『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』最終回、良かったです。すごく。
何が良かったかというと、最後みんなでめんまの名前を呼ぶところが良かった。
それまではじんたんだけにしか見えなかっためんまを、みんなが見つけて「めんま見ーつけた」って叫ぶシーン。
一般的に幽霊というのは、写真に写り込んだり、動画に映り込んだり、物音だけ聞こえたり、顔が影になってたりして、リアルタイムで目が合わないものだと思うわけです。
人は後になってはじめて、幽霊の存在に気づく。それで背筋がゾッとする。
そういえば東浩紀さんは、デリダを引用して「目庇効果」と呼んでいた気がします。サイバースペース論で。
ところで後半、めんまは筆談でコミュニケーションするようになります。
文字は遅れて解読されるから、声が聞こえたり、目が合ったり、そういうのとはちがう。
声とかまなざしとかいったものは、基本的にリアルタイムで相手に伝わってしまうけれど、文字はそうではない。
ちょっとオシャレに「同期」と「非同期」(あるいは「擬似同期」?)と言ってもいい。
しみゅらーくるとか。えくりちゅーるとか。
とにかく、それだからこそ、最後のあのシーンが映えるのだと思います。
幽霊に呼びかける。幽霊と目が合う。
もちろんそこには、涙のヴェールがかかっています。
この透明なレイヤーを媒介にして、じんたんとあなるとゆきあつとつることぽっぽは、最初で最後、消えていくめんまとまなざしを交わす。
涙という透明なレイヤーが屈折率を変え、見えないはずのもの、目が合うはずのないものが姿を現す…というのは言いすぎかもしれませんが、
もらい泣きをしていたであろう(僕を含む)多くの視聴者にとっては、おそらく、奥行きのないテレビの表面と、網膜とのあいだに、透き通ったスクリーンがかかっていたのではないでしょうか。
レイヤーを差し挟むことで、はじめて見えてくるものがある。
アニメとはそもそも、複数のレイヤーを重ねることで成立しているのだとすれば、
めんまを「見つけた」超平和バスターズのまなざしは、そのまま、アニメを見る僕達のまなざしと相似している。
そのまなざしは、現実の、スクリーンの向こう側に見えないものを探そうとする視線ではないし、かといってディスプレイの表面だけをひたすら滑走する視線でもない(たとえば村上隆さんの「スーパーフラット」な作品と、それを語る東浩紀さんの議論)。
そうではなくて、それはまなざしを切断しつつ媒介する透明なレイヤーを、そしてそのレイヤーの上にだけ出現する幽霊を、スクリーンと網膜の「あいだ」に、絶えず召喚するようなまなざしではないでしょうか。
深層でも表層でもなく、多層性を実現すること。
幽霊がさまよっているのはこの世とあの世の「あいだ」であり、ある奇跡的な瞬間において、僕達は彼女とまなざしを交わし合う。
それを可能にするのが、アニメで「感動」するということ、つまりニコニコ動画のジャーゴンでは「セルフエコノミー」「涙で画面が見えない」ということになるでしょう。
だから、アニメを見て「泣く」という経験は、背後の真実を見通すことでも、ただ動物的に萌えることでもなく、ディスプレイの手前に、もうひとつのレイヤーを重ね合わせることを意味するのではないか。
そんなふうに考えています。
僕達はほんの束の間、現実を書き換える。
幽霊はいつか消えてしまうけれど、彼女の痕跡はいつまでも残る。
きっとこれからも、ずっと。
追記:
アニメのレイヤーに関する話は、聖地巡礼と拡張現実(AR)というかたちで、半ば実現していると言えるかもしれません。
そういうわけで、『あの花』の舞台である秩父に行ってきました。