てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

とらドラ!:食卓の上の戦争

いよいよ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の放送が近づいてきた。某キャラクターの特徴的な、というか身も蓋もない——本来なら「身」が出ないように「蓋」をすべきところだが、いや失礼——名前が一部で物議をかもしているものの、僕を含め多くのアニメファンが期待に胸躍らせて放送日を待ちわびていることと思う。気の早い全裸待機組にはぜひとも風邪に注意してもらいたい。
さて久しぶりの更新が下ネタからはじまったことに恐縮しきりだが、『あのはな』がこれほど注目を集める大きな理由のひとつに、同作が『とらドラ!』スタッフを再結集したオリジナル・アニメであることが挙げられるだろう。『とらドラ』——それは言うまでもなく目つきの悪い草食系男子高校生とXSサイズ/性癖の獰猛な美少女、および彼らを取り巻く魅力的なキャラクターたちの恋と友情と(文字通りの)殴り合いを描いた傑作青春アニメである(先に僕自身の政治的立場を明らかにしておくと、おそらく自意識をこじらせた多くの男子諸君がそうであるように、断固として亜美ちゃん派であることは否定すべくもない)。先日僕は二日がかりで『とらドラ』を全話見直した。だから今回は遅ればせながらBD化も決定したこの作品について、ちょっとした感想をものしてみようと思う。
とらドラ』を彩るキャラクターはあまりにも魅力的でそれぞれに強力な個性を放っているので、僕はそれについて今さらあれこれ言うつもりはない。原理主義的ではないリベラルな亜美ちゃん主義者として、拮抗する大河派やみのりん派、あるいはやっちゃん派やゆりちゃん先生派やその他もろもろの政治的マイノリティとの平和的な共存を望んでいるというのが正直な気持ちである。そうではなくて二度目の『とらドラ』体験はむしろ、彼らの言葉や拳や木刀が飛び交う「空間」そのものについて考えるよう僕を促した。それはつまり学校の教室や竜児の家やファミレスや喫茶店や亜美ちゃんの別荘のことだ。
どうしてそんなことが気になったかというと、彼らは毎日のように顔をつき合わせては何か飲んだり食べたりしているのである。もちろん学校が舞台だし、家族がテーマでもあるこの作品に食事風景が多いのは当たり前なのだが、しかしそれにしても連中はことあるごとにもぐもぐやっている……いいなぁおいしそう。亜美ちゃんの箸ぺろぺろ。
唐突だが学校の教室で授業を受けるとき、僕らは当然そろって同じ方向を向いている。この整然とした秩序が一転して崩れるのは、そう、休み時間だ。いわば固体から液体へ、ひとつひとつの分子=生徒が流動的にくっついたり離れたりを繰り返す。親しい友人の席まで出かけて会話したり、机と机のあいだをすり抜けて移動したりするわけである。教室を離れて缶ジュースを買いに行くのもいいだろう。ところがお昼ご飯の時間になると、それまでとはまたちがったかたちの秩序が現れる。生徒の動きを規制する机の配置そのものが変わるからだ。彼らは自分の机の向きを変え、気の合う仲間同士で集まって、わいわいやりながらお昼を満喫するのである。教室のあちこちに小さな食卓が生まれる。ちなみに僕はぼっち飯である。わりと死にたい。
こんな当たり前の話を持ち出して僕が何を訴えたいのか、分かっていただけるだろうか。つまりそれぞれに異なった秩序の支配下にある生徒は、そのなかで可能になる行動やコミュニケーションのあり方をあらかじめ決定されている…とまでは言わないまでも、多かれ少なかれ誘導されているということだ。たとえばみのりんと喧嘩した翌日、何としても彼女の顔色が知りたい竜児は、教室の反対側の席にいる彼女の様子を授業中に盗み見る。もちろん二人のまなざしは重ならない。したがってそこで流れるのはモノローグである。あるいは天然を自称する亜美ちゃんの性格についてみのりんに聞いてみようと考えた竜児は、高いリスクを承知で授業中に手紙を回す。運良くたどりついた手紙を目にしたみのりんは、突然イスから立ち上がり、両手で丸を作るかと思いきやにわかにクロスさせ、クラス中の視線を一身に集めることになった……これはたぶん一時的な「例外状態」である。
ではお昼休みはどうか。互いに机を向き合わせて仲良くお弁当を食べる平和な風景。しかしそこではきわめて濃厚な対面コミュニケーションが成立している。それはたんなる言葉のキャッチボール、もしくは視線の劇場にとどまらない。机の下ではもっぱら足を踏む/踏まないの激しい攻防が繰り広げられ(たとえば教室ではないが、ファミレスではじめて出会った大河と亜美ちゃんの、もしくは別荘に向かう電車内での二人のやりとり)、他方で木製の平坦な戦場の上ではお弁当の具をめぐる熾烈な争奪戦が白米を赤く染める。互いに隣り/向かい合った席は手(足)を伸ばせばすぐ届く距離にあるから、蹴るのも殴るのも授業中よりずっと簡単だ。竜児とおそろいのお弁当であることを指摘された大河は、何と答えたものやら分からず口ごもる彼のおかずを一瞬にして平らげ、それ以上の詮索を封じるという離れ業をやってのけた。
とにかくここで僕が重要だと考えているのは、一方で授業中の教室におけるコミュニケーションの困難さとそれを克服するための投瓶通信、そして他方ではお昼休みの対面状況におけるハイコンテクストで重層的なコミュニケーションという両極的なあり方である。教室のなかには基本的にこの二つの極端なコミュニケーションの作法が織り込まれている。
さて満腹になって教室を出ると細長い廊下がある。廊下もまたキャラクターを翻弄する重要なトポスであり、教室のそれとはまたちがったコミュニケーションのかたちが姿を現す。第一に廊下は移動のための一時的な空間であり、すれ違ったり追い抜いたりする空間である。正面からやってくる人間に対しては軽く会釈して目を合わせるなりそらすなりしなくてはならないし、下手をしたら挨拶代わりに殴られるか、すれ違いざまに強烈な皮肉のひとつも言われる可能性だってある。そういえば僕らの亜美ちゃんがみのりんに対して「罪悪感はなくなった?」と言い放ったのも、二人が廊下ですれ違う瞬間だった。痛いところを突かれたみのりんは一瞬固まり、遠ざかって行く亜美ちゃんに反論する機会を失ってしまう。さらにはみのりんと気まずい状態の竜児が、向こうからやってくる彼女にまともに挨拶さえできなかったのも同じく廊下である。要するに立ち止まることが許されないこの空間では、何事にも素早い決断力が求められるというわけだ。そのむかしイギリスでは交通の発達にともなって、相手の顔から性格や人間性を読み解く観相術が流行ったそうだが、それというのも細い道の向こう側からやってくる人間が追いはぎや強盗でないかどうか判断するためだったらしい……いえ、ウソです。
この調子で延々と妄想することもできるだろう。廊下のつきあたりの階段とか、自動販売機のあいだの隙間とか、ファミレスとか喫茶店とか竜児の家とか。しかしながらこの辺で切り上げるのが僕の能力的にも体力的にも賢明というものである。そんなことより早く亜美ちゃんの水着シーンを無限リピートする作業に戻りたい。そこで最後にひとつだけ、僕が大好きなシーンを取り上げることにしよう。あれはたしか竜児が自宅で大河の偽乳を制作しているところだったと思うが、大河がちゃぶ台の向こう側に半ば背を向けて座り(彼女はテレビゲームをしていた)、竜児がちゃぶ台の横で作業する様子を横から描いたシーンだった。いわば背面状況である。二人は背景のちゃぶ台を挟んで異なったレイヤーに存在している。ところがテレビの前に座ってそのシーンを眺めていた僕ら視聴者の目には、ここが重要なのだが、あたかも二人が向かい合って話しているかのように見えたはずだ。あのシーンはそういう角度から描かれていた。二人は互いに目を合わせることなく何気ない会話を交わし、すぐに別のシーンへと切り替わってしまう。けれどもそのたった数秒のカットのなかには、やがて結ばれることになる竜児と大河の未来のすべてが描き込まれていた。亜美ちゃん派としてはいささか複雑な心境であることは否めないが……。