てらまっとのアニメ批評ブログ

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戦後日本、アメリカ、自衛隊──『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』について

 先日、TVアニメ『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』(2018)全12話を通して見た。3年前のアニメ作品をいまさら見ようと思ったのは、Twitterに以下のような画像が流れてきたからだ。

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 この4月からアニメ2期『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術Ω』がスタートするのに合わせて、1期の振り返りと2期1話の冒頭を先行公開する特別番組が放送されており、そこで公開された映像の一部らしい。いたいけな美少女が邪悪な触手に襲われているとなれば、正義感の強い私としては見過ごすわけにはいかない。そこでまずは未履修の1期から見始めたのだが、これがとてもよくできていると感じられたので、原作未読ながら感想をまとめておくことにした。以下では『異世界魔王』1期のネタバレが含まれるため、未見の方は注意してほしい。

 私が『異世界魔王』に惹きつけられたのは、たんにキャラクターがかわいいとか、エロシーンがたくさんあるとかいった理由だけではない。そうではなくて、戦後の日本社会が抱える歪みのようなものを、フィクションという形式にうまく落とし込み、創作物ならではの想像的な解決を与えているように感じられたからだ。

異世界魔王』は一見すると、最近よくある異世界転生もののヴァリアントにすぎないように思える。主人公はとあるMMORPG「魔王」と恐れられるほどの凄腕プレイヤーで、ある日突然ゲームとよく似た剣と魔法のファンタジー世界へと召喚され、彼を召喚した2人の少女とともにさまざまな冒険を繰り広げることになる。転生した主人公はゲーム内での強力なステータスを引き継いでおり、タイトルどおり「異世界から来た魔王」として少女たちを従え、彼女らが抱える問題を解決していく。強力な魔術で邪悪な敵をばったばったとなぎ倒し、窮地に陥った美少女を間一髪で救い出す──男性向けフィクションにありがちな、ヒーロー願望と美少女所有願望が合わさったタイプの物語だ。

 もちろん、それだから悪いと言っているわけではない。2人の少女をはじめとするヒロインたちはみな魅力的で、嫌味のないエロシーンもふんだんに盛り込まれている。巨乳エルフ、つるペタ猫耳娘、闇堕ち敬語眼鏡、金髪褐色魔族、ツインテール幼女など、記号化された性的嗜好への配慮もぬかりない。とはいえ、それだけならわざわざこうして長文を書く必要もないだろう。画像をいくつか貼り付ければそれで事足りるからだ。

 私がこの作品に唸らされたのは、繰り返しになるが、たんにメインヒロインがかわいいからではない。それだけではなくて、彼女に課せられた運命に「戦後日本の十字架」とでも言うべきものが残響しているように感じられたからだ。

 主人公を召喚した猫耳ヒロインの家系は代々、胎内に邪悪な魔王の魂が封じられており、この魂を取り出して破壊することが彼女の悲願だった。親しい友人にも言い出せず、おのれの運命を呪い、強い孤独感と不安に苛まれていた少女に対し、主人公は自分が魔王を打倒して彼女を解放すると約束する。

 牽強付会を承知で言えば、私にはこの少女が、かつて東アジアを侵略し、いまなお自衛隊という軍事力を保有する戦後日本そのものを擬人化したキャラクターのように思えたのだ。周辺諸国が日本の再軍備を絶えず警戒するように、人々は彼女のなかの魔王の復活を恐れる。あるいは国粋主義者や右派勢力が大日本帝国の再来を夢見るように、人間と敵対する魔族は魔王の復活をもくろむ。GHQダグラス・マッカーサーは日本人について「12歳の少年のようだ」と語ったといわれるが、『異世界魔王』では少年ではなく、猫のような耳と尻尾を持った可憐な美少女の姿に仮託されている。そして、そんなヒロインを強力な魔術=軍事力で庇護する「異世界魔王」こと主人公は、さしずめ現実世界におけるアメリカといったところだろうか。

 ここで興味深いのは、猫耳ヒロインを含む2人の少女と主人公との関係が、まったく対等でも平等でもないということだ。『異世界魔王』冒頭では、召喚獣として呼び出した主人公を「隷従」させるために少女たちが魔術の儀式を行うのだが、彼が所持していたアイテムの影響で魔術が跳ね返り、逆に彼女らに「隷従の首輪」がはまってしまう。つまり、文字どおりの「所有物」になってしまうのだ。これがタイトルにある「奴隷魔術」のゆえんであり、フェミニストからはただちに「女性をモノ化している」という批判が飛んできそうだが──そしてその批判はおおむね「正しい」と思うが──、その一方で、現実における日本とアメリカの非対称的な関係を暗示しているとも読める。戦後日本がアメリカに従属するように、ヒロインは主人公に隷従するわけだ。

 ただし、この主人公がアメリカ的なものをストレートに体現しているかというと、おそらくそうではない。異世界から来た真の魔王を自称して尊大な言動を繰り返す主人公は、じつは極度の「コミュ障」で、魔王としてのロールプレイがなければ他人とまともに会話することさえできない。この屈折した内面を繰り返し描くことで初めて、私のような精神的に未成熟な男性──つまりは「12歳の少年」──でも共感したり感情移入したりすることが可能になる。この主人公は言ってみれば、アメリカそのものというよりも、アメリカ的な「家父長」として振る舞おうとする視聴者の願望の表れなのだ。そこには「自主独立=成熟」への見果てぬ夢が託されているようにも見える。

 いずれにせよ『異世界魔王』がユニークなのは、男性主人公による美少女の救済=所有という典型的な男性向けフィクションの枠組みを、戦後日本の歩みに重ね合わせている、あるいは少なくともそのように解釈できることにある。ヒロインを邪悪な魔王の魂から解放することは、再び東アジアを侵略しかねないという不信感から戦後日本を解放することに等しい。主人公が魔王を倒し、軍事的脅威を完全に取り除くことができれば、戦争放棄をうたった日本国憲法もようやく意味をなすだろう──より大きな軍事力の傘下で、という条件付きではあるが。

 ところが、物語は微妙に異なる方向へと進んでいく。主人公たちは一部の魔族の協力を得て少女の胎内から魂を取り出し、計画どおり魔王を復活させることに成功するのだが、復活した魔王は無垢な幼女の姿をしており、ほとんど邪悪さが感じられない。彼女は差し出されたクッキーのおいしさに衝撃を受け、宿主だった少女の願いに応えて人間を殺さないとあっさり約束する。結局、主人公たちは魔王の討伐を断念し、幼女の言葉を信じてともに生きることを選ぶ。ヒロイン=戦後日本というこれまでの図式に当てはめるなら、この無垢な魔王は「人を殺さない軍事力」という意味で、まさしく自衛隊に該当するように思われる。

 とくに印象的なのが、一部の人間の策略により、猫耳ヒロインと幼女姿の魔王が誘拐された際のやりとりだ。彼女は相手を殺してでも自分を助けようとする魔王を制止し、「何があっても絶対に人を傷つけない」と約束させる。ここには専守防衛を旨とし、他国への攻撃を厳に禁じる日本国憲法の精神が表れているように見える。だが、このヒロインが拷問の末に瀕死の重傷を負わされたことで、幼女は怒りに我を忘れ、人類を滅ぼす魔王として覚醒してしまう。その後の魔王と主人公との激しい戦闘は、日本とアメリカが激突した太平洋戦争の再演とでも言えるかもしれない。

 暴走した魔王は、一命を取り留めたヒロインの呼びかけによって幼女の姿に戻る。しかし、いつ何時また覚醒するかもしれないという周囲の恐れを鎮めるため、主人公は幼女の合意のもとで、2人のヒロインと同じく彼女にも「隷従の首輪」を装着する。軍事的脅威をたんに排除するのではなく、力の行使を制限する枷をはめたわけだ。かくして主人公は、美少女化された戦後日本と自衛隊をともに掌中に収めることになる。

 私は1期最終話のこの展開を目にしたとき、なんてよくできた物語だろうと感心してしまった。「奴隷魔術」というタイトル回収の鮮やかさもさることながら、それ以上に少女を所有したいという男性視聴者の「正しくない」願望が、戦後日本が抱える厄介な問題の想像的な解決と重ね合わされているからだ。

 もちろん、少女を隷従させることが現実においても許容されるわけではない。『異世界魔王』1期の結末は、あくまで創作物だからこそ成立するフィクショナルな解決策にすぎない。しかし、こうした歪んだ欲望をたんに否定したり矯正したりするのではなく、その歪みこそを利用して現実の諸問題に対するオルタナティブな解釈を与えるというスタンスは、それが意図的なものにせよそうでないにせよ、個人的にきわめて望ましいものに感じられる。まさにそれこそがフィクションの最も偉大な働きであるとすら言いたくなってしまう。

異世界魔王』は、美少女化された戦後日本を私が、私たちが救う物語だ──たとえ現実の日本はアメリカに寝取られているのだとしても。