てらまっとのアニメ批評ブログ

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日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ

※ブログだと長くて読みづらいのでPDF化しました。
https://drive.google.com/file/d/0B8CxLP7a5iXoMHh3VUl5VXN0R1U/edit?usp=sharing


〈1〉
 商店街という言葉には、どこかノスタルジックな響きがある。
 それはアーケードに反響する買い物客のざわめくような足音であり、店員の威勢のいいかけ声であり、また手さげ袋のなかの商品が立てるかすかな物音でもあるだろう。
 こうした響きのすべてが今日、きしんだシャッターの音にかき消されつつあるとしても、いまなお、あるいはいまだからこそ、商店街という言葉のうちには、もはやない/いまだない幸福への裏路地がひそかに伸びている。
 たわいない言葉の響きに秘められた、無意識の暗号を解読すること――そうやって私たちは、いつしか日常のいたるところから枝分かれしている、迷宮のような運命の敷居をまたぐのだ。


 京都アニメーションが制作した『たまこまーけっと』(二〇一三年一〜三月)は、そんなノスタルジックな商店街を舞台にしたオリジナルアニメ作品である。
 本論考では、ジークムント・フロイトの議論を参照しながら、この作品に登場するキャラクターの名前や会話のなかに、無意識の暗号が数多く散りばめられていることを明らかにしたい。
 『たまこまーけっと』は、機知や駄洒落によって無意識を言語化・可視化することで、まるで糸を紡ぐように、あるいは餅をこねるように、日常生活に秘められたささやかな物語をアニメートしていくのだ。


 まずは『たまこまーけっと』について簡単に紹介しておこう。
 『たまこまーけっと』は、うさぎ山商店街の餅屋の娘である北白川たまこと、南の島から迷い込んできた言葉を話す鳥デラ・モチマッヅィの二人(正確には、一人と一羽)を中心に、にぎやかな商店街の心温まる人間模様を描いたアニメ作品である。
 さしあたって『たまこまーけっと』は、「日常系」ないし「空気系」と呼ばれるアニメ作品に分類することができるように思われる。実際、この作品のエンドクレジットには、監督の山田尚子をはじめ、日常系アニメの代表作として知られる『けいおん!』シリーズの制作スタッフが名前を連ねている。
 では、日常系アニメとはどのようなものだろうか。


 『“日常系アニメ” ヒットの法則』(以下『ヒットの法則』と略称)によると、日常系アニメとは、「“萌え”を感じさせる美少女キャラクターによる日常生活」を描いたアニメ作品のことだ。その多くは「萌え四コマ」と呼ばれる四コマ漫画を原作とし、おおむね現代の日本を舞台に、美少女キャラクターのゆるやかなコミュニケーションを描いている。典型的な日常系アニメとしては、たとえば『らき☆すた』や『けいおん!』、『ひだまりスケッチ』などを挙げることができるだろう。
 これらの作品に登場する美少女キャラクターは、特別な能力や地位をもたない「(その作品世界では)ごくごく普通の学生」である。そこでは、彼女たちの「当たり前の日常」を脅かすような大事件(たとえば超能力バトルなど)は決して起こらない。
 そのため、日常系アニメに対しては、「作品全体を貫く物語性の希薄さ」が指摘されることも少なくない。『ヒットの法則』にしたがうなら、こうしたアニメ作品からは、「困難との対峙や葛藤、本格的な恋愛といったドラマツルギーがおそらく意図的に排除されて」おり、「従来の作品にあるような「大きく盛り上がる要素」が欠如している」のだという。


 日常系アニメに共通して見られる(とされる)こうした特徴は、一見すると、『たまこまーけっと』にも当てはまるように思われる。
 実際、『日刊サイゾー』のアニメ時評「『けいおん!』制作陣集結の『たまこまーけっと』が陥った、“完璧すぎる理想の日常”の落とし穴」では、『たまこまーけっと』の「理想の日常」が厳しく批判されている。


シビアな「現実」が渦巻く世界の片隅に「理想の日常」という避難場所を作るのではなく、どこまでいっても誰も傷つかず、悩むことのない理想の日常「しか存在しない」別次元の世界を創造してしまった『たまこまーけっと』という作品は、結果的に作品の外部に存在する我々視聴者の居場所すら排除してしまったといえる。[…]視聴者の目線不在で、別次元の人々の取るに足らない日常ばかりが繰り返される『たまこまーけっと』に感じる違和感と空々しさは、つまるところ現実とは地続きではない作品に漂う「嘘臭さ」「薄さ」。そして「身内ノリに対する部外者の疎外感」にほかならないのだ。


 要するに『たまこまーけっと』は、苦悩も葛藤もない「理想の日常」だけを描こうとするあまり、かえって視聴者の感情移入を阻害し、「疎外感」を抱かせてしまったというわけだ。


 しかしながら、『たまこまーけっと』に「困難との対峙や葛藤、本格的な恋愛といったドラマツルギー」がまったく描かれていないかといえば、必ずしもそうではない(ただ大事件に発展しないだけだ)。むしろ、この作品では、そうした事柄がつねに問題になっているとさえいえるだろう。
 たとえば、主人公のたまこは、何も悩みごとのなさそうな天真爛漫な性格だが、幼い頃の母親の死が(彼女の父親と同じように)影を落としている。また、たまこの妹のあんこも、実家の餅屋やうさぎ山商店街に対して不満を抱き、いつも子供っぽく頬を膨らませている。さらに、たまこの親友の常磐みどりと幼なじみの王子もち蔵は、二人ともたまこに淡い想いを寄せており、彼女をめぐって恋の鞘当てを繰り広げる。
 そして、偉そうな言葉を話す鳥デラは、まさにうさぎ山商店街の「トリックスター」(鳥だけに)ともいうべき存在だ。彼の役割は、それぞれのキャラクターが抱える悩みや秘めた想いを見抜き、彼女たちの背中を少しだけ押してやることで、のんびりとした商店街のリズムを加速することにある。
 つまり『たまこまーけっと』には、視聴者の現実から完全に切り離された「理想の日常」が描かれているように見えて、実はそうした日々のいたるところに、誰もが経験する恋愛の苦悩や自意識の葛藤、終わりの予感がひそかに織り込まれているのだ。
 にもかかわらず、この作品に対して「嘘臭さ」や「薄さ」、さらには「身内ノリに対する部外者の疎外感」といった批判が寄せられるのは、いったいなぜだろうか。
 それはおそらく、『たまこまーけっと』に見られる恋愛や葛藤の描き方が、一般的な手法とくらべて、あまりにも洗練されすぎているためだ。そこでは、キャラクターの無意識の働きがアニメートされているのである。


 そもそも『たまこまーけっと』には、デラによるナレーションを別にすると、それぞれのキャラクターが自分の悩みや想いを独白する、いわゆる「モノローグ」がほとんど存在しない。その代わりに、この作品では、つねに二人以上のキャラクター同士のコミュニケーションによって、つまりは「ダイアローグ」を通じて物語が進んでいく。
 しかし、キャラクターの秘められた想いをモノローグなしに視聴者に伝えることは、それほど簡単なことではない。なぜなら、たとえどんなに親密な間柄でも、ごく日常的なダイアローグのなかで、キャラクターの苦悩や葛藤が直接的に表現されることは、まずありえないからだ。とくにそうした想いが、話している相手に向けられたものであればなおさら、はっきりと言葉にされることは少ないだろう。
 したがって、一般的にダイアローグでは、モノローグとは対照的に、キャラクターの苦悩や葛藤がわかりづらくなる、あるいは意識的に覆い隠される傾向にあるといっていい。
 そしてこのことは、たまこたちが暮らす「うさぎ山商店街」という小さなコミュニティのなかでは、より切実な色合いを帯びてくる。
 もしそれぞれのキャラクターが、自分の内心を包み隠さず吐き出してしまったら、たしかに視聴者にはわかりやすいかもしれないが、商店街の人間関係は決定的におかしくなってしまうにちがいない。だからこそ、みどりやもち蔵は、自分の気持ちを素直にたまこに伝えられないでいるのだ。
 『たまこまーけっと』に「薄さ」や「疎外感」を感じるとすれば、それはおそらく、このような理由によるのだろう。


 だが、そうだとすれば、やはりこの作品は、キャラクターのモノローグを排除し、彼女たちの苦悩や葛藤をダイアローグによって覆い隠すことで、「作品の外部に存在する我々視聴者の居場所」を消し去ってしまったのだろうか。
 もちろんそうではない。なぜなら『たまこまーけっと』では、ごくありふれたダイアローグのなかに、それぞれのキャラクターの秘められた想いが、まるで暗号のように巧妙に織り込まれているからだ。
 そして、このとき重要な手がかりを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。
 フロイトといえば、通俗的には、人間の心理現象をすべて性的なものと結びつけて説明してしまう、いささか疑わしい人物と見なされている。しかし、本論考でわざわざフロイトの議論を参照するのは、『たまこまーけっと』に性的なモチーフを読み込みたいからではない。
 そうではなくて、フロイトが些細な言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのなかに、夢と同様、抑圧された無意識の働きを読み取ろうとしていたからだ。


〈2〉
 たとえば、フロイトは『機知』(一九〇五年)のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する、次のような言葉遊びを例に挙げている。

というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように(ファミリオネール[famillionär])扱ってくれたんですよ。


 この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。
 フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。


 もうひとつ例を挙げよう。
 フロイトにいわせると、最も一般的に見られる言葉遊びは「音合わせの機知」、すなわち駄洒落である。『機知』では、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲から、次のような台詞が引用されている。

その名もヴァレンシュタイン[Wallenstein]、
もちろん彼はわれわれすべて(アレン[allen])にとって
躓きと腹立ちの石(シュタイン[Stein])なのだ。


 今度は「ファミリオネール」とは反対に、「ヴァレンシュタイン[Wallenstein]」という名前が「すべて(アレン[allen])」と「石(シュタイン[Stein])」に分割されている。つまり、〈ヴァレンシュタイン[Wallenstein]→アレン[allen]+シュタイン[Stein]〉という音合せになっているのだ。
 こうした駄洒落は、複数の語をひとつに圧縮するのではなく、それらの語の構造に見られる一般的な類似や、韻を踏むような音合わせ、さらには語頭の文字の共通性などによって作り出される。
 とはいえ、どちらの事例も「語はわれわれにとってただの音像なのであり、これやあれやの意味がそれと結びつく」という点で共通している。フロイトにとって言葉遊びとは、本来意識的であるはずの思想過程が、一時的に無意識にゆだねられた結果、ひとつひとつの語が(固有の意味から切り離された)「音像」へと還元され、縮合や遷移、分解といったさまざまな加工を施されて立ち現れたものなのである。


 さて、私たちはいまや、このような言葉遊びを『たまこまーけっと』のあちこちに見出すことができる。
 たとえば、第一話のストーリーは、うさぎ山商店街に迷い込んできたデラ・モチマッヅィ[とても餅が不味い]という名前の鳥に、ひたすら餅を食べさせて「餅美味い[もちうまい]」といわせるという、ある意味ではくだらない駄洒落として理解することができる。
 また第八話には、バドミントンのラケットで打ち返されたデラを眺めて、たまこの友人である牧野かんなが「バードミントン」とつぶやくシーンがある。これはいうまでもなく「バドミントン」と「バード[鳥]」を縮合した合成語であり、〈バドミントン+バード→バードミントン〉という機知になっているわけだ。
 これらのたわいない言葉遊びは、「ファミリオネール」や「ヴァレンシュタイン」とまったく同じように、フロイトによる機知の定義に正確に当てはまるといえるだろう。


 こうした機知や駄洒落のなかでも、とりわけ洗練されているのは、『たまこまーけっと』第二話の後半に登場する英語構文に関する事例である。
 これは、学校の休み時間に英語の課題に取り組んでいたたまこが、問題文の「not only A but also B」という構文をつぶやいたところ、その様子を眺めていたみどりが、すぐに「AだけでなくBも、だから、『彼らは言葉だけでなく心もまた大切に』」と解答する、というものだ。
 ただし、このシークエンスそのものは、言葉遊びでも何でもない、仲の良い学生同士のごくありふれたダイアローグにすぎない。
 もちろん、みどりのセリフのなかに、たまこに対する彼女の秘められた想いを読み取ることも不可能ではないだろう。なぜなら、「彼らは言葉だけでなく心もまた大切に」という英文そのものが、言葉にならない、あるいは言葉にするわけにはいかない、みどりの切ない恋心を暗示したものとして読むこともできるからだ。
 つまり、このシーンでは、翻訳可能なもの(言葉−文字−ダイアローグ)と翻訳不可能なもの(心−ニュアンス−モノローグ)が対置されているのである。
 このような解釈は、英文を翻訳するのに手こずっているたまこを見かねて、みどりがつい自分で訳してしまうという発話状況によっても、いっそう際立たせられているといえるだろう。
 しかし、だからといって、みどりの想いが鈍感なたまこに伝わることはありえないし、みどりもそのことを知っているからこそ、平静を保っていられるのだ。したがって、もしこの二人しかいなかったら、みどりの恋心がひそかに漏れ出てしまうことも、おそらくありえなかっただろう。
 だが、みどりにとっては運悪くというべきか、実はたまことみどり「だけでなく」、かんな「も」また、その場に居合わせていたのである。それによって、翻訳不可能なはずだったみどりの「心」が、鮮やかにアニメートされることになる。


 かんなは「not only A but also B」という英語構文を、みどりのように正しく翻訳するのではなく、まったく異なった仕方で「誤訳」してみせる。英語の課題に取り組むたまこの髪をいじりながら、かんなはみどりとたまこのダイアローグに割り込むかたちで、不意に「あ、枝毛」とつぶやくのだ。
 これは直接的には、たまこの髪に枝毛を見つけたということであり、また間接的には、第二話前半のラストシーンで、たまこが自分の父親を「ハゲ」呼ばわりしたことを受けたものだろう。いずれにせよ、かんなのこのセリフは、英文の翻訳をめぐるたまことみどりのダイアローグとは、一見すると何の関係もないように思われる。
 だが、そうではないのだ。かんなが枝毛を見つけたのは、たまこが「not only A but also B」とつぶやいたすぐ後のことだった。もうおわかりだろう。かんなの唐突な「枝毛[えだげ]」発言は、「not only A but also B」を翻訳した「AだけでなくBも」の一部、すなわち「Aだけ[えーだけ]」の駄洒落になっているのだ。
 つまり、このシーンでかんなは、まず英語構文を日本語に翻訳した上で、日本語訳をさらに分解し、その一部を無意味な音像へと還元することで、言葉遊びに変換しているのである。


 しかも、このシークエンスにはまだ続きがある。
 かんなの「枝毛」発言を受けて、たまこは「みどりちゃん、髪きれいだね」といいながら手を伸ばし、みどりの髪に触れる。予想外のことに不意を突かれたみどりは、思わず言葉を失い、たまこに髪を撫でられるがままになってしまう。
 やがて、かんなまでがみどりにじゃれつくと、ようやく我に返ったみどりは、適当に二人をあしらい、平静を装うのだった。
 しかし、髪を撫でられるわずか数秒のあいだ、みどりの横顔をクローズアップして描いたカットからは、たまこに対する彼女のひそやかな想いが、うるんだような大きな瞳に反射しながら、まるで放課後の光のように画面の向こう側へと漏れ出している。


 以上のシークエンスをあらためて整理すると、次のようになるだろう。
 まず、このシーンでは〈「not only A but also B」→「AだけでなくBも」→「言葉だけでなく心も」〉という、たまことみどりのあいだで交わされる通常の意識的なコミュニケーションの連鎖がある。あるいはそこに、翻訳可能な言葉と翻訳不可能な心の対置を読み込むこともできるだろう。
 ところが、この連鎖にかんなが割り込むことで、親密な身体的接触をともなう、きわめて複雑なコミュニケーションの連鎖が同時並行的に生み出される。その連鎖とは、〈「not only A but also B」→「AだけでなくBも」→「Aだけ[えーだけ]」→「枝毛[えだげ]」→「みどりちゃん、髪きれいだね」→(たまこがみどりの髪に触れる)→(みどりの無防備な表情)〉というものだ(厳密には、この後さらに、みどりがたまことかんなをあしらうシーンが続く)。
 このもうひとつの連鎖は、フロイトにしたがうなら、語を無意味な音像として処理することで言葉遊び(駄洒落)を作り出す、無意識の働きによるものといえるだろう。
 つまり、たまことみどりの意識的なダイアローグに、かんなの無意識が作用した結果、予想を越えたコミュニケーションの連鎖(たまこがみどりの髪に触れる)が引き起こされ、抑圧されていたみどりの恋心が露わになってしまったのだ。翻訳不可能な彼女の恋心が、無意識によって鮮やかに翻訳されているのである。
 こうしたコミュニケーションは、相手の反応をあらかじめ予想して言葉を紡ぐ、意識的で協働的なダイアローグをはるかに超え出ている。むしろそれは、さまざまな声が重層的に響き合い、予想外の連鎖を引き起こす「ポリローグ」とも呼ぶべきものだろう。
 そこでは、それぞれの発話者の意識だけではなく、あるいは意識よりもはるかに饒舌に、無意識がコミュニケートすることになる。だからこそ、このシークエンスでは、モノローグが一切用いられていないにもかかわらず、みどりの秘められた想いが視聴者に明かされてしまうのだ。


 さらにつけ加えると、第二話の「not only A but also B」をめぐる言葉遊びは、みどりの切ない恋心が隠された暗号であると同時に、続く第三話冒頭でのクラス替えの結果を予言したものと読むこともできる。
 というのも、第三話では、たまことかんながA組になるのに対して、みどりだけはB組になってしまうからだ。そうだとすれば、「AだけでなくBも」というみどりの解答には、たとえ別々のクラスになっても、これまでと変わらない親密な関係性を維持したい、してほしいという、みどりの願望が込められていたのではないだろうか。
 もしかしたら、自分がたまこと違うクラスになってしまうことを、みどりはひそかに予感していたのかもしれない。


〈3〉
 『たまこまーけっと』に見られる無意識のポリローグは、ダイアローグには表れないキャラクターの隠された悩みや想いを、モノローグを用いずに日常的なコミュニケーションのなかに織り込むことで、ささやかな物語を生成する役割を果たしている。それはいいかえると、この作品のプロットそのものが、機知や駄洒落といった言葉遊び的なコミュニケーションの連鎖によって形作られているということだ。
 なかでも、たまこの妹のあんこに焦点を当てた第四話と第九話には、そうしたモチーフが第二話以上にわかりやすく表れている。
 だが、第四話と第九話の具体的な分析をはじめる前に、ここでもう一度、人間や土地の「名前」に関するフロイトの議論を参照することにしよう。なぜなら、この二つのエピソードでは、キャラクターの名前をめぐる言い間違いや言葉遊びが、きわめて重要な役割を演じることになるからだ。


 フロイトは『日常生活の精神病理学』(一九〇一年)の冒頭で、自分の個人的な体験を例に挙げながら、名前の一時的な「度忘れ」が引き起こされるメカニズムを考察している。
 ある日、フロイトは「シニョレッリ[Signorelli]」という画家の名前をどうしても思い出せず、代わりに「ボッティチェリ[Botticelli]」と「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」という二つの名前が、頭のなかにしつこく浮かんできたのだという。この度忘れのメカニズムを説明するために、フロイトは次のようなエピソードを紹介している。
 フロイトは「シニョレッリ」という名前を度忘れする直前、「ボスニアヘルツェゴビナ[Bosnien und Herzegowina]」に住んでいるトルコ人の「死と性」にまつわる風習について話していた。その話のなかに、「先生(ヘル[Herr])」という語が登場する。
 また、フロイトはその数週間前「トラフォイ[Trafoi]」に滞在しており、そのあいだに自分の患者のひとりが不治の性的障害を苦にして自殺した、という知らせを受け取っていた。
 一見すると何の関係もないように思えるこれらのエピソードから、フロイトはまるで暗号を解読するかのように、「シニョレッリ」という名前を度忘れしたメカニズムを導き出していく。


 まず「シニョレッリ[Signorelli]」という名前が、「シニョール[Signor]」と「エリ[elli]」に分解され、後者は「ボッティチェリ[Botticelli]」という代替名の一部([Bottic-elli])にそのまま表れる。
 他方で、イタリア語で男性の敬称を意味する「シニョール[Signor]」は、同じくドイツ語の男性の敬称である「ヘル[Herr]」へと翻訳される。そして、この「ヘル[Herr]」という語が、その一部を含む「ボスニアヘルツェゴビナ[Bosnien und Herzegowina]」という名前の結びつきへと遷移し、さらに「ボスニア[Bosnien]」の語頭の「ボ[Bo]」が、「ボッティチェリ[Botticelli]」および「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」へと遷移する。
 また、同時に「ヘル[Herr]」という語は、トルコ人の風習についての話と結びつくことで、「死と性」という抑圧された主題系を呼び起こし、「トラフォイ[Trafoi]」で聞かされた患者の訃報と関連づけられる。そして、この「トラフォイ[Trafoi]」が微妙に変形され、「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」の一部([Bol-traffio])へと遷移するのである。
 つまり、フロイトが「シニョレッリ」という名前を忘れてしまったのは、本来、彼が忘れたがっていた(抑圧していた)「トラフォイ」での訃報と、この「シニョレッリ」という語が、無意識のうちに結びついていたためなのだ。


 フロイトにしたがうなら、名前の一時的な度忘れは、夢や言葉遊びとまったく同じように、語の縮合・遷移・分解といった無意識の働きによって生じる。そして、このとき重要なのは、「この過程で名前は、ひとつの文を変形してそこから判じ絵を作る際の字面と同じような具合に取り扱われている」ということだ。
 要するに、無意識の領域では、名前は象形文字のような具体性をもった「判じ絵」として、つまり文字通りの意味での「キャラクター(文字像)」として現れるのである。
 名前が視覚や聴覚によって知覚される具体的な像(イメージ)であると同時に、意味をもった文字でもあるということ。これは『たまこまーけっと』に登場するキャラクターに驚くほどよく当てはまる。
 たとえば、餅屋「たまや」を営む北白川家の人間はみな、「あんこ」や「豆大」、「福」、「たまこ」といったように、家業である餅や屋号にまつわる言葉が名前になっているし、ライバル餅屋のひとり息子にいたっては、「もち蔵」という安直すぎる名前がつけられている。また、南の島の住人たちは、「デラ・モチマッヅィ[とても餅が不味い]」に「チョイ・モチマッヅィ[少しだけ餅が不味い]」、「メチャ・モチマッヅィ[きわめて餅が不味い]」と、これまた身も蓋もない名前である。
 そのため、『たまこまーけっと』には、キャラクターの名前をめぐるコミュニケーションが繰り返し登場することになる。そして、なかでも注目に値するのが、すでに述べたように、あんこに焦点を当てた第四話と第九話なのだ。


 天使のような小学生、あるいは小学生のような天使であるあんこは、自分のことを「あんこ」と呼ばれることを嫌がり、まるで『赤毛のアン』に登場するアン・シャーリーのように(あるいは彼女とは真逆に)、第一話から「あんこのことはあんって呼んで」と繰り返し主張している。
 なぜなら、あんこは自分が餅屋の娘であることを受け入れられず(ここにもおそらく、母親の不在がかかわっている)、餅にまつわる「あんこ」という名前で呼ばれることに、心理的な抵抗感を抱いているからだ。
 しかし、彼女のことを実際に「あん」と呼んでくれるのは、実家に住み着いたデラだけであり、家族やうさぎ山商店街の人々は、相変わらずあんこのことを「あんこ」と呼び続けている。
 つまり『たまこまーけっと』では、キャラクターの名前がコミュニティ(家族や学校、うさぎ山商店街)の問題と密接に結びついているのである。だからこそ、部外者であるデラだけが、どんなに邪険に扱われても、あんこのことを「あん」と呼ぶのだ。
 実際、家族によって与えられ、コミュニケーションの過程で流通・循環する名前は、そのキャラクターの性格や行動、ときには運命までも左右する。だから、自分の名前を好きなように書き換えるということは、たとえ一時的にではあれ、コミュニティの重力から離脱することを意味するだろう。たとえば、恋人同士の秘密の呼び名のように。
 とはいえ、まだ小学生であるあんこにとっては、恋愛を通じて自分の名前を書き換えることは、事実上不可能であるように見える。
 『たまこまーけっと』第四話では、まさにそうした名前の書き換えが、コミュニティからの離脱によってではなく、言葉遊びに見られる無意識の働きによって成し遂げられていることになる。これによってあんこは、自分の名前にまとわりつく「餅屋の娘」という意味の重荷を、少しだけ軽くすることができたのだった。


 第四話で描かれるのは、あんこの淡い恋の物語である。
 クラスメイトの柚季に恋心を抱いているあんこは、彼を含む何人かで一緒に博物館に出かけるのを楽しみにしていた。しかし、実家の餅作りや商店街の祭りの手伝いに忙殺され、彼女だけ博物館に行くことができなくなってしまう。その代わりにあんこは、商店街の人々との交流を通じて、しだいにコミュニティに馴染んでいく。
 ところが、実家の前で威勢よく餅を売っていたあんこの目の前に、不意に博物館帰りの柚季が現れる。恥ずかしいところを見られ、激しく動揺した彼女は、自分の部屋のクローゼットのなかに閉じこもってしまう。
 コミュニケーションを遮断し、かたくなに外に出ることを拒んでいたあんこだったが、柚季が博物館のお土産を差し出すことで、ようやくクローゼットの扉を開くのだった。
 では、柚季が持参した博物館のお土産とは、いったい何だったのだろうか。
 それは「アンモナイト」の化石である。そして私たちは、ここにも言葉遊びが含まれていることに気づくはずだ。
 つまり、あんこの願い通りに「あんこ」が「あん」へと分解された上で、その語を含む「アンモナイト」へと遷移しているのである。さらに、ここでは「アンモナイト」が、「あん」と「ナイト」の縮合による合成語としても機能していると考えられる。つまり、〈「あんこ」→「あん」〉+〈「あん」+「ナイト」→「アンモナイト」〉というわけだ。
 そうだとすれば、あんこをコミュニケーションに復帰させ、アンモナイトを手渡した柚季が、文字通りの意味で「あん」の「ナイト[騎士]」であり、彼女が「いないと」悲しい、寂しいという秘密の暗号をこのお土産から読み取ることも、決して不可能ではないだろう。


 最後に、『たまこまーけっと』第九話を見てみよう。
 このエピソードでは、あんこが思いを寄せているクラスメイトの柚季が、転校してしまうことが明らかになる。とくに注目してほしいのは、物語の後半、柚季の転校を知ってふさぎこんでいたあんこが、それでも意を決して柚季のところに走り、彼に「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出すという初々しいシーンだ。
 きょとんとしている柚季に対して、あんこは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしながら、たどたどしく、しかし真剣に餅の説明をしようとする。そこで繰り返される「つきたて」という言葉は、まず「つき」へと分解され、さらに「柚季(ゆずき)」から「好き(すき)」へと次々に遷移していくだろう。
 だが、何よりも決定的なのは、あんこの次のようなセリフである。

[お餅の]なかにあんこが、私じゃない、あんこのほうのあんこが入ってて…


 これはもはや言葉遊びですらない、避けようのない言い間違いとして、あんこの隠された想いをこれ以上ないほど鮮やかに描き出している。このシーンでは、あんこの意識よりもずっと精細かつ饒舌に、彼女の無意識がアニメートされ、またコミュニケートしているのだ。


 「あんこ」をめぐるこれらのエピソードは、無意識のポリローグに秘められた解放的なポテンシャルを暗示しているといえるだろう。
 たしかに「あんこ」という名前には、餅屋の娘という逃れがたい意味が背負わされている。この意味は、ときにあんこの自由な言動を束縛し、あるいは感情を抑圧することで、彼女の運命を支配しようとさえするかもしれない。
 だが、この名前は同時に、言葉遊びや言い間違いといった無意識の働きを通じて、予想もつかないような形態へと縮合・分解・遷移することができる、ひとつの音像ないし文字像(キャラクター)でもあるのだ。
 そうだとすれば、名前をめぐる日常的なコミュニケーションに翻弄されるのでも、また逆に、クローゼットに引きこもって切断するのでもなく、言葉遊びや言い間違いに見られるような無意識の働きによって、自らの運命をさまざまな可能性へと開いていくことができるのではないだろうか。
 『たまこまーけっと』には、名前による呪縛を解放へと変換する、そのような無意識の働きがアニメートされているのだ。


 『たまこまーけっと』が描いているのは、たしかに、私たちの現実から切り離された「理想の日常」に見えるかもしれない。
 だが、すでに見てきたように、それはこの作品が、キャラクターの抱える苦悩や葛藤をすべて消し去ってしまったからではない。そうではなくて、機知や駄洒落といった無意識のポリローグをアニメートすることで、彼女たちのひそやかな想いを、ごくありふれたコミュニケーションのなかに暗号として織り込んでいるからなのだ。
 そして、私たち自身の日常もまた、実は『たまこまーけっと』と同じように、あるいはフロイトが鮮やかに分析したように、意識という縦糸と無意識という横糸によって織り成される、繊細なテクストなのではないだろうか。
 その表面に刻まれた判じ絵のような暗号の数々は、ごくありふれた日常生活のなかで、私たちの運命が知らず知らずのうちに書き換わっていたことを、そっと教えてくれる。『たまこまーけっと』は、そうした暗号を解読するための、おそらく最良の教科書のひとつである。
 無意識の領域で名前が分解され、さまざまな語へと縮約・遷移していくように、私たちの生もまた、無数に枝分かれする迷宮のような裏路地へと開かれているのだ。