意味から効果へ:あるラブひなおじさんの感傷(「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」後記)

 先日、zoom+YouTubeで「完結20周年記念ラブひなおじさん座談会」という謎企画を開催したのだが、個人的にたいへん楽しく、また学びも多かったので、自分の感想の一部をまとめておくことにした。3時間ほどのアーカイブ動画は以下から。配信エラーで唐突に終了するが、ご容赦願いたい。

 


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ラブひな』は赤松健によるラブコメ漫画で、1998年から2001年にかけて『週刊少年マガジン』で連載された。今年は完結20周年にあたるが、コロナ禍のせいか国際シンポジウムのひとつも見当たらないので、かつて『ラブひな』に躓いたおじさんのひとりとして、急遽座談会を開催することにした。これが「ラブひなおじさん座談会」のあらましである。

 

 今回の座談会のためにおよそ20年ぶりに『ラブひな』を再読して気づいたことがある。自分のおぼろげな記憶のなかの話とだいぶ違うということだ。

ラブひな』は幼い頃に「一緒にトーダイに行こう」と誓い合った初恋の女の子との約束を果たすために、さえない浪人生が女子寮の管理人をやりながら東大合格を目指す物語である。女子寮にはさまざまな美少女が暮らしており、主人公の浦島景太郎はやはり東大を目指している全国模試1位の秀才、成瀬川なるに惹かれていく。

 ぼくの記憶では、名前も覚えていない約束の女の子と成瀬川とのあいだで揺れ動く主人公の葛藤が物語の中心にあったような気がしていたのだが、読み直してみるとどうもそういう感じではない。いちおう葛藤も描かれてはいるものの、景太郎はかなり序盤から一貫して、思い出の女の子ではなく目の前の成瀬川のために、成瀬川と一緒に東大合格を目指すと繰り返し明言している。ぼくはこの20年のあいだに記憶を改竄していたか、もしくは最初から誤読していたらしい。

 思い出のなかの女の子よりも「いま・ここ」にいる美少女のほうが動機として強い。これはとてもよくわかる話だ。景太郎の東大受験のモチベーションは、物語のごく早い段階で約束の女の子から成瀬川へとシフトする。にもかかわらず、ぼくが長らく話の内容を勘違いしていたのは、結局のところ「人生の意味」みたいなものに固執していたからではないかと思う。

 たいがいの中学生と同様、当時のぼくも自分がなんのために生きているのかわからず、そのわからなさを埋めてくれる理由や根拠のようなものを求めていた。その頃太宰治ドストエフスキーなどに触れていれば、ぼくの人生もいまとは違ったものになっていたのかもしれない。だが、文化資本にとぼしいぼくが手に取ったのは純文学ではなく、美少女ゲームのコミカライズであり、週刊誌のラブコメ漫画だった。

 生きる意味に飢えている人間にとって、「約束」という言葉には抗いがたい魅力がある。大切な約束を果たすという大義名分さえあれば、それを目的として生きることができるからだ。当時のぼくはたぶん、景太郎と成瀬川の恋の行方以上に「約束の女の子」の正体を気にしていたのだと思う(しのぶちゃんのほうが好きだったし)。

 けれども、本来『ラブひな』はそういう話ではない。あやふやな約束によって無理やり人生を意味づけるよりも、一緒にいると楽しい・うれしいという身も蓋もない事実性こそが人を前に進ませる。当時の宮台真司なら「意味から強度へ」と表現したにちがいない。ぼくは全然わかっていなかったが、それこそがこの作品に一貫して流れる通奏低音だった。物語の中盤で景太郎が3浪の末に東大に合格できたのは、幼い頃の約束があったからではない。そうではなくて、苛酷な受験勉強をともに乗り切る仲間が、つまりは成瀬川がいたからだ。

 広告などでよく利用されるように、人間は特定の対象に繰り返し接すると、いつのまにかその対象に好意を抱くようになる。これが人間相手にも適用可能なのかはわからないが、少なくともこの作品のなかで景太郎が成瀬川に、そして成瀬川をはじめ女子寮の美少女たちが景太郎に好意を寄せる理由の一端を説明してくれる。つまり『ラブひな』は「(人生の)意味」ではなく、心理学でいうところの「単純接触効果」が勝利する物語なのだ。だからこそ成瀬川は、毎回その場の雰囲気にのまれて景太郎とキスしそうになり、慌てて殴り飛ばすのである。

 当時の記憶と大きく違っていた点はもうひとつある。景太郎は3回目の挑戦で成瀬川とともに東大合格を果たすのだが、物語はそこでは終わらない。というより、そこからが合格までと同じくらい長い。にもかかわらず、ぼくはその後の展開をほとんど覚えていなかった。 

 作者の赤松健が『ラブひな∞』収録のインタビューで述べているとおり、東大合格に前後して物語の主人公は景太郎から成瀬川へと交代する。景太郎は成瀬川に自分の気持ちを打ち明けると、考古学という夢に向かって突き進んでいく。一方の成瀬川は景太郎に好意を抱きつつも、さまざまな理由をつけて告白の返事を引き延ばそうとする。いつまでもはっきりしない態度を取り続ける成瀬川に対し、周囲がしびれを切らして彼女に決断を迫るというのが、物語後半のおおまかなあらすじだ。

 あらためて読み直してみると、そこで描かれている成瀬川の逡巡や葛藤はとてもよくわかる。先に述べたように、景太郎は単純接触効果によって成瀬川を好きになる。それは彼女のほうも同じだ。しかし、これは逆に言えば、2人の関係がなんらかの「意味」によって裏付けられているわけではない、ということでもある。彼らが互いを好いているのは、約束でも運命でもなく、心理学的な「効果」にすぎない。だからこそ成瀬川は不安になる。景太郎の好意がたんに自分との接触頻度の高さによるものだとしたら、それが低下したら自分を嫌いになってしまうかもしれない。別の誰かを好きになってしまうかもしれない。座談会でKitagawaさんが指摘していたとおり、2人の関係はあくまで偶然的なものにすぎないのだから。

ラブひな』終盤で、成瀬川がかつての景太郎以上に「約束の女の子」にこだわるのは、彼女が当時のぼくと同じように意味に飢えているためだ。成瀬川は自分こそがその女の子であると信じ込もうとする(結末としては実際にそうなのだが)。2人の関係を意味づけるための特別な理由や根拠がないかぎり、成瀬川は景太郎の気持ちにうまく応えることができない。東大合格後の長いドタバタは、ごく単純化して言えば、追い詰められた成瀬川がようやく自分の気持ちに素直になる──とはつまり、「意味」への渇望を振り切って「効果」を受け入れるまでのプロセスとして読むことができる。

 当時のぼくはこうした構造にまったく無頓着だった。というより、ほとんど理解できていなかった。だからすぐに忘れてしまったのだと思う。過去の約束のことばかりを覚えていたのも、景太郎や成瀬川とは対照的に、ぼく自身がいつまでも意味にとらわれていたからだろう。

 あれからおよそ20年を経て、ようやく『ラブひな』が何を描こうとしていたのか、おぼろげながら理解できたような気がする。それは結局のところ、人生に意味があろうがなかろうが人は生きていけるのだし、実際にこうして生きているという当たり前の事実に気づくまでの時間だったのかもしれない。その歳月は決して無駄ではなかったと思いたいが、ぼくにとってはいささか長く、また苦しい日々ではあった。

 じつを言えば、『ラブひな』を読んでいた当時の自分が何を感じ、何を考えていたのか、いまとなってはうまく思い出せない。意味に飢えていたのはたしかだと思うが、どのくらい深刻に悩んでいたのかは疑問の余地がある。それでもひとつ言えるのは、この作品が鬱々としたぼくの中学時代に寄り添い、ぼんやりとした希望を抱かせてくれたということだ。高校・大学に進学し、やがてきれいに挫折するまでの人生の束の間、ぼくが人並みに努力できたのは、多かれ少なかれ『ラブひな』のおかげだったと思う。

 それだけに、いま読み返すと物語後半の景太郎の成長がとてもまぶしく感じられる。「ドジでアホでスケベ」と罵られていた彼が、東大受験を機に考古学という夢を見つけ、遺跡を発掘するために世界中を飛び回る。できることなら、ぼくもそんなふうになりたかった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見たときも、似たような印象を受けたのを覚えている。さえない主人公に自分を重ねていた物語が、いつのまにか反実仮想の物語になっていた寂しさとでも言えるだろうか。

 たぶん、それがおじさんになるということなのだろう。『ラブひな』を夢中で読んでいたあの頃の自分に、景太郎のようには生きられなかったというほろ苦い認識が、古い枕の染みのように滲んでいる。

 

ラブひな(1) (Jコミックテラス×ナンバーナイン)