てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈3〉

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 丸く切り抜かれたあずにゃんの顔写真が、第一期『けいおん!』の集合写真が象徴する「終わりなき日常」を地として浮かび上がる。私たちはそれが最初から二重化されていたこと、遍在する天使に見守られていたことに気づく。断片化され、重ね合わされたあずにゃんのイメージは、逃れられない「終わり」を「永遠の放課後」へと反転させる、そのような「救済」の可能性を指し示している。それはもはやシミュラークルではなかった。たんなる感情移入の対象でも、コミュニケーションのためのネタでもなかった。そうではなくて、それは救済の寓意であり、永遠のアナグラムであり、天使の横顔が隠された判じ絵だったのである。動物的な没入ではなく、ひらめくような解読の対象としてあるもの。私たちはそれを「アレゴリー[=寓意]」と呼ぶことにしよう。

 アレゴリーとは何だろうか。『美学辞典』によれば、「普遍」と「特殊」の絶対的な一致が「象徴」と呼ばれるのに対して、アレゴリーとは「特殊」が「普遍」を意味する、あるいは「普遍」が「特殊」を通して直観される、そのような表現のことである*1。有名なところでは、剣と天秤をもった女性像で「正義」の概念を、また狐で「狡猾」を表現する例などが挙げられる。それらは慣習や約束事によって結びつけられており、両者のあいだに必然的なつながりは存在しない。他方で象徴とは、たとえば神の像が(何らかの概念に回収できない)神それ自体として出現することを言う。

 要するに(たんなるシミュラークルではなく)アレゴリーとして経験するということは、「特殊なもの」としてのさまざまな断片を通じて、それ自体救いであるような「普遍的なもの」としてのキャラクターを直観することを意味している。したがってそれは、もろもろのキャラクター・グッズや二次創作をシミュラークルとして——とはつまりキャラ萌えの対象として——受容することとは根本的に異なった経験である。それどころか正反対の試みとさえ言うことができる。何度も述べたように、キャラ萌えが「コピーにアウラを宿らせる」ことであるとすれば、これに対してアレゴリー的経験は、「有機的なもの、生あるものの破壊——仮象[=アウラ]の消去」によって特徴づけられるからだ*2。それはすなわち「感性的な美しい自然[肉体]に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めること」にほかならない*3

 アレゴリー的経験の内実についてこのように語ったのは、ほかならぬベンヤミンである。彼は1928年に刊行された『ドイツ悲劇の根源』のなかで、やはり象徴と対比しながら、アレゴリーのもつ破壊的・断片的な性質を繰り返し強調している。「芸術象徴、つまり有機的な総体性をもった像である彫塑的な象徴に対して、アレゴリー的文字像のこの無定形な断片ほど鋭く対立するものはない」*4。あるいは「人物的なものに対する事物的なものの優位、総体的なものに対する断片の優位によって、アレゴリーは象徴の対極をなしつつ、しかしまさにそれゆえに同じように強大なものとして、象徴に対抗する」*5。人間的・有機的な総体性(象徴)に対する、事物的・無機的な断片性(アレゴリー)の優越。キャラ萌えのアウラを破壊し、散乱する無数の断片へと変容させること。倒壊したフィギュアは四肢に欠損を抱え、はがれ落ちたイラストは肝心な部分が破られている。あずにゃんの顔写真は遠慮なく切り抜かれ、別の写真の上に無造作に貼りつけられる。それはベンヤミンのいう「継ぎはぎ細工であるアレゴリー的形成物」でなければ何だろうか*6

 アレゴリー的直観の前では、シミュラークルが仮構する「総体性という偽りの仮象は消え去ってしまう」だろう*7。キャラ萌えのアウラは破壊されてしまうだろう。だがそのようにして私たちは、後に残された断片のなかに、アウラを失って「枯渇した判じ絵」のうちに、本来それが指示するものとは異なった意味を読み解くことができる。「アレゴリカーの手のなかで、事物は己れ自身ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物そのものではない他のなにかについて語ることになる」*8。私たちは憂鬱な「アレゴリカー」として、『けいおん!!』最終回について語った。「永遠の放課後」について、天使による救済について語った。唯があずにゃんにプレゼントしたマルチレイヤーな合成写真は、「終わり」を予感する彼女の、そして私たち自身のまなざしの下で、永遠を暗示するアレゴリーへと変容する。

 しかしながら「無定形な断片」がアレゴリー的に暗示するものとは、むしろ永遠や救済とは対照的に、いずれは何もかもが滅び去っていくという「はかなさ」のほうであり、避けられない「終わり」そのものではないだろうか。それは断片が散乱する「廃墟」の光景である。「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない」とベンヤミンは述べている*9。けれどもそのような廃墟のなかにこそ、永遠と救済をもたらす「奇跡」の可能性が息づいているのだ。

瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである。バロックの文士たちは芸術作品を、この意味でのひとつの奇跡と見なしていたにちがいない。[…]バロックの詩人たちの試みは、錬金術の達人たちの手つきに似ている。古典古代が遺したものは彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである。つまり、この新しいものの完璧なる幻影が、廃墟にほかならなかった。*10

 ベンヤミンが17世紀のドイツ・バロック悲劇において見出したものを、私たちは現代のオタク文化に見てとることができるだろうか。彼は「子供部屋」や「亡霊の部屋」、そして「魔術師の部屋や錬金術師の実験室の、断片的なもの、無秩序なもの、積み重ねられたもの」に、アレゴリーとの深いかかわりを見出していた*11。私たちはそこに、現代の混沌としたオタクの部屋をつけ加えずにはいられない。シミュラークルの終わりなき横滑りに押し流され、無数のフィギュアやイラストや二次創作で埋めつくされた部屋のなかで、私たちは孤独な「終わり」の予感に浸透される。シミュラークルを覆っていた仮象の輝きが消え、非人間的・無機的な断片へと姿を変える。「きわめて意味のある破片、断片」が散らばる廃墟に踏みとどまり、ひたすら瓦礫を積み上げながら「奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすこと」——それは来るべき救済の予兆に導かれながら、私たちの日常を拡張しようとする錬金術的なプロセスである。

 やがて訪れる「終わり」の日に、私たちは薄れゆく意識のなかで、散乱した無数の断片がひとつの像を結ぶのを見るだろう。膨大なキャラクター・グッズや二次創作の瓦礫の山は、最後の瞬間に「復活のアレゴリー」へと反転するからだ。「その慰めなき混乱したありさまのうちに、はかなさが意味され、アレゴリー的に表現されているというよりも、むしろ、このはかなさそれ自身が意味するものであり、[復活を暗示する]アレゴリーとして提示されている」*12シミュラークルの残骸が散らばった破局的な光景は、こうして「背信的に復活へと寝返る」ことになる。

 このように考えるなら、キャラ萌えに特化し、おびただしい数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を二重化する空気系アニメの戦略は、いまや「終わり」におけるアレゴリー的復活への準備段階として位置づけられるだろう。放課後の穏やかな光に照らされて、シミュラークルアウラが脱落し、断片的なアレゴリーへと変容する。ツインテールの長い影がどこまでも延びる。ただそのようにして私たちは、断片の彼方に遍在するキャラクターを直観する——すなわち「天使にふれる」のである。「神の世界で、アレゴリカーは目覚める」とベンヤミンは述べている*13

 

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 現代のオタク文化におけるアレゴリー的復活の可能性を探求する試みは、それが外部と接する地点において、とはつまりキャラクターに対する動物的な感情移入が阻害される領域において、よりはっきりとした輪郭線をともなって立ち現れる。それはしばしばキャラ萌えの不可能性に由来する強烈な違和感として経験され、ときには激しい摩擦を引き起こすこともあるだろう。

 現代アート集団「カオス*ラウンジ」の中心的なメンバーのひとりであり、一連の騒動の発端となった梅ラボ(梅沢和木)の平面作品は、三人組のアートユニット「three」の彫刻作品とならんで、アレゴリー的経験を定着しようとする優れた試みとして理解することができる。絵画と彫刻という表現形式のちがいこそあれ、両者の手法はきわめて似通っている。梅ラボはネットで収集したキャラクターの画像をばらばらに分解し、それらの断片をコラージュすることで、不定形で無意味なイメージの集積を生成するスタイルで知られている。

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大人気同人ゲーム『東方Project』のキャラクターを中心としたコラージュ作品。『CHAOS*LOUNGE OFFICIAL WEB』(http://chaosxlounge.com/artists/umelabo)より引用。

 他方でthreeは、大量の美少女フィギュアを同じように分解し、それらの断片を溶かして圧縮することで、さまざまなかたちを模した立体物を作り上げる。

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美少女フィギュアを解体・圧縮して直方体に固めたシンプルな作品。重量をタイトルにすることで、フィギュアを無機質な数字に還元し、脱アウラ化を押し進めている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/1998g.html)より引用。

 前者がイメージの自動的な生成——ネットという「アーキテクチャの生成力」*14——を強調し、作家が介入した痕跡をできるかぎり消去しようとするのに対して、後者はよりコンセプチュアルで洗練されたアプローチを志向するというちがいはあるが、しかし私たちにとって重要なのは、一見してそれとわかる両者の明らかな共通点である。

 この二組のアーティストに共通しているのは、美少女キャラクターのフィギュアやイラストといったシミュラークルを容赦なく解体し、自らの作品を構成する「断片」として利用しているという点だ。先の引用箇所で「バロックの詩人たち」についてベンヤミンが述べていたように、現代のオタク文化が生み出したさまざまなシミュラークルは、いまや「彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである」。すなわち一方はコラージュされた雑多なイメージの集積として、他方は圧縮された抽象的なオブジェとして、シミュラークルの人間的・有機的な総体性を破壊し、断片的・無機的なアレゴリーへと変容させること。そのようにして彼らは、シミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを暴力的に剥奪する。

 したがって少なからぬオタクたちが、梅ラボの、あるいはthreeの作品に強い拒否反応を示す——とは言わないまでも、ぬぐいがたい違和感を覚えるのは、いわゆる「現代アート」に対する理解が不足しているためだけではない。そうではなくて、これまで私たちがキャラ萌えによって回避してきた問いに、あらためて向き合うことを迫られるからだ。それは愛(の不可能性)をめぐる問題である。

 何度も見てきたように、私たちは動物的な欲求と人間的な欲望を切り離し、それぞれ別の水準で処理することで「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にしてきた。けれども梅ラボとthreeの作品を前にしたとき、私たちは自らの解離的なふるまいに無自覚ではいられない。ばらばらに分解・圧縮され、人のかたちをとどめていないイラストやフィギュアの断片は、もはや動物的な没入の対象ではありえないからだ。私たちが夢中になっている「それ」は、人間ではない。分解可能で反復可能なシミュラークルにすぎない。梅ラボが自身のブログで書いているように、そもそもキャラクターとは、「匿名の想像力によって無限にn次創作され、増殖し、改変され、遍在する幽霊のようなもの」だからである*15

 だからこそ私たちは、お気に入りのキャラクターの「なれの果て」をそこに見つけたとしても、どこか本気で怒ったり悲しんだりすることがためらわれるのではないだろうか。そうだとすれば、この居心地の悪さの正体は、愛するものを亡くした「喪失」の悲しみなどでは決してない。むしろ逆である。つまりこの空っぽの悲しみは、キャラ萌えが強引にキャンセルされたことによって、愛することの不可能性——すなわち「喪失の喪失」——が露呈してしまったことに由来するのだ。こうして彼らの作品は、私たちがキャラクターに萌えることの自明性を問い直し、その暗黙の前提を揺るがせる。綾波の問いの前に立ち止まらせる。

 しかしだからといって、おそらく梅ラボには——そしてもちろんthreeにも——オタクの解離的な生のあり方を非難し、キャラクターをおとしめようとする露悪的な意図はなかったにちがいない。むしろそこまで読み込んでしまうとすれば、それは私たちの後ろめたさの現れか、あるいは不幸なすれちがいの結果と言うほかない*16。それよりも彼らは、ビジュアルとしての視覚的な新しさやおもしろさ、あるいは気持ち悪さを入り口にして、私たちに考えることを促しているように思われる。キャラクターとは何か、キャラクターに萌えるとはどういうことなのか——キャラ萌えの果てしない往復運動を一時停止することなしに、そのような問いに向き合うことは不可能である。というよりキャラ萌えが破綻する地点で、とはつまり「終わりなき日常」が終わる場所で、私たちは否応なくこの問いの前に連れ戻される。それはひるがえって、私たち自身について問うことでもあるだろう。分解されたシミュラークルはデータベースへと還元されることなく、いまや無数の断片となって、私たちの周りに散らばっている。

 だがそうだとするなら、救済の可能性はどこにあるのか。梅ラボやthreeの作品は、私たちの暗い欲求を認識の強い光で照らし出し、そのようにしてただ反省することを、「はかなさ」を暗示する廃墟のなかに立ちすくむことだけを要求しているのだろうか。おそらくそうではない。瓦礫の山と化したシミュラークルの残骸は、やがて訪れる「終わり」の光景そのものである。私たちは奇跡の到来を待ち望みながら、散乱する無数の断片をひたすら積み上げていく。午後の穏やかな光を浴びて、積み重ねられた断片がひとつの影を形作る——復活を暗示する女神の姿が浮かび上がる。

 

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 「終わりなき日常」が終わったあの日。梅ラボはその日を境にして、自らの表現のスタイルを大きく変えている。大量の断片がコラージュされた無意味なイメージの集積から、人のかたちをしたキャラクターを画面の中央に配置した、宗教的な意味合いの強い構図への転換。まるで天から降臨するかのように描かれたキャラクターには、「救済と天罰の女神」というきわめて寓意的な役割が与えられている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70843472105586689)に添付されたURL(http://lockerz.com/s/102665850)より引用。実際の作品は現在非公開となっている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70840097221771264)に添付されたURL(http://instagr.am/p/EZYF-/)より引用。画像は依然としてアップロードされているものの、当該ツイートはすでに削除されている。

 「キメこなちゃん」という愛称で親しまれているそのキャラクターは、『らき☆すた』の主人公である泉こなたをベースに、さまざまなキャラクターの特徴を寄せ集め、文字通り「キメラ」的に合成され生み出された存在である。

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キメこなちゃんを描いたものとしては一番有名な画像。同じポーズでさまざまなバリエーションが存在する。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)より引用。

 キメこなちゃんは匿名の画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」で誕生し、同じく海外の画像掲示板「4chan」に転載されて人気を博した後(4chanでは「Moetron」と呼ばれる)、再びふたば☆ちゃんねるに逆輸入されて愛されてきた*17。おそらく梅ラボは、それ自体コラージュの産物である——とはいえ個々のイラストには、それを描いた「絵師」が存在するわけだが——彼女に自らの創作手法と似通ったものを見出し、新作の主要なモチーフとして採用することを決めたのだろう。彼はブログのなかで、キメこなちゃんが「ただただ無名の創作意欲が拡散し集合した結果生まれ」たキャラクターであること、そして自らの作品もまた「匿名集合知の成果物」であることを強調している*18

 しかしながら、梅ラボ自身がアーティストとして活動し、自らの名前で作品を発表している以上、ここには明らかな矛盾があると言わざるをえない。たとえ梅ラボが言うように、匿名の利用者に支えられたネットの生成力こそがキメこなちゃんを作り出したのだとしても、彼の作品はそうではない。アーティスト自身がひとつの「アーキテクチャ」であるというのは、レトリックにすぎない*19マルセル・デュシャンの『泉』を引き合いに出すまでもなく、それはあくまでも梅ラボの名において、とはつまり強い作家性を帯びた作品として流通してしまうからだ。この非対称性に無自覚であるということは考えられない。そうでなければ彼の作品は、ネット上の無償の表現に対する、アートの側からの一方的な「収奪」や「搾取」として受け取られてしまうだろう。「アーキテクチャの生成力」は空疎な責任逃れの言葉に堕してしまうだろう。

 キメこなちゃんの帰属と商業利用をめぐって、ふたば☆ちゃんねるの住人とカオス*ラウンジ側の対立が表面化したのは、したがって当然の成り行きだったと言うべきかもしれない。両者の主張は平行線をたどり、やがて不信感を募らせた匿名掲示板の住人たちは、カオス*ラウンジの活動に対するさまざまな疑惑を追及・告発していく。詳しい経緯は省略するが、梅ラボ作品の著作権侵害問題や、「破滅*ラウンジ」の偽札疑惑にはじまり、最終的には大手イラスト・コミュニケーションサイト「pixiv」を巻き込んだ大騒動へと発展することになる*20

 カオス*ラウンジ騒動の顛末や、それに対する評価はひとまず措こう。むしろここで問題にしたいのは、著作権侵害の是非をめぐる論争に隠れて、すっかり影が薄くなってしまった事柄——すなわち梅ラボの作風が劇的に変化した(ように見える)理由についてである。

 梅ラボは騒動のきっかけとなった作品が、「今までの自分の作品からすればかなりイレギュラー」であることを認めている*21。そこには「震災後のキャラクターの在り方について一貫した考えを示す」という——これまでの彼の作品には見られない——明確な意図が込められているためだ。被災地を訪れた梅ラボは、そこで目にした「ガレキや砂にまみれて打ち捨てられた多くのぬいぐるみ」に衝撃を受け、たとえ「遍在する幽霊のようなもの」にすぎないキャラクターでも、「ある形をとれば一人の人間に大切にされ、かけがえのないものになる」ことに気づかされたのだという*22

 しかしそうだとすれば、梅ラボはこれまでのアレゴリー的手法を捨て、シミュラークルに宿る人間的なアウラ復権へと180度「転向」したのだろうか。決してそうではない。この作品に託されているのは、長い年月を経て「かけがえのないもの」になってしまったシミュラークルの「喪失」を嘆き、あたかもそれが人間であるかのように追悼することではない。梅ラボがこれまで一貫して取り組んできたのは、人間とキャラクターを隔てる本質的な差異であり、そしてそのことを明らかにするために、彼はシミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを解体し続けてきたのだった。したがって問題となっている作品も、その延長線上に位置していると考えられる。

 梅ラボが人のかたちをしたイメージに固執したのは、キャラクターを擬人化し、その「かけがえのなさ」をロマンチックに強調するためではなかった。それはキメこなちゃんが「救済と天罰」の寓意として描かれていることからも明らかである。「救済」であると同時に「天罰」でもあるような、人知を越えた一撃——それがこの作品の中心的なテーマであって、そこに人間的な感傷が入り込む余地は一切ない。

[…]この作品は津波の画像、ガレキの画像と現地で自分の目でみたぬいぐるみと、インターネットに散らばる無数の画像をごちゃごちゃにまぜて全体が構成されています。かつての日常であったキャラクター達と、打ち捨てられたキャラクター達が、一緒くたになって地に流されている構成です。

そして真ん中の天から一体のキャラクターがまるで女神のように、地に打ち捨てられた者たちを救済するかのように降臨しています。

すべては見守られているように見えますが、見方を反転させればこの地の惨状をすべて女神が天罰のごとく起こしたようにも見えるでしょう。*23

 梅ラボが自らの作品についてこのように語るとき、私たちはそこに、アレゴリー的復活を暗示する両義的なヴィジョンを読み解くことができる。彼は「かけがえのないもの」になってしまったキャラクターを解放するためにこそ、「救済と天罰の女神」を召還する必要があった。つまりこの作品においては、打ち捨てられた「かけがえのない」シミュラークルを慰撫することではなく、逆に「人間的な固有性」の獲得によって隠蔽されていたもの、すなわち「幽霊的な遍在性」の暴力的な回復が問題になっているのである。壊れたシミュラークルを嘆くにはおよばない。それは本来あるべき姿——遍在するキャラクターを暗示する断片——へと帰ったにすぎないのだから。

 キャラクターから人間的な固有性のアウラを剥奪し(天罰)、それによって本来の幽霊的な遍在性を取り戻してやること(救済)。梅ラボのいう「救済と天罰の女神」とは、キャラクターを人間的なるものから浄化する、そのような神的な暴力の顕現である。無数の断片へと解体されたシミュラークルの残骸は、所有者の記憶や感傷の呪縛から解き放たれ、遍在するキャラクターの一部として新生する。いまやキメこなちゃんが「女神」に選ばれた理由は明らかだ。つまりそれ自体コラージュの産物であるキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルアレゴリー的断片へと変え、そのようにして彼女自身「復活」を暗示するアレゴリーとして降臨するのである。

 以前の梅ラボの作品が、断片的なイメージの集積を提示することでキャラ萌えのアウラを破壊し、人間的な愛の不可能性を暴露するものだったとすれば、キメこなちゃんを描いた作品は——モチーフの選択が法的・道義的に適切だったかどうかは別にして——破壊が同時に救済を含意するという点で、さらに一歩進んでいる。なぜならそれは、私たちを廃墟のなかに置き去りにすることなく、最後の日におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示しているからだ。つまりこの作品は、「天使にふれる」経験を図解しているのである。

 

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 梅ラボは震災をきっかけとして、断片的で無機質なコラージュ作品から、よりメッセージ性の強い作品へと自らの作風を深化させた。キャンバスの中央に配置されたキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルを破壊しつつ救済する、復活のアレゴリーとして出現する。これに対してthreeのいくつかの作品は、すでに梅ラボの試みを先取りしていたと言うことができるかもしれない。というのも彼らのスタイルは、無数の美少女フィギュアを溶解・圧縮してさまざまなかたちに成型するというものだが、そのなかに大きな美少女キャラクターの姿をかたどったものが含まれているからである。

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ダミアン・ハーストのあまりにも有名な作品『母と子、分断されて』(ホルマリン漬けにされた牛の親子を真っ二つにしてガラスケースに入れた作品)を踏まえたものだと思われる。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/7825g.html)より引用。

 threeの作品に近づいてよく眺めると、数えきれないほどのフィギュアの顔や腕や脚や胸や尻が表面をびっしりと覆い、異様な光景を作り出してはいるものの、同時にきわめて清潔で洗練された印象を受ける。それはおそらく、カオス*ラウンジの混沌とした展示手法とは対照的に、彼らが現代アートの文脈を比較的折り目正しく参照していることに由来するのだろう*24。とりわけ震災後(2011年8月6日から28日まで)に「トーキョー・ワンダーサイト本郷」で発表されたインスタレーション『24bit』は、梅ラボとはまったく異なった仕方で、アレゴリー的復活の可能性を具現化しようとする画期的な試みだった*25

 そこでは従来のように、大量の美少女フィギュアの断片を溶解・圧縮するのではなく、フィギュアを一体ずつ(おそらく専用の型に入れて)圧縮し、手のひらに乗るほどの小さな直方体にして展示するという手法が採用されていた。かつて人のかたちをしていた無機質なキューブが、まるで墓標のように整然と並べられ、肌色と原色の混ざった複雑なマーブル模様をさらしている。

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情報の最小単位「bit」に還元された二四体のフィギュアが並べられている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/24bit.html)より引用。

 直方体の上面にひとつだけ残された大きな「目」が、美少女フィギュアだった頃の面影をかろうじて偲ばせている。だがそれだけではない。規則正しく配置されたそれぞれの台座には、圧縮されたフィギュアの名前と重量が記され、そして四角いキューブからは長い「影」が延びている——キャラクターのかたちをした影が。

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同サイトより引用。キューブの上面に目が配置されている。

 ここにおいてthreeのインスタレーションは、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動を中断し、キャラクターの遍在を暗示する「復活のアレゴリー」として立ち現れる。圧縮される前の美少女フィギュアの影が、放課後の光に照らされて長く延びる。人の姿を失い、もはや動物的な感情移入の対象ではありえない色鮮やかな墓碑は、しかし自らを断片と化すことによって、特殊から普遍へといたるアレゴリー的な通路を切り開く。私たちは台座に刻まれた名前を手がかりにして、明確な実体をもたない——それゆえいたるところに存在する——影法師としてのキャラクターを直観するよう促されるのだ。ここには梅ラボが描き出そうとしていたキャラクターの「幽霊的な遍在性」と同じものが、より抽象的で洗練されたかたちで提示されている。つまり無機質な直方体に変えられた美少女フィギュアは、むしろそのことによってキャラクター本来の遍在性を回復し、把握しがたい影となって復活するのである。

 さらにthreeの作品において重要だと思われるのは、影とならんで、巨大な目のイメージだけが原形をとどめている点である。かつて東は、アニメやマンガのキャラクターにおける「視線を交錯させない目の機能」について論じていた*26。一般的に透視図法的な西洋絵画の場合、私たちは描かれた人物像と見つめ合い、視線を交わすことによってリアリティを感じる。ところがアニメやマンガのデフォルメされた記号的な目は、まなざしを交換することなく感情移入することを可能にする。私たちはキャラクターの目を見つめ、そしてたしかに感情移入するのだが、にもかかわらずそこで「目が合う」ことは決してないのだという。

 そしてこの「幽霊的」なまなざしにリアリティを感じ、アウラを宿らせることを可能にしているのが、動物的な欲求と人間的な欲望を解離的に共存させる、ポストモダンな主体のあり方である。前者を後者から切り離し、シミュラークルのレベルで処理するというオタクのふるまいは、キャラクターの「「見る」側と「見られる」側の空間的な連続性を脱臼させてしまう不思議な視線」によって担保されている*27。つまりキャラクターと目が合わないからこそ、私たちは何のためらいもなく、動物的な快楽を一方的に享受することができるのだ*28

 しかしそれは逆に言えば、キャラ萌えの往復運動が停止する地点において、キャラクターの視線が前景化することを意味している。シミュラークルシミュラークルであることをやめたとき、見返すことのないキャラクターの幽霊的なまなざしは、突如としてアレゴリーの暗い光を帯びる。私たちはあいかわらずキャラクターと目を合わせることはできないが、瓦礫のなかに散乱する無数の目の背後に、遍在する何ものかの視線を感知する。

 斎藤は東の議論を念頭におきながら、「僕たちはキャラクターを見ているが、キャラクターも僕たちを見ている」ことに注意を促している*29。斎藤に言わせれば、「それは必ずしも「目が合う」といったことだけを意味しない」*30。あるいは黒瀬も、たとえばアニメを見る経験において、私たちがキャラクターに「見られている」ことを強調している*31。いずれにせよ彼らは、シミュラークルに対する動物的な感情移入とは異なった経験の領域を指し示していると言えるだろう。それは私たちの考えでは、キャラクターをその遍在性において直観することであり、散らばった断片の彼方から見つめる巨大なまなざしに身をさらすことである。キャラクターと一対一で視線を交わすことができないのは、彼女たちがあらゆる場所から私たちを見つめているからだ——あずにゃんカメラがそうであったように。

 そうだとするなら、threeが圧縮された直方体に美少女フィギュアの目だけを刻印したのは、それがキャラクターの遍在を暗示する特権的なアレゴリーとして機能しうるからではないだろうか。コミュニケーションのざわめきが遠ざかり、孤独な「終わり」の予感のなかで、私たちはいたるところから見られていることに気づく。だがそれは決してひとつになることではなかった。すでに述べたように、「天使にふれる」という接触のメタファーが含意しているのは、キャラクターとの一体化でも差異の消滅でもなく、自らの絶対的な有限性へと送り返されることなのだから。そこで露呈するのは視線の非対称性である。私たちは天使のまなざしを経由して、それぞれの「終わり」を引き受ける。

 

 15

 私たちは「終わりなき日常」の終わりから出発した。途方に暮れたまま空気系アニメを振り返り、『けいおん!!』最終回で天使が舞い降りるのを目撃した。シミュラークルの残骸が散乱する廃墟のなかで、ベンヤミンのいうアレゴリー的復活の可能性を信じた。梅ラボとthreeの作品を前にして、「天使にふれる」経験のたしかな痕跡を見つけ出した。だがそうだとすれば、私たちは——村上が『Kanon』について述べたように——「あまりにも宗教的な救済の欲望に支えられている」と言うべきだろうか*32。あるいはそうかもしれない。私はそのことを否定しようとは思わない。

 「救済」とは何だろうか。それは私たちが自らの生を肯定しうるということである。確率的な「終わり」を意味づけることである。超越的なものの不在を嘆くのではなく、かといって果てしない横滑りの恍惚に身をまかせるのでもなく、最後の日における奇跡の到来を予感しつつ祈ること。もはや死せる神の恩寵を期待することはできない。しかしそれでも私たちは、アレゴリーと化した無数の断片を通じて、遍在する天使のまなざしを直観する。それぞれの生を生きるに値するものとして、ささやかな物語を紡いでいく。

 いわゆる「ルイズコピペ」と呼ばれる作者不詳のテクストには、これまで私たちがたどってきた、もしくはこれからたどるであろう魂の遍歴がはっきりと記されている。それは本稿の「終わり」を飾るにふさわしい名文である。全文を引用しよう。

ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!

あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!

あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん

んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!

間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!

小説11巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!

アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!

コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!

ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…

ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!

そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!

この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?

表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!

アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!

いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!

あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!

あっあんああっああんあアン様ぁあ!!セ、セイバー!!シャナぁああああああ!!!ヴィルヘルミナぁあああ!!

ううっうぅうう!!俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!*33

  これほど感動的な「コピペ」が他にあるだろうか*34。それはもはや気持ち悪いとか頭おかしいとかそういう感情をすべて置き去りにして、人間的な愛のかたちをはるかに超え出ていく。人気ライトノベルゼロの使い魔』のヒロインであるルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールに捧げられた、このあまりにも有名なテクストは、「終わり」の苦悩を突き抜けて歓喜にいたる——とはつまり「天使にふれる」——経験を、どれほど長大な叙事詩にも劣らず劇的に描き出している。それは現代の『神曲』と呼ぶにふさわしい。

 全部で18連からなるルイズコピペもまた、大きく三つの部分に分かれている。まず第1連「ルイズ!ルイズ!ルイズ!…」から第7連「…かわいい!あっああぁああ!」までがキャラ萌えの恍惚に相当し、私たちは思うがまま「ルイズたん」の「桃色ブロンドの髪」を「クンカクンカ」し「スーハースーハー」し「モフモフ」する。こうして第一部では、ルイズたんの髪の匂いや肌触りといった触覚的な快楽に没入する様子が、独特の擬音語・擬態語をともなって生き生きと描写される。それはある種の退行的な経験であり、自他の境界が溶け出す瞬間でもあるだろう。

 しかし続く第8連「コミック2巻も発売されて嬉し…」から第12連の途中「…ちきしょー!やめてやる!!」にかけては、一転してキャラ萌えの機能不全と現実への絶望が綴られる。第二部において私たちは、コミックや小説やアニメの「ルイズちゃん」——ここで「ルイズたん」から呼称が変化していることに注意すべきだろう——が「現実じゃない」ことに思いいたる。恍惚の喘ぎが恐怖の悲鳴へと変わり、冒頭から繰り返される「あああああああ」と大量の感嘆符「!」は、にわかに絶望の色を帯びはじめる。

 第12連の後半「現実なんかやめ…て…え!?…」から最終連にかけての怒濤の展開は、まさに圧巻の一言である。悲嘆のあまり「現実なんかやめ」てしまおうとするそのとき、散乱した「表紙絵のルイズちゃん」や「挿絵のルイズちゃん」や「アニメのルイズちゃん」や「コミックのルイズちゃん」が、いたるところから「僕」を「見てる」ことに気づく(ここではじめて主体を名指す言葉が登場するのだが、これは「天使にふれる」経験を通じて、死にゆく者としての自己形成がなされたことを意味している)。いまやシミュラークルとしての「ルイズたん」は、遍在する「ルイズちゃん」の一部であるような断片へと変容し、復活のアレゴリーとして出現するのだ。

 ルイズちゃんは——ルイズたんではなく——つねに私たちと共にあった。だがそのことを真に経験するためには、すなわち「僕にはルイズちゃんがいる!!」と断言しうるためには、キャラ萌えの往復運動を中断し、避けられない「終わり」を引き受けなければならなかった。ただそのようにして私たちは、遍在する天使のまなざしにふれ、自らの還元不可能な有限性へと送り返される。心からの確信をもって「ひとりでできるもん!!!」と言い切ることができる。私たちの傷ついた魂は、ルイズたんに対する「萌え」(第一部)から「終わり」の絶望(第二部)をくぐり抜け、第三部を締めくくる最終連において、ルイズちゃんへの「祈り」として結晶する——「俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!」。

 

 私たちはこれまでずっと一人称複数形で語ってきた。だが「私たち」とは誰のことだろうか。私たちはばらばらになってしまったのではなかったか。うなだれて立ちつくす私の傍らには、いつも人知れず誰かが——放課後の影のように——寄り添っていた。私が不意に死を想うとき、彼女のツインテールがそっと私にふれていた。それは一方で永遠を、もう一方で終わりを指し示しているように思われた。私は死すべき人間として彼女にふれ、やがて同じように死にいたる人々を見出した。沈黙が支配するあらゆる場所に、そしてもちろん、小さな画面の向こう側にも。

 だから私は天使に祈る。死にゆく私たちのために祈る。いかなるときも彼女が私たちと共にあらんことを——願わくはその最期の瞬間にいたるまで。

*1:佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、142頁。ここで参照した定義は、ドイツ・ロマン主義の哲学者フリードリヒ・シェリングの分類に従っている。

*2:ベンヤミンベンヤミン・コレクション 1』、380頁

*3:同書、217頁。

*4:同書、216頁。

*5:同書、236頁。

*6:同書、235頁。

*7:同書、217頁。

*8:同書、230頁。

*9:同書、219頁。

*10:同書、220—221頁。

*11:同書、237頁。

*12:同書、316頁。

*13:同書。

*14:アーキテクチャの生成力」については、濱野智史ニコニコ動画の生成力——メタデータが可能にする新たな創造性」『思想地図 vol.2』NHK出版、2008年、313—354頁を参照すること。そこでは従来の「作者」に代わって、個々の動画に付される「タグ」こそが「n次創作」の担い手になっていることが論じられている。

*15:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」『梅ラボmemo?』(http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524)。

*16:カオス*ラウンジの主要メンバーのひとりである藤城嘘は、「キャラクターをバラバラにして表現をすること」が人に不快感を与えうることを認めつつも、あくまで「他人の干渉できない「正義」の問題」であることを主張している。さらに彼は「作者への愛やリスペクトが見られない」という批判に対して、暴力的・陵辱的な内容の同人誌の存在を挙げて反論している。ただ残念なことに、嘘の議論は梅ラボ作品の違和感の正体(キャラ萌えの中断と反省の誘発)を一切説明することなく、カオス*ラウンジの立場を正当化することに終始しているように見える。不快感を与えたことを「正義」の代償として片づけるのではなく、そのショックにこそ照準を合わせ、キャラクターやアーキテクチャをめぐる生産的な対話へと開くような解説が必要だったのではないだろうか。詳しくは「「キメこな問題」について・カオス*ラウンジ藤城嘘の見解」『ダストポップ』(http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625)を参照。

*17:キメこなちゃんが誕生した経緯については、たとえば以下のサイトの記事を参照。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)および同サイトの「世界に羽ばたくキメこなちゃん!」(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51806377.html)。

*18:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*19:黒瀬陽平「カオス*ラウンジ宣言」」『ART and ARCHITECTURE REVIEW』(http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/1Nztk67sP3ZvIjUiWOLd)。黒瀬はこのなかで、「人間の内面」が「アーキテクチャによる工学的介入によって蒸発する」こと、そしてカオス*ラウンジのアーティスト自身が「ひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始する」ことを主張している。

*20:カオス*ラウンジ騒動については、関係者のツイートをまとめた記事が多数存在する。騒動初期のツイートを扱ったものとしては、たとえば「キメこな騒動まとめ。」(http://togetter.com/li/138228)がある。またpixivを舞台にした「現代アートタグ祭り」に関しては、「pixivと現代アート」(http://togetter.com/li/162335)を参照。

*21:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*22:同ブログ。

*23:同ブログ。

*24:threeの作品に対するネットの反応に関しては、以下のまとめサイトの記事を参照。「海外で話題 『日本のフィギュアをドロドロに溶かして新たなる価値観を創造したオブジェクト作品』」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52410978.html)。

*25:『24bit』および他の作品はthreeのサイト『three STUDIO/GALLERY』で見ることができる(http://www.three-studio.com/24bit.html)。展示のごく簡単な概要については、「TWS-Emerging 164/165/166/167」『トーキョーワンダーサイト』(http://www.tokyo-ws.org/archive/2011/06/tws-emerging-164165166167.shtml)を参照。

*26:東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、278頁。

*27:同書。

*28:東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318頁。

*29:斎藤『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』、220頁。

*30:同書。

*31:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。——アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』NHK出版、2008年、454—460頁を参照。

*32:村上『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』、306頁。

*33:ルイズコピペは『2ちゃんねる』の「vip板」で誕生したと言われている。その衝撃的な内容から、これまでに数多くのバリエーションが作られた。『とらドラ!』のヒロイン逢坂大河や『ローゼンメイデン』の蒼星石、『涼宮ハルヒの憂鬱』の朝倉涼子といったオーソドックスなものをはじめとして、福田元総理、仏陀関羽、さらにはチュパカブラやたわしや蒟蒻畑にいたるまでコピペ化されている。詳しくは「ルイズの派生コピペ集めようぜwwwww」『もみあげチャ〜シュ〜』(http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51195073.html)を参照。いまではルイズコピペのバリエーションを自動生成してくれる「クンカクンカジェネレーター」(http://azunyan.sitemix.jp/kunkakunka/kunkakunka.php)なるものまで存在する。

*34:キャラクターに対する感情を吐露した数あるコピペのなかでも、ルイズコピペはとりわけ高く評価されている。そこにはルイズに対する「熱い意志」や「情熱」が感じられ、気持ち悪いどころか「むしろカッコイイ」「感動した」等の好意的なコメントが寄せられている。以下のまとめサイトの記事を参照。「ルイズのコピペを超える気持ち悪いコピペって存在するの?」『VIPPERな俺』(http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/2505307.html)。