嫉妬の感情がある。彼女たちがしばしば男性向けエロ同人誌で陵辱されるのは、たんに男性読者の性的欲望を想像的に満たすためだけではない。それは存在論的に隔絶された世界へのアクセスを試みる、憧れと妬みとが入り混じった宗教的な営みでもあるのだ。そこでは自慰行為が聖なる儀式となり、射精が祈りの一形態となる。罪を犯すことで罰を待望し、それによって逆説的に超越者の存在を証そうとする転倒した信仰告白……。

 バ美肉は、それまでひとつの方法しか知らなかったわたしに、存在の祝福へといたる別の手段、別の可能性を暗示してくれた。それはわたしの自己疎外を意味あるものに変え、この生を生きるに値するものに変えてくれるかもしれない。呪いを解くのではなく、呪いを新生の糧とすること。救済へといたる扉は、最も呪われた存在にこそ開かれている。

無意識をアニメートする2:『たまこラブストーリー』と非人間への愛

〈以下のテクストは2014年11月に発行されたククラス主宰の批評同人誌『ビンダー vol.1』に寄稿したものです。〉

 

 20144月に劇場公開された『たまこラブストーリー』は、一見したところ、恋愛の痛みと喜びを真正面から描いた王道青春映画であるように思える。しかし、よくよく内容を振り返ってみると、これほどおかしな「ラブストーリー」も他にないのではないか。というのも、このアニメ作品では、あたかも言葉遊びをなぞるようにして物語が展開し、人間ではないものへの愛が人間へとスライドしていくように見えるからだ。これはいったいどういうことなのか。

たまこラブストーリー』はどこがおかしいか

 『たまこラブストーリー』(以下『たまラブ』と略称)は、20131月から3月にかけて放映された京都アニメーション制作のテレビアニメ『たまこまーけっと』(以下『たまこま』と略称)の続編である。前作に引き続き、『けいおん!』シリーズの山田尚子が監督をつとめ、吉田玲子が脚本を手がけている。

 さしあたって『たまラブ』は、とても「わかりやすい」作品であるように思われる。ストーリーはいたってシンプルで、思春期の少年が意を決して幼なじみの少女に告白し、気まずくなってギクシャクするものの、最終的には結ばれるというものだ。こうした王道展開にくわえて、この作品では、さりげない表情やちょっとした仕草、たわいない会話のなかに、それぞれのキャラクターの心の揺れ動きが丁寧に描き込まれている。そのため、同じような恋愛経験のある観客はもとより、残念ながら心当たりのない観客にとっても、ストレスなく物語に入り込めるようになっているのだ。

 しかし、こうしたわかりやすさのおかげで、かえって『たまラブ』の「おかしさ」が見えづらくなっているのではないか。いや、むしろこのおかしさを目立たなくするためにこそ、過剰なほどのわかりやすさが要求されたとさえ言えるかもしれない。では、このおかしさとはどのようなものか。

 映画冒頭から強調されているように、『たまラブ』のヒロインである北白川たまこは、かなり変わった性格付けがなされている。彼女は商店街の餅屋「たまや」の看板娘で、家業である餅作りに異常なほどの情熱を注いでおり、いつも新しい商品を考案するのに余念がない。友人の牧野かんないわく、たまこは餅以外に興味のない「変態餅娘」なのだ。

 こうした性格付けは、当然ながら、彼女を恋愛から遠ざけるように作用する。実際、たまこは面と向かって告白されるまで、幼なじみのあからさまな好意にまったく気がつかなかった。したがって、そんな彼女のラブストーリーを描くにあたっては、山田監督自身が述べている通り、「ずっと脇目も振らずお餅を大事にしていた子がどうやって(恋愛に)転ぶのか」*1ということが決定的な重要性をもつ。そして、まさにこの点にこそ、『たまラブ』のおかしさがあるのだ。

 誤解を恐れずに言えば、たまこが幼なじみの告白を受け入れたのは、彼の名前が「大路もち蔵」だったからだ。つまり、彼女の大好きな「餅(もち)」という言葉が名前に含まれていたおかげで、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことが可能になったのである。これはこじつけでも何でもなく、作中ではっきりとそう描かれている。たまこは告白された後、動揺のあまり日常会話のなかの「餅」という言葉がすべて「もち蔵」に置き換わってしまい、彼のことを一日中意識せざるをえなくなってしまうのだ。

 こうして『たまラブ』では、それまでもっぱら餅に向けられていた愛着が、「もち」という「音像」の同一性を介して、もち蔵に対する愛着へとスライドしていく。要するに、〈たまこは餅が好き=もち蔵が好き〉というわけだ。

 しかし、冷静に考えてみると、これは少々──いや、相当おかしな話ではないか。餅屋の娘が「変態餅娘」なのはまだいいとしても、その幼なじみの名前が「もち蔵」で、さらに名前をめぐる言い間違いや言葉遊びによって「(恋愛に)転ぶ」という超展開は、一般的なラブストーリーの定石を大きく踏み越えているように思われる。

 さらに『たまラブ』には、ほかにも同じような言葉遊びが隠されている。たとえば、映画冒頭では、たまこが友人たちとの会話のなかで、お尻のかたちをした「お尻餅」という新しい商品を思いつくシーンがある。そしてその後、たまこはもち蔵に告白されたショックでバランスを崩し、川に落ちて「尻もち」をつく。ここでも〈餅=もち蔵〉と同様、〈お尻餅=尻もち〉という駄洒落が成立しているわけだ。

 このように『たまラブ』では、わかりやすい物語展開や心情描写とは裏腹に、きわめておかしな作劇手法が用いられている。よくある王道青春映画かと思いきや、唐突にくだらない駄洒落がはじまり、そしてそれをなぞるようにして物語が進行していくのである。だが、そうだとすれば、なぜわざわざそんな手の込んだことをするのか。物語に言い間違いや言葉遊びを織り込むことで、いったい何を描き出そうとしているのか。

無意識をアニメートする(1)──映画けいおん!』と天使のメタファー

 作中に言葉遊びが登場するのは、『たまラブ』だけではない。というより、これまで山田尚子と吉田玲子がタッグを組んだ作品(『けいおん!』および『たまこま』シリーズ)のほとんどすべてに、同じような駄洒落が散りばめられている。したがって、このおかしな作劇手法は、たんなる思いつきではなく、何らかの意図をもって用いられていると考えるべきだろう。では、その意図とはどのようなものか。

 この問題を解くヒントを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。というのも、フロイトは『日常生活の精神病理学』(1901年)や『機知』(1905年)といった著作のなかで、数多くの具体例を引用しながら、言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのメカニズムについて論じているからだ。

 フロイトにしたがうなら、これらの現象はすべて、本来意識的であるはずの思考プロセスが「無意識」の働きにゆだねられることで生み出される。無意識の領域では、あらゆる語がその固有の「意味」から切り離され、聴覚的な「音像」へと還元されるため、あたかも言葉遊びのように、語の構造や音韻の共通性にもとづいて変形することが可能になる──たとえば、ひとつの語をいくつかに分解したり、それらの一部を別の語に遷移したり、いくつかの語をひとつに縮合したりといったように*2。抑圧された潜在的な記憶や感情は、いわば無意識の言葉遊びとなって日常生活に回帰してくるのだ。

 そうだとすれば、山田監督&吉田脚本の作品に頻出する駄洒落もまた、こうした無意識の働きと関連づけることができるのではないか。つまり、これらの作品では、目覚めた意識ではとらえられない無意識の思考プロセスをアニメートするためにこそ、言葉遊びが用いられているのではないか。具体的な事例を見てみよう。

 言葉遊びが全面的に導入されたのは、おそらく『映画けいおん!』(2012年)が最初である。この作品は人気テレビアニメ『けいおん!』シリーズの劇場版で、高校卒業を間近にひかえた軽音楽部のメンバーたちがロンドンに卒業旅行に出かけ、現地でライブを披露するというストーリーだ。

 実はこのロンドン旅行には、観光以外にもうひとつ重要なミッションが課せられている。そのミッションとは、軽音楽部ただひとりの後輩である中野梓のために曲を制作するというものだ。これはより直接的には、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーを創り出すことを意味している。なぜなら、最終的に梓のために演奏される曲「天使にふれたよ!」のなかで、彼女はタイトル通り「天使」にたとえられているからだ。

 ところが、この曲の制作プロセスが作中で明示的に説明されることは一度もない。ロンドンから帰国した後、主人公の平沢唯はあたかも「霊感」を受けたかのように、突然「天使」という歌詞を思いつくのである。だが、そうだとすれば、〈梓=天使〉というインスピレーションはいったいどこから、どのようにもたらされたのか。『映画けいおん!』では、この無意識の思考=制作プロセスを描き出すために、名前をめぐるきわめて複雑な言葉遊びが用いられている。

 まず、唯は梓のことを一貫して「あずにゃん」と呼んでおり、すでに〈梓=猫〉というメタファーが成立していることを押さえておこう。劇場版では、この愛称がロンドン行きの飛行機のなかで部分的に英訳され、「あずキャット(as-cat)[猫として]」へと変化する。続いて、ロンドン市内の観光中に、この新たな愛称がさらに変化して「(荷物などを)あずきゃっとく[預かっておく]」という駄洒落が生み出される。つまり、〈梓+猫→あずにゃん→あずキャット→あずきゃっとく〉というわけだ。

 この一連の変形によって、これまでの〈梓=猫〉というメタファーはいったん断ち切られ、梓の愛称がたんなる「音像」へと還元される。では、この〈梓猫〉がどのようにして〈梓=天使〉に置き換わるのか。

 ロンドンで演奏する機会にめぐまれた軽音楽部の一行は、最終日のライブに向けて歌詞の英訳を試みる。その際に「not so much A as BAというよりむしろB]」という受験英語の構文が参照されるのだが、唯はそこに梓の愛称を代入するのである。つまり、「あずにゃん」を「あず(as)」と「にゃん[猫]」に再び分解し、それらを「as B」の位置に遷移することで、「not so much A as にゃん[Aというよりむしろ猫]」という言葉遊びを創り出すのだ。まとめると、〈あずにゃん→あず/にゃん+not so much A as Bnot so much A as にゃん〉となるだろう。

 この言葉遊びは、一見したところ、〈梓=猫〉というこれまでのメタファーを強調しているように思える。だが、すでに〈梓猫〉である以上、ここで注目すべきなのは、「Aというよりむしろ猫」という文字通りの意味ではない。そうではなくて、「あずにゃん」という愛称の分解と遷移を通じて、いわば二重の仕方で「あず」と「にゃん[猫]」の関係が問い直されていることだ。

 まず(1)「というよりむしろ」という「否定(not)」の契機によって、「にゃん[猫]」が「A」を抑圧していることが明らかになる。次に(2)「にゃん[猫]」が「B」に代入されることで、それとは別の選択肢「B」を消去していることが明らかになる。要するに、この言葉遊びでは、「あずにゃん」が隠蔽しているものを暴露することで、〈梓=猫〉とは異なるメタファーの可能性を暗示しているのである。では、この「A」と「B」はそれぞれ何を意味するのか。

 さしあたって「A」は、「梓(Azusa)」の頭文字であると同時に、髪をツインテールにした彼女自身の姿をかたどっていると考えられる。他方で「B」は、その後のライブシーンではじめてその正体が明らかになる。舞台上で演奏する主人公の視線の先には、観客席で母親に抱かれた「赤ん坊(Baby)」と、その周囲を気ままに歩きまわる「鳥(Bird)」の姿がある。繰り返し挿入されるこの二つのモチーフは、ある明確な意図をもって描き込まれたものと見て間違いない。つまり、これらは「にゃん(猫)」に置き換えられる前の「BBabyBird)」なのである。

 このように考えたとき、ようやく〈梓=天使〉へといたる通路が切り開かれる。「not so much A as にゃん」という言葉遊びは、これまでの〈梓=猫〉よりも前に、あるいはそれとは別の可能性として〈梓(A)=赤ん坊+鳥(B)〉というメタファーがありうることを示している。そして、この〈赤ん坊+鳥〉が縮合することで、翼をもった無垢な子供、すなわち「天使」の像が生み出されるのである。こうして〈梓=赤ん坊+鳥=天使〉というメタファーが成立する。いまやこの「A」は、長いツインテールを翼のように垂らした〈梓(Azusa)=天使(Angel)〉の象形文字でもあるのだ。

 一見すると荒唐無稽な解釈に思えるかもしれないが、おそらくこれ以外に「天使にふれたよ!」の制作プロセスを説明することは困難だろう。唯が「天使」という歌詞を思いついたのは、たんなる偶然ではなく、ロンドン旅行をきっかけに〈梓=猫〉が〈梓=天使〉へと変形されたためなのだ*3。作中に織り込まれた言葉遊びは、こうした無意識の思考=制作プロセスをアニメートしていたのである。

無意識をアニメートする(2)──たまこラブストーリー』と非人間への愛

 『映画けいおん!』の複雑な言葉遊びにくらべると、『たまラブ』の駄洒落や言い間違いはひどく単純なものに思える。しかし、それによって無意識の思考プロセスをアニメートしているという点では、どちらも変わりがない。違いがあるとすれば、前者が創造的な「霊感」を扱っているのに対して、後者は抑圧された「感情」や忘却された「記憶」に焦点を当てていることだろう。

 すでに見たように、『たまラブ』では、餅に対するたまこの異常な愛着が、〈餅=もち蔵〉という駄洒落を通じて、最終的にもち蔵に対する愛着へとスライドしていく。では、これはいったいどのような無意識の働きによるものなのか。

 おそらく最もわかりやすい解釈は、もともとたまこは餅に対してだけではなく、幼なじみのもち蔵に対しても強い愛着を抱いていた、というものだ。前作の『たまこま』でそのことがはっきりと描かれなかったのは、たまこが自分自身の恋愛よりも、家族や友人、さらには商店街の人々との人間関係を優先していたからだろう。つまり、正確にはたまこの愛着が餅からもち蔵へとスライドしたのではなく、最初からもち蔵のことを好きだったからこそ、大好きな餅と言い間違えてしまったというわけだ。

 この解釈が正しければ、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びには、たまこの抑圧された恋愛感情がアニメートされていることになる。なるほど、たしかに『たまこま』では、これとよく似た言葉遊びを通じて、さまざまなキャラクターの恋愛感情が物語に織り込まれている。前作についてはすでに別の機会に詳しく論じたので*4、ここではひとつだけ例を挙げておこう。

 たまこの妹の北白川あんこは、小学校のクラスメイトである「柚季(ゆずき)」に淡い恋心を抱いている。ある日、彼が転校してしまうことを知ったあんこは、意を決して彼のもとに走り、実家の餅屋で作ったばかりの「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出す。彼女は柚季に餅の入った袋を手渡し、その中身を説明しようとするのだが、みるみるうちに顔が真っ赤になってしまう。なぜなら、餅に入っている「餡子(あんこ)」と自分の名前である「あんこ」が混ざってしまい、まるで自分自身をプレゼントしているかのように聞こえてしまうからだ。つまり、ここでも〈餅=もち蔵〉と同じように、〈餡子=あんこ〉という駄洒落を通じて、彼女のひそやかな恋愛感情が描き込まれているのである。

 だが、このように比較すると、二人の違いもまたはっきりと見えてくる。というのも、あんこの反応がきわめてわかりやすいのに対して、たまこは物語の終盤にいたるまで、もち蔵の告白に応えるかどうか決めかねているように見えるからだ。それどころか、彼女は告白された気まずさで、あれほど執着していた餅を一度は嫌いになりかけるのである。

 ここからうかがえるのは、たまこの餅に対する愛着ともち蔵に対する愛着が切り離されているのではなく、無意識のうちに結びついているということだ。そうでなければ、もち蔵に対する気まずさが餅にまで影響することなどありえない。おそらくたまこは、最初からもち蔵を好きだったのではなく、餅に対する愛着を無意識のうちにスライドさせることで、ようやく彼を好きになることができたのだろう。

 つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、あんこの場合とは異なり、たまこの恋愛感情をアニメートしていたわけではなかったのだ。そうではなくて、もち蔵に対する彼女の愛着が餅に対するものと基本的に同じであること、あるいはそこから二次的に派生してきたことを示しているのである。

 『たまラブ』の物語終盤には、そのことを裏づけるようなエピソードが挿入されている。そもそも、たまこが現在のような「変態餅娘」になったのは、幼少期に母親を失ってひどく落ち込んでいた彼女を、顔のかたちをした餅が優しく励ましてくれたからだった。もちろん、餅が言葉を話すわけはないから、実際には誰かが背後で操り人形のように餅を動かし、声を当てていたことになる。たまこはずっとこの餅の正体が自分の父親だと思い込んでいたのだが、実はそれがもち蔵だったことに気づくのだ。

 このエピソードが重要なのは、たまこが「(恋愛に)転ぶ」直接的な動機を説明しているためだけではない。むしろ、その動機が〈餅=もち蔵〉という駄洒落をそのまま反復していることが重要なのだ。しゃべる餅の正体がもち蔵だったということは、たまこにとって彼が文字通り「餅」そのものだったことを意味している。だからこそ、ちょうど言葉遊びをなぞるようにして、餅に対する愛着をもち蔵へとスライドすることが可能になったのだ。つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、たまこの忘れられた幼少期の記憶そのものであり、餅からもち蔵へとスライドする彼女の無意識の思考=愛着プロセスをアニメートしていたのである。

 このように『たまラブ』は、くだらない駄洒落や言い間違いを物語に織り込むことで、目覚めた意識ではとらえられない恋愛のダイナミズムを描き出している。恋愛に興味がないはずの「変態餅娘」は、まさに「変態餅娘」であることによって、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことができたのだ。そこには人と餅、いや物の区別はない。すべてが等しく「音像」として処理される無意識の領域では、潜在的にあらゆる事物、あらゆる出来事がさまざまな変形を施され、愛することの可能性の条件を形作るのだから。

 たまこのもち蔵への愛は、いわば非人間への愛である。だが、それはちょうど私たちの愛がそうであるのと同じように、真剣で、滑稽で、ときに泣きたくなるほど凡庸なひとつの生の全体を包み込んでいる。何であれ愛することができるということ──それは自分自身の生を肯定する無意識の身振りにほかならない。

 『たまこラブストーリー』は、餅愛づる姫君がめでたく餅と結ばれる、いわゆる「異類婚姻譚」である。私たちは何よりもそのことに慰められ、そして勇気づけられるのだ。

 

 

*1:京都アニメーションの新たな代表作「たまこラブストーリー」ロングランの秘密。山田尚子監督に聞く1 - エキサイトニュース

*2:たとえば、フロイトは『機知』のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する次のような言葉遊びを例に挙げている。「というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように[famillionär]扱ってくれたんですよ」。この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。

*3:実際、唯は「天使」という言葉を思いつくまで、「君」や「子猫」といった歌詞を検討していた。それらがしっくりこなかったのは、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーが無意識のうちに成立していたためだろう。このメタファーがようやく彼女の意識へと浮上したのは、学校の屋上から羽ばたく鳥の姿を見上げたときだった。

*4:日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ - teramat’s diary

去勢されたおっさんの身体:『スーパーカブ』とぼく(ら)の異常な愛情

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 いわゆる「日常系」がアニメのいちジャンルとして定着して久しい。この間、軽音楽や登山、サバイバルゲーム、釣り、漫画、陶芸、キャンプなど、あらゆる趣味やレジャー活動をテーマにした日常系作品が次々と生み出され、アニメ化もされてきた。当初は「セカイ系」信奉者から「物語がない」とか「奇跡が描けない」とかさんざん批判されたことを考えると、往時ほどの勢いはないとはいえ、それらしい作品が毎クールひとつかふたつ放送される現在の状況は、このジャンルのファンにとって悪いことではない。

 ところで、これらの作品群に対して、ネットの一部では非常に興味深い意見が寄せられている。「女子高生がおっさん趣味をやる作品」というものだ。一見するとあまりにも大雑把なラベリングで、まともな議論には堪えないように思えるかもしれない。一部の趣味を「おっさん」の占有物のように捉えていることも、ジェンダー的な観点から批判の余地があるだろう。けれども、ぼくはこの意見にはひとかけらの真実というか、ある種の切迫感や悲壮感のようなものがあると考えている。「女子高生がおっさん趣味をやる」ということは、裏を返せば、ぼくを含む中年男性にはもはや、趣味にまつわる物語の主人公としての資格が決定的に欠けているということでもある。この痛切な認識を透かし見るかぎり、このラベリングはぼく(ら)が日常系アニメ(に限らない一部作品)をどのように受け入れているか、あるいはどのように受け入れざるをえないかを、ひそかに教えてくれる。

 2021年4月から放送されているアニメ『スーパーカブ』も、広く見れば「女子高生がおっさん趣味をやる作品」に分類できるかもしれない。これはトネ・コーケンによる同名の小説をアニメ化したもので、両親のいない孤独で無口な女子高生が、1台のホンダ・スーパーカブ50を手に入れたことをきっかけに、自分の世界と可能性を広げていく物語だ。

 もちろん、スーパーカブに乗ることをただちに「おっさん趣味」と決めつけるのは、単純に間違っている。新海誠の『秒速5センチメートル』(2007)でも描かれたように、男女問わずスーパーカブを通学の足として使っている高校生は少なくない。デザインや操作性、頑丈さに惹かれて乗っている女性もたくさんいるだろう。

 にもかかわらず、この作品にはたしかに「おっさんの影」がちらついている。これはぼく自身が中年男性だから、色眼鏡でそういうふうに見てしまうというだけではない。作品冒頭、主人公が格安で購入した中古のスーパーカブは、乗り手を3人殺した「呪いのカブ」と呼ばれていた。といっても、最初のオーナー(蕎麦屋のじいさん)は酒の飲みすぎで死に、2人目(本屋のおやじ)は借金で夜逃げ、3人目(神父)は免許停止で手放しただけなのだが、ともかくここで重要なのは、いずれの元オーナーも中高年男性であるということだ。つまり、主人公のスーパーカブは、いわば人生に躓いた見知らぬおっさんたちから、ひとりの女子高生へと受け継がれたバイクなのである。

 これは作中では、たんなる笑い話として言及される些末なエピソードにすぎない。だが、ぼくはこの設定に、ある種の屈折した男性性のようなものを感じてしまう。

 よく知られているように、たいていの日常系アニメには男性キャラクターがほとんど登場しない。その理由についてはいろいろ考えられるが、ぼく個人としては、同時期にSNSによる集団的視聴が一般化し、視聴者の一人称が複数形に変わったことで、ヒロインを独占する特権的な男性主人公への共感や同一化が難しくなったせいではないかと考えている。他方で、こうした変化を男性向けフィクションの物語傾向の変遷という観点から眺めてみると、もう少し大きな流れのなかに位置づけることができるかもしれない。そこには「男性主人公がヒロインを救えなくなっていく」という傾向があるように思われるのだ。

 かつて少女を救うことで自らの「生きる意味」を調達していた男性主人公=視聴者は、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『AIR』(原作:2000)、さらには先の『秒速5センチメートル』などを経て、しだいにヒロインの生に能動的に介入できなくなっていく。男性が抱きがちな素朴なヒーロー願望と、その報酬として少女を獲得・所有することへの暗い欲望は、もはやフィクションのなかでさえ持ち堪えられなくなりつつある。そこには昨今の「弱者男性」論の引き金となった「有害な男性性」への批判や、さまざまな社会経済的要因も関わっているのかもしれない。男性キャラクターを排除した日常系アニメは、おそらくこうした系譜の延長線上に位置している。

 いまやぼく(ら)は、美少女キャラクターをかつてのように無根拠に救うことができないし、それによって自分自身を救うこともできない。彼女たちはぼく(ら)がいなくても、というよりいないからこそ、画面のなかであれほど生き生きと輝くことができる。とりわけ『スーパーカブ』では、主人公が自分の力で未来を切り開いていく姿が、画面の彩度の変化などを通じて印象的に描き出されている。

 もちろん、あいかわらず男性主人公がヒロインを救う作品も山ほどあるし、まったく正反対の歴史を編むことも可能かもしれない。けれども、女性同士の恋愛を描く「百合」や、別の男性キャラクターにヒロインを奪われる「NTR(寝取られ)」といった他ジャンルの流行を見るかぎり、存在理由を見失った男性主人公=視聴者の苦悩とマゾヒズム的な欲望が一部のフィクションの背後にあるのは、ほとんど疑いないように思われる。これはもしかしたら、かつて批評家の江藤淳が指摘したように、先の敗戦に起因する日本人男性の困難に根ざしているのかもしれない。

 ともあれ、こうした文脈を踏まえるなら、『スーパーカブ』に屈折した男性性を読み込むのもそれほどおかしな話ではない。先に述べたとおり、主人公がわずか1万円という超低価格でスーパーカブを手に入れることができたのは、バイク屋の寡黙なおっさんが気を利かせてくれたからであり、そしてなによりも、元オーナーのおっさんたちがそれぞれの人生に躓いてくれたからだ。ぼくはここに「女子高生がおっさん趣味をやる」ことの、あるいはそのように曲解してしまうことの本質的な理由があると考えている。つまり、ぼく(ら)は元オーナーのおっさんたちのようにフィクションから追放され、疎外されているのだが、まさにそのことによって逆説的に少女たちをエンパワーしていると、そう思いたがっているのではないか。救うこととは別の仕方で、自分の生を意味あるものにするために。

 さらに言えば、ぼく(ら)はたんにフィクションから排除されているのではなく、人間性をすっかり失ったかたちで、たとえば別の生物や無機物、機械としてひそかに描き込まれているのかもしれない。これはだいぶひねくれた見方だが、昨年アニメ化された『放課後ていぼう日誌』では、主人公たちに釣り上げられる魚に男性視聴者の欲望が仮託されていた。第1話冒頭では、魚嫌いの主人公のスカートのなかに触手を伸ばす「気持ち悪い」タコが描かれる。

魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について - teramat’s diary

 このように考えると、おっさんたちから女子高生に受け継がれたスーパーカブは、まさに物語から排除された男性性の残滓、あるいは去勢された男性身体のようなものとして解釈できる。さらに重要なのは、このおっさんたちが作中に登場しないことによって、そして本田技研工業の協力と監修のもと実際のデザインが再現されることによって、スーパーカブ自体がフィクションの内と外をつなぐ特別な存在として位置づけられていることだ。現実とフィクションを架橋する男性性の抜け殻──これが凋落した男性主人公に代わる、男性視聴者の分身(アバター)でなければなんだろうか。つまり、ぼく(ら)はスーパーカブを通じて、というよりスーパーカブそのものとして、画面のなかの少女と想像的に接触するのである。

 とはいえ、この作品では女子高生とスーパーカブとの関係に、セクシュアルな含意はまったくない。それこそがぼく(ら)の払った代償であり、人間であることをやめ、セックスを持たない機械と化すことによってのみ、ようやくフィクションへの参入を許されたのだから。けれども、主人公がスーパーカブと同じく3DCGで描画され、文字どおり一体化して通学路を滑走するとき、人間的な性愛とは別の、もうひとつのコミュニケーションの可能性が垣間見える。それはモノになることがひとつの救済であり、解放でもあるような古いユートピアの入り口を指し示している。すべてが線と色彩に還元され、人間も動物も植物も無機物も、あらゆる存在が調和的に混交し相互浸透する神話的乱婚制の世界──初期アニメーションに胚胎していたアンチ・ヒューマニズムカオスモスが、女子高生のゆるやかな日常と重なり合う。

 タンデムする2人の少女をシートに乗せてひた走るとき、それが「百合に挟まりたい」という許されざる欲望の最終的解決であることは疑いえない。ぼくらはついに男性であることを、人間であることをやめる。少女の世界を拡張するうつろな抜け殻となり、意思や感情、欲望と引き換えに自らの存在理由を獲得する。それが幸福と言えるかどうかはわからないが、少なくともそこには、免罪され祝福された存在へのたしかな予感がある。無機物であることの楽しみ、死体であることの喜び……。

「女子高生がおっさん趣味をやる作品」という歪んだ認識の果てには、深刻な自己疎外が突如として救済の至福へと反転する、革命的瞬間が待ち受けている。そのときまでぼくらは、いましばらく瓦礫のあいだをさまよわなければならないのだが。

 

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)

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  • 作者:蟹丹
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Kindle
 


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意味から効果へ:あるラブひなおじさんの感傷(「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」後記)

 先日、zoom+YouTubeで「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」という謎企画を開催したのだが、個人的にたいへん楽しく、また学びも多かったので、自分の感想の一部をまとめておくことにした。3時間ほどのアーカイブ動画は以下から。配信エラーで唐突に終了するが、ご容赦願いたい。

 


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ラブひな』は赤松健によるラブコメ漫画で、1998年から2001年にかけて『週刊少年マガジン』で連載された。今年は完結20周年にあたるが、コロナ禍のせいか国際シンポジウムのひとつも見当たらないので、かつて『ラブひな』に躓いたおじさんのひとりとして、急遽座談会を開催することにした。これが「ラブひなおじさん座談会」のあらましである。

 

 今回の座談会のためにおよそ20年ぶりに『ラブひな』を再読して気づいたことがある。自分のおぼろげな記憶のなかの話とだいぶ違うということだ。

ラブひな』は幼い頃に「一緒にトーダイに行こう」と誓い合った初恋の女の子との約束を果たすために、さえない浪人生が女子寮の管理人をやりながら東大合格を目指す物語である。女子寮にはさまざまな美少女が暮らしており、主人公の浦島景太郎はやはり東大を目指している全国模試1位の秀才、成瀬川なるに惹かれていく。

 ぼくの記憶では、名前も覚えていない約束の女の子と成瀬川とのあいだで揺れ動く主人公の葛藤が物語の中心にあったような気がしていたのだが、読み直してみるとどうもそういう感じではない。いちおう葛藤も描かれてはいるものの、景太郎はかなり序盤から一貫して、思い出の女の子ではなく目の前の成瀬川のために、成瀬川と一緒に東大合格を目指すと繰り返し明言している。ぼくはこの20年のあいだに記憶を改竄していたか、もしくは最初から誤読していたらしい。

 思い出のなかの女の子よりも「いま・ここ」にいる美少女のほうが動機として強い。これはとてもよくわかる話だ。景太郎の東大受験のモチベーションは、物語のごく早い段階で約束の女の子から成瀬川へとシフトする。にもかかわらず、ぼくが長らく話の内容を勘違いしていたのは、結局のところ「人生の意味」みたいなものに固執していたからではないかと思う。

 たいがいの中学生と同様、当時のぼくも自分がなんのために生きているのかわからず、そのわからなさを埋めてくれる理由や根拠のようなものを求めていた。その頃太宰治ドストエフスキーなどに触れていれば、ぼくの人生もいまとは違ったものになっていたのかもしれない。だが、文化資本にとぼしいぼくが手に取ったのは純文学ではなく、美少女ゲームのコミカライズであり、週刊誌のラブコメ漫画だった。

 生きる意味に飢えている人間にとって、「約束」という言葉には抗いがたい魅力がある。大切な約束を果たすという大義名分さえあれば、それを目的として生きることができるからだ。当時のぼくはたぶん、景太郎と成瀬川の恋の行方以上に「約束の女の子」の正体を気にしていたのだと思う(しのぶちゃんのほうが好きだったし)。

 けれども、本来『ラブひな』はそういう話ではない。あやふやな約束によって無理やり人生を意味づけるよりも、一緒にいると楽しい・うれしいという身も蓋もない事実性こそが人を前に進ませる。当時の宮台真司なら「意味から強度へ」と表現したにちがいない。ぼくは全然わかっていなかったが、それこそがこの作品に一貫して流れる通奏低音だった。物語の中盤で景太郎が3浪の末に東大に合格できたのは、幼い頃の約束があったからではない。そうではなくて、苛酷な受験勉強をともに乗り切る仲間が、つまりは成瀬川がいたからだ。

 広告などでよく利用されるように、人間は特定の対象に繰り返し接すると、いつのまにかその対象に好意を抱くようになる。これが人間相手にも適用可能なのかはわからないが、少なくともこの作品のなかで景太郎が成瀬川に、そして成瀬川をはじめ女子寮の美少女たちが景太郎に好意を寄せる理由の一端を説明してくれる。つまり『ラブひな』は「(人生の)意味」ではなく、心理学でいうところの「単純接触効果」が勝利する物語なのだ。だからこそ成瀬川は、毎回その場の雰囲気にのまれて景太郎とキスしそうになり、慌てて殴り飛ばすのである。

 当時の記憶と大きく違っていた点はもうひとつある。景太郎は3回目の挑戦で成瀬川とともに東大合格を果たすのだが、物語はそこでは終わらない。というより、そこからが合格までと同じくらい長い。にもかかわらず、ぼくはその後の展開をほとんど覚えていなかった。 

 作者の赤松健が『ラブひな∞』収録のインタビューで述べているとおり、東大合格に前後して物語の主人公は景太郎から成瀬川へと交代する。景太郎は成瀬川に自分の気持ちを打ち明けると、考古学という夢に向かって突き進んでいく。一方の成瀬川は景太郎に好意を抱きつつも、さまざまな理由をつけて告白の返事を引き延ばそうとする。いつまでもはっきりしない態度を取り続ける成瀬川に対し、周囲がしびれを切らして彼女に決断を迫るというのが、物語後半のおおまかなあらすじだ。

 あらためて読み直してみると、そこで描かれている成瀬川の逡巡や葛藤はとてもよくわかる。先に述べたように、景太郎は単純接触効果によって成瀬川を好きになる。それは彼女のほうも同じだ。しかし、これは逆に言えば、2人の関係がなんらかの「意味」によって裏付けられているわけではない、ということでもある。彼らが互いを好いているのは、約束でも運命でもなく、心理学的な「効果」にすぎない。だからこそ成瀬川は不安になる。景太郎の好意がたんに自分との接触頻度の高さによるものだとしたら、それが低下したら自分を嫌いになってしまうかもしれない。別の誰かを好きになってしまうかもしれない。座談会でKitagawaさんが指摘していたとおり、2人の関係はあくまで偶然的なものにすぎないのだから。

ラブひな』終盤で、成瀬川がかつての景太郎以上に「約束の女の子」にこだわるのは、彼女が当時のぼくと同じように意味に飢えているためだ。成瀬川は自分こそがその女の子であると信じ込もうとする(結末としては実際にそうなのだが)。2人の関係を意味づけるための特別な理由や根拠がないかぎり、成瀬川は景太郎の気持ちにうまく応えることができない。東大合格後の長いドタバタは、ごく単純化して言えば、追い詰められた成瀬川がようやく自分の気持ちに素直になる──とはつまり、「意味」への渇望を振り切って「効果」を受け入れるまでのプロセスとして読むことができる。

 当時のぼくはこうした構造にまったく無頓着だった。というより、ほとんど理解できていなかった。だからすぐに忘れてしまったのだと思う。過去の約束のことばかりを覚えていたのも、景太郎や成瀬川とは対照的に、ぼく自身がいつまでも意味にとらわれていたからだろう。

 あれからおよそ20年を経て、ようやく『ラブひな』が何を描こうとしていたのか、おぼろげながら理解できたような気がする。それは結局のところ、人生に意味があろうがなかろうが人は生きていけるのだし、実際にこうして生きているという当たり前の事実に気づくまでの時間だったのかもしれない。その歳月は決して無駄ではなかったと思いたいが、ぼくにとってはいささか長く、また苦しい日々ではあった。

 じつを言えば、『ラブひな』を読んでいた当時の自分が何を感じ、何を考えていたのか、いまとなってはうまく思い出せない。意味に飢えていたのはたしかだと思うが、どのくらい深刻に悩んでいたのかは疑問の余地がある。それでもひとつ言えるのは、この作品が鬱々としたぼくの中学時代に寄り添い、ぼんやりとした希望を抱かせてくれたということだ。高校・大学に進学し、やがてきれいに挫折するまでの人生の束の間、ぼくが人並みに努力できたのは、多かれ少なかれ『ラブひな』のおかげだったと思う。

 それだけに、いま読み返すと物語後半の景太郎の成長がとてもまぶしく感じられる。「ドジでアホでスケベ」と罵られていた彼が、東大受験を機に考古学という夢を見つけ、遺跡を発掘するために世界中を飛び回る。できることなら、ぼくもそんなふうになりたかった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見たときも、似たような印象を受けたのを覚えている。さえない主人公に自分を重ねていた物語が、いつのまにか反実仮想の物語になっていた寂しさとでも言えるだろうか。

 たぶん、それがおじさんになるということなのだろう。『ラブひな』を夢中で読んでいたあの頃の自分に、景太郎のようには生きられなかったというほろ苦い認識が、古い枕の染みのように滲んでいる。

 

ラブひな(1) (Jコミックテラス×ナンバーナイン)
 

 

 

誰でも書ける! アニメ批評っぽい文章の書き方

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 いまの時代、「批評」という言葉に良い印象を持っている人は少ないかもしれません。とくにネットの一部では「何も作れないくせに文句ばかりつけやがって……」と親の敵のように憎まれています。実際、批評には間違いなくそういう側面があるので、嫌われるのもいたしかたないのですが、いざ自分で書いてみると意外と楽しいものです。もしかしたら批評嫌いの人のなかにも、「べ、別に批評なんて興味ないんだからねっ!(私もちょっと書いてみたいけど、どうやって書けばいいかわからないし……)」みたいなツンデレ美少女がいるかもしれません。

 そこで本記事では、かれこれ10年くらいブログや同人誌で細々とアニメ批評らしきものを書き続けている批評愛好家のひとりとして、なんとなく批評っぽく見える文章の書き方を紹介したいと思います。ただし、ぼく自身は職業批評家でもなんでもないので、「批評とは何か」「論文や感想文とどこが違うのか」といった本質的な問題には踏み込みません。あくまでぼくから見て「批評っぽい文章」のフォーマットを提供するだけです。それになんの意味があるのかと突っ込まれそうですが、一定の手順さえ踏めば、誰でもすぐに批評(っぽい文章)が書けるということを知ってほしいんです。そして、その楽しさも。

 以下に紹介するフォーマットは、たんにぼくが書きやすく、また初めての人も書きやすいだろうというだけで、遵守すべき規則でも約束事でもありません。全然違う書き方の人を否定したり批判したりする意図もありません。慣れてきたらどんどん崩して、あなただけの最強の批評っぽいスタイルを確立していきましょう。

 

※学校のレポートや論文など、厳密さや正確さが要求される文書でこのフォーマットを採用すると、怒られたり減点されたりする可能性があります。それなりに共通する構造を備えているとは思いますが、趣味の範囲にとどめたほうが無難かもしれません。

 

1. 批評する対象を決めよう

 まず、何を批評したいのか決めましょう。作品でもいいし、作家でもいいし、ジャンルでもかまいません。複数の作品/作家を比較するのもたいへん楽しいですが、最初はひとつに絞ったほうが書きやすいのではないかと思います。

 タイトルや文章の冒頭で何について批評するのかを明示したら、それに対する自分の見解をあらかじめ述べておきます。良かったとか悪かったとかそういう話ですね。理由や根拠については後々説明することになるので、この段階ではまだ必要ありません。結論を最初に述べてしまうのが気後れするなら、それとなく暗示するだけでもいいでしょう。とにかく、このあとどういう展開になるのか、読者がおおまかな予想を立てられるようにしておくことが大切です。

 続けて、批評する対象がどういうものなのか簡単に紹介しましょう。当該の作品や作家、ジャンルについてよく知らない人でも読み進められるように、最低限必要な情報を共有しておきます。

 

2. 仮想敵を設定しよう

 何を批評するのか決めたら、次に「仮想敵」を設定します。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、これは非常に重要なポイントです。この段階で批評(っぽい文章)のクオリティの大半が決まると言っても過言ではありません。

 仮想敵というのは、要するに「自分とは異なる見解」のことです。有名な批評家や評論家の発言はもちろん、ネットで広まっている通説や、誰かのブログ記事、Twitterで見かけた投稿でもかまいません。あなたが批評しようとする対象について、すでにどういうことが語られているのかを確認し、「一般的にはこう言われている」「◯◯はこう言っている」といったかたちで参照します。論文でいうところの「先行研究」ですね。たとえば『らき☆すた』や『けいおん!』といった日常系アニメ全盛の時代には、「日常系アニメには物語がない(から良くない)」という批判が多く聞かれましたが、これも典型的な仮想敵になりえます。自分とは異なる見解がうまく見つけられない場合でも、「一見するとこういうふうに見える」という言い方で仮想敵を捏ぞ……設定しましょう。

 この手続きを省略すると、なんとなく「批評っぽくない文章」になってしまうので注意が必要です。仮想敵のない文章は、自分の見解をひたすら説明する単調な構造になりがちで、たんなる個人的な感想として受け取られてしまう恐れがあります。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というやつですね。別にそれが悪いというわけでは全然ありませんが、あまり批評っぽくは見えないかもしれません。

 逆に言うと、仮想敵さえ設定すれば、なんとなく批評っぽく見えるということでもあります。相手側の問題点を指摘することで、読者を説得し自分の側に誘導するという明確な方向性が生まれるからです。もちろん、他人の意見など必要としない卓越した批評家もいると思いますが、それは例外というか、妖怪みたいなものです。慣れてくるまでは、仮想敵は欠かさず設定するようにしましょう。

 

3. 仮想敵に反論しよう

 仮想敵を設定できたら、それがなぜ間違っているのか、そこにどんな問題があるのかを指摘します。といっても別に全否定する必要はなく、たとえば「不十分である」「もっと重要なポイントがある」といった言い方でもかまいません。

 どういう仮想敵であれ、たいていの見解は多かれ少なかれ対象を単純化したり抽象化したりすることで成立しているので、見落とされがちな細部をつぶさに見ていけば、矛盾しそうな箇所はいくらでも出てきます。矛盾点を拾い集め、相手の解釈の根拠を崩していきましょう。先に挙げた例でいえば、「日常系アニメ」と「物語」の内実をきちんと定義したうえで、「本当に日常系アニメには物語がないのか」「物語がないとなぜ良くないのか」といった問いを立て、個々の作品に即して検証していくわけです。

 反論するにあたっては仮想敵に十分な敬意を払うべきですが、あなたが野心と才気にあふれた若者なら、あえて喧嘩腰で世代間闘争をふっかけるのも悪くない戦略でしょう。仮想敵の権威や名声が高ければ高いほど、クリティカルな反論ができればあなたの評判も高まります。もしかしたら、職業批評家として活躍する道が開けるかもしれません。もちろん、ただの「イキった若者」になってしまう可能性も大いにありますが。

 とはいえ、ネットの通説に反論するのと、現役の批評家や評論家に反論するのとでは、当然難易度が異なります。自分の好きな作品や作家を批評家にボロクソに言われて悔しい思いをした人は少なくないと思いますが、彼らに反論するためには、対象へのより深い洞察に加え、自説をバックアップしてくれるさまざまな知識が必要になります。こればかりは日頃の勉強量と作品経験の多寡に大きく依存します。

 それでも、自分の好きなものを擁護したいという気持ちは、批評(っぽい文章)を書くためのおそらく最初の、そして最強の原動力です。偉そうな批評家にギャフンと言わせる日を夢見て、地道に勉強しましょう。

 

4. 自分の見解を主張しよう

 仮想敵に反論できたら、今度はあなた自身の見解を主張してみましょう。反論する際に挙げた矛盾点をうまく説明できるような、新しい解釈の枠組みを提示するわけです。たいていの仮想敵は常識的な解釈を前提としているので、ぼく個人としては読者を置き去りにするくらいアクロバティックな主張が好みですが、しごく穏当なものでももちろんかまいません。要は、仮想敵よりもいくらか説得的でありさえすればいいのです。たとえば「日常系アニメにはたしかにわかりやすい物語はないかもしれないが、しかしそれこそがリアルであり現代的なのだ」といった具合です。

 一昔前はしばしばポストモダン系の難解な思想哲学が引用され、自説の補強や権威づけに使われましたが、いまはだいぶ減ってきたようです。近年はむしろフェミニズムリベラリズムの観点から、道徳的・政治的正しさに照らして対象を評価するタイプの議論をよく見かけます。このあたりは自分の関心も踏まえて、使えそうな分野の基本文献にあたっておくと、あなたの見解により大きな説得力を与えてくれるかもしれません。

 ただし、仮想敵にうまく反論できていれば、多少根拠が乏しくても、論理性が怪しくても、対象へのほとばしる情念を言語化するだけで謎の説得力が生まれることもあります。当該の作品や作家、ジャンルに対して、あなたが仮想敵よりもはるかに深い洞察と愛着を抱いていることが伝わりさえすれば、たいがいの読者は圧倒されてしまうものだからです。無理して学術的な成果を引用したり参照したりする必要はありません。

 これは個人的な考えですが、最も成功した批評(っぽい文章)というのは、それを書く人の実存と分かちがたく結びついていて、たんに良いとか悪いとかを超えたところにある、救いとか呪いとか祈りとか、そういうよくわからないものに触れているのではないかと思っています。ちょっとロマンチックすぎるかもしれませんが。

 

5. 批評っぽい文章を発表しよう

 批評(っぽい文章)が書けたら、ブログなどに載せてみましょう。嫌がる友人知人に無理やり読ませてもいいかもしれません。そもそも文章にしなくても、YouTubeニコニコ生放送ツイキャスなどで口頭発表するという手もあります。最初は気恥ずかしいかもしれませんが、感想や評価がもらえれば多少の承認欲求も満たされますし、またなんか書いてみようというモチベーションにもなります。今度はあなたの文章を仮想敵にして、別の誰かが批評(っぽい文章)を書いてくれるかもしれません。ワクワクしますね。

 個人的におすすめなのは、批評系同人誌に投稿してみることです。ぼくの好きなアニメ批評の分野だと、たとえば『アニメクリティーク(アニクリ)』が毎号テーマを決めて継続的かつ精力的に活動しています。主宰のNag.さんはたいへん丁寧な赤字を入れてくれるので、あなたの批評(っぽい文章)をブラッシュアップしていくことができますし、似たような関心を持った他の書き手と知り合うこともできます。ぼくは引きこもり気味なのであまり面識はありませんが、みんな理屈っぽくて愉快な人たちです。いずれは一緒に同人誌を作ってみるのもいいかもしれません。

nag-nay.hatenablog.com

blog.livedoor.jp

 

「べ、別に批評なんて興味ないんだからねっ!」と言っていたあなたも、だんだん批評(っぽい文章)が書きたくなってきたはず。もちろん書けたからといって、異性や同性にモテたり収入が増えたりといったメリットはまるで皆無ですが、「フフフ……おれは批評っぽい文章も書けるんだぜ……」みたいな謎のオーラを発することができます。囲碁や将棋をたしなんでいるイメージですね。実際、批評には知的なスポーツっぽい側面も多分にあるので、書いているうちにその楽しさを実感できると思います。

 たまには不用意なことを書いて炎上したりするかもしれませんが、それもまた人生。楽しくも苦しい批評ライフをともに送ってみませんか。

戦後日本、アメリカ、自衛隊──『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』について

 先日、TVアニメ『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』(2018)全12話を通して見た。3年前のアニメ作品をいまさら見ようと思ったのは、Twitterに以下のような画像が流れてきたからだ。

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 この4月からアニメ2期『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術Ω』がスタートするのに合わせて、1期の振り返りと2期1話の冒頭を先行公開する特別番組が放送されており、そこで公開された映像の一部らしい。いたいけな美少女が邪悪な触手に襲われているとなれば、正義感の強い私としては見過ごすわけにはいかない。そこでまずは未履修の1期から見始めたのだが、これがとてもよくできていると感じられたので、原作未読ながら感想をまとめておくことにした。以下では『異世界魔王』1期のネタバレが含まれるため、未見の方は注意してほしい。

 私が『異世界魔王』に惹きつけられたのは、たんにキャラクターがかわいいとか、エロシーンがたくさんあるとかいった理由だけではない。そうではなくて、戦後の日本社会が抱える歪みのようなものを、フィクションという形式にうまく落とし込み、創作物ならではの想像的な解決を与えているように感じられたからだ。

異世界魔王』は一見すると、最近よくある異世界転生もののヴァリアントにすぎないように思える。主人公はとあるMMORPG「魔王」と恐れられるほどの凄腕プレイヤーで、ある日突然ゲームとよく似た剣と魔法のファンタジー世界へと召喚され、彼を召喚した2人の少女とともにさまざまな冒険を繰り広げることになる。転生した主人公はゲーム内での強力なステータスを引き継いでおり、タイトルどおり「異世界から来た魔王」として少女たちを従え、彼女らが抱える問題を解決していく。強力な魔術で邪悪な敵をばったばったとなぎ倒し、窮地に陥った美少女を間一髪で救い出す──男性向けフィクションにありがちな、ヒーロー願望と美少女所有願望が合わさったタイプの物語だ。

 もちろん、それだから悪いと言っているわけではない。2人の少女をはじめとするヒロインたちはみな魅力的で、嫌味のないエロシーンもふんだんに盛り込まれている。巨乳エルフ、つるペタ猫耳娘、闇堕ち敬語眼鏡、金髪褐色魔族、ツインテール幼女など、記号化された性的嗜好への配慮もぬかりない。とはいえ、それだけならわざわざこうして長文を書く必要もないだろう。画像をいくつか貼り付ければそれで事足りるからだ。

 私がこの作品に唸らされたのは、繰り返しになるが、たんにメインヒロインがかわいいからではない。それだけではなくて、彼女に課せられた運命に「戦後日本の十字架」とでも言うべきものが残響しているように感じられたからだ。

 主人公を召喚した猫耳ヒロインの家系は代々、胎内に邪悪な魔王の魂が封じられており、この魂を取り出して破壊することが彼女の悲願だった。親しい友人にも言い出せず、おのれの運命を呪い、強い孤独感と不安に苛まれていた少女に対し、主人公は自分が魔王を打倒して彼女を解放すると約束する。

 牽強付会を承知で言えば、私にはこの少女が、かつて東アジアを侵略し、いまなお自衛隊という軍事力を保有する戦後日本そのものを擬人化したキャラクターのように思えたのだ。周辺諸国が日本の再軍備を絶えず警戒するように、人々は彼女のなかの魔王の復活を恐れる。あるいは国粋主義者や右派勢力が大日本帝国の再来を夢見るように、人間と敵対する魔族は魔王の復活をもくろむ。GHQダグラス・マッカーサーは日本人について「12歳の少年のようだ」と語ったといわれるが、『異世界魔王』では少年ではなく、猫のような耳と尻尾を持った可憐な美少女の姿に仮託されている。そして、そんなヒロインを強力な魔術=軍事力で庇護する「異世界魔王」こと主人公は、さしずめ現実世界におけるアメリカといったところだろうか。

 ここで興味深いのは、猫耳ヒロインを含む2人の少女と主人公との関係が、まったく対等でも平等でもないということだ。『異世界魔王』冒頭では、召喚獣として呼び出した主人公を「隷従」させるために少女たちが魔術の儀式を行うのだが、彼が所持していたアイテムの影響で魔術が跳ね返り、逆に彼女らに「隷従の首輪」がはまってしまう。つまり、文字どおりの「所有物」になってしまうのだ。これがタイトルにある「奴隷魔術」のゆえんであり、フェミニストからはただちに「女性をモノ化している」という批判が飛んできそうだが──そしてその批判はおおむね「正しい」と思うが──、その一方で、現実における日本とアメリカの非対称的な関係を暗示しているとも読める。戦後日本がアメリカに従属するように、ヒロインは主人公に隷従するわけだ。

 ただし、この主人公がアメリカ的なものをストレートに体現しているかというと、おそらくそうではない。異世界から来た真の魔王を自称して尊大な言動を繰り返す主人公は、じつは極度の「コミュ障」で、魔王としてのロールプレイがなければ他人とまともに会話することさえできない。この屈折した内面を繰り返し描くことで初めて、私のような精神的に未成熟な男性──つまりは「12歳の少年」──でも共感したり感情移入したりすることが可能になる。この主人公は言ってみれば、アメリカそのものというよりも、アメリカ的な「家父長」として振る舞おうとする視聴者の願望の表れなのだ。そこには「自主独立=成熟」への見果てぬ夢が託されているようにも見える。

 いずれにせよ『異世界魔王』がユニークなのは、男性主人公による美少女の救済=所有という典型的な男性向けフィクションの枠組みを、戦後日本の歩みに重ね合わせている、あるいは少なくともそのように解釈できることにある。ヒロインを邪悪な魔王の魂から解放することは、再び東アジアを侵略しかねないという不信感から戦後日本を解放することに等しい。主人公が魔王を倒し、軍事的脅威を完全に取り除くことができれば、戦争放棄をうたった日本国憲法もようやく意味をなすだろう──より大きな軍事力の傘下で、という条件付きではあるが。

 ところが、物語は微妙に異なる方向へと進んでいく。主人公たちは一部の魔族の協力を得て少女の胎内から魂を取り出し、計画どおり魔王を復活させることに成功するのだが、復活した魔王は無垢な幼女の姿をしており、ほとんど邪悪さが感じられない。彼女は差し出されたクッキーのおいしさに衝撃を受け、宿主だった少女の願いに応えて人間を殺さないとあっさり約束する。結局、主人公たちは魔王の討伐を断念し、幼女の言葉を信じてともに生きることを選ぶ。ヒロイン=戦後日本というこれまでの図式に当てはめるなら、この無垢な魔王は「人を殺さない軍事力」という意味で、まさしく自衛隊に該当するように思われる。

 とくに印象的なのが、一部の人間の策略により、猫耳ヒロインと幼女姿の魔王が誘拐された際のやりとりだ。彼女は相手を殺してでも自分を助けようとする魔王を制止し、「何があっても絶対に人を傷つけない」と約束させる。ここには専守防衛を旨とし、他国への攻撃を厳に禁じる日本国憲法の精神が表れているように見える。だが、このヒロインが拷問の末に瀕死の重傷を負わされたことで、幼女は怒りに我を忘れ、人類を滅ぼす魔王として覚醒してしまう。その後の魔王と主人公との激しい戦闘は、日本とアメリカが激突した太平洋戦争の再演とでも言えるかもしれない。

 暴走した魔王は、一命を取り留めたヒロインの呼びかけによって幼女の姿に戻る。しかし、いつ何時また覚醒するかもしれないという周囲の恐れを鎮めるため、主人公は幼女の合意のもとで、2人のヒロインと同じく彼女にも「隷従の首輪」を装着する。軍事的脅威をたんに排除するのではなく、力の行使を制限する枷をはめたわけだ。かくして主人公は、美少女化された戦後日本と自衛隊をともに掌中に収めることになる。

 私は1期最終話のこの展開を目にしたとき、なんてよくできた物語だろうと感心してしまった。「奴隷魔術」というタイトル回収の鮮やかさもさることながら、それ以上に少女を所有したいという男性視聴者の「正しくない」願望が、戦後日本が抱える厄介な問題の想像的な解決と重ね合わされているからだ。

 もちろん、少女を隷従させることが現実においても許容されるわけではない。『異世界魔王』1期の結末は、あくまで創作物だからこそ成立するフィクショナルな解決策にすぎない。しかし、こうした歪んだ欲望をたんに否定したり矯正したりするのではなく、その歪みこそを利用して現実の諸問題に対するオルタナティブな解釈を与えるというスタンスは、それが意図的なものにせよそうでないにせよ、個人的にきわめて望ましいものに感じられる。まさにそれこそがフィクションの最も偉大な働きであるとすら言いたくなってしまう。

異世界魔王』は、美少女化された戦後日本を私が、私たちが救う物語だ──たとえ現実の日本はアメリカに寝取られているのだとしても。