てらまっとのアニメ批評ブログ

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無意識をアニメートする2:『たまこラブストーリー』と非人間への愛

〈以下のテクストは2014年11月に発行されたククラス主宰の批評同人誌『ビンダー vol.1』に寄稿したものです。〉

 

 20144月に劇場公開された『たまこラブストーリー』は、一見したところ、恋愛の痛みと喜びを真正面から描いた王道青春映画であるように思える。しかし、よくよく内容を振り返ってみると、これほどおかしな「ラブストーリー」も他にないのではないか。というのも、このアニメ作品では、あたかも言葉遊びをなぞるようにして物語が展開し、人間ではないものへの愛が人間へとスライドしていくように見えるからだ。これはいったいどういうことなのか。

たまこラブストーリー』はどこがおかしいか

 『たまこラブストーリー』(以下『たまラブ』と略称)は、20131月から3月にかけて放映された京都アニメーション制作のテレビアニメ『たまこまーけっと』(以下『たまこま』と略称)の続編である。前作に引き続き、『けいおん!』シリーズの山田尚子が監督をつとめ、吉田玲子が脚本を手がけている。

 さしあたって『たまラブ』は、とても「わかりやすい」作品であるように思われる。ストーリーはいたってシンプルで、思春期の少年が意を決して幼なじみの少女に告白し、気まずくなってギクシャクするものの、最終的には結ばれるというものだ。こうした王道展開にくわえて、この作品では、さりげない表情やちょっとした仕草、たわいない会話のなかに、それぞれのキャラクターの心の揺れ動きが丁寧に描き込まれている。そのため、同じような恋愛経験のある観客はもとより、残念ながら心当たりのない観客にとっても、ストレスなく物語に入り込めるようになっているのだ。

 しかし、こうしたわかりやすさのおかげで、かえって『たまラブ』の「おかしさ」が見えづらくなっているのではないか。いや、むしろこのおかしさを目立たなくするためにこそ、過剰なほどのわかりやすさが要求されたとさえ言えるかもしれない。では、このおかしさとはどのようなものか。

 映画冒頭から強調されているように、『たまラブ』のヒロインである北白川たまこは、かなり変わった性格付けがなされている。彼女は商店街の餅屋「たまや」の看板娘で、家業である餅作りに異常なほどの情熱を注いでおり、いつも新しい商品を考案するのに余念がない。友人の牧野かんないわく、たまこは餅以外に興味のない「変態餅娘」なのだ。

 こうした性格付けは、当然ながら、彼女を恋愛から遠ざけるように作用する。実際、たまこは面と向かって告白されるまで、幼なじみのあからさまな好意にまったく気がつかなかった。したがって、そんな彼女のラブストーリーを描くにあたっては、山田監督自身が述べている通り、「ずっと脇目も振らずお餅を大事にしていた子がどうやって(恋愛に)転ぶのか」*1ということが決定的な重要性をもつ。そして、まさにこの点にこそ、『たまラブ』のおかしさがあるのだ。

 誤解を恐れずに言えば、たまこが幼なじみの告白を受け入れたのは、彼の名前が「大路もち蔵」だったからだ。つまり、彼女の大好きな「餅(もち)」という言葉が名前に含まれていたおかげで、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことが可能になったのである。これはこじつけでも何でもなく、作中ではっきりとそう描かれている。たまこは告白された後、動揺のあまり日常会話のなかの「餅」という言葉がすべて「もち蔵」に置き換わってしまい、彼のことを一日中意識せざるをえなくなってしまうのだ。

 こうして『たまラブ』では、それまでもっぱら餅に向けられていた愛着が、「もち」という「音像」の同一性を介して、もち蔵に対する愛着へとスライドしていく。要するに、〈たまこは餅が好き=もち蔵が好き〉というわけだ。

 しかし、冷静に考えてみると、これは少々──いや、相当おかしな話ではないか。餅屋の娘が「変態餅娘」なのはまだいいとしても、その幼なじみの名前が「もち蔵」で、さらに名前をめぐる言い間違いや言葉遊びによって「(恋愛に)転ぶ」という超展開は、一般的なラブストーリーの定石を大きく踏み越えているように思われる。

 さらに『たまラブ』には、ほかにも同じような言葉遊びが隠されている。たとえば、映画冒頭では、たまこが友人たちとの会話のなかで、お尻のかたちをした「お尻餅」という新しい商品を思いつくシーンがある。そしてその後、たまこはもち蔵に告白されたショックでバランスを崩し、川に落ちて「尻もち」をつく。ここでも〈餅=もち蔵〉と同様、〈お尻餅=尻もち〉という駄洒落が成立しているわけだ。

 このように『たまラブ』では、わかりやすい物語展開や心情描写とは裏腹に、きわめておかしな作劇手法が用いられている。よくある王道青春映画かと思いきや、唐突にくだらない駄洒落がはじまり、そしてそれをなぞるようにして物語が進行していくのである。だが、そうだとすれば、なぜわざわざそんな手の込んだことをするのか。物語に言い間違いや言葉遊びを織り込むことで、いったい何を描き出そうとしているのか。

無意識をアニメートする(1)──映画けいおん!』と天使のメタファー

 作中に言葉遊びが登場するのは、『たまラブ』だけではない。というより、これまで山田尚子と吉田玲子がタッグを組んだ作品(『けいおん!』および『たまこま』シリーズ)のほとんどすべてに、同じような駄洒落が散りばめられている。したがって、このおかしな作劇手法は、たんなる思いつきではなく、何らかの意図をもって用いられていると考えるべきだろう。では、その意図とはどのようなものか。

 この問題を解くヒントを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。というのも、フロイトは『日常生活の精神病理学』(1901年)や『機知』(1905年)といった著作のなかで、数多くの具体例を引用しながら、言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのメカニズムについて論じているからだ。

 フロイトにしたがうなら、これらの現象はすべて、本来意識的であるはずの思考プロセスが「無意識」の働きにゆだねられることで生み出される。無意識の領域では、あらゆる語がその固有の「意味」から切り離され、聴覚的な「音像」へと還元されるため、あたかも言葉遊びのように、語の構造や音韻の共通性にもとづいて変形することが可能になる──たとえば、ひとつの語をいくつかに分解したり、それらの一部を別の語に遷移したり、いくつかの語をひとつに縮合したりといったように*2。抑圧された潜在的な記憶や感情は、いわば無意識の言葉遊びとなって日常生活に回帰してくるのだ。

 そうだとすれば、山田監督&吉田脚本の作品に頻出する駄洒落もまた、こうした無意識の働きと関連づけることができるのではないか。つまり、これらの作品では、目覚めた意識ではとらえられない無意識の思考プロセスをアニメートするためにこそ、言葉遊びが用いられているのではないか。具体的な事例を見てみよう。

 言葉遊びが全面的に導入されたのは、おそらく『映画けいおん!』(2012年)が最初である。この作品は人気テレビアニメ『けいおん!』シリーズの劇場版で、高校卒業を間近にひかえた軽音楽部のメンバーたちがロンドンに卒業旅行に出かけ、現地でライブを披露するというストーリーだ。

 実はこのロンドン旅行には、観光以外にもうひとつ重要なミッションが課せられている。そのミッションとは、軽音楽部ただひとりの後輩である中野梓のために曲を制作するというものだ。これはより直接的には、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーを創り出すことを意味している。なぜなら、最終的に梓のために演奏される曲「天使にふれたよ!」のなかで、彼女はタイトル通り「天使」にたとえられているからだ。

 ところが、この曲の制作プロセスが作中で明示的に説明されることは一度もない。ロンドンから帰国した後、主人公の平沢唯はあたかも「霊感」を受けたかのように、突然「天使」という歌詞を思いつくのである。だが、そうだとすれば、〈梓=天使〉というインスピレーションはいったいどこから、どのようにもたらされたのか。『映画けいおん!』では、この無意識の思考=制作プロセスを描き出すために、名前をめぐるきわめて複雑な言葉遊びが用いられている。

 まず、唯は梓のことを一貫して「あずにゃん」と呼んでおり、すでに〈梓=猫〉というメタファーが成立していることを押さえておこう。劇場版では、この愛称がロンドン行きの飛行機のなかで部分的に英訳され、「あずキャット(as-cat)[猫として]」へと変化する。続いて、ロンドン市内の観光中に、この新たな愛称がさらに変化して「(荷物などを)あずきゃっとく[預かっておく]」という駄洒落が生み出される。つまり、〈梓+猫→あずにゃん→あずキャット→あずきゃっとく〉というわけだ。

 この一連の変形によって、これまでの〈梓=猫〉というメタファーはいったん断ち切られ、梓の愛称がたんなる「音像」へと還元される。では、この〈梓猫〉がどのようにして〈梓=天使〉に置き換わるのか。

 ロンドンで演奏する機会にめぐまれた軽音楽部の一行は、最終日のライブに向けて歌詞の英訳を試みる。その際に「not so much A as BAというよりむしろB]」という受験英語の構文が参照されるのだが、唯はそこに梓の愛称を代入するのである。つまり、「あずにゃん」を「あず(as)」と「にゃん[猫]」に再び分解し、それらを「as B」の位置に遷移することで、「not so much A as にゃん[Aというよりむしろ猫]」という言葉遊びを創り出すのだ。まとめると、〈あずにゃん→あず/にゃん+not so much A as Bnot so much A as にゃん〉となるだろう。

 この言葉遊びは、一見したところ、〈梓=猫〉というこれまでのメタファーを強調しているように思える。だが、すでに〈梓猫〉である以上、ここで注目すべきなのは、「Aというよりむしろ猫」という文字通りの意味ではない。そうではなくて、「あずにゃん」という愛称の分解と遷移を通じて、いわば二重の仕方で「あず」と「にゃん[猫]」の関係が問い直されていることだ。

 まず(1)「というよりむしろ」という「否定(not)」の契機によって、「にゃん[猫]」が「A」を抑圧していることが明らかになる。次に(2)「にゃん[猫]」が「B」に代入されることで、それとは別の選択肢「B」を消去していることが明らかになる。要するに、この言葉遊びでは、「あずにゃん」が隠蔽しているものを暴露することで、〈梓=猫〉とは異なるメタファーの可能性を暗示しているのである。では、この「A」と「B」はそれぞれ何を意味するのか。

 さしあたって「A」は、「梓(Azusa)」の頭文字であると同時に、髪をツインテールにした彼女自身の姿をかたどっていると考えられる。他方で「B」は、その後のライブシーンではじめてその正体が明らかになる。舞台上で演奏する主人公の視線の先には、観客席で母親に抱かれた「赤ん坊(Baby)」と、その周囲を気ままに歩きまわる「鳥(Bird)」の姿がある。繰り返し挿入されるこの二つのモチーフは、ある明確な意図をもって描き込まれたものと見て間違いない。つまり、これらは「にゃん(猫)」に置き換えられる前の「BBabyBird)」なのである。

 このように考えたとき、ようやく〈梓=天使〉へといたる通路が切り開かれる。「not so much A as にゃん」という言葉遊びは、これまでの〈梓=猫〉よりも前に、あるいはそれとは別の可能性として〈梓(A)=赤ん坊+鳥(B)〉というメタファーがありうることを示している。そして、この〈赤ん坊+鳥〉が縮合することで、翼をもった無垢な子供、すなわち「天使」の像が生み出されるのである。こうして〈梓=赤ん坊+鳥=天使〉というメタファーが成立する。いまやこの「A」は、長いツインテールを翼のように垂らした〈梓(Azusa)=天使(Angel)〉の象形文字でもあるのだ。

 一見すると荒唐無稽な解釈に思えるかもしれないが、おそらくこれ以外に「天使にふれたよ!」の制作プロセスを説明することは困難だろう。唯が「天使」という歌詞を思いついたのは、たんなる偶然ではなく、ロンドン旅行をきっかけに〈梓=猫〉が〈梓=天使〉へと変形されたためなのだ*3。作中に織り込まれた言葉遊びは、こうした無意識の思考=制作プロセスをアニメートしていたのである。

無意識をアニメートする(2)──たまこラブストーリー』と非人間への愛

 『映画けいおん!』の複雑な言葉遊びにくらべると、『たまラブ』の駄洒落や言い間違いはひどく単純なものに思える。しかし、それによって無意識の思考プロセスをアニメートしているという点では、どちらも変わりがない。違いがあるとすれば、前者が創造的な「霊感」を扱っているのに対して、後者は抑圧された「感情」や忘却された「記憶」に焦点を当てていることだろう。

 すでに見たように、『たまラブ』では、餅に対するたまこの異常な愛着が、〈餅=もち蔵〉という駄洒落を通じて、最終的にもち蔵に対する愛着へとスライドしていく。では、これはいったいどのような無意識の働きによるものなのか。

 おそらく最もわかりやすい解釈は、もともとたまこは餅に対してだけではなく、幼なじみのもち蔵に対しても強い愛着を抱いていた、というものだ。前作の『たまこま』でそのことがはっきりと描かれなかったのは、たまこが自分自身の恋愛よりも、家族や友人、さらには商店街の人々との人間関係を優先していたからだろう。つまり、正確にはたまこの愛着が餅からもち蔵へとスライドしたのではなく、最初からもち蔵のことを好きだったからこそ、大好きな餅と言い間違えてしまったというわけだ。

 この解釈が正しければ、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びには、たまこの抑圧された恋愛感情がアニメートされていることになる。なるほど、たしかに『たまこま』では、これとよく似た言葉遊びを通じて、さまざまなキャラクターの恋愛感情が物語に織り込まれている。前作についてはすでに別の機会に詳しく論じたので*4、ここではひとつだけ例を挙げておこう。

 たまこの妹の北白川あんこは、小学校のクラスメイトである「柚季(ゆずき)」に淡い恋心を抱いている。ある日、彼が転校してしまうことを知ったあんこは、意を決して彼のもとに走り、実家の餅屋で作ったばかりの「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出す。彼女は柚季に餅の入った袋を手渡し、その中身を説明しようとするのだが、みるみるうちに顔が真っ赤になってしまう。なぜなら、餅に入っている「餡子(あんこ)」と自分の名前である「あんこ」が混ざってしまい、まるで自分自身をプレゼントしているかのように聞こえてしまうからだ。つまり、ここでも〈餅=もち蔵〉と同じように、〈餡子=あんこ〉という駄洒落を通じて、彼女のひそやかな恋愛感情が描き込まれているのである。

 だが、このように比較すると、二人の違いもまたはっきりと見えてくる。というのも、あんこの反応がきわめてわかりやすいのに対して、たまこは物語の終盤にいたるまで、もち蔵の告白に応えるかどうか決めかねているように見えるからだ。それどころか、彼女は告白された気まずさで、あれほど執着していた餅を一度は嫌いになりかけるのである。

 ここからうかがえるのは、たまこの餅に対する愛着ともち蔵に対する愛着が切り離されているのではなく、無意識のうちに結びついているということだ。そうでなければ、もち蔵に対する気まずさが餅にまで影響することなどありえない。おそらくたまこは、最初からもち蔵を好きだったのではなく、餅に対する愛着を無意識のうちにスライドさせることで、ようやく彼を好きになることができたのだろう。

 つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、あんこの場合とは異なり、たまこの恋愛感情をアニメートしていたわけではなかったのだ。そうではなくて、もち蔵に対する彼女の愛着が餅に対するものと基本的に同じであること、あるいはそこから二次的に派生してきたことを示しているのである。

 『たまラブ』の物語終盤には、そのことを裏づけるようなエピソードが挿入されている。そもそも、たまこが現在のような「変態餅娘」になったのは、幼少期に母親を失ってひどく落ち込んでいた彼女を、顔のかたちをした餅が優しく励ましてくれたからだった。もちろん、餅が言葉を話すわけはないから、実際には誰かが背後で操り人形のように餅を動かし、声を当てていたことになる。たまこはずっとこの餅の正体が自分の父親だと思い込んでいたのだが、実はそれがもち蔵だったことに気づくのだ。

 このエピソードが重要なのは、たまこが「(恋愛に)転ぶ」直接的な動機を説明しているためだけではない。むしろ、その動機が〈餅=もち蔵〉という駄洒落をそのまま反復していることが重要なのだ。しゃべる餅の正体がもち蔵だったということは、たまこにとって彼が文字通り「餅」そのものだったことを意味している。だからこそ、ちょうど言葉遊びをなぞるようにして、餅に対する愛着をもち蔵へとスライドすることが可能になったのだ。つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、たまこの忘れられた幼少期の記憶そのものであり、餅からもち蔵へとスライドする彼女の無意識の思考=愛着プロセスをアニメートしていたのである。

 このように『たまラブ』は、くだらない駄洒落や言い間違いを物語に織り込むことで、目覚めた意識ではとらえられない恋愛のダイナミズムを描き出している。恋愛に興味がないはずの「変態餅娘」は、まさに「変態餅娘」であることによって、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことができたのだ。そこには人と餅、いや物の区別はない。すべてが等しく「音像」として処理される無意識の領域では、潜在的にあらゆる事物、あらゆる出来事がさまざまな変形を施され、愛することの可能性の条件を形作るのだから。

 たまこのもち蔵への愛は、いわば非人間への愛である。だが、それはちょうど私たちの愛がそうであるのと同じように、真剣で、滑稽で、ときに泣きたくなるほど凡庸なひとつの生の全体を包み込んでいる。何であれ愛することができるということ──それは自分自身の生を肯定する無意識の身振りにほかならない。

 『たまこラブストーリー』は、餅愛づる姫君がめでたく餅と結ばれる、いわゆる「異類婚姻譚」である。私たちは何よりもそのことに慰められ、そして勇気づけられるのだ。

 

 

*1:京都アニメーションの新たな代表作「たまこラブストーリー」ロングランの秘密。山田尚子監督に聞く1 - エキサイトニュース

*2:たとえば、フロイトは『機知』のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する次のような言葉遊びを例に挙げている。「というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように[famillionär]扱ってくれたんですよ」。この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。

*3:実際、唯は「天使」という言葉を思いつくまで、「君」や「子猫」といった歌詞を検討していた。それらがしっくりこなかったのは、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーが無意識のうちに成立していたためだろう。このメタファーがようやく彼女の意識へと浮上したのは、学校の屋上から羽ばたく鳥の姿を見上げたときだった。

*4:日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ - teramat’s diary