てらまっとのアニメ批評ブログ

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映画の死体に魂を吹き込む:『映画大好きポンポさん』とネクロ゠シネフィリア

 2021年6月は、コロナ禍にともなう緊急事態宣言で公開延期されていた話題のアニメ映画が続々と封切られ、アニメファンにとってはちょっとした「まつり」になった。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『シドニアの騎士 あいつむぐほし』『映画大好きポンポさん』──いずれもたいへん見応えのある作品で、それぞれについて何か書きたい気持ちはあるものの、残念ながらわたしにはそのための時間と能力がない。いちおう、これらすべてに言及したバ美肉配信があるので、興味のある人はそちらを見てほしい。

てらまっとの怒られ☆アニメ批評 第3回:ポンポさん、ハサウェイ、シドニア、レヴュースタァライト - てらまっと (@teramat) - TwitCasting

 そういうわけで、ここではわたしがいちばん楽しめた、というか唸らされた作品について書こうと思う。それが『映画大好きポンポさん』だ。

 『ポンポさん』は杉谷庄吾人間プラモ】による同名の漫画作品を劇場アニメ化したもの。ハリウッドならぬ「ニャリウッド」を舞台に、超大物映画プロデューサーの祖父から才能を受け継いだ「ポンポさん」のもとで、いわゆる「映画狂(シネフィル)」の主人公、ジーンくんが新作映画の監督に抜擢され、さまざまな人に助けられながら一本の映画を完成させるという物語だ。「映画大好き」というタイトルからもわかるとおり、この作品は映画の制作プロセスそのものを描いた映画、つまりは映画についての映画であり、映画という娯楽・芸術形式への愛(フィリア)が全編にあふれている。

 けれども、わたしにはこの愛が、ある種の「死体愛好(ネクロフィリア)」に見えてしまった。もっと正確にいうと、自らの手で殺めてしまった最愛の人を蘇らせようとする、倒錯した愛情をそこに感じてしまったのだ。

 『ポンポさん』には、映画の素晴らしさを物語るシーンやセリフがいくつも挿入されている。たとえば新作の主演を務める伝説の俳優、マーティンの演技をじかに目にしたジーンくんは、完全に役になりきる圧倒的な演技力と存在感に衝撃を受ける。あるいは、スイスの高原での野外撮影中に偶然雨が上がり、雲間に虹がかかるシーン。ほかにもいろいろあった気がするが、これらはすべて、映画のある特別な性質を前提とし、またそれを祝福するために描き込まれている。その性質とは、いわば「世界の実在への信」を呼び起こすことだ。

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映に参加した人々は、カメラに向かって突進してくる列車の映像に驚き、逃げ惑ったといわれている。このエピソードの信憑性はいまではだいぶあやしいが、それでも現代の初期映画研究によると、当時の観客たちが風に揺れる木々の葉や水しぶき、土煙などの「自然現象」に感銘を受けていたことは間違いないらしい。彼らはそこに人間的な意味や作為を超えた、それ自体として存在する「自生的世界」*1が映し出されていると信じたのだ。さしあたってこれを、わたしは「世界の実在への信」と呼ぶことにしたい。

 この信仰は言うまでもなく、レンズの前の事象を機械的に写し取ることのできるカメラの存在に支えられている。かつての映画のイメージには、写真と同様、そこに映し出されている対象との物理的な結びつきがあった。哲学者のチャールズ・サンダース・パースのいう「指標(インデックス)性」というやつだ。映画のイメージはフィルムに焼き付けられた世界それ自体の光学的な痕跡であり、たとえば画家の意図に従って構成される一般的な絵画とは性質がまったく異なる。古き良き映画における恩寵のごとき聖なるイメージ、あるいは奇跡的な瞬間といったものがあるとすれば、それは映画監督の天才や創意工夫のおかげというよりも(もちろんそれもあるが)、むしろ「自生的世界」の出現をカメラが偶然記録していたからにほかならない──少なくとも、そのように解釈することも不可能ではなかった。

 いちおう断っておくと、これはひどく雑で、単純化されたものの見方である。実際には、もっと複雑かつ難解な議論がたくさん積み重ねられている。けれども、人間の意図とは無関係に、無意味にただ存在し続ける世界への物理的な結びつきこそが、映画を特別な娯楽・芸術形式たらしめていた──あるいはそのような信仰を可能にしていた──ことは否定できないように思う(そんな信仰なんて最初から存在しない、存在したとしても本質的ではない、という異論は当然ありうるけれど、ここでは措いておく)。

 『ポンポさん』で描かれる映画の素晴らしさも、基本的にはこの信仰の延長線上にある。マーティンの存在感は彼自身の実在と切り離すことができないし、雨上がりの虹は世界の偶然性の現れだ。けれども、こうした「世界の実在への信」は、いまやCGの普及とデジタル化によって永久にその根拠を喪失してしまった。デジタルカメラで撮影されたイメージは当然ながら指標性をもたないし、CGでモデリングされたキャラクターはそもそも世界に存在しない。だからといってわたしは、映画全体のクオリティが下がったとか、昔の映画のほうがおもしろかったと言っているわけではまったくない。そうではなく、映画の素晴らしさを世界の実在へと結びつけて語るための根拠が、とはつまり映画に対する信仰の基盤そのものが崩壊してしまったことを確認したいのだ。

 メディア研究者のレフ・マノヴィッチは、このドラスティックな変化を「映画のアニメーション化」と要約している。

ライヴ・アクションのフッテージ[=映像素材]は、いまや手によって操作される材料にすぎない──それはアニメーション化され、3DのCGシーンと合成され、塗りつぶされる。最終的な画像はさまざまな要素から手作業で構築され、しかもすべての要素はゼロから作られているか、手によって修正を加えられているのである。いまや、私たちはようやく「デジタル映画とは何か?」という問いに答えることができる。デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである。

[…]アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである。*2

 デジタル化された映画は「アニメーションの特殊なケース」、つまりはサブジャンルになった。そのイメージはもはや世界の実在とはなんの関係もなく、人間の「手」で、制作者の意図に従って自由自在に修正・加工・再現されるものにすぎない。かくして人間とは無関係に存在する「自生的世界」への信仰は決定的に崩れ、人間的な意図と作為が充満する別の世界に取って代わられる。この新たな世界では、もはや永久に失われてしまったモメント、つまりは人間の意思とは無関係に生成する「偶然」や「奇跡」の希少性が劇的に高まり、その不可能な再導入が目指されるだろう。自分自身の想定を超えるために絵コンテを放棄した庵野秀明や、日常における偶然的・無意識的な身ぶりを描き続けた京都アニメーションのように。

 『ポンポさん』もまた、こうした不可逆的な変化と無関係ではない。というより、いまや映画がアニメーションの一部になってしまったからこそ、映画についてのアニメ映画というものが成立するのであり、むしろこの変化の帰結をグロテスクなまでにさらけ出している。何度か言及しているマーティンの例でいえば、作中で彼は身体から謎の黒いオーラのようなものが立ち昇り、眼がLED電球のように光るのである。わたしはこのシーンを見たとき、あまりにもアイロニカルすぎて思わず笑ってしまった。映画の素晴らしさをあれほど説いておきながら、そこで描かれているのはきわめて漫画的・アニメ的な記号表現であって、それはまさに古き良き映画が滅びてしまったこと、そして映画がアニメーションのサブジャンルになってしまったことをはっきりと物語っている。

 そもそも俳優の存在感というものは、失われた信仰によれば、彼自身の実在と固く結びついていたはずだ。それはフィルムに物理的に焼き付けられることで、初めて保存・伝達可能なものになる。けれどもデジタル映画では、俳優の存在感なんて後からCGで簡単に修正・加工・再現される「エフェクト」のひとつにすぎない。マーティンの身体から謎のオーラが出たり眼が光ったりする『ポンポさん』も、当然そのように作られている。にもかかわらず、「世界の実在への信」がいまだ生きているかのように語られ、現代では必須ともいえるCGを用いたVFX作業のプロセスは一切描かれない。これがアイロニーでなければなんだろうか。

 『ポンポさん』の最も印象的な場面、ジーンくんが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに映像編集を行うシークエンスにも、この倒錯的な愛が色濃く表れている。剣のような大きな片刃のはさみを手にしたジーンくんが、まるで『ソード・アート・オンライン』シリーズの主人公のように、もつれた映画フィルムの束をばっさばっさと切り捨てていく。かつての映画メディウム(フィルム)をわざわざCGで再現しているのも暗示的だが、それよりも映画制作の最重要プロセスとされる映像編集をこのように、きわめて漫画的・アニメ的に表現することへの躊躇のなさ──そもそも原作は漫画だし、これはアニメ映画だから当然だけれども──に、わたしはひどく感動してしまった。

 『ポンポさん』が描いているのは、たしかに映画への愛にはちがいない。けれども、その愛すべき映画はもうとっくに死んでいて、お墓の下で安らかに眠っていたのである。『ポンポさん』の映画愛とは文字どおり、古き良き映画の死体に魂を吹き込む=アニメートすることであって、それはもはや「世界の実在への信」が決定的に壊れてしまった時代に、動く死体としての、ゾンビとしての余生=死後の生を与えることにほかならない。映画が「アニメーションの特殊なケース」になってしまった時代をこれほど鮮やかに、アイロニカルに描いてみせたアニメ作品がかつてあっただろうか。

 ところで、世界の実在から永久に切り離されたデジタル映画=アニメーションは、自らの存在意義をまったく別の場所に求めることになる。それが人間の感情や情動だ。「映画の観客は実在しないと知っているスクリーン上の怪物をなぜ怖がるのか」というパラドクスが哲学者のあいだで真剣に議論されるほどに、私たちの感情は現実とフィクションの境界をやすやすと超えていく。フィクショナル・キャラクターに対するオタクの「萌え」や「推し」はその最たる例だろう。かくして観客の情動を呼び起こし、揺り動かし、吐き出させることが映画の新たな至上命令となり、そのためにありとあらゆるCGやデジタル技術、広告宣伝戦略が動員される。詳しくは説明しないが『ポンポさん』のストーリーもまた、現代のこうした傾向を忠実になぞりながら展開していく。

 わたしは最初に『ポンポさん』を「映画についての映画」と表現した。けれども、これはあまり正確ではない。そこには死者と生者を分かつ切断線が引かれており、自己言及的・自己批評的な対称性はとっくに解体されている。繰り返しになるが、この作品は死せる映画を墓穴から蘇らせ、失われた「世界の実在への信」を人間の手で、とはつまりアニメーションによって人為的に立て直そうとする試みなのだ。感動的なストーリーの結末とはまったく別に、わたしはこのきわめてアイロニカルな、ともすれば悪意さえ感じられる挑戦に胸を打たれた。こうした非対称的で倒錯的な愛のかたち──ネクロ゠シネフィリアとでも言えるだろうか──こそが、『ポンポさん』を比類ないアニメ映画たらしめている。

 


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*1:長谷正人『映画というテクノロジー経験』、青弓社、2010年

*2:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤介訳、みすず書房、2013年、413~414頁、強調原文