多層化するスーパーフラット(2.1)

 村上の「スーパーフラット」概念に対する、理論的側面からの包括的な批判は、日本の現代美術とはかなり異なる文脈から現れた。アニメ研究者のトーマス・ラマールは、宮崎駿をはじめとする現代日本のアニメについて論じた著書『アニメ・マシーン』(2013年)のなかで、スーパーフラットを批判的に取り上げている。

 ラマールに言わせると、スーパーフラットについての村上の議論が「日本の近代についての問い、および日本の近代と西洋の近代との関係についての問いを扱うことを避けようとしているのは何よりも明らかである」*1。というのも、そこでは「西洋近代 vs. ポストモダンな日本」という二項対立的な枠組みに焦点が当てられ、アニメーションの「運動」についての考察が抜け落ちているからだ。

 すでに見たように、スーパーフラットにおいて強調されるのは、運動としてのアニメーションではなく、画面の平面的な「構図」とそれを追う走査的な視線の動きである。そして、その日本的な独自性を主張するために、西洋由来の一点透視図法を用いた奥行きのある構図が対置させられている。つまり「スーパーフラットというまさにその観念が、一方では平板な構図もしくは平面的な構図という日本の伝統と、他方では一点透視図法、線遠近法もしくは幾何学遠近法という西洋の伝統との根本的な差異の設定に依拠している」*2のだ。

 けれども、ラマールが指摘するように、この対立図式はいささか安易であり、適切とは言いがたい。なぜなら、村上が仮想敵として想定する一点透視図法ないし幾何学遠近法は、近代的な主体のあり方を生み出す唯一のメカニズムというわけではないからだ。ラマールはミシェル・フーコーやジョナサン・クレーリー、フリードリヒ・キットラーらの議論を参照しながら、それがいかに問題含みの前提であるかを論証している。

 「階層的な奥行きという近代的な西洋の構造(幾何学遠近法)と、階層的な分配というポストモダン的な日本の構造(スーパーフラット)」*3という構図に由来する二項対立にこだわるかぎり、江戸時代の絵師と現代のアニメーターが等価に並ぶ、ポストモダンな日本の礼賛に陥ることは避けられない。そこからは、主体性や規律化、権力、テクノロジーといった、日本の近代をめぐるもろもろの問いが抜け落ちてしまう。

 ラマールによる批判は、おおむね次のようにまとめることができる。

 

村上は全面的に、イメージの構造的な構図という観点から思考している。彼は、運動としてのアニメーションについてはほとんど何も言っていない。[……]アニメーションや、物理的な連続としての動画に内在している力よりも、イメージの構図の技法の方が強調されているのである。言うまでもなく、動画を排除することで、村上は近代や近代テクノロジーについての問いを効果的に排除している。それによって彼は、構図のレベルでの江戸美術と現代のオタク・アニメの類似性を――あたかもそれらが近代をはるかに超えているものであるかのように――容易に主張することができているのである。*4

 

 スーパーフラットに対するこのような批判は、必ずしもラマール独自のものというわけではない。しかし、彼の議論が私たちにとって重要なのは、「西洋近代 vs. ポストモダンな日本」という対立図式をキャンセルするための道すじとして、村上が排除したとされる「動画」、すなわち「運動としてのアニメーション」という契機が提示されているためだ。そして、この点において「レイヤー」がきわめて大きな役割を果たしている。

 村上のいうスーパーフラットな画面は、先に見たとおり、複数のレイヤーを「結合」することによって成立する。それは言い換えれば、個々のレイヤーのあいだにある「隔たり」を圧縮し、消去することにほかならない。その結果、鑑賞者の視線はそれぞれのレイヤーを区別して階層化することができなくなり、葛飾北斎木版画金田伊功のアニメーションに見られるような「ジグザグに走り、弧を描き、長く伸びる線」に従って、「目は絶え間なくスキャンしながら、イメージの表面の上をさまようよう促される」*5

 これに対し、ラマールは『アニメ・マシーン』のなかで、スーパーフラットとは異なるレイヤーの編集、つまり「コンポジティング」のあり方を詳細に論じている。その主要なひとつである「開いたコンポジティング」は、セル・アニメーションにおけるレイヤー間の隔たりを強調する方法であり、その基本的な制作手法と密接に関わっている。

 デジタル化される以前のセル・アニメーションは、透明なセルロイド・シートにキャラクターや背景などを描き、それらを層状に重ね合わせることでつくられる。これにより、前景・中景・後景といった複数のレイヤーから構成される「多平面的イメージ」が生み出され、それらを別々に操作することによって、さまざまな「運動」の感覚を引き起こすことができる。

 開いたコンポジティングの最もわかりやすい例は、列車や自動車の窓とそこから見える風景のシークエンスである。手前のレイヤーに窓、背後のレイヤーに風景を描き、後者だけを1ショットごとに横に動かすことで、あたかも移動する列車の窓から風景を眺めているかのような印象がもたらされる。「それはまるで、列車の速度によって、風景が別々のレイヤーや平面へと分離されたかのようだ。そして、窓の外を見ながら加速していくにつれ、実際にレイヤー間の隔たりが感じられるようになる」*6。前景と後景というレイヤー間の隔たりを利用して、車窓に流れる風景という運動の感覚が生み出されているわけだ。

 ラマールの議論は、アニメーションの運動という観点からすると、スーパーフラットを特徴づけるレイヤーの「結合」とは別のコンポジティングのバリエーションがありうることを示している。そこでは、複数のレイヤーのあいだの差異が消去されるのではなく、逆に強調され、それらが別々に操作されることで、ひとつの運動の感覚を呼び起こす。

 けれどもこのことは、アニメーションの運動にのみ限定されるべきではない。なぜなら、いまやレイヤーを用いてつくられるのは、狭義のセル・アニメーションだけではないからである。Photoshopをはじめとする画像編集ソフトウェアによって制作される図像の多くが、文字通りいくつもの「レイヤー」を結合することでつくり出される。レイヤーは、アニメーションにおける運動の感覚をもたらす前提条件であると同時に、デジタル環境下で制作されたキャラクター・イメージ一般の基礎的な「メディウム」となりつつある。そして、ここで取り上げる現代美術作家たちは、このレイヤー化されたデジタル制作環境に浸りつつ、そのことに自覚的であろうとするという点で、ポスト・スーパーフラットとも言うべき新たな方向を指し示している。

 レイヤーを結合するのではなく、レイヤーへと分解すること。レイヤーのあいだの隔たりを消し去るのではなく、目に見えるものに変えること。圧縮された超平面とは逆方向に向かう、多層的な諸平面の解凍と可視化。私たちはその試みを暫定的に「マルチレイヤード」と呼ぶことにしよう。

*1:トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』、藤木秀朗監訳・大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年、152頁。

*2:同書、150頁。

*3:同書、152頁。

*4:同書、150頁。

*5:同前。

*6:同書、30頁。