てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

借りる、住まう、考える:拝借景と住むことのアート

それは6月のはじめのこと。

ツイッターで知り合った方に招待されて、これまたツイッターで知り合った方と一緒に、茨城県は取手のアートスペース兼改造借家「拝借景」にお邪魔してきました。

拝借景さんのブログはこちら→ 拝借景

お邪魔させて頂いたときの様子はこちら→ 取手駅前で展示を観てきました。 | 拝借景


美味しいお鍋とお酒を頂きながら、熱心に話し込むうちに、終電がなくなり、やがて朝になりました。

みなさんとても情熱的で精力的、エネルギーに満ちあふれていて、何か新しいものが生まれつつある感触というか、膨大な時間がひとつの空間に押し込められているというか……うまく表現できませんが、そんな印象を強く受けました。

取手駅前にバー&ギャラリーも準備しているようなので、ぜひ一度足を運んでみてください。


さて東京に帰った後、僕は求められて、拝借景のごく短い感想を書いています。

いくつかの理由で、ブログに上げるのは少し躊躇していたのですが、せっかくなので(いくらか修正・変更して)公表することにしました。

とはいえ飲み会の後、酔った勢いで書いたもので、たいした内容はありません。ツッコミどころ満載です。

そういうわけで、ちょっとコピー&ペースト&リライトしてみます。突然エラそうな文体に変わりますが、ご容赦ください。


拝借景と住むことのアート


3.11以後、私たちは「住む」ことをめぐる危機に直面している。

日本の住まいは地震にはめっぽう強いが、津波液状化放射能に対してはほとんど無力だった。

被災者は慣れ親しんだ住処を追われ、避難先で心休まらない集団生活を強いられ、そして文字通りの意味でホームレスの状態にある。

私の考えでは、「拝借景」はそのような状況に対するアートの側からのひとつの解答、というよりも、アートと人間の生との関係それ自体を捉え直す契機を与えてくれるように思われる。

どういうことだろうか。


「アートに何ができるか」——未曾有の震災を前にして、しばしばこのような問いが浮かんでは、また消えていった。

アートに何ができるか。

たとえばChim↑Pom

彼らは岡本太郎の有名な壁画に、福島原発の事故を描いた断片を追加した。

たとえばカオスラウンジ。

梅ラボは瓦礫に埋もれたキャラクターを想い、救済の女神として「キメこな」をコピー&ペーストした。

アートに何ができたか。

残念ながら、どちらの試みも不十分であると言わざるをえない。

なぜか。


なるほどChim↑Pomもカオスラウンジも、実際に東北に足を運び、被災地の惨状を目の当たりにしている。

前者のパフォーマンスは原発に対する人々の関心を呼び起こし、後者の壁画は苦境にある人々に勇気と慰めを与えたかもしれない。

Chim↑Pomホワイトキューブを飛び出し、人々が行き交う「公的空間」におけるスキャンダルを選択した。

他方でカオスラウンジは、「私的空間」の極地ともいうべきオタク的モティーフを採用した。

両者の戦略は、公的な駅ビルと私的なオタク部屋(ないしハードディスク)からなる、安定した空間構造に基づいている。

あるいはそのような構造が維持されているかぎりで、Chim↑Pomとカオスラウンジのアートは、本来の力を発揮すると言えるかもしれない。


ところが3.11以後、被災地では公/私の区別そのものが瓦解する。

帰るべき場所(私的空間)を失った人々は、体育館や公民館(公的空間)で寝起きすることを余儀なくされる。

そこでは個人のプライバシーも、その対となるパブリックな機能も保証されない。

オタクが閉じこもる部屋も、議論を交わす広場も、もうない。

避難所とは公的とも私的ともつかない空間であり、それゆえ両者が入り混じる不気味な空間である。

そしてその不気味さは、隔離された容器(私的空間)から漏れ出し、大気中(公的空間)にまき散らされた放射性物質の不気味さでもあるだろう。

放射線は物理的な障壁(人体、家屋)を貫通し、外/内、公/私の差異をなし崩しにしてしまうからだ。


したがっていま「アートにできること」は、公的な議論でも私的な救済でもない。

そうではなくて、公/私が入り混じる不気味な空間に、共に住むための技術=芸術である。

私たちは不気味な空間に耐えられない。

しかしだからこそ、そのような空間に住まうためのアートが必要とされている。


酒瓶と鍋と無造作におかれた現代アート、用途不明の空中茶室、トイレのラオコーン、庭の鉄船、全開=全壊する壁、変貌する間取り、そして夜な夜な集う一癖も二癖もあるアーティストたち——拝借景はきわめつけに不気味な空間である。

大家さんの理解を得、地域住民の差し入れを受けて、拝借景は刻々とその姿を変える。

そこでは公/私の区別どころか、ありとあらゆるものが混じり合い、煮立ち、漏れ出している。

彼らは住むことにかけてもプロフェッショナルである。

だがそのように住まうことの、何と難しいことだろうか。

私たちは拝借景で/に住むことを学ぶ、しかも笑いながら学ぶのである。

あるいは飲みながら。

あるいは食べながら。

そして気がつくともう、終電がない。


私たちはそうやって、生きていくことを学ぶ、ついに。