無意識をアニメートする:『リズと青い鳥』と微小なものの超越性

 2018年4月に公開された京都アニメーション制作の映画『リズと青い鳥』は、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子のコンビが手がけた、4作目となる劇場用アニメ作品である。同作はテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズ(2015〜2016年)のスピンオフだが、登場人物の瞳の大きさや等身のバランス、輪郭線の太さといったキャラクターデザインが一新され、作画・物語とも本編とは一線を画した、独自色の強い作品に仕上がっている。一言でいえば、これ以前の劇場用アニメ3作品(『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』『映画 聲の形』)にも見られたような、山田監督らしさが色濃く表れているということだ。
 もちろん、集団制作でつくられるアニメ作品を、監督の「作家性」という切り口で語ることには慎重でなければならない。実写の映画撮影と同様、あるいはそれ以上に、アニメ制作は数多くのスタッフによる複雑な分業体制に支えられており、そのなかから監督の「個性」や「独創性」を取り出すのは、きわめてむずかしい。けれども、同じ監督の複数の作品を並べてみると、そこには共通のモチーフが見出せるだけでなく、ときにはほぼすべての作品に通底する「手法」が見えてくることもある。ここでいう山田監督らしさとは、あくまでそうした具体的な方法論のことだ。
 『映画けいおん』から『リズと青い鳥』にいたるまで、山田/吉田コンビの劇場用アニメ作品には、ある特徴的な手法が用いられている。それが、無意識をアニメートするという手法である。
 「無意識」という言葉で多くのひとが思い浮かべるのは、フロイトユングラカンといった著名な精神分析家の名前だろう。フロイトは人間の心のなかに、通常は意識されることのない心理的なプロセスやメカニズム、つまり無意識の働きが存在すると考え、精神分析を創始した。最初期の手描きアニメーション作品『哀れなピエロ』(1892年)が制作され、またリュミエールによる世界初の映画上映(1895年)が行われたのも、ちょうど同じ時期にあたる。もちろん、フロイト自身は、無意識とアニメーションとの関係については何も語っていない。フロイトラカンの理論は、1960〜70年代のフランスで発展した映画理論、いわゆる「装置論」に多大な影響を及ぼしたが、現代の日本アニメとの接点はほとんどない。
 にもかかわらず、山田監督の手がけたアニメ作品には、無意識についての深い洞察が見てとれる。これは、たんなる監督の気まぐれや思いつきなどではない。そもそもアニメーションとは無意識を描き出すものであり、そしてそれこそが、アニメーションの成立条件のひとつでもあるからだ。山田監督は、現在では忘れられがちなこの事実を、作画と物語の両面から、おそらく意識的にとらえ返そうとしている。
 たとえば『リズと青い鳥』では、主人公のひとりである鎧塚みぞれの、ある特徴的なしぐさが繰り返し描かれる。みぞれが言葉につまったとき、無意識のうちに自分の横髪をなでおろす「癖」だ。あるいは、登校する少女たちの足どりをとらえた、冒頭のリズミカルな歩行シーン。山田監督は『映画けいおん』から一貫して、歩く、または走る少女たちの足の動きをクローズアップで描いているが、同様の演出は『リズと青い鳥』でも多用されている。
 これらの何気ない身体動作のアニメーションに、すでに「無意識をアニメートする」という山田監督の基本的な姿勢が表れている。それはつまり、普段なら意識することのない日常的な行為の「細部」に観客の注意を向けさせることであり、同時にそこから「意味」を読みとらせることである。
 映画研究者の長谷正人は、リュミエールにはじまる初期映画との比較を通じて、アニメーションにおける「細部」の重要性を論じている。長谷のいう「細部」とは、リュミエール映画に見られるような「カメラに偶然写ってしまった背景の自然現象や群衆一人一人の偶然的な振る舞い」(長谷:85頁)を指す。それはたとえば、画面を吹き抜ける「風」や舞い上がる「土煙」、ほとばしる「水しぶき」といったものだ。映画誕生から間もない時代の観客たちは、いまではほとんどかえりみられることのない、これらの映像に拍手喝采していたという。
 しかし、長谷がいうように、アニメーションには原理上、こうした偶然的な「細部」が入り込む余地はない。というのも「アニメーション映画は、どんな微細な「細部」も、製作者が自身の意図によって描き込まなければ成立しえない」(同頁)からである。彼は宮崎駿監督のアニメ映画を取り上げながら、そこで描かれる風やチョウが、「すべて偶然を装っているだけで、本当は宮崎監督による厳密な演出の下に動かされている」(同頁)ことを指摘する。つまり、カメラに偶然写りこんでしまうような「細部」を、アニメーションとして意識的に描きこむことで成立しているのだ[図1]。

 長谷はその具体的な例として、『となりのトトロ』(1988年)で主人公のサツキが妹のメイを背負うシーンを挙げる。それによると「サツキは一度おぶったところで動作を止めて一呼吸おいたあと、もう一度メイを腰を使ってずり上げてみせる」(86頁)のだが、観客がこのなんでもないシーンに心揺さぶられるのは、背負い直すという「二重の動作」を通じて、私たちの「身体的無意識」のなかに眠っている「背負う」という動作が呼び起こされるためだという。要するに宮粼監督は、日常的な行為の「細部」を描くことで、観客の身体感覚に直接訴えかけるのである。
 さらに注目すべきなのは、ここで長谷が「身体的無意識」といういい方をしていることだ。聞き慣れない言葉だが、これはもっぱら人間の心について用いられる「無意識」の概念を、身体の動きにまで拡張したものだと考えることができる。念頭に置かれているのは、おそらく、精神分析を援用しつつ独創的な映画論を展開したドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンだろう。
 ベンヤミンは映画のカメラを、ちょうどフロイト精神分析に対応する視覚装置として理解していた。カメラは、視界には入っていても通常はそれとして意識されないもの、つまり「視覚的無意識」を記録し、可視化することができる。彼が具体例として挙げるのは、たとえば人間の歩き方や、ライターやスプーンのつかみ方といった、ごく日常的な身体動作である。ベンヤミンが指摘するように、人間の歩き方を大ざっぱに説明することは誰にでもできるが、足を一歩踏みだす瞬間の、コンマ1秒単位の姿勢について説明できるひとはほとんどいない。ライターやスプーンをつかむときの、手と金属のあいだの微妙な位置関係の変化についても同様である。
 これに対して映画のカメラは、たとえばクローズアップやスローモーションといった手法を用いることで、こうした「細部」を人間の目に見えるものに変えることができる。それは、これまで誰も目にしたことのなかった「無意識が織りこまれた空間」である。

クローズアップというのは、〈これまでも〉不明確になら見えていたものを、たんに明確にすることではなく、むしろ物質のまったく新しい構造組成を目に見えるようにすることである。同様にスローモーションは、たんに運動の既知の諸要素を目に見えるようにするだけでなく、この既知の諸要素のなかに、まったく未知の要素を発見する。[……]したがって、カメラに語りかける自然が、肉眼に語りかける自然と異なることは明白である。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。[……]視覚的無意識は、カメラによってはじめて私たちに知られる。それは欲動的無意識が、精神分析によってはじめて私たちに知られるのと同様である。(ベンヤミン:619−620頁、一部訳変更)

 映画のカメラは、ちょうど精神分析が「欲動的無意識」を開示するように、通常の視覚ではとらえられない「視覚的無意識」を開示する。長谷のいう「身体的無意識」とは、いってみれば、この「視覚的無意識」として発見された微小な身体動作のことだ。
 人間がなにかを「背負う」際にほとんど反射的に行っている「腰を使ってずり上げ」る動きは、カメラのような視覚装置の助けを借りることで、はじめて記録・再現することが可能になる。だからこそ、それはアニメーションとして再現されたとき、ありふれた行為でありながら「観客にはその意味を即座には解読できないような不透明な表情」(長谷:86頁)を帯び、作品の主題や物語の内容、あるいはキャラクターの意図へと還元できない独自の魅力を放ちはじめる。つまり「宮崎映画にあっては、[……]人間の基本的な動作を描いただけの無数の「細部」のリアリティが、作品の「主題」や「メッセージ」以上に、私たちの身体的感性を揺さぶる」(同頁)のだ。
 もちろん、こうした「視覚的/身体的無意識」の描写は、宮崎監督のアニメ作品にのみ見られるわけではない。それどころか、先に述べたとおり、それはアニメーションの成立条件のひとつですらある。実際、たとえば「歩く」という最も基本的な動作ひとつとっても、キャラクターが自然に歩いているように見えるためには、かかとの位置や膝の角度、肩や頭の高さなど、さまざまな「細部」の観察と再現が求められる[図2]。予算や人手、スケジュールの都合でしばしば簡略化されることは事実だが、「細部」の描写は原理的に、あらゆるアニメ作品に見出すことができるはずだ。

 『リズと青い鳥』にもまた、宮崎監督の作品と同様、いやそれ以上に、日常生活の細やかな表情が執拗なまでに描きこまれている。すでに紹介したみぞれの癖や冒頭の歩行シーンのほか、波打つようにかたちを変える制服のひだ、毛先の一本一本まで揺れ動くかのような髪の毛、眼球の曲面を接写する横顔のクローズアップなど、数え上げればきりがない。「無意識をアニメートする」とは、さしあたり、これらの「細部」をアニメーションによって表現することにほかならない。
 とはいえ、山田監督が試みているのは、たんに細かくアニメーションさせることではない。ここで重要なのは、無意識的な「細部」の描写それ自体というよりも、むしろ、それによってもたらされる物語上の効果のほうだ。
 長谷は、宮崎監督のアニメ作品に見られる卓越したアニメーション表現を評価しつつも、そうした「細部」にばかり注目する、いわゆる「オタク」たちの鑑賞態度に疑問を投げかけている。彼によれば、すでに挙げたような「視覚的/身体的無意識」の表現は、「映画の中心的主題の展開にとってはどうでもいい「細部」でありながら、それだけ抜き出しても十分に楽しめるだけの魅力を備えている」(88頁)。そのため、かえって作品の「主題」や「物語」への理解がおろそかになってしまうのだという。ひとつの作品を繰り返し見るオタクは、「無数の「細部」を主題的展開からは独立させてイメージとして楽しむ欲望」(同頁)にとらわれており、実際に『千と千尋の神隠し』(2001年)などは、作品自体がそうした欲望に寄り添うものとなっている。これらは「さまざまな「細部」を中心的な「主題」へとまとめあげていく作品というよりも、「主題」からは切り離されたばらばらの「細部」の魅惑が羅列しているようにしか見えない」(88−89頁)。
 たしかに、代表作である『風の谷のナウシカ』(1984年)をはじめ、宮崎監督のアニメ作品では、人間と自然、文明などをめぐるスケールの大きな主題がしばしば描かれる。こうした神話的主題と比較すると、妹を背負い直すだけの1秒にも満たないアニメーションは、いかにもちっぽけでマニアックだ。後者に魅了されるあまり、前者への注目がなおざりになるとすれば、あまり適切な鑑賞態度とはいえないだろう。ここでは「細部」と「主題」、あるいは「物語」が、あくまでも対立するものとしてとらえられている。
 しかしながら、『リズと青い鳥』をはじめとする山田監督の作品には、こうした対立構造そのものが存在しない。そこでは「細部」と「主題」がせめぎ合うのではなく、前者の読解(正確には読解不可能性)を通じてはじめて後者への理解が開けるというような、根本的に異なる物語システムが作動している。山田監督は、物事の「細部」に表れるさまざまな「視覚的/身体的無意識」を、しばしば物語の重要な構成要素として用いるのである。
 『リズと青い鳥』で主題的に描かれるのは、主人公である鎧塚みぞれと、もうひとりの主人公・傘木希美の微妙な関係性の変化だ。その過程で彼女らは、自分が相手のことをうまく理解できていないだけではなく、自分自身のことも理解できていないということに気づく。作中に挿入される過剰なまでの「細部」の描写は、観客に対し、この二重の無理解、自己と他者の理解できなさを意味する暗号として現れる。つまり、山田監督は、少女たちの「観客には[そして彼女ら自身にも]その意味を即座には解読できないような不透明な表情」を表現するために、あえて大量の「視覚的/身体的無意識」を描きこんでいるのだ。
 したがって、少なくとも『リズと青い鳥』においては、観客の「細部」へのこだわりが、作品の「主題」や「物語」の理解を阻むことはない。むしろ事態は逆である。通常の意識ではとらえられず、「主題」や「物語」にとってはノイズでしかない「視覚的/身体的無意識」が、その不可解さゆえに、人間関係の見通せなさを暗示する。観客は「細部」に目を奪われることで、はじめて「主題」へとアクセスすることが可能になる。山田監督の作品においては、キャラクターの意識的な決断や意図的な行為ではなく、無意識のかすかなしぐさこそが物語を紡いでいく。
 アフォーダンス理論の紹介者として知られる佐々木正人は、人間の日常的な行為のなかに、「マイクロスリップ」と呼ばれる微小な身体動作が見られることを指摘している。佐々木が例に挙げるのは、テーブルの上のカップをつかもうとするときの手の動きである。ベンヤミンは「視覚的無意識」の説明に際し、ライターやスプーンをつかむときの動きについて「手と金属のあいだで本当は何が起こっているのか、ましてやそれが私たちの精神状態・肉体状態によってどう変化するのかについては、私たちはほとんど知らない」(ベンヤミン:620頁)と語っていたが、佐々木のいうマイクロスリップは、まさにこの秘密を解き明かすものだ。そこで観察される4種類の動作について、彼は次のように解説している。

一つは、手がカップをつかむように伸ばされる時に、動きはじめや、カップのすぐそばで、手がわずかにその動きの速度を遅くする、あるいは一瞬止まる、微小な「躊躇」。第二は、ある物に向かっているように見えた手が、とちゅうで動きの軌道を急にスッと変えて、他の物に向かう、微小な「軌道の変化」。第三が、遠くのカップに手を伸ばす前に、それよりも近くのカップにわずかに触れてしまう「無意味な接触」。[……]第四が、物に向かう手が、直前でその形状を変化させる微小で急速な「手の形の変化」。これはたとえば手がカップを手のヒラ全体でかこみ持つように広く開いて差し出されたのに、カップの直前で手の形が、カップの横の把手をつまむ大きさにスッと変わるような動きである。(佐々木:204−205頁)

 テーブルの上のカップをつかむとき、人間はもっとも短い距離で、もっとも効率のよい仕方で手を動かすわけではない。そこには、少なくとも「躊躇」「軌道の変化」「無意味な接触」「手の形の変化」という、4種類のマイクロスリップが介在する。佐々木によるこれらの描写は、先の引用箇所でベンヤミンが述べていた「無意識が織りこまれた空間」そのものだといっていい。長谷が注目した「背負い直す」アニメーションも、無意識の微小な身体動作という意味では、カップをつかむときの手の動きとほとんど同じものだといえる。「無意識をアニメートする」とは、つまるところ「マイクロスリップをアニメートする」ことでもあるのだ。
 実際、劇作家の平田オリザは、俳優の自然な演技を実現するために、これらの動きを意識的に演出に取り入れている。平田は「認知心理学の学者と15年くらい共同研究を行ってきて、俳優の演技の巧拙は、このマイクロスリップに左右されるんじゃないかという結論に達し」(平田:4頁)たという。また彼は、ロボットの振る舞いを人間に近づけるための工夫に際しても、やはりマイクロスリップに見られるようなランダムな動きを組み込んでいる。
 この点で山田監督の方法論は、平田が演劇において行っているマイクロスリップの導入を、アニメーションの領域で実現しようとする試みだといえるかもしれない。だが、それはたんに動きの「自然さ」や「人間らしさ」を追求するためだけではない。
 佐々木は、手の動きに見られるマイクロスリップを、発話における「言いよどみ」にたとえている。「どの自然な発話もかならず「言いよどみ」、「エー」とか「アー」などという喉の音をともなうわずかな停滞や、言いかけ、言い直し、などに満ちている」(佐々木:205頁)。発話とは、発話者の「意図」や「意思」のようなものがまっすぐに表れ出る「一つの流れ」などではない。そうではなくて、それは躊躇したり軌道を変化させたりする手の動きと同様、言いかけや言い直しなどをともないながら、「出かかっては消えていく多数の音のせめぎあう場」(同頁)として現れる。すでにフロイトは、さまざまな精神疾患とならんで、言い間違いや聞き間違い、言葉遊びといった日常の偶発的な出来事を、無意識の表れとして分析していた。
 山田監督の作品は、行為や発話におけるマイクロスリップを物語の動力源にしている。それはいってみれば、人間の通常の意識や行為とは異なる回路で紡ぎ出される、無意識の物語だ。『リズと青い鳥』における過剰な「細部」が、自己認識や他者理解の難しさを映し出していたように、『映画けいおん!』や『たまこラブストーリー』では、「not so much A as にゃん=あずにゃん」や「お尻[のかたちの]餅=しりもち[をつく]」といった駄洒落めいた連想や言葉遊びによって、創造性や情愛などの中心的な主題が展開され、また暗示されてきた。聾唖の少女と手話によるコミュニケーションが主題となる『映画 聲の形』にいたっては、ほぼ全編が無意識の「細部」に彩られているといっても過言ではない。
 山田監督の出世作であるテレビアニメ『けいおん!』シリーズは、かつて「日常系」の代表作といわれた。「無意識をアニメートする」という彼女の手法は、物語がないと揶揄され、奇跡が描けないと批判されてきた日常系アニメを通じて編み出されてきた。それは、日常の「細部」に宿る「視覚的/身体的無意識」のせめぎ合いのなかから、微小な泡のように浮かび上がる物語の切片を拾い集め、ひとつの作品へと縫い上げる作業である。少女たちのかすかなしぐさのアニメーションに、わずかな声のイントネーションに、この日常を超えていく小さな奇跡、小さな超越性が孕まれている。国家や歴史といった大きな物語へと現実が再び呑み込まれつつあるいま、そこに秘められているポテンシャルは想像以上に深く、実り豊かなものだと私は思う。


参考文献
佐々木正人アフォーダンス入門』、講談社学術文庫、2008年
長谷正人『映画というテクノロジー』、青弓社、2010年
ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年
「【平田オリザ氏×武田隆氏対談】(前編)決して同じ気持ちになれなくても、つながることはできるんです。」http://diamond.jp/articles/-/28364?
図1:京アニ出版部『京都アニメーション版 作画の手引き』、株式会社京都アニメーション、2005年、61頁
図2:同前、56頁