多層化するスーパーフラット(1.1)

 「スーパーフラット」という概念を提唱したのは、周知のように、日本を代表する芸術家のひとりである村上隆だ。いまからおよそ20年前、村上は江戸時代の屏風絵から現代のアニメや漫画のワンシーンまでを一堂に集めた「スーパーフラット展」を開催した。

 同展の図録に収められた「スーパーフラット日本美術論」のなかで、彼は辻惟雄の『奇想の系譜』(1970年)を参照しつつ、辻が取り上げる江戸時代の絵師たちの作品と現代日本のアニメーションとのあいだに、類似した視点運動が見られることに注目する。村上によれば、「一枚の絵が観客に対して作り出す視覚の動きのスピード感とスキャンのさせ方、そこに連動する情報量のあんばいが、辻氏の指摘するアーティスト達のコンセプトと大きく符合するのではないかという仮説」*1こそが、スーパーフラットの出発点となったという。

 村上は伊藤若冲や曽我蕭白狩野山雪といった絵師の作品を取り上げながら、画面いっぱいに描き込まれたさまざまなモチーフが、どのようにして観賞者の視線を翻弄し、ジグザグに滑走させ、釘付けにするか、きわめて詳細にシミュレートしている。さらに彼は、アニメーターの金田伊功が手がけたダイナミックな爆発シーンやエフェクトの数々に、これら奇想の画家たちとまったく同じ、走査的な視点運動を見出す。

 村上は、これらの「スーパーフラット」な画面の特徴を、次のように要約している。

 

彼らの画に対するアプローチはきわめて日本的であり、一点透視図法的画面作りはまったく考えられておらず、与えられた四角い平面に添った垂直水平軸を基本として構成された。メイン画をアンバランスに描き、四方に拡がるスクエアの隅に向かって、最低限のバランスをとっていく。[……]この超平面的かつぎりぎりの画面の力配分の構造、画に視線をスキャンさせてゆく目の動きによって頭の中に組み換えられる四角いイメージ。これを、私は「super flat」的なる絵画の視点運動のキーコンセプトだと言いたい。*2

 

 つまり、村上のいうスーパーフラットとは、透視図法的な三次元のイリュージョンを出現させたり、背後の超越的な現象を暗示したりするものではない。そうではなくて、四角い画面全体をくまなくスキャンさせるかのように、鑑賞者の視線を誘導して縦横無尽に滑走させる「超平面的」な視覚的経験にほかならない。

 けれども、ここで注意すべきなのは、スーパーフラットがたんなる「画面作り」や「視点運動」に終始するわけではない、ということである。そこには、ある特徴的なメタファーによって語られる「超2次元的」な「フィーリング」がともなう。

 この感覚について村上は、同じ図録の冒頭に置かれた「Super Flat宣言」のなかで、コンピュータ・グラフィックの制作プロセスにたとえながら、次のように表現している。

 

社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超2次元的。この感覚は日本の歴史の水面下を澱みなく流れつづけ、とくに美術にわかりやすく顕在化してきた。現在では、強力なインターナショナル言語となった日本のスーパーエンタテインメント、ゲームとアニメにとくに濃密に存在している。そのフィーリングを説明すると、例えば、コンピュータのデスクトップ上でグラフィックを制作する際の、いくつにも分かれたレイヤーを一つの絵に統合する瞬間がある。けっしてわかりやすいたとえではないが、そのフィーリングに、私は肉体感覚的にきわめて近いリアリティを感じてしまうのだ。*3

 

 このなかで村上が、スーパーフラットの出現ないし生成の瞬間を「レイヤー[=層]の結合」というメタファーで語っていることに注目しよう。先に参照した「スーパーフラット日本美術論」でも、伊藤若冲の《群鶏図》が引き起こす視線の動きについて論じた箇所で、やはりレイヤーのメタファーが登場する。それによると「鶏の正面の目によって、画面がフィックスされ、ジグザグに走査された画像がカチッと結合される瞬間、レイアー[原文ママ]の結合的なメカニズムが働く」*4。つまりスーパーフラットとは、本来バラバラに存在しているいくつものレイヤーを、走査的な視点運動によって一枚の平面へと圧縮する、その瞬間に生じる「フィーリング」のことなのだ。

 レイヤーを結合する瞬間、スーパーフラットが出現する。あるいはスーパーフラットな感覚は、レイヤーの結合によってもたらされる。このきわめて示唆的なメカニズムは、しかしながら、日本国内の現代美術の文脈では、これまでまったくと言っていいほど注目されてこなかった。「スーパーフラット展」は大きな反響を呼び、さまざまな雑誌で特集が組まれ、座談会やシンポジウムが開催されたが、多くの場合そこで取り上げられたのは、スーパーフラットという理論的枠組みそのものではなかった。そうではなくて、村上自身のマーケティング戦略――高級芸術と大衆芸術がフラットに並べられる現代日本の文化状況を逆手にとり、欧米に対する逆説的な優位性を主張すること――をどのように評価するかが、もっぱら議論の焦点となったのである*5

 言ってみれば、スーパーフラットはその「コンスタティブ」な側面よりも、「パフォーマティブ」な側面ばかりが取り上げられてきたのだ。松井が「マイクロポップ」による理論的更新の必要性を唱えたのも、このような受容のあり方が背景にあった。そして、いまや私たちは、マイクロポップとは別の仕方でスーパーフラットを乗り越える、その理論的な手がかりをつかみかけている。そこで鍵となるのが「レイヤー」である。

 スーパーフラットな感覚は、複数のレイヤーを「結合」することによって発生する。とすれば、それらを再び「分解」することができれば、そして「結合」とは別の仕方で操作することができれば、スーパーフラットとはまったく異なる地平が開けるはずだ。そこではスーパーフラットは、レイヤーのうごめきから立ち現れてくる、さまざまな可能性のうちのひとつでしかない。一見平坦な海面が無数の波のうねりからなるように、スーパーフラットもまた、いくつものレイヤーの運動から合成された見かけ上の平面にすぎないのである。(続)

*1:『Super Flat』、マドラ出版、8頁。

*2:同書、14頁。

*3:同書、1頁。

*4:同書、8・10頁。

*5:たとえば、「Superflat Symposium 超平面的、スーパーフラット徹底討論。 原宿フラット全記録」(『美術手帖』2001年2月号、163~193頁)などを参照。