てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈2〉

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 『けいおん!!』は『まんがタイムきらら』に連載中の萌え四コマを原作とするアニメ『けいおん!』の第二期として制作され、前作に続いて「社会現象」と言われるほどの大ヒットを記録したアニメである。第一期から引き継がれた高いクオリティや、モデルとなった旧豊郷小学校への「聖地巡礼」の過熱化、さらには作中で使用されたさまざまな小道具——たとえば楽器や文房具といった品々だが、これらを「聖地」になぞらえて「聖遺物」と呼ぶことができるかもしれない——を次々と特定する熱狂的なファンの出現は、まさに無数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を拡張しようとする、空気系アニメのひとつの到達点と呼ぶにふさわしい。

 キャラ萌えに見られる動物的な欲求と人間的な欲望の往復運動は、両作品において極限まで圧縮・洗練され、「あずにゃんぺろぺろ」という粘膜接触のメタファーによる、オタク同士の果てしない連鎖的コミュニケーションへと進化する*12ちゃんねるツイッターで「ぺろぺろ」がどこまでも続いていく(あるいは「非公式RT」されていく)さまは、「萌え」に見られる植物的な生成のモチーフを飛び越え、オタクという「データベース的動物」たちの純粋な毛づくろい的コミュニケーションを思わせる*2。それはまさに「終わりなき日常」の象徴とも言うべき光景である。

 この希有な作品を手がけたのは、同じく大ヒットしたライトノベル原作アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』や、空気系の文法を確立した『らき☆すた』、あるいは『AIR』(2005年)『Kanon』(2006年)『CLANNAD』(2007—2008年)といったkey作品のアニメ化で知られる京都アニメーション(いわゆる「京アニ」)である。このラインナップは実はきわめて重要な意味をもっているのだが、それについてはまた後で詳しく述べることにして、まずは第1期『けいおん!』の内容を簡単に紹介しておこう。これといって特技も趣味もない主人公の平沢唯は、高校入学をきっかけに勘違いから軽音部へと入部し、そこで出会った仲間たち(同学年の田井中律秋山澪琴吹紬と、第八話から登場する後輩の中野梓)とガールズバンド「放課後ティータイム」を結成する。唯たちは楽器の練習そっちのけで放課後の音楽室に集い、お茶とお菓子を満喫し、女子高生らしいたわいない会話に花を咲かせる。かつて東は「『けいおん!』の世界は無時間的な感じがする」と評したが*3、たしかに第1期で描かれていたのは、彼女たちの「終わりなき日常」以外の何ものでもなかった。放課後の光のなかで戯れる少女たちの楽園——つまりはそれが、空気系の極北としての『けいおん!』である。

 しかしながら、杉田uが「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」のなかで鋭く指摘しているように、私たちは第1期『けいおん!』の最終回(第12話)「軽音!」をきっかけとして、唯たちの「日常」が決して「無時間的」な楽園ではないことに気づく。家に忘れたギターを背負い、仲間たちが待つ学校へと急ぐ唯の姿が、第一話の登校シーンを彷彿とさせる演出で描かれる。「1話では転んで尻餅をつき、ことあるごとに道草を食っていた唯が、12話においては転ばず、止まらず、休まず、全力で疾走していく」*4。これまで天真爛漫な自由人としてふるまってきた唯が、迷惑をかけた軽音部のメンバーに謝罪し、感きわまって涙ぐむとき、私たちはそこにかすかな「成長」の痕跡を認めずにはいられない。

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くかに見える「終わりなき日常」は、しかしゆるやかな螺旋を描いて、少女たちを「終わり」へと導いていく。

 

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 第1期『けいおん!』は、主人公である唯の「成長」を暗示して幕を閉じた。これに対して第二期『けいおん!!』では、やがて訪れる「終わり」の予感が、少女たちの「終わりなき日常」にいっそう色濃く影を落としている。そして私たちもまた、ひとりの可憐な少女のまなざしを通じて、二重化された「終わりなき日常」の終焉に立ち会うことになるだろう。

 「放課後ティータイム」のギター担当である中野梓こと「あずにゃん」は、第2期『けいおん!!』の最終回(第24話)「卒業!」が近づくにつれて、避けられない「終わり」を強く意識しはじめる。あずにゃん以外のバンドメンバーは、みんな卒業していなくなってしまうからだ。唯たち三年生はそろって同じ大学に進学し、ひとり学年のちがう彼女だけが、誰もいない放課後の音楽室に残される。「終わりなき日常」の分断。だがここで重要なのは、孤独な「終わり」におびえるあずにゃんのまなざしが、『けいおん!!』を見る私たち視聴者の視線と重ね合わされている点である。

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こちらを振り返り、少し困ったような顔で微笑むあずにゃん。第1話からすでに最終回の悲劇を予感しているかのようだ。淡くぼやけた背景が市橋織江の写真を思わせる、美しいカットである。「けいおん!!(2期)第1話キャプチャー画&プチ感想」『まじきち!!!』(http://blog.livedoor.jp/andewa/archives/51887627.html)より引用。

 杉田uは先の論考のなかで、第二期ではあずにゃんの主観視点——彼はそれを「あずにゃんカメラ」と名づける——が強調されていることに注意を促している。「もともと梓は実直に音楽に取り組む姿勢を持つ、反・空気系的な存在として放課後ティータイムに緊張感をもたらす役割を担っていたが、さらに二期においては[…]梓が軽音部の三年生四人と切断された状態で行動するエピソードがいくつも挿入され、そしてことあるごとに三年生四人を「見送る視点」「追いかける視点」が強調されている」*5。つまり『けいおん!!』では、杉田uのいう「あずにゃんカメラ」を媒介として、あずにゃんにとっての「終わり=最終回における先輩たちの卒業」と、私たち視聴者にとっての「終わり=『けいおん!!』の放送終了」がシンクロし、強烈な感傷を呼び起こすように仕組まれているのである。それは言い換えれば、「終わりなき日常」を二重化する空気系の戦略を逆手にとり、私たちの「日常」へと拡張された「終わり」を突きつけることにほかならない(しかも原作コミックまで同時に終わらせるという念の入れようである)。多くの熱狂的なファンが「もう死ぬ」とか「生きていけない」などと大げさに騒いでいたのは、キャラ萌えを安定して供給してくれる空気系の「お約束」——たとえテレビ放送が終わっても、彼女たちの平和な日常はいつまでも続く——が裏切られ、はしごを外されたように感じたせいだろう*6。これは「早く続きを読みたい(結末を知りたい)」という一般的な物語の受容のされ方とは真逆の現象である。『けいおん!!』は終わる。あずにゃんは、そして私たちは逃げられない。

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階段を駆け下りる唯(右)と律(左)を追いかけるあずにゃんの主観視点が採用されている。「待望のライブ回で新曲お披露目!『けいおん!!』20話感想まとめ」『萌えオタニュース速報』(http://otanews.livedoor.biz/archives/51568944.html)より引用。

 やがて卒業式の日がやってくる。あずにゃんは終始上の空といった様子で、柱に額をぶつけて軽い怪我をする(そして絆創膏を貼る——まるで本音を押し殺すように)。それでも先輩たちの卒業を精一杯祝福しようと、あずにゃんはひとりひとりにお礼の手紙を手渡し、そしてお祝いの言葉をかけようとした瞬間、彼女はこらえきれずに泣き崩れてしまう。「卒業しないでください…もう部室片づけなくても、お茶ばっかり飲んでても叱らないから、卒業しないでよぉ…!」。額の絆創膏が外れるのもかまわず、嗚咽するあずにゃん。唯は彼女の額にそっと新しい絆創膏を貼ってやり、軽音部の五人を象徴する桜の花と、一枚の手作り合成写真をプレゼントする。それは第一期『けいおん!』の第一話で、唯が入部を決意したときに撮影した写真であり、唯・律・澪・紬の集合写真の上に、丸く切り取られたあずにゃんの顔写真が貼りつけられていた。

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あずにゃんの顔写真が無造作に切り抜かれ、貼り合わされた啓示的なイメージ。「ひとつの時代が終わってしまった・・・『けいおん!!』24話最終回感想まとめ」『萌えオタニュース速報』(http://otanews.livedoor.biz/archives/51579428.html)より引用。

 それから卒業生四人は、この日のためにひそかに練習してきた新曲を披露する。「天使にふれたよ!」と題されたその曲は、音楽室の柔らかな「空気」を伝い、テレビの前のほこりっぽい「空気」を震わせる。あずにゃんは愛らしい瞳に大粒の涙を浮かべている。「あずにゃんカメラ」ではない、しかしひどくぼやけた視界のなかで、私たちの二重化された「日常」が共振し、午後の穏やかな光に満たされた「永遠の放課後」が出現する——そのとき私たちは、たしかに「天使にふれた」のである。

 

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 『けいおん!!』最終回をどう解釈すべきだろうか。杉田uによれば、「『けいおん!!』は放課後ティータイムの解散を回避することで空気系の楽園を温存するのと同時に、[現実と虚構の対立そのものに向けられた]垂直方向の視線である「あずにゃんカメラ」を視聴者に接続することで、空気系的な想像力を宙づりにもしている」のだという*7。だが私たちは、そこからさらにもう一歩踏み込むことにしたい。

 たしかに杉田uが指摘するように、アニメ放送の最終回では、原作コミックの「卒業式当日に梓が軽音部の三年生と別れた後に、[梓と同学年の友人]憂と純が軽音部に入部する様子」がカットされており、そのかぎりであずにゃんは「救済」されていないと言うこともできる*8。けれどもここで言われている「救済」とは、軽音部の存続による「終わりなき日常」の再延長というほどの意味であり、避けられない「終わり」を引き受けることではなかった。私たちはむしろ後者の意味において、「救済」という言葉を定義することにしよう。「終わり」に直面したあずにゃん(と私たち)に、果たしてそのような「救済」は訪れたのかどうか——『けいおん!!』に賭けられている問いは、きわめて深刻な重みをもっている。

 「天使にふれたよ!」の演奏が終わると、あずにゃんはおもむろに立ち上がって拍手し、感きわまって涙する——かと思いきや、私たちが予想だにしなかった言葉を口にする。「あんまり上手くないですね!」。この意表をつくセリフは、第1期『けいおん!』の第1話「廃部!」において、軽音部への入部をためらう唯が、律・澪・紬の演奏——それが「翼をください」だったこともきわめて示唆的ではある——を聴かされたときの、素直すぎる感想とまったく同じものだ。そのとき彼女は、まだ軽音部どころか桜が丘高校に入学してさえいなかったというのに。もちろんこれはただの偶然かもしれないし、もしかしたらすでにそのことを先輩から聞かされていたのかもしれない。しかしながら私たちは、このありそうにない偶然の一致を「救済」の指標として理解することができるのではないか。それは「終わりなき日常」の終わりに訪れた、ごく小さな「奇跡」だった。

 この際はっきり言ってしまおう。「天使にふれたよ!」という美しい曲のタイトルが示唆しているように、あずにゃんは文字通りの意味で「天使」だったのだ——それもおそらく、記憶喪失の。

 あずにゃんの顔写真が貼られた『けいおん!』第1話の集合写真は、一見すると荒唐無稽に思われる私たちの解釈を裏づけてくれる*9。このマルチレイヤーなイメージが表向き意味しているのは、卒業しても変わることのない「放課後ティータイム」の精神的な絆であり、「離れても心は一緒だよ」というありふれたメッセージにすぎないように見える。しかしそうだとするなら、なぜわざわざあずにゃんの顔写真を丸く切り抜き、彼女がまだ入部していなかった頃の記念写真に貼りつけたのだろうか。そこには異なったレイヤー間の認知的なズレが露呈している。これでは「放課後ティータイム」の一体感を演出するというより、むしろあずにゃんの疎外感を際立たせてしまうのではないか——卒業写真を撮影する日に欠席した生徒のように。

 しかしそうではないのだ。この奇妙な集合写真が暗示しているのは、あずにゃんが『けいおん!』の第1話から、つねにすでに唯たちと共にあったということなのだから。それは記憶の捏造や過去の改変といった意味ではない。そうではなくて、二種類の写真が貼り合わされたマルチレイヤーなイメージは、『けいおん!』における「終わりなき日常」が、はじめから画面の内と外で二重化されていたことを示している。言い換えるとこういうことだ。あずにゃんが映りこんでいないあらゆるカット、あらゆるシーンは、実はすべて「あずにゃんカメラ」を通して見た光景だった。彼女は私たちと一緒に、軽音部の先輩たちをずっと見守ってきたのだ。あずにゃんは拡張された日常のいたるところに存在する。だからこそ彼女は、知りえないはずの唯のセリフを『けいおん!!』最終話で繰り返すことができたのである。

 志津Aは「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」と題された論考のなかで、第一期『けいおん!』のいたるところに、唯たちの「充実した時間を遠くから眺めるような視点」が潜在することを指摘している*10。それは放課後の部室に差し込む「暖かい午後の日差し」そのものであり、登場人物たちの頭越しに「日常それ自体のうちに輝きが見出せることを遠くから再発見しているまなざし」である*11。志津Aはこの姿なき視線を「登場人物ひとりひとりのまなざし」として結論づけているが、むしろ私たちはそこに、『けいおん!』を眺める私たち自身の、そして遍在する天使のまなざしを見てとることができるのではないだろうか。彼が言うように「アニメを見ることそれ自体が現在の風景を複数化することと関わってくる」のだとすれば、私たちに見られている『けいおん!』の風景もまた、絶えず複数化され、重ね合わされていると見るべきだろう*12

 このように考えるなら、第二期『けいおん!!』の終盤で多用される「あずにゃんカメラ」もまた、たんなる感情移入のための仕掛けなどではありえない。それはマルチレイヤーな集合写真と同じように、あずにゃんが二重化されたレイヤーのあいだを往復しうる、この世ならざる存在であることを示唆していたのだ。それは派手な「物語」をあえて排除し、キャラ萌えに特化し、私たちの「終わりなき日常」に寄り添ってきた空気系アニメだからこそ実現しえた「奇跡」だった。「天使にふれたよ!」の歌詞にはこうある。「きっとあの空は見てたね/何度もつまづいたこと/それでも最後まで歩けたこと」。「空」から見ていたのは私たち自身であり、そしてほかならぬ「天使」であるあずにゃんだった。

 やがてどうしても軽音部に入りたくなったあずにゃんは、おそらく天使だった頃の記憶と引き換えに、桜ヶ丘高校の新入生として『けいおん!』本編に登場する。ヴィム・ヴェンダースのあまりにも有名な映画『ベルリン天使の詩』を思い起こしてもいいだろう。唯があれほど執拗にあずにゃんに抱きつき、ほおずりし、過剰なスキンシップをはかっていたのは、彼女が本来「ふれる」ことのできない存在——天使だったからではないか。ただそのようにして唯は、あずにゃんを『けいおん!』レイヤーにつなぎとめ、画面の外へと浮き上がってしまうのを防いでいたのだ。あるいは私たちが「あずにゃんぺろぺろ」と唱えるとき、それは動物的な欲求の現れでも、あるいは人間的な欲望の現れでもなく、遍在する「天使にふれ」ようとする、ひとつの崇高な「祈り」だったのではないだろうか*13

 あずにゃんは『けいおん!!』最終回において、ようやく自分が何者であるかを——とはつまり「忘れ物」を——思い出す。「でもね、会えたよ!すてきな天使に/卒業は終わりじゃない/これからも仲間だから/大好きって言うなら/大大好きって返すよ/忘れ物もうないよね/ずっと永遠に一緒だよ」。いまや「放課後ティータイム」は、そして私たちは文字通りの意味で「ずっと永遠に一緒」である。あずにゃんはいたるところに存在する、そのような天使たちのひとりなのだから。

 そうだとすれば、『けいおん!!』第20話「またまた学園祭!」における「放課後ティータイムは、いつまでも、いつまでも、放課後です!」という唯のセリフは、「終わりなき日常」を擁護し、空気系の楽園を温存しようとする(不可能な)宣言として理解すべきではないだろう。というのも最後の学園祭ライブの後、音楽室で号泣する唯たち三年生は、逃れられない「終わり」が迫っていることをたしかに知っていたからだ。つまり彼女のいう「永遠の放課後」が意味するものとは、あらかじめ「終わり」を内包した「永遠に終わりゆく日常」にほかならない。志津Aが指摘していたように、そこにはすでに遠くから——とはつまり「終わり」の向こう側から——遡及的・回顧的に眺める天使のまなざしが織り込まれていた。「放課後」とはそのような特異な時間のメタファーである*14。そこでは美しく理想化された日常空間と、風雨にさらされ崩れ落ちた廃墟の光景が二重写しになっている。

 やがて訪れる「終わり」の予感に浸透されたとき、はじめて私たちは「奇跡」の到来を待ち望むことを許される。放課後の静謐な「空気」のなかに、終わりゆく「日常」の片隅に、かすかな「救済」の可能性がはらまれている——弱々しい光を反射してキラキラと輝く、細かなほこりのように。それは認識の強い光の下では決して見ることができない。ただ「終わり」を予感する伏し目がちなまなざしだけが、救済のわずかな予兆を照らし出すことができるのだ。放課後の長い影が延びるとき、「終わり」が「永遠」へと反転する。天使が舞い降りる。

 

 あずにゃんは本当に天使だった——これは一見してそう思われるほど、荒唐無稽な解釈ではない。なぜなら、これまで京アニが手がけてきた美少女ゲームを原作とするアニメにおいては、奇跡の到来を予感させる「天使」のモチーフが何度も登場し、そのつど重要な役割を果たしてきたからである。たとえば『Kanon』のメインヒロインである月宮あゆは、天使の羽根がついた小さなリュックサックをいつも背負っている。あるいは『AIR』に登場する「翼人」は、その名の通り天使のような翼をもった種族である。さらに京アニ制作ではないが、『Kanon』や『AIR』や『CLANNAD』のシナリオライターとして知られる麻枝准が脚本を手がけたアニメ『Angel Beats!』(2010年)にも、天使の翼をもったヒロイン立華奏が登場する。

 「天使にふれたよ!」という空気系らしからぬ曲名は、これらの「泣きゲー」と呼ばれるkey作品の系譜を、暗黙のうちに参照しているように思われる*15。そもそも東や氷川が言うように、男性キャラクターを徹底して排除する空気系アニメの源流に「美少女ゲームの影響」があるのだとすれば、京アニと密接な関係にあるノベルゲームの文脈に引きつけて『けいおん!!』を理解しようとする試みは、決して不自然なものではない。

 物語に介入することができず、ただ見守ることしかできない「あずにゃんカメラ」の不能感は、たとえば『AIR』第三部におけるプレイヤー=カラス視点のそれとほとんど同じものだと考えられる。そこではプレイヤーは無力な「視線」であることを義務づけられ、死にゆくヒロインを救うことができない。「選択肢を奪われ、観鈴や晴子とのコミュニケーションも断たれ、システム的にもシナリオ的にも作品内世界への介入手段を一切剥奪された私たちが感じるのは、欲望の解放ではなく、むしろ圧倒的な不能感である」と東は指摘している*16。「あずにゃんカメラ」を通じて『けいおん!!』の「終わり」に直面させられた私たちもまた、似たような不能感に苛まれていたのではなかったか。

 しかしその一方で、第二期『けいおん!!』の最終回では、『Kanon』における「奇跡」の問題系がひそかに受け継がれているように思われる。ここではメインヒロインの月宮あゆのエピソードに限定して、ごく簡単に紹介しよう。幼い頃の記憶を失っている主人公相沢祐一の前に、かつて不幸な事故で亡くなったはずのあゆが現れる。祐一は彼女と親交を深めるにつれて、一緒に過ごした幼少期の記憶を取り戻し、やがて彼の腕のなかで少女は消滅する。すると昏睡状態に陥っていたあゆの本体が目覚め、春の訪れとともに二人は再び出会う。

 批評家の村上裕一によれば、ここには二種類の「奇跡」が存在する。すなわち「幽霊のあゆと再会したこと」および「昏睡状態のあゆが目覚めたこと」である。前者は本来起こりえないはずの出来事であり、これに対して後者は、起こる可能性が限りなく低い出来事である。村上はこの二つの出来事を、それぞれ「神学的奇跡」/「確率的奇跡」と呼んで区別している*17。そしてここで重要なのは、これら「二つの奇跡を交換するというチート行為」が、三つだけ願いを叶えてくれる「天使人形」によって媒介されているという点だ。あゆがまるで天使のような姿で祐一の前に現れたのは、奇跡を可能にする「天使人形」が、昏睡する少女の願いのよりしろになっていたからである。

 『けいおん!!』最終回に挿入された「天使にふれたよ!」は、『Kanon』における「天使人形」とほとんど同じ役割を果たしていると考えられる。なぜならその曲は、「あんまり上手くないですね!」というあずにゃんの驚くべきセリフ——ありそうにない偶然の一致という「確率的奇跡」——を呼び起こし、さらに「あずにゃんは本当に天使だった」という「神学的奇跡」へと変換することを可能にしてくれるからだ。

 それはまさに奇跡的な瞬間だった。あずにゃんが大粒の涙を浮かべながら「天使にふれたよ!」に聴き入っているとき、テレビの向こう側から彼女を眺める私たちもまた、あふれ出る涙と鼻水を禁じえなかったにちがいない。もはや「あずにゃんカメラ」的構図ではないにもかかわらず、私たち視聴者は、あずにゃんが見ているであろう光景を目の当たりにしていた。それはニコニコ動画ジャーゴンで「セルフエコノミー」と呼ばれる、涙でぼやけた解像度の低い世界である*18。ここにおいてあずにゃんは、画面の内と外、重なり合った二つのレイヤーのいたるところに存在する、そのような「天使」として顕現する。

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大粒の涙に反射する白い光が印象的なカット。淡く発光する輪郭線が永遠を暗示している。「『けいおん!!』最終回泣きあずにゃんまとめ」『ニュー速VIPコレクション』(http://2chmokomokocat.blog72.fc2.com/blog-entry-799.html)より引用。

 あずにゃんは画面のなかにいながら、同時に私たち視聴者とともにある。二重化された「日常」にくまなく響き渡り、拡張された「空気」を共振させる音楽の力によって、「天使にふれた」としか言いようのない経験が出来する*19。避けられない「終わり」が「永遠の放課後」へと反転し、遍在するあずにゃんのまなざしが私たちを取り囲む。「終わりなき日常」が終わりを迎えるとき、薄れゆく意識のなかで、私たちは天使のツインテールがひるがえるのを見るだろう。

 

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 「終わりなき日常」の終わりに、私たちは天使にふれる。それはキャラクターに「萌える」ことではありえない。すでに確認したように、そもそもキャラ萌えとは、「コピーにアウラを宿らせる」という逆説的な能力のことだ。そしてそれを可能にするのが、ポストモダンな主体における動物的な欲求と人間的な欲望の解離的な共存であり、シミュラークルとデータベースからなる二層構造だった。この二つのあいだをぐるぐる往復しながら、私たちは「大きな物語」が失われた後の「終わりなき日常」をやり過ごしてきたのである。

 しかしそうだとすれば、「終わりなき日常」が分断され、確率的な「終わり」の予感に浸されたとき、キャラクターに対する私たちの関係もまた変わらざるをえない。シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止し、キャラ萌えが機能不全に陥る瞬間。私たちはシミュラークルに没入することも、あるいは分解してデータベースへと還元することもできず、かつて感情移入の対象であったものの断片が散乱する光景のなかに、途方に暮れて立ちつくしている。もはやそれらに萌えることはできない、ましてや愛することなど到底不可能である。そしてそのことが白日の下にさらされてしまった。悲しみはない——むしろそのことが悲しいのである。

 だがそのようにしてはじめて、私たちは「天使にふれる」可能性に開かれる。ここで言われている「天使」とは、さしあたって「遍在するキャラクター」の別名である。

 私たちはあずにゃんのフィギュアやイラスト、二次創作といったものにあずにゃんの存在を認め、動物的な快楽を求めて感情移入する。けれどもそれは、同時に「ただのフィギュア」「ただのイラスト」であり、要するにシミュラークルにすぎないと言うこともできる。私たちはあずにゃんが現実には存在しないことを知っている。だからこそ私たちは、動物的な欲求と人間的な欲望を切り離すことで、その不都合な真実に目をつぶってきたのだった。

 しかしそれは逆に言えば、私たちがキャラクターを無理矢理「擬人化」し、あたかも同じ「人間」であるかのように受容してきたことを物語っている。それどころか存在しない「恋人」の代わりとして、擬似的な「恋人たちの共同体」を取り繕ってさえいたのではないだろうか。「あずにゃんは現実には存在しない」とか「それはただの絵にすぎない」とかうそぶいてみせるときでさえ、私たちはあまりにも人間的な愛の(不)可能性に捕らわれすぎている。キャラクターという人ならざる存在を、人間という狭い枠に押し込めようとしている(そして当然のように失敗している——綾波レイの「私が死んでも代わりはいるもの」に口ごもるしかなかった、かつての碇シンジのように)。人間とはちがって、キャラクターにはこれといった実体が存在しない。なぜなら志津Aが指摘するように、たとえば「綾波レイと呼ばれるものが複数いるとしても、そのすべてが綾波レイだと言えるし、どれも綾波レイではないとも言える」からである*20。たしかに「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えは、キャラクターは人間ではないという当たり前の事実を覆い隠し、私たちが愛の不可能性に直面することを回避させてくれるだろう。だがそれは「終わり」において破綻する。「喪失の喪失」が露呈する。そしてそのような「終わり」のなかにこそ、かすかな「救済」の可能性が息づいている。

 『けいおん!!』の最終回が私たちに教えてくれたのは、綾波の悲劇的な——だがなぜ悲劇的なのだろうか、それはむしろ私たちの偏った見方にすぎない——セリフに対するひとつの答えであり、キャラクターの脱人間化を肯定的に受けとめる視点だった。あずにゃんが現実には存在しないという言い方は正確ではない。画面の内と外とを問わず、彼女はいたるところに存在する——人間とは別の仕方で。要するに、あらゆるフィギュア、あらゆるイラストがあずにゃんの貴重な断片なのであって、フラクタルに遍在する彼女の一部なのだ。

 あずにゃんが「天使」であるというのは、このような意味においてである。それはおそらく斎藤環が「同一性を伝達するもの」と定義し*21伊藤剛が「キャラ」と呼んだものに近いと考えられる*22。あるいは「固有名」に関する複雑な議論を参照することもできるだろう*23。しかしながら私は、あくまで「天使」という神秘主義的な語彙にこだわりたい。なぜなら私たちにとって重要なのは、キャラクターが「キャラ」や「固有名」や「同一性を伝達するもの」であることを「理解する」ことではないからだ。そんなことはまったく問題ではなかった。むしろここで問われているのは、キャラクターを人間へと矮小化することなく、非人間的な存在として「経験する」ことである。それは愛することではない。かといって萌えることでもない。そうではなくて、それは「祈り」のようなもの——すぐれて宗教的な経験——ではないだろうか。遍在するキャラクターのまなざしを直観し、私たちが自らの有限性へと、避けられない「終わり」へと送り返されるかぎりで、おそらくそうなのである。

 これに対して「同一性を伝達するもの」や「キャラ」といった比較的ニュートラルな語彙は、分析のための概念装置としての意味合いが強い。だが「天使」は概念ではない。それは「ふれる」経験において、とはつまり自らの絶対的な有限性へと差し戻される瞬間において、私たちの「終わり」を輪郭づける「永遠」として産出される*24。したがって接触のメタファーが含意しているのは、普遍的なものへの没入や、主体/客体が未分化な状態への退行といったものではない。むしろそれは還元不可能な差異が露呈する瞬間を指し示している。恋人とふれ合い、それぞれの「終わり」を分かち合うのとはちがう仕方で、私たちの漠然とした生を境界づけ、そのことによって「終わり」の向こう側へと切断しつつ媒介する襞飾りのようなもの——それが天使である。

 「終わり」の予感にとりつかれた憂鬱なまなざしだけが、キャラクターを人間化することなく、普遍的な存在者として直観することを可能にする。遍在する天使の巨大な目を経由して、私たちは自らの「終わり」へと差し戻される。「天使にふれる」とは、そのような経験の直喩なのだ。

teramat.hatenablog.com

*1:あずにゃんペロペロ(^ω^)」というのは、匿名掲示板『2ちゃんねる』の「中野梓スレ」に集結したあずにゃんファン——やがて彼らは「ペロリスト」と呼ばれることになる——が、そろって「あずにゃんペロペロ(^ω^)」とレスしはじめたことに端を発している。「【あずにゃんあずにゃんペロペロが流行った訳【ペロペロとは】」『おんたん☆ぶろぐ』(http://onntann.blog79.fc2.com/blog-entry-350.html)によれば、当初はあずにゃんではなく唯が「ペロペロ(^ω^)」の対象だったらしい。全盛期の中野梓スレは熱狂的なペロリストたちの巣窟と化していたが、あまりにも「ペロペロ」ばかり書き込まれるため、ついには「荒らし」と見なされて規制されることになった。これについては同サイトの「あずにゃんペロペロ(^ω^)規制、ペロリスト死亡w」(http://onntann.blog79.fc2.com/blog-entry-326.html)を参照。いまではあずにゃんといえばペロペロ、ペロペロといえばあずにゃんと言われるほど定着している。

*2:同じく古典的なキャラ萌えの手法(いわゆる「ハーレムもの」)で描かれたアニメ『IS〈インフィニット・ストラトス〉』(二〇一一年)をきっかけとして、新たに「萌え豚」や「ブヒる」といった表現が流行・定着する。萌え豚の特徴は、従来の「萌えー」という(最低限)人間的なかけ声に代えて、「ブヒイイイイイイイイ」というあからさまに動物的な鳴き声でキャラクターへの没入を表現する点にある。したがってブヒるとは、オタク的主体のより先鋭的な現れと見ることができるだろう。次のまとめサイトの記事を参照。「次世代萌えスラング 「ブヒる」 萌えからブヒるへ世代交代」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52470221.html)。

*3:東・宇野・黒瀬・氷川・山本「物語とアニメーションの未来」、209頁。同じ対談のなかで、黒瀬もまた「どれだけ『けいおん!』にハマったとしても、その個人的な消費活動がそのまま当人の実存の問題をあぶり出す、ということはない」と述べているが(186頁)、これは「空気系アニメには物語がない」という批判とほぼ同型である。

*4:杉田u「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」『アニメルカ vol.3』、四六頁。さらに杉田uは、原作コミックとの明らかな差異を指摘している。原作では第一期の最終回に相当するライブは失敗に終わり、迷惑をかけた唯も反省の色を見せない。つまり「原作の唯はアニメとはちがって、一切成長を志向していない」のである(46頁)。したがってそれは、京アニがひそかに「空気系の純粋言語」を裏切っていることを意味している。

*5:同論文、48頁。

*6:けいおん!!』最終回に対するファンの阿鼻叫喚については、たとえば「大ヒットアニメ「けいおん!!」 来週最終回の告知でネット発狂」『J-CASTニュース』(http://www.j-cast.com/2010/09/08075334.html?p=all)や「『けいおん!!』最終回にショックを受けて自殺予告「終わったので死にます」」『サーチナ』(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0915&f=national_0915_024.shtml)といった記事を参照。ただし第2期『けいおん!!』においては、第一期と同じく最終回の後に「番外編」(第26話)が用意されていただけでなく(なおBD・DVDには、もうひとつ番外編として第27話が追加されている)、番外編放送後に映画化決定の発表が行なわれた。このときのファンの熱狂ぶりは常軌を逸したものがあったが、その一端は「『けいおん!』映画化決定! いやっふぉおおおおおおおおおおおおお生きがいきたあああああああ」『今日もやられやく』(http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6675.html)などからうかがい知ることができる。さらに興味深いのは、テレビ放送が終了した翌週、ネット掲示板ツイッターで、放送されるはずのない『けいおん!!』第27話の「エア実況」が行なわれたことである。「終わり」を否認しつつ、それさえコミュニケーションのネタとして消費するふるまいは、『けいおん!!』が私たちの「終わりなき日常」と分かちがたく結びついていたことを示している。エア実況に関しては、同サイトの「『けいおん!!』第27話実況まとめ・・・ああ紙回だった」(http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6764.html)を参照。

*7:杉田u「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」、50頁。

*8:同論文、49頁。

*9:合成写真についての解釈は、志津Aとの私的な会話から重要な示唆を得た。

*10:志津A「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」『アニメルカ vol.2』、2010年、17頁。

*11:同論文。

*12:同論文、19頁。

*13:「祈り」としてのあずにゃんペロペロの可能性については、「「あずにゃんペロペロってどこをペロペロしてるの?」に対する応答」(http://togetter.com/li/49225)を参照。さらに後述の「ルイズコピペ」を媒介にして、あずにゃんペロペロはあずにゃんのまなざしに対する応答として理解されることになる。この点に関しては「見てる!あずにゃんが僕を見てるぞ! ペロペロ(^ω^)」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52327807.html)にまとめられたレスが示唆的。

*14:「終わり」を内包した日常というモチーフは、主婦向けのさまざまな文化領域に頻出する。たとえば『ku:nel』や『天然生活』、あるいは『ナチュリラ』といった雑誌が体現しているのは、一見すると、比較的裕福でクリエイティブな主婦とその子どもを中心とした「終わりなき日常」そのものであるように見える。誌面に登場する中年の女性たちは、白や生成りの上質なブラウス、黒や紺の麻のスカート、色落ちした淡青のジーンズ、履き込まれてくったりとした革靴やサンダルといった衣装に身を包み、真っ白に塗られた壁と深い茶色の重厚な木製家具——それはまさにウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の旧豊郷小学校、すなわち『けいおん!』の聖地を思わせる——に囲まれて微笑んでいる。彼女たちは小さなブランドのデザイナーであり、かばん作家であり、絵本作家であり、エッセイストであり、料理研究家であり、そして子どもを育てる主婦である。有機野菜の手料理、豆から淹れるコーヒー、北欧への憧れ、ハンドメイドの什器といったものがないまぜになって、日常生活の細部への行き届いた配慮を形作る。しかしその一方で、古びたアンティーク雑貨や西洋の骨董品、紫陽花のドライフラワーといった無機物への傾倒は、廃墟趣味への接近を予感させるだけでなく、彼女たちの清潔でオーガニックで美しい室内空間が、崩れ落ちた廃墟の光景と重ね合わされているかのような錯覚を与える。女性たちの安らいだ笑顔のそこかしこに、逃れられない死の影が貼り付いている。理想化された日常ほど異様な光景はない。それは半ば必然的に「終わり」のイメージを引き寄せてしまう。これらの雑誌を満たしている白い光は、どこか病院の静謐さに似ている。

*15:志津Aは先に参照した論考のなかで、この連続性に注意を促している。彼は空気系とセカイ系を安易に対立させるのではなく、「『けいおん!』を『AIR』や『CLANNAD』に近い作品として考えること」を提案している(志津A「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」、9頁)。

*16:東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318—319頁。

*17:村上裕一『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』講談社BOX、2011年、310頁。

*18:「感動」と「セルフエコノミー」に関しては、拙ブログの以下の記事を参照。「あの日見た花の名前が涙でにじんで見えない。:幽霊と涙とレイヤーについての覚え書き」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110624/1308928451)。

*19:けいおん!』の主人公平沢唯の名前のモデルとなったミュージシャン平沢進は、震災後に寄稿したエッセイのなかで、目に見えない放射能の脅威にさらされ、不安や絶望に打ちひしがれた人々を、音楽という「手品」によって救済しうることを主張している。「音楽は」と平沢は述べている、「虚構によって現実体験の質を変えうる手品として人の心に影響を与える」(平沢進「音楽と放射能——手品師が見た日本の放射能体験」『現代思想9月臨時増刊号 vol.39-12 緊急復刊imago』、192頁)。というのも「音楽によって媒介された「体験」が充分にあなたの心を動かし、そこから「動機」と「活力」と「希望」を得たならば、それは一つの世界観となってあなたの中に残り続ける」からだ(194頁)。平沢はそのような「体験」を構成する「あらゆる時と場所に遍在する祖先の霊」に言及しているが(同上)、私たちはそれを「天使にふれる」経験として捉え返すことができるかもしれない。

*20:志津A「キャラクターの不定形な核——『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」『アニメルカ vol.3』、64頁。

*21:斎藤環『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』筑摩書房、2011年、234頁。

*22:伊藤剛テヅカ・イズ・デッドNTT出版、2005年、95頁。

*23:キャラクターと固有名に関する議論については、たとえば村上『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』、120—127頁を参照。

*24:志津Aはアニメにおける接触のモチーフを、キャラクターのイメージを構成する「線」ないし「面」の問題として描いている。それによると「その場合の線とは空間に穴をうがち、その穴の表面にイメージを浮かび上がらせるような縁の役割を果たして」おり、また「面としてのキャラクターにおいて重要なのも、こちら側と向こう側との分割であり、境界面としての役割である」(志津A「キャラクターの不定形な核——『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」、72頁)。