てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(0)

はじめに

個人的な話をすると、僕がもう一度アニメを見はじめたのは、ごく最近のことでした。家の近所にレンタルビデオ屋ができ、洋画を見るか邦画を見るか、はたまた韓流ドラマを見るか悩んだ末に、何となくアニメを借りてみたのがきっかけで、それからは毎日のようにアニメを観賞する日々がはじまりました。

またちょうど時期を同じくして、アニメやマンガやゲームといった、広い意味でのオタク的カルチャーをめぐる言説にも興味をもちました。もともと現代思想好きだったことも手伝って、東浩紀周辺のオタク批評やサブカル評論を読みはじめることになります。

2001.9.11と2011.3.11のあいだ、2000年代を悶々と過ごした若者たちの多くは、多かれ少なかれ、似たような経験を共有しているのではないかと思います。そしてそうだとすれば、いわゆる「ゼロ年代」の批評的な言説に対して、僕が抱えているある種の違和感のようなものも、きっと理解してもらえるにちがいない。

単刀直入に言うと、アニメやマンガやゲームに対して、イデオロギー批判めいたことを言う(言われる)のはもうたくさんだ、ということです。「セカイ系」は古いとか、「バトルロワイヤル系」は避けられないとか、「日常系」はぬるいとか、「ループ系」が熱いとか、そういう不毛な議論の応酬からは、いい加減に距離をおきたい。それは個人的な趣味や嗜好の問題であるべきで、むしろいま必要なのは、作品の勝ち負けや善し悪しをめぐる争いではなく、これまで自分とは異なった島宇宙に生きてきた他人と向き合わざるをえないときに、そこで必要とされる生の作法、すなわち具体的には「寛容さ」の問題であるはずです。

少し話が逸れましたが、たしかに「〜系」とひとまとめにすることで、アニメもマンガもゲームも小説も映画もドラマも、全部一緒くたに語ることができる、というメリット(?)はあります。しかしそこで語られているのは、結局のところ「物語narrative」でしかない。小説ならともかく、本来アニメやマンガやゲームにとってもっとも重要であるはずの、イメージの次元がすっぽり抜け落ちてしまう。それでは困ります。少なくとも、ひどくアンバランスであるように見える。

さっとひらめき、通り過ぎていくイメージをつかまえること。それはおそらく、バラバラに壊れたゼロ年代のイメージであり、重ね合わせることで見えてくる未来のイメージでもあるでしょう。そのために僕は、これから何回かに分けて、いくつかの二次創作的な概念を紹介しようと思います。なかでも議論の中心に位置するのは、「多層化するスーパーフラットmultilayered super flat」や「マルチレイヤー・リアリズムmultilayer realism」といった言葉からも明らかなように、アニメやゲームにおける「レイヤーlayer」の問題です。

なぜレイヤーが重要なのか。ポイントは二つあります。第一に、アニメやゲームにおける二次元的なイメージは、古典的な絵画や写真、映画とはちがって、いくつかのレイヤーを合成することで成立しています。イメージの「多層性multilayeredness」に注目することで、これまでとはまったく異なった角度から、イメージを読み解くことができる。とりわけ「前景foreground」と「後景background」、複数のレイヤー間の「ズレslippage」や「隙間interval」の問題は、きわめて重要な視点を提供してくれるはずです。村上隆の「スーパーフラットsuper flat」概念と、それに対するトーマス・ラマールの批判を参照しながら、「多層化するスーパーフラット」の輪郭を簡単にスケッチしてみたい。

第二に、イメージの多層性という問題は、「聖地巡礼pilgrimage」の流行や「拡張現実augmented reality」の実用化にともなって、しだいに僕たちの現実認識とリンクしはじめています。現実を複数のレイヤーの重なりとして認識する、という知覚のモードが、アニメやゲームの多層的なイメージと密接に関連していることは明らかです。そこではフォトショップで加工したハイパーリアルな映像や、あるいは実際の風景がレイヤーとして取り込まれ、二次元的なキャラクターの背後におかれていました。要するに「マルチレイヤー・リアリズム」とは、質的に異なった複数のレイヤーを重ね合わせる手法であり、多義性と多様性を思考するための、新しいメタファーを導入することを意味します。

別にオリジナルな議論というわけではないし、どこに着地するのかもさっぱりわかりませんが、どこかの誰かに届いたらいいなと思います。欲を言えば、震災後の生をめぐる問題にまでつなげていきたい。続きます。