てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

小林さんちのシン・ゴジラ

 今期は『けものフレンズ』がツイッターまとめサイトを大いに賑わせているが、同時期に始まった京都アニメーション製作の深夜アニメ『小林さんちのメイドラゴン』も負けず劣らずすごーいアニメだと思うので、見ていて思い浮かんだことを長々と書いてみようと思う。
 『メイドラゴン』の内容を簡単に紹介すると、一人暮らしの女性システムエンジニアのもとにメイド姿の美少女に化けたドラゴンが押しかけてきて一緒に暮らすことになる、という話で、この二人(すぐにドラゴンが何匹か増える)のぎこちない共同生活がおもしろおかしく(ときにしんみりと)描かれる。日常のさりげないしぐさや唐突な戦闘シーンのひとつひとつに、京アニが培ってきた高度なアニメーション技術がふんだんに織り込まれていて、それだけでも十分見応えがあるのだが、ここではこれ以上深入りしない(というか、勉強不足で私にはうまく言語化できない)。私がこの作品に惹かれるのは、アニメーションの快楽はもちろん、「メイドのドラゴンと一緒に暮らす」という一見トンデモに思える設定が、いろいろな示唆を与えてくれるからだ。それはたとえば、愛と死の問題である。
 『メイドラゴン』の美少女ドラゴンたちは、いわゆる「他者」を日本のアニメ/マンガ/ライトノベルの文法で造形したものということができる。これは『メイドラゴン』を一話でも見ればすぐにわかることなので、ここではいちいち作中の例を挙げたりはしない。とにかく、このドラゴンたちは、私たちのごく身近にいる他者、なかでも「外国人」とかなり似通ったメンタリティをもっている。ちがいがあるとすれば、外国人が「日本人」との文化的な差異につまづくのに対して、ドラゴンは「人類」との差異につまづく(そしてすぐ滅ぼそうとする)ということくらいだろう。ED曲の「イシュカン[異種間/一週間]・コミュニケーション」というタイトルが、そこらの私大の学部名になっていたりもする「異文化(間)コミュニケーション」をもじったものであることは明らかだ。
 とはいえ、これだけなら、別に『メイドラゴン』にかぎった話ではない。今期の深夜アニメを見ても、人間と擬人化された動物の友愛を扱った『けものフレンズ』はもちろん、障害者をバンパイアや雪女といった「亜人」として描いた『亜人ちゃんは語りたい』など、同じような主題をもった作品はいくつもある。排外主義的なデモやヘイトスピーチが蔓延する昨今の世界情勢を考えれば、「異種間コミュニケーション」の大切さを描いたアニメが放映されるのは良いことだと思うが、ここではそういう話もしない。いずれにせよ『メイドラゴン』には、これらのアニメ作品のどれともちがう重要な特徴がひとつある。それは、ただの動物でも亜人でもなく「ドラゴン」であるということだ。
 あまりに自明すぎるのでドラゴンの説明も割愛するが、一般的にいって、ドラゴンは人間よりもずっと強く、長生きで、恐ろしい存在だ。彼女たちは作中でもその片鱗を何度か見せており、また人類を「劣等種」と呼んで露骨に下に見てもいる(にもかかわらず、人間のメイドとして奉仕するという逆転現象に『メイドラゴン』の出オチ的なおもしろさがあるわけだが)。つまり、美少女メイドに変身したドラゴンと一緒に暮らすということは、人間よりも圧倒的に強大で、制御不可能な存在と同居することを意味している。これを現実社会の言葉でいいかえるなら、一番しっくりくるのは「災害」だろう。ドラゴンは身近な「他者」であると同時に、地震津波原発事故といった、私たちの日常生活を根底から覆しかねない「災害」でもある。これが、『メイドラゴン』を他のリベラルアニメから区別している最大の要因だ。
 もちろん、ほとんどの視聴者にとっては、そんなことは言われなくてもわかっているにちがいない。たしかに、この美少女メイドの正体はドラゴンであり、ちょっとした災害クラスの危険性をもっており、しかも隙あらば自分の尻尾を食べさせようとしてくる。しかしそんなことよりも、いまはトールのいじらしさや、ルコアさんの胸囲や、カンナちゃんの太ももについて語るべきではないか。長文を書いている暇があったら気のきいたツイートをRTして、ファンアートを投稿して、新たな視聴者の獲得とコミュニティの拡充を図る、これが良いアニメオタクというものではないか。
 私はこの意見に完全にアグリーである。というか、そもそも私は「あの美少女メイドの正体は危険なドラゴンなんだぞ、目を覚ませ」と言いたいわけではない。どんなに新興宗教の信者のメンタリティに似ていても、そういう人たちのささやかな幸福を否定するつもりはないし、何よりそれは私自身の幸福でもある。けれどもその一方で、主人公と同居している美少女がドラゴンであることは本質的な問題ではない(ちょうど、目の前のディスプレイ上の美少女がたんなる「絵」にすぎないことが問題ではないように)という、私を含め多くのアニメオタクに見られる(もはやネタなのかベタなのかわからない)姿勢が、人間の生にとってどういう意味をもちうるのか、そのことにもカンナちゃんの太ももと同じくらい関心がある。そして『メイドラゴン』もまた(京アニ作品はだいたいいつもそうだが)、私たちがまさにそのように見ることができるということに、ささやかな希望を託しているように思える。
 問題設定が少し抽象的すぎるかもしれない。話をわかりやすくするために、ここで、もうひとつのドラゴン(龍)の物語を迂回することにしたい。その物語というのは、昨年公開された映画『シン・ゴジラ』のことだ。この作品に登場する龍、つまりゴジラは、これまでさんざん語られてきたように、空襲であり、原爆であり、核実験であり、震災であり、原発事故であり、要するに過去にこの日本列島上で生じた、そして未来に再び生じるであろう「災害」そのものだ。ごく単純化していえば『シン・ゴジラ』は、そのような未曾有の危機に際して、政府や自治体、自衛隊、都市インフラといった日本の社会システムがいかに対処するのか、そのプロセスを克明にシミュレートした作品だった。したがって『シン・ゴジラ』と『メイドラゴン』は、ともに災害を擬人化、あるいは擬「龍」化した作品ということができる。そして、この二つの作品を比較することで、先ほどのあいまいな問題がだいぶクリアに見えてくる、ような気がする。
 『シン・ゴジラ』で東京周辺を荒らし回ったゴジラは、最終的に人間の知恵と策略に屈し、活動停止に追い込まれる。映画ではそれ以上描かれていないが、おそらくこの先、人々は動かなくなった(そしてまたいつか動き出すかもしれない)ゴジラと共存していくのだろう。災害の擬龍化という観点からすると、それはそれでよく考えられたオチではある。けれども、ここで注目したいのは、それよりもう一段階上のファンタジー要素、つまりはゴジラの尻尾から人型の生命体(巨神兵?)が誕生しかけていた、というラストカットのほうだ。これは公開当初、ファンのあいだで大変な議論を呼んだが、あれから半年以上が過ぎたいまなら、この描写を全然ちがう仕方で、明後日の方向へと解釈することができるのでないか。『シン・ゴジラ』の結末は、龍から人への変身の可能性を示唆している。そして私は、これとほとんど同じ設定の深夜アニメをよく知っている。『シン・ゴジラ』は事実上『メイドラゴン』である。もっと正確にいえば、『シン・ゴジラ』の続編にしてスピンオフが『メイドラゴン』なのだ。
 もちろん、これは半ばジョークとして受け取ってもらいたいのだけれど、もう半分は、それなりに真剣な問題提起でもある。『メイドラゴン』が実際に『シン・ゴジラ』の続編である可能性は万に一つもないだろうが、『メイドラゴン』を『シンゴジラ』の続編として「考える(妄想する)」ことはできる。そしてこのことは、災害をめぐる二つの擬◯化、つまり擬龍化と擬人化のちがいとして、さらには愛することの可能性をめぐる問題としてとらえ直すことができるように思う。
 『メイドラゴン』を『シン・ゴジラ』の続編として見たとき、そこでまず目につくのは、龍を手なづける方法のちがいだろう。日本の社会システム総動員で封じ込められたゴジラは、ひょんなことから酔っ払った女性SEに助けられ、美少女メイドとして彼女の自宅に押しかけてくる。つまり『メイドラゴン』では、いわば「(性)愛」による龍の籠絡が描かれているわけだが(作中では「チョロいドラゴン=チョロゴン」という)、これはまさに『シン・ゴジラ』からほとんど排除されていた問題系だ。『シン・ゴジラ』には龍と人のあいだの性愛の可能性がない。もちろん、アメリカにはドラゴンカーセックスというドラゴンと自動車の性行為に興奮する嗜好があり、また日本にも会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》というエロティックな絵画作品があるが、これらはあまり一般化できないように思う。愛の可能性を開くための最も手っ取り早い方法は、その対象をイヌやネコのような愛玩動物として造形するか(『シンゴジラ』の場合、これはいわゆる「蒲田くん」人気に見られる)、もしくは性的に魅力的な人物として描写するかのどちらかだろう(前者との相乗効果を狙うために、たいてい幼女か少女か童顔になる)。『メイドラゴン』が選択したのは後者であり、それによって(私の妄想では)『シン・ゴジラ』を引き継ぎつつ乗り越えようとしている、というわけだ。
 それにしても、擬人化とは何なのか。日本のアニメやマンガ、ライトノベルでは当たり前のように行われているので気がつかないが、世界的に見たとき、ここでいう擬人化の手法、つまり「擬少女化」ともいうべき表現手法は、あまり普遍的な慣習とは思えない。ディズニーのアニメ映画に登場する喋る動物たちは、たしかにひとつの擬人化ではあるが、彼らはあくまで「二足歩行して言葉を話す動物」であり、視聴者の(性)愛の対象となるような擬少女化とは大きく異なる。これはミッキーやドナルドダックと『けものフレンズ』の◯◯フレンズたちを比較すれば一目瞭然だ。ディズニーのアニメ映画は、あくまで「人間ではないものが人間として振る舞う」ことに力点が置かれており、それによって視聴者の(愛ではなく)反省を誘発しようとしているように見える。だからこそディズニーは、たとえば『ズートピア』がそうであるように、動物たちに仮託して「政治的に正しい」魅力的な作品を作り上げることができる。これはどちらかというと、風刺画の文法だ。
 他方で、日本の擬少女化にはふつう「反省」や「風刺」といった契機は含まれていない。繰り返しになるが、そこで求められているのはあくまで「(性)愛」であり、逆に最も愛することから遠い存在にこそ力を発揮する。たとえば、今期の深夜アニメ『幼女戦記』の主人公である金髪碧眼の幼女は、性格の捻くれたサラリーマンのおっさんを擬少女化したものだし、dアニメストアで放映されている(らしい)『怪獣娘ウルトラ怪獣擬人化計画』というアニメは、文字通り『ウルトラマン』シリーズに登場する怪獣たちを擬少女化したものだ。戦時中の艦艇を擬少女化したソーシャルゲーム艦隊これくしょん―艦これ―』のヒットも記憶に新しい。こういう「擬少女化」の直接的な起源のひとつは、たぶん手塚治虫だろう。あまりちゃんと読んでいないのでいまいち具体的な作品名を思い出せないが、最近『新潮』で公開された手塚のエロティックな遺稿は(これも一瞬立ち読みしただけだけれど)、擬少女化の歴史的な成り立ちを伝えている。そこには「グラマラスなネズミが体をくねらす絵や、裸の女性がコイや白馬に変身する絵」などが含まれていた。
 いずれにせよ、この擬少女化という手法には、ディズニー的なものとは別の理想、別のユートピアの可能性が宿っている。それは動物を通じて人間に反省を強いるのではなく、人間と動物、人間と無機物、人間と非人間のあいだに性愛関係を結ぶ、いわば形而上的で神話的な乱婚制を含意している。『メイドラゴン』でたびたび描かれる政治的にリベラルな関係性は、その副産物にすぎない。
 そしてこのユートピアは、ここからはより重度の妄想だが、現実においては破滅的な出来事として、つまりは「災害」として出来するのではないか。そこでは擬少女化のプロセスが裏返り、人間ではないものを人間化する方向ではなく、人間をただの物質へと還元する(それによって分解と合体が可能になる)方向へと推移する。見渡すかぎりの焼け野原や瓦礫の山は、人間にとっては悲劇以外の何ものでもないが、非人間にとってはまちがいなくひとつのユートピアだろう。長崎の原爆資料館には、原爆による高熱と爆風で、ガラスや金属などの物質と一体化した人体の一部が展示されている。
 ドラゴンが美少女メイドに変身し、人間と仲良く暮らすという荒唐無稽な物語は、定期的に発生する巨大災害という過酷な現実の「陰画(ネガ)」としてある。ドラゴンが美少女であることに疑問を抱かず、美少女が絵にすぎないことを意に介さない視聴者は、この愛と死の敷居の上に立っている。現実におけるむごたらしい死が、フィクションにおける神話的な愛の可能性を準備する。『メイドラゴン』のユートピアは、『シン・ゴジラ』のシミュレーションが終わる、まさにその場所から始まるのだ。