てらまっとのアニメ批評ブログ

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去勢されたおっさんの身体:『スーパーカブ』とぼく(ら)の異常な愛情

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 いわゆる「日常系」がアニメのいちジャンルとして定着して久しい。この間、軽音楽や登山、サバイバルゲーム、釣り、漫画、陶芸、キャンプなど、あらゆる趣味やレジャー活動をテーマにした日常系作品が次々と生み出され、アニメ化もされてきた。当初は「セカイ系」信奉者から「物語がない」とか「奇跡が描けない」とかさんざん批判されたことを考えると、往時ほどの勢いはないとはいえ、それらしい作品が毎クールひとつかふたつ放送される現在の状況は、このジャンルのファンにとって悪いことではない。

 ところで、これらの作品群に対して、ネットの一部では非常に興味深い意見が寄せられている。「女子高生がおっさん趣味をやる作品」というものだ。一見するとあまりにも大雑把なラベリングで、まともな議論には堪えないように思えるかもしれない。一部の趣味を「おっさん」の占有物のように捉えていることも、ジェンダー的な観点から批判の余地があるだろう。けれども、ぼくはこの意見にはひとかけらの真実というか、ある種の切迫感や悲壮感のようなものがあると考えている。「女子高生がおっさん趣味をやる」ということは、裏を返せば、ぼくを含む中年男性にはもはや、趣味にまつわる物語の主人公としての資格が決定的に欠けているということでもある。この痛切な認識を透かし見るかぎり、このラベリングはぼく(ら)が日常系アニメ(に限らない一部作品)をどのように受け入れているか、あるいはどのように受け入れざるをえないかを、ひそかに教えてくれる。

 2021年4月から放送されているアニメ『スーパーカブ』も、広く見れば「女子高生がおっさん趣味をやる作品」に分類できるかもしれない。これはトネ・コーケンによる同名の小説をアニメ化したもので、両親のいない孤独で無口な女子高生が、1台のホンダ・スーパーカブ50を手に入れたことをきっかけに、自分の世界と可能性を広げていく物語だ。

 もちろん、スーパーカブに乗ることをただちに「おっさん趣味」と決めつけるのは、単純に間違っている。新海誠の『秒速5センチメートル』(2007)でも描かれたように、男女問わずスーパーカブを通学の足として使っている高校生は少なくない。デザインや操作性、頑丈さに惹かれて乗っている女性もたくさんいるだろう。

 にもかかわらず、この作品にはたしかに「おっさんの影」がちらついている。これはぼく自身が中年男性だから、色眼鏡でそういうふうに見てしまうというだけではない。作品冒頭、主人公が格安で購入した中古のスーパーカブは、乗り手を3人殺した「呪いのカブ」と呼ばれていた。といっても、最初のオーナー(蕎麦屋のじいさん)は酒の飲みすぎで死に、2人目(本屋のおやじ)は借金で夜逃げ、3人目(神父)は免許停止で手放しただけなのだが、ともかくここで重要なのは、いずれの元オーナーも中高年男性であるということだ。つまり、主人公のスーパーカブは、いわば人生に躓いた見知らぬおっさんたちから、ひとりの女子高生へと受け継がれたバイクなのである。

 これは作中では、たんなる笑い話として言及される些末なエピソードにすぎない。だが、ぼくはこの設定に、ある種の屈折した男性性のようなものを感じてしまう。

 よく知られているように、たいていの日常系アニメには男性キャラクターがほとんど登場しない。その理由についてはいろいろ考えられるが、ぼく個人としては、同時期にSNSによる集団的視聴が一般化し、視聴者の一人称が複数形に変わったことで、ヒロインを独占する特権的な男性主人公への共感や同一化が難しくなったせいではないかと考えている。他方で、こうした変化を男性向けフィクションの物語傾向の変遷という観点から眺めてみると、もう少し大きな流れのなかに位置づけることができるかもしれない。そこには「男性主人公がヒロインを救えなくなっていく」という傾向があるように思われるのだ。

 かつて少女を救うことで自らの「生きる意味」を調達していた男性主人公=視聴者は、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)や『AIR』(原作:2000)、さらには先の『秒速5センチメートル』などを経て、しだいにヒロインの生に能動的に介入できなくなっていく。男性が抱きがちな素朴なヒーロー願望と、その報酬として少女を獲得・所有することへの暗い欲望は、もはやフィクションのなかでさえ持ち堪えられなくなりつつある。そこには昨今の「弱者男性」論の引き金となった「有害な男性性」への批判や、さまざまな社会経済的要因も関わっているのかもしれない。男性キャラクターを排除した日常系アニメは、おそらくこうした系譜の延長線上に位置している。

 いまやぼく(ら)は、美少女キャラクターをかつてのように無根拠に救うことができないし、それによって自分自身を救うこともできない。彼女たちはぼく(ら)がいなくても、というよりいないからこそ、画面のなかであれほど生き生きと輝くことができる。とりわけ『スーパーカブ』では、主人公が自分の力で未来を切り開いていく姿が、画面の彩度の変化などを通じて印象的に描き出されている。

 もちろん、あいかわらず男性主人公がヒロインを救う作品も山ほどあるし、まったく正反対の歴史を編むことも可能かもしれない。けれども、女性同士の恋愛を描く「百合」や、別の男性キャラクターにヒロインを奪われる「NTR(寝取られ)」といった他ジャンルの流行を見るかぎり、存在理由を見失った男性主人公=視聴者の苦悩とマゾヒズム的な欲望が一部のフィクションの背後にあるのは、ほとんど疑いないように思われる。これはもしかしたら、かつて批評家の江藤淳が指摘したように、先の敗戦に起因する日本人男性の困難に根ざしているのかもしれない。

 ともあれ、こうした文脈を踏まえるなら、『スーパーカブ』に屈折した男性性を読み込むのもそれほどおかしな話ではない。先に述べたとおり、主人公がわずか1万円という超低価格でスーパーカブを手に入れることができたのは、バイク屋の寡黙なおっさんが気を利かせてくれたからであり、そしてなによりも、元オーナーのおっさんたちがそれぞれの人生に躓いてくれたからだ。ぼくはここに「女子高生がおっさん趣味をやる」ことの、あるいはそのように曲解してしまうことの本質的な理由があると考えている。つまり、ぼく(ら)は元オーナーのおっさんたちのようにフィクションから追放され、疎外されているのだが、まさにそのことによって逆説的に少女たちをエンパワーしていると、そう思いたがっているのではないか。救うこととは別の仕方で、自分の生を意味あるものにするために。

 さらに言えば、ぼく(ら)はたんにフィクションから排除されているのではなく、人間性をすっかり失ったかたちで、たとえば別の生物や無機物、機械としてひそかに描き込まれているのかもしれない。これはだいぶひねくれた見方だが、昨年アニメ化された『放課後ていぼう日誌』では、主人公たちに釣り上げられる魚に男性視聴者の欲望が仮託されていた。第1話冒頭では、魚嫌いの主人公のスカートのなかに触手を伸ばす「気持ち悪い」タコが描かれる。

魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について - teramat’s diary

 このように考えると、おっさんたちから女子高生に受け継がれたスーパーカブは、まさに物語から排除された男性性の残滓、あるいは去勢された男性身体のようなものとして解釈できる。さらに重要なのは、このおっさんたちが作中に登場しないことによって、そして本田技研工業の協力と監修のもと実際のデザインが再現されることによって、スーパーカブ自体がフィクションの内と外をつなぐ特別な存在として位置づけられていることだ。現実とフィクションを架橋する男性性の抜け殻──これが凋落した男性主人公に代わる、男性視聴者の分身(アバター)でなければなんだろうか。つまり、ぼく(ら)はスーパーカブを通じて、というよりスーパーカブそのものとして、画面のなかの少女と想像的に接触するのである。

 とはいえ、この作品では女子高生とスーパーカブとの関係に、セクシュアルな含意はまったくない。それこそがぼく(ら)の払った代償であり、人間であることをやめ、セックスを持たない機械と化すことによってのみ、ようやくフィクションへの参入を許されたのだから。けれども、主人公がスーパーカブと同じく3DCGで描画され、文字どおり一体化して通学路を滑走するとき、人間的な性愛とは別の、もうひとつのコミュニケーションの可能性が垣間見える。それはモノになることがひとつの救済であり、解放でもあるような古いユートピアの入り口を指し示している。すべてが線と色彩に還元され、人間も動物も植物も無機物も、あらゆる存在が調和的に混交し相互浸透する神話的乱婚制の世界──初期アニメーションに胚胎していたアンチ・ヒューマニズムカオスモスが、女子高生のゆるやかな日常と重なり合う。

 タンデムする2人の少女をシートに乗せてひた走るとき、それが「百合に挟まりたい」という許されざる欲望の最終的解決であることは疑いえない。ぼくらはついに男性であることを、人間であることをやめる。少女の世界を拡張するうつろな抜け殻となり、意思や感情、欲望と引き換えに自らの存在理由を獲得する。それが幸福と言えるかどうかはわからないが、少なくともそこには、免罪され祝福された存在へのたしかな予感がある。無機物であることの楽しみ、死体であることの喜び……。

「女子高生がおっさん趣味をやる作品」という歪んだ認識の果てには、深刻な自己疎外が突如として救済の至福へと反転する、革命的瞬間が待ち受けている。そのときまでぼくらは、いましばらく瓦礫のあいだをさまよわなければならないのだが。

 

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)

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