多層化するスーパーフラット(5.0):起源の暴力を乗り越える

 村上がスーパーフラットを発表した当時、批評家の椹木野衣は、スーパーフラットという概念それ自体というよりも、展示された作品から受ける触覚的印象と、あらゆる文化現象を等価なものとして扱うパフォーマティブな側面に注目し、それを戦後の日本社会と重ね合わせている。

 椹木によれば、画一的で均質な戦後民主主義社会としての平成日本は、文字通りの意味で「スーパーフラット社会」である。「そこでは、ハイアートとサブカルチャーとの力関係はもちろん、漫画からファッション、写真からフィギュア、グラフィック・デザインから現代美術に至るまで、すべてのジャンルは横並びに等価であり、そこに価値の優劣は存在しない」*1。文化的な「深さ」や「厚み」を欠き、「ピカピカ/ツルツル」な表面へと還元されるスーパーフラットな作品群には、無個性で交換可能で薄っぺらな人間や風景が増殖する、戦後日本の現状が透けて見える。

 けれども、椹木の考えでは、このスーパーフラットな平成日本の起源には、第二次世界大戦という巨大な暴力が潜んでいるという。一見するとピカピカ/ツルツルな表面には、かつての戦争による「回復不可能な無数のヒビや亀裂」*2が刻み込まれている。村上のいうスーパーフラットは、この暴力的な起源を忘却し、あるいは隠蔽することで初めて成立する。「スーパーフラットを生み出したのは日本社会の固有性であるというよりも、アメリカが日本に対して打ち振るった暴力と占領こそが、それを生み出した」*3。にもかかわらず、ロサンゼルスでの「Superflat」展では、太平洋戦争における「アメリカの暴力」の痕跡が消去され、だからこそ同地で広く受け入れられた――このように椹木は説明する。

 欺瞞に満ちた平和や戦後民主主義に安住することなく、スーパーフラットの均質な表面にひそかに刻み込まれた暴力の痕跡をたどること。またそれを通じて「よりリアルな「いま」の社会変革へ向けての想像力」*4を養うこと。これが椹木のいうポスト・スーパーフラットの地平である。

 椹木の議論は、スーパーフラットの盲点を言語化するという点で、きわめてクリティカルな意味を持つ。けれども、その政治的・社会的なスーパーフラット解釈からは、村上があれほど執拗に若冲蕭白といった絵師による画面構成を分析し、言語化しようとしたモチベーションへの目配りが欠けている。画面のダイナミックな構図、それらを走査するジグザグの視線運動、そしてレイヤーを結合する際の身体的な感覚……こうしたスーパーフラットの鍵となる概念をほとんど顧みることなく、もっぱらそのパフォーマティブな側面に注目し、起源の暴力の隠蔽という観点からのみ評価する。スーパーフラットとして提示される作品や運動、文化現象は、椹木にとってあくまで、外部から批判され転覆されるべきネガティブな意味合いしか持っていない。椹木のポスト・スーパーフラットは、良くも悪くも、アンチ・スーパーフラットなのだ。

 これに対し、私たちはスーパーフラットに内在的な価値を認めている。ピカピカ/ツルツルな表面が生成する、その具体的なメカニズムとしての「レイヤーの結合」とその感覚。繰り返し述べているように、「マルチレイヤード」という聞き慣れない単語は、走査的な超平面をつくり出すために村上が抑圧した、複数的なレイヤーの解放という契機を持っていた。だが、それだけではない。分解されたレイヤーは、椹木が指摘したような、スーパーフラットの忘却された起源をも赤裸々に映し出す。スーパーフラットが語ろうとしない起源にある暴力を、マルチレイヤードはその多層性ゆえに内部から相対化し、乗り越えることができる。

 具体的な作品を通じて見ていこう。ここで取り上げるのは、谷口真人による一連の作品だ。よく似た二つのキャラクターの図像が重なっているように見える。近づいて見ると、手前の図像は透明なアクリル板の上に絵の具で描かれており、奥の図像はそれが鏡に反射したものであることがわかる。つまり、これらの作品は、アクリル板と鏡という二枚のレイヤーからなる多層的な構造を持っており、さらにそれらのレイヤー同士の関係性(アクリル板による透過と鏡による反射)を主題としているのだ。ここでもやはり、手前と奥という二つの平面への距離が発生することで、視点の切り替えという脱遠近法的な視覚体験が誘発される。

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谷口真人 グーグル画像検索結果

 だが、これらの作品においてまず注目すべきなのは、焦点距離の変化による視線の往還ではない。そうではなくて、アクリル板上の図像と鏡に映った図像の明らかなタッチの違いであり、その存在論的な差異である。アクリル板に実際に描かれたイメージのほうは、絵の具が過剰に盛り上がり、ベタベタとした作家の筆触が現れている。これに対し、鏡に映り込んだイメージのほうは、村上のスーパーフラット絵画と同じく、いやそれよりも徹底してピカピカ/ツルツルである。なぜならそれは、手前のレイヤーに描かれた図像を裏側から映し出したものにすぎず、鏡の平面それ自体にはひとかけらの絵の具も付着していないからだ。そしてこの透明板越しの鏡のイメージからは、デコボコとした絵の具の隆起がすべて消去され、まるでアニメのキャラクターのような、平板な色彩によって再現された少女の顔が浮かび上がる。

 谷口のこの手法は、実際、アニメーションにおけるセル画から着想されたものだろう。セル画では平面を均一に塗るために、透明なセルロイド・シートの裏側から着色し、それをひっくり返して撮影する。谷口の一連の作品は、それをあえて裏返しにしたまま、デコボコ/ベタベタな表面とピカピカ/ツルツルな裏面を共存させようとする試みだ。そしてこのことは、スーパーフラットの文字通り「裏側」を提示することで、椹木が指摘した起源の暴力、つまりは図像それ自体を生み出す筆触の存在をあらわにしつつ、それを内在的に乗り越えるプロセスをも示している。

 アクリル板上のデコボコした筆跡は、あたかも、アニメの美少女キャラクターに向けられる鑑賞者の身勝手な欲望を体現し、その暴力的な内容を示唆しているかのようだ。他方で、鏡に映ったはかなげな表情は、彼女が本来そこには存在しない、にもかかわらず鑑賞者の錯覚と想像のなかにたしかに場を占めているという、今日の特徴的なキャラクターの存在様式を暗示する。鏡に映り込む展示空間と鑑賞者のイメージの上に、浮遊する少女の顔が出現する。

 谷口が描き、映し出す二重化された少女たちは、スーパーフラットとその起源の暴力とのあいだで引き裂かれつつ、鑑賞者の視線に差し出されている。マルチレイヤードなイメージが可能にするのは、スーパーフラットな鏡面とその起源の暴力としての絵の具であり、それらを往復する視線の動きである。視点はどちらにも定まらず、両者のあいだをぐるぐると回り続ける――複数のレイヤーからなる多層的な平面だけが、この脱遠近法的でポスト・スーパーフラットな視覚体験をつくり出す。谷口の作品は、スーパーフラット以後の諸平面に住まう、キャラクターという存在の横顔を描写している。

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*1:椹木野衣『「爆心地」の芸術』、晶文社、2002年、312〜313頁。

*2:同書、316頁。

*3:同書、322頁。

*4:同書、324頁。