魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、『プリキュア』や『ONE PIECE』など、さまざまなアニメが新作の放送を延期している。私が今期楽しみにしていた『放課後ていぼう日誌』も、4話以降の放送を休止するという。これは同作を含む「日常系」と呼ばれるジャンルのアニメ作品にとっては、とくに危機的=批評的(critical)な事態だ。というのも、日常系アニメとは、まさにそのような危機が起こらないこと、つまりは「日常」を前提としてつくられてきたからである。

2011年に出版された『“日常系アニメ”ヒットの法則』(キネマ旬報映画総合研究所編)では、日常系の特徴について次のように語られている。

 

世間を揺るがすような大きな事件が発生するわけでも、超能力を持ったキャラクター同士が戦うわけでもない。それどころか、学園ドラマでは不可避とも言える「恋愛」に関する描写も皆無だ。小さな出来事に一喜一憂する「(その作品世界では)ごくごく普通の学生」の「当たり前の日常」が描かれていく。(26頁)

 

日常系アニメでは、多くの犠牲者を出すような大事件は、それが人為的なものであれ自然災害であれ、決して起こらない。したがって当然、コロナ禍もない。『放課後ていぼう日誌』に登場する個性豊かなキャラクターたちは、ウイルス感染のリスクにおびえることもなく、のびのびと釣りにいそしんでいる。彼女たちが通う学校も例年どおり入学式を開き、教室で授業を行う様子が描かれる。これは現実とは違う、フィクションなのだから当然といえば当然だ。けれども、在宅勤務のかたわら、パソコンの画面に小さなウィンドウを開き眺めていると、どこか落ち着かない気分にさせられる。

外出自粛要請が続く4月26日に放送された『サザエさん』は、主人公の磯野家がゴールデンウィークの旅行の計画を立てたり、動物園に出かけたりする話だった。これにネットの一部では「不謹慎だ」とクレームがついたという。多くのひとは「現実とフィクションの区別がついていない」と苦笑いするにちがいない。だが、たしかにこのふたつの関係は、それほど単純ではないのかもしれない。『サザエさん』もまた、日常系アニメと同様に「当たり前の日常」を描き、長らく「国民的アニメ」として私たちに寄り添ってきた。そこには単純な二分法ではなく、入れ子状の構造がある。フィクションをフィクションとして、この現実とは切り離された世界として鑑賞するという態度のほうが、じつは例外的なのかもしれない。

日常系アニメが流行し始めた2000年代後半、現実とフィクションはいまほど截然と切り分けられてはいなかった。アニメのなかのキャラクターは「俺の嫁」であり、作品は現実にある場所を背景として採用し、「聖地巡礼」によってそれらは地続きになった。一部のオタクたちは、あたかも現実よりもフィクションのほうが存在論的に優位であるかのように振る舞いさえした。もちろん、彼らが現実とフィクションを混同していたわけではないだろう。そうではなく、そもそもフィクションをフィクションとして割り切って鑑賞することの必然性が、いまよりもずっと小さかったのだ。そこに描かれていたのは、私たちのそれと同じ「当たり前の日常」だった。

2011年の東日本大震災福島第一原発事故のあと、日常系アニメはふたつの課題を背負い込んだように見える。ひとつは、「当たり前の日常」がいかに脆く、壊れやすいかということ。そしてもうひとつは、この日常が誰かの「犠牲」のもとに成り立っている(ことが誰の目にも明らかになった)ということ。震災前後の一部のアニメ(たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』『とある科学の超電磁砲S』『結城友奈は勇者である』など)が、日常をたんに謳歌するものとしてではなく、命がけで守るべきものとして描いたのは、前者に対するアンサーだろう。その一方で、後者の課題は重い。それは日常を守ることそのものの根拠を揺るがす、倫理的な問いだからだ。福島に原発を押し付け、あるいは沖縄に基地を押し付けることで成立してきた「当たり前の日常」に、守るべき価値などあるのか。私たちの一見おだやかな日常は、つねに彼らの犠牲の上に成り立ってきたのではなかったか。哲学者の高橋哲哉は、これを「犠牲のシステム」と呼んだ。

日常系アニメが、震災も疫病もない「当たり前の日常」を描くかぎり、私たちはそれを当然フィクションとして受け取らざるをえない。そんなものはもはや存在しないこと、存在すべきではないことを知っているからだ。かくして日常系はアニメのたんなる一ジャンルとなり、フィクションを文字通り現実とは別の世界と見なす「異世界転生」ものに取って代わられる。現実と地続きの「日常」から、現実と切り離された「異世界」へ。異世界転生とは、いってみれば、聖地巡礼に対する異議申し立てだ。ひとはトラックに轢かれることなしに、異世界に巡礼することはできない。現実とフィクションが重なり合っていた幸福な時代は終わりを迎えた。

『放課後ていぼう日誌』は、海沿いの田舎町に引っ越してきた主人公が高校の「ていぼう部」に入部し、先輩や同級生とともに釣りを始める物語だ。一見すると、同作は震災以後あらわになった日常の壊れやすさにも、あるいはそれが前提としている犠牲のシステムにも、とくだん注意を払っていないように見える。このアナクロニックな作品は、すでに述べたとおり、ウイルスの世界的な蔓延によって放送休止に追い込まれた。あたかもそのこと自体が、日常系アニメの抱える困難を象徴的に表しているかのようだ。

けれども、『放課後ていぼう日誌』は、時勢の変化に無自覚な旧態依然とした日常系アニメではない。それは日常の描写を通じて日常を問い直す、いわば「ポスト日常系アニメ」だ。放送された3話までの内容をつぶさに見ていくと、同作には切り離されてしまった現実とフィクションの関係が、釣りというモチーフを通じて巧妙に織り込まれていることがわかる。

もともと手芸部に入部する予定だった主人公は、魚を含め生き物全般が苦手で、釣った魚に対しても「気持ち悪い」と繰り返す。たしかに作中では、デフォルメされた平面的なキャラクターやふわふわしたぬいぐるみとは対照的に、魚は独特の光沢を放つリアルな存在として描かれている。他方で、魚に対するこの生理的な嫌悪感の表明は、言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版ラストシーンの「気持ち悪い」に通じるものだ。『放課後ていぼう日誌』の主人公にとって、魚とはそもそもコミュニケーション不可能な「異物」であり「他者」なのだ。

さしあたって同作は、主人公が釣りを通じて、このまったき他者としての魚とある種の関係性を構築する(=釣る/釣られる)物語として進行する。ただし、ここで注目したいのは、この「釣る」という行為そのものが、広く「消費者をひっかける」という意味のジャーゴンとしても機能しているということだ。この点で『放課後ていぼう日誌』は、魚だけではなく、私たち視聴者を「釣る」ことを目的とした、きわめて自己言及的な作品として理解できる。

視聴者は作品に「釣られる」存在であり、また作中のキャラクターにとっては根本的な異物でもある。したがって、この作品における魚とは、まさに私たち視聴者自身のことだ。私たちは魚として、つまりはキャラクターにとっての他者として『放課後ていぼう日誌』の世界に入り込む。実際、第1話では、釣り上げられたタコが主人公の足元にへばりつき、スカートのなかに触手を伸ばす。主人公は卒倒する。この性的なニュアンスの強い出会いの描写は、それを喜んで見るオタク、ひいては私たち視聴者一般の「気持ち悪さ」を的確に表している。

キャラクターと対等の存在としてではなく、物言わぬ魚の化身として作中に描き込まれること。もはや地続きではない、切断されてしまった現実とフィクションの関係、視聴者とキャラクターの非対称的な関係がそこには暗示されている。私たちは「俺の嫁」どころか、いまやキャラクターにとって「気持ち悪い」存在であり、拒絶の対象である。

『放課後ていぼう日誌』は、震災や疫病によってすれ違ってしまったこの両者を、再び和解させようとする試みといえるかもしれない。それは具体的には、断絶したコミュニケーションに代えて、「釣る/釣られる」という新たな関係を導入することを意味する。キャラクターは釣り、私たちは釣られる。第3話で、主人公は疑似餌を操り、あたかもそれが生きているかのように不規則に動かすことで、目当ての魚に食いつかせた。これはアニメーションそのものの隠喩ではないか。アニメもまた、静止画を連続的に表示することで運動の錯覚を生み出し、たんなる絵にすぎないものに生命を吹き込む(animate)。小魚のかたちをした疑似餌、それにまんまと釣られる私たち……。

「気持ち悪い」異物としての私たちは、釣られる存在としてようやくフィクションの世界に居場所を得る。初めて自力で大物を釣り上げた主人公は「怖かった」と涙するが、それはやがてレジャーへと変わるだろう。私たちはキャラクターとの駆け引きを通じて、キャラクターに喜びや楽しみを与え、そして最終的には釣り上げられ食べられるべき存在なのだ。主人公は釣った魚に「とどめ」を刺す。魚としてフィクションのなかに迎え入れられた私たちは、キャラクターの手で再びそこから放逐される。それは釣ったことの「責任」であるといわれる。

視聴者は作中での代理的な死をもって、キャラクターの血肉となる。作品から退場し、そのことによってキャラクターに生の喜びを与える。これは一種の代償、いや褒章ではないか。私たちがフィクションのなかに束の間受け入れられ、そして結局は排除されること、それそのものがキャラクターの糧となるのだから。そこでは死が意味づけられる。私たちのフィクショナルな死は、魚を釣り上げて喜ぶキャラクターの笑顔と引き換えなのだ。

『放課後ていぼう日誌』は、もはや現実とフィクションが地続きではない時代の、視聴者とキャラクターのありうべき関係を描いている。私たちは魚として、震災も疫病もないユートピアの海を泳ぎ回る。