てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

 あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。

 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。

 ツイッターなどで検索すると、展示初日からトリエンナーレの窓口はもちろん、県や市、協賛企業などに対しても、作品の撤去を求めるネトウヨのクレームが殺到している。

 私は初日に見てきたが、少女像の近くには警備員が常駐し、複数人のスタッフが待機しているなど、すでにものものしい雰囲気が漂っていた。

 だが、じっさいに少女像を前にすると、撤去を求めるひとびとの激烈な批判にくらべて、じつに素朴で地味な印象を受けた。

 少女は椅子に腰かけており、表情はやや固く、こぶしを握りしめ、肩には小鳥が乗っている。掲示されていた説明文を読むと、そうした細部にはひとつひとつ意味が込められていることがわかる。

 けれども、造形物としてはあまりにも素朴なので、私はいささか拍子抜けした。

 日韓関係の悪化の原因のひとつとされる従軍慰安婦問題。韓国におけるそのシンボルともいうべき作品は、こんなに地味なものだったのか。

 「平和の少女像」の撤去を求めるひとびとは、口々に、日本を貶める韓国の反日プロパガンダだと批判するが、そんな雰囲気はこの像そのものにはまったくない。それはおそらく、今回この少女像が、あくまで美術館の一室に展示されているためだろう。

 じつをいうと、私が「平和の少女像」を見るのはこれが初めてではない。

 数年前に韓国に旅行にいった際、妻といくつかの少女像を見て回っている。なかでもいちばん印象に残っているのが、今回展示されているものと同じかたちの、在韓日本大使館に設置された少女像だ。

 ちょうど「光復節」(日本からの独立を果たした日)のころで、少女像のまわりには大量の学生が集結し、昼夜問わず交代で像を守り、花を手向け、舞台を設けてトークライブを行っており、警察車両がその周辺を厳重に取り囲んでいた。

 「平和の少女像」は、まさにこの騒動の渦中にあった。だからこそ、それは従軍慰安婦問題を象徴する像として、圧倒的な存在感を放つことができた。そこには「オーラ」があった。

 これに対して、「表現の不自由展・その後」で展示された今回の少女像は、そういったコンテクスト(文脈)から完全に切り離されている。それどころか、たとえば昭和天皇の写真を燃やす画像などの過激な作品と並べられ、その造形的な素朴さがいっそう際立つことになった。そこには「オーラ」がない。

 じっさい、展示会場にいた子どもたちは、ほとんど少女像には関心を示さず、もっと過激な作品のほうに興味を抱いているようだった。

 けれども、ここでさらに別のコンテクストが接ぎ木されることになる。

 炎上したことによって、展示室には、右翼活動家が直接抗議に来るのではないか、という緊張感が漂っていた。じっさい、私の目の前で保守派と思しき中年男性が、少女像を小突くような素振りを繰り返し、スタッフとちょっとした言い合いになっていた。

 このピリピリとした緊張感が、むしろ「平和の少女像」を特別な像にしていた。日本では、炎上こそがかえって少女像を特別なものにしていたのだ。こうして「平和の少女像」は、逆説的に「オーラ」をまとう。

 素朴で地味な少女像をひとりの「アイドル」たらしめるのは、彼女を熱烈に支援する学生運動家たちであると同時に、熱烈に批判するネトウヨでもある。おそらく日本国内では、撤去されるそのときこそ、「平和の少女像」がもっとも光り輝くにちがいない。

『天気の子』の見取り図

 新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。鑑賞者それぞれの感想に資するために、過去の「批評」や「評論」から使えそうな部分をピックアップし、かんたんにまとめておく。

 すでに多くのひとが感想を述べているように、『天気の子』は、2000年代前半に一部のオタク界隈で流行した、いわゆる「セカイ系」の図式をなぞるような作品だった。

 ここでいう「セカイ系」とは、批評家の東浩紀によれば、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力(『ゲーム的リアリズムの誕生』96頁)のことだ。

 この定義は、必ずしもセカイ系と称されるすべての作品には当てはまらないという批判もあるが、理念的なモデルとしては優れている。実際『天気の子』は、ヒロインと主人公、つまりは「きみとぼく」という小さな人間関係が(警察という中間項を積極的に描いているとはいえ)、文字どおり「決定的に世界のかたちを変えてしまう」物語だった。

 その一方で、かつてセカイ系に向けられた批判は、この作品にもまた当てはまるように思われる。「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される」(『ゼロ年代の想像力』97頁)とセカイ系について批判的に語ったのは、評論家の宇野常寛だ。

 いちどは「気持ち悪い」と拒否されながらも、結局はヒロインに全肯定される男性主人公。女性ばかりが世界の運命を背負って労働に従事し、男性はその結果を受けとめきれずに苦悩するという責任のあり方。ヒロインを救うために法律を破って都心を奔走し、あげく銃までぶっぱなす主人公の男性的なナルシシズム

 『天気の子』のこうした描写が、宇野のいうように「家父長制的なマチズモ(男性優位主義)」を強化する、と批判することも可能だろう。この作品をセカイ系批判から擁護しようとすれば、また別の視点、従来の図式からはみ出す部分への注目が必要になる。

 降り続く雨によって水びたしになった東京。これはかつてセカイ系的な物語の舞台となった「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な事態が、より具体的に、都市における「自然災害」としてとらえられていることを意味する。ここには、災害による危機とつねに背中合わせの微妙な緊張感や、それを受け入れるほかない諦観をみることができる。いわば、震災以後の日常感覚だ。

 作中でいわれるように、世界はすでに「狂っている」。ヒロインはそんな世界を正すために自らを犠牲にし、主人公はその自己犠牲的な選択をさらに拒否する。彼のこの選択は、たんに女性を所有しようとする男性的な欲望のあらわれであると同時に、「終わりなき日常」が成立しえないような狂った世界で、私たちが何を優先すべきなのか(もちろん法律よりも!)についての意思表明でもあるだろう。

 大人たちに殴られ、倒されながら、なおヒロインを追い求め、結果として都市を水没させた主人公は、世界と同じだけ「狂っている」。あるいは少なくとも、非合理的で、非理性的で、非常識ではある。だが、そのぶんだけ自己欺瞞的ではなく、罪悪感や後ろめたさすら感じさせない、すがすがしい狂気がみなぎっている。

 この世界を、そして私たち自身をどのていどまで非合理的な存在と感じられるかで、『天気の子』に対する評価は変わってくるだろう。世界の狂気とみえるものは、結局のところ、それと向き合う私たち自身の狂気なのだ。

フェミニズム以後のオタク2:「安全に痛い自己反省パフォーマンス」について

 前回の記事の続きを書こうと思ったのは、いただいたコメントのなかに、自分でもなんとなく感じていた問題点、というより既視感を指摘したものがあったからだ。いわゆる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」というものである。

teramat.hatenablog.com

 安全に痛い自己反省パフォーマンスとは、評論家の宇野常寛がデビュー作『ゼロ年代の想像力』(2008年)のなかで展開した議論だ。これが既視感の原因だった。宇野は東浩紀による美少女ゲーム(いわゆる「エロゲー」)論を批判しながら、おおむね次のように論じている。

 宇野によれば、多くの異性愛男性オタクは「女性差別的な所有欲」(320頁)をもっており、エロゲーをはじめとする「レイプ・ファンタジー」にふけることでその欲望を満たしている。東はかつて、そんなエロゲーのなかにも、オタクに自己反省を迫る「批評的」な作品があることを指摘し、自著でくわしく分析した(東自身は「自己反省」という言葉は使っていない)。だが、宇野にいわせれば、その自己反省はしょせん、男性オタクの性的欲望それじたいの否定や断念にはつながらない、ただのパフォーマンスにすぎない。それどころか、女性キャラクターによる拒絶という「本当に痛い」自己反省の契機を奪い、家父長制的な「所有欲」をかえって強化・温存するものでしかない。これが、彼のいう「安全に痛い自己反省パフォーマンス」の内容である。

 この「パフォーマンス」は、宇野の考えでは、「セカイ系」をはじめとするゼロ年代前半のオタク文化のなかに広く浸透しており、サブカルチャー批評の世界でも「東の劣化コピー」たちにもてはやされていたという。「だがそんな不毛な時代は終わりにしなければならない」(241頁)と宇野は決意する。なぜなら、結論ありきの「安全に痛い自己反省パフォーマンス」は、文学の可能性を毀損し、「より単純化された思考停止」へとひとびとを導いてしまうからだ。

 前回の記事で私が主張したのは、オタクであれば「誰か(とりわけ女性)を不快にさせているかもしれない」という「感情的な加害性」を引き受けるべきであり、ひいてはそれによる内面の分裂や葛藤を抱えこむべきである、ということだった。これは宇野が批判する、「東の劣化コピー」そのもののようにみえる。というのも私は、じつをいえば、東の次のような記述を繰り返しているにすぎないからだ。彼は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)のなかで、オタクのもつ二面性についてこのように語っていた。

解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる。しかし、オタクたちの多くは、むしろ、その分裂を強引に埋め、アイデンティティを捏造している。[……]彼らは、二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねる。(316~317頁)

 女性キャラクターと疑似的な人生経験を重ねつつ、そのキャラクターをモノとして性的に「消費」もしくは「所有」すること。こうしたオタクの二面性をあくまで両義的なものとして分析した東、あるいはそれを自己正当化の論理へと流用したオタクたちに対し、宇野は痛烈な批判をぶつけている。いわく、それは女子高生と援助交際をしたあとに、罪悪感や後ろめたさを解消するために「こんなことしてはいけないよ」と説教をたれることに等しい、と。

 宇野の批判は、いっけんするとまったく正しく、それどころか正しすぎるようにも思える。女性に対する性的欲望を断念することのできない異性愛男性オタクは(だが、性的欲望を完全に打ち消せる人間というのはどれほどいるのだろうか)、彼の正論に手も足も出ない。私たちは女性を「所有」したい。モノのように「消費」したい。けれど、それは家父長制的で女性差別的な欲望であり、現代社会では強く批判されなければならない。だから「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を演じて、反省しているそぶりだけはみせておこう、というわけだ。

 じつをいうと私は、こうしたとらえ方の前提そのものにやや疑問がある。宇野は、フィクションの女性キャラクターを現実の女性そのものとほとんど同一視している。あるいは少なくとも、フィクションの女性キャラクターに対する異性愛男性オタクの「萌え」を、現実の女性に対する異性愛男性の性的欲望の発露と区別できていない(あえて区別していないのかもしれない)。いずれにせよ、そこには「想像」と「知覚」の微妙な混乱がある。

 けれども、人間が人間であるかぎり、この混乱はつねに生じる。ひとは絵や文字のかたまりでしかないキャラクターに同一化する。あるいは共感し、感情移入する。感情という乗り物に乗って、フィクションと現実の境界をやすやすと越えてしまう。

 前回の記事でもふれた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(2017年)のなかで、北原みのりは残酷に扱われた少女の画像に感情移入し、「痛い」「怖い」「気持ち悪い」といった感情的反応を示していた。同じことが宇野にもいえる。彼は「所有」ないし「消費」されるべく描かれた女性キャラクターに同一化し、異性愛男性オタクを断罪する。「萌え」を可能にするまさにその同じ心的メカニズムが、ここでは逆方向に作用している。だからこそ、私は他者によるこうした「不快感」の表明を無視することはできない、すべきではないと考える。

 エロゲーをきっかけとした自己反省は、たしかに宇野のいうように「安全に痛いパフォーマンス」にすぎなかったかもしれない。けれども、ツイッターをはじめとするSNSを通じて、偶然視界に入ってきてしまう急進的なフェミニストのツイート、あるいはオタクを激烈に批判する女性のコメントは、異性愛男性オタクにとってつねに「本当に痛い」。オタクたちがあれほど激しく反発し、そのたびに「表現の自由」という最後の砦に立てこもってしまうのは、まさにこの「痛み」から逃れるためだ。

 とすれば、「感情的な加害性」を内面化し、それによる分裂と葛藤を生きることは、まさしく「本当に痛い」自己反省を実践することにほかならないのではないか。じっさい、宇野はそのような真の自己反省の契機として、『新世紀エヴァンゲリオン』劇場版のラストシーンを挙げている。シンジに首を絞められながら「気持ち悪い」と彼を拒絶するアスカは、それをみる当時のオタクたちに対して「本当に痛い」自己反省を始動させるだけのポテンシャルを秘めていた。にもかかわらず、宇野によれば、オタクたちは『エヴァ』の結論を受け入れることができなかった。自らの「気持ち悪さ」を認め、分裂した生を営むだけの覚悟が足りなかった。

 『エヴァ』劇場版にきっかけを与えられながら、オタクたちが受け入れられなかった「本当に痛い」自己反省。それは具体的にはどのようなものなのか。東のいう、分裂し解離した生における倫理とはいったい何を意味するのか。私はそれを、宇野の「安全に痛い自己反省パフォーマンス」という言葉の意味をあえてずらすことで、考えてみたいと思う。

 「パフォーマンス」という言葉は、ここではひどく否定的な意味合いで用いられている。演劇や映画、舞踊などに関する用法がそうであるように、ふつうとは違うことをしてひと目を引く、わざわざ目立つことを行う、という意味だ。「安全に痛い」という奇妙な形容詞は、言葉のこの用法と深く結びついている。自己反省ではなく、自己反省「パフォーマンス」。それは自己反省と同じもののようでありながら、じつは決定的に異なるものとしてとらえられている。

 けれども、英語ほんらいの「performance」という言葉には、演劇の上演や映画の上映とは異なる意味も当然含まれている。「performance」のもととなる「perform」という動詞は、「per(完全に、徹底的に)」と「form(形作る)」というふたつの要素からなる。パフォーマンスとは、そもそも「完全に+形作る」ことなのだ。

 「パフォーマンス」には、ものごとを「実行」する、「遂行」するという意味がある。それはいわば、ひとが頭のなかだけで思考していること、想像していることを「完全に」現実のものとして「形作る」ということだ。だからこそ、それは日常的な空間から浮かび上がり、それじたいで完結したひとつの行為となって、多くのひとの目を引く。

 とすれば、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にもまた、そのような「完全さ」に向けたベクトルがすでにはらまれているのではないか。それが「安全に痛い」ものでしかないのは、たんなる「パフォーマンス」だからではなく、むしろパフォーマンスとして不完全だからではないか。重要なのは自己反省をより徹底して「遂行」すること、現実のものとして「完全に+形作る」ことだ。それこそが「本当に痛い」自己反省であり、分裂した生を生きるということだろう。

 ここで私が具体的に念頭においているのは、たんにオタクが熱心なフェミニストになればよいということではない。あらゆる性的欲望を断念せよということでもない。そうではなく、フェミニズム的な現実と女性差別的なフィクションとの区別を徹底的に遂行してみせることであり、つねにそれらの差異を「完全に+形作る」ことだ。

 もちろん、多くのひとは、自分が現実とフィクションとを明確に区別している、できていると思っている。けれども、また多くの場合、それらの境界線は非常にあいまいで、私たちはたんなる絵や文字のかたまりに容易に同一化し、共感し、感情移入する。宇野によるオタク批判は、そのような現実のあいまいさに基づいている。私たちは十分に分裂した生を生きていない。オタクがたえず批判にさらされるのは、たとえば宮崎勤事件がそうであったように、現実とフィクションとを区別できていないのではないか、という嫌疑がかけられているためだ。

 だからこそ、女性キャラクターを性的に「消費」し「所有」するようなフィクションを受容する異性愛男性オタクは、つねに自らが現実とフィクションとを完全に区別でき、またじっさいに区別していることを示さなければならない。「安全に痛い自己反省パフォーマンス」は、ここにおいて真に遂行される自己反省となり、言葉の十全な意味での「パフォーマンス」となる。それは具体的には、みずからの愛好するフィクションとは徹頭徹尾対立する、フェミニズム的に「正しい」、あるいは道徳的に「善い」行いを実践することだろう。そのような分裂を、葛藤を真正面から引き受けること。それが、前回の記事で私のいいたかったことだった。

 かつて大塚英志は、「あんたもぼくもただのサブ・カルにすぎない。だが、幼女を殺さず、サリンをまかず、サブ・カルであり続けることは可能なのか」と問うた。それに対する私の回答は次のようなものだ。すなわち、いまやサブカルであるためには、オタクであるためには、現実においては幼女を殺さず、サリンをまかず、悪をなさないことが絶対の必要条件となる。おそらくそれだけが、オタクの「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を、真にパフォーマティブな自己反省に変えてくれるだろう。

フェミニズム以後のオタク

 タイトルにつけた「フェミニズム以後」というのは、フェミニズムが終わったあとという意味ではない。そうではなくて、これはフェミニストによる批判を踏まえてなお、ひとがオタクであるとはどういうことか、どのようにあるべきか、という問いだ。

 オタクであることはしばしば、フェミニズムと敵対することだとみなされている。インターネット上には、オタクからフェミニストへの、そしてフェミニストからオタクへの罵詈雑言が無数に散らばっている。それらは多くの場合、まともな対話や議論のていすらなしておらず、たがいへの敵意と悪意だけがむきだしになっているように見える。

 じっさい、ツイッターフェイスブックをはじめとするSNSが普及して以降、オタクとフェミニストは幾度となく衝突してきた。たとえば、人工知能学会の学会誌の表紙が女性蔑視であると批判され、炎上したのが2013年。2015年には三重県志摩市ご当地キャラクター「碧志摩メグ」が炎上し、2017年には『週刊少年ジャンプ』連載の漫画「ゆらぎ荘の幽奈さん」がフェミニストの批判にさらされた。その翌年にはVtuberの「キズナアイ」がNHKノーベル賞特設サイトに起用されたことで物議を醸し、ライトノベル境界線上のホライゾン』の表紙が「きもちわるい」と話題になった。2019年にはアニメ『ストライクウィッチーズ』と自衛隊とのコラボポスターが批判を浴び、撤去されている。

 これらの出来事に対するオタクとフェミニスト双方の主張は、いまでもインターネット上で簡単に読むことができる。あえて単純化してまとめれば、オタク的な女性キャラクターの表現に対して「女性蔑視」や「女性の性的消費」といった批判を繰り広げるフェミニスト側と、「表現の自由」を盾に正当化をはかるオタク側という構図がある。両者の溝はいっこうに埋まらず、現在も新しいテレビアニメが放送されるたびに、似たような小競り合いが繰り返されている。それは今後も続くだろう。

 オタクである私はこのような状況そのものに関心をいだき、似たような問題意識を持つ人々とともに「サイゼリヤ自由大学#2:フェミニズムについての会話」というイベントを主催したことがある。

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 その「会話」のなかでは、「オタクvs.フェミニスト」という対立そのものがじつは見せかけにすぎないのではないかとも感じられた。というのも当然、オタクのなかにも女性はいるからだ。ところが、オタクとフェミニストの論争では、女性オタクの存在はほとんどないものとして扱われる。じっさい、「サイゼリヤ自由大学」の参考図書に挙げた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(2017年)という本では、女性オタクやいわゆる腐女子といった人々の存在がまったく無視されていた。

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 これと同じように、フェミニストの側も一枚岩ではない。オタク的表現をはじめとするフィクションにまで規制をかけようとする急進的なフェミニストは、目立ちこそすれ、必ずしも圧倒的多数派というわけではない。じっさい、日本の代表的なフェミニストのひとりである上野千鶴子などは、表現規制に明確に反対していることで知られる。

 そうだとすれば、「オタクvs.フェミニスト」という問題じたいが、真剣に向き合う必要のない、インターネット上でのたんなる憂さ晴らしにすぎないのだろうか。そうではない、というのが現時点での私の考えである。少なくとも異性愛者の男性オタクにかぎっていえば、「女性蔑視」「女性の性的消費」というフェミニストの批判は当たっていると考える。というのも、たとえ現実の女性に対してなんら危害を加えていないとしても、フェミニストがそうであるように、オタク的な女性キャラクターの表現によって「不快感」を抱く女性は現実に存在するからだ。

 もちろん、ただ「不快感」を与えているからといって、そうした表現を一律に規制すべきだということにはならない。しかし、自分以外の誰かを不快にさせている可能性があるという程度には、オタクは自分の趣味の「感情的な加害性」について認識しておくべきではないか。

 たとえば、先に挙げた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』では、少女をジューサーにかける絵などで知られるアーティスト・会田誠の作品に対して、著者のひとりである北原みのりから「怖い」「痛い」「イヤだ」などの感情的な批判が投げかけられていた。これは一般的に、オタク的な表現に対していわれる「気持ち悪い」という批判とほとんど同じものだ。

 オタク的表現の「気持ち悪さ」は、それに対する「萌え」と表裏一体である。思想家の東浩紀は、かつて『動物化するポストモダン』(2001年)のなかで、キャラクターを「萌え要素」の組み合わせとして分析した。そこで取り上げられるキャラクター「デ・ジ・キャラット」は、「触覚のようにはねた髪」「猫耳」「しっぽ」「メイド服」などの古典的な「萌え要素」からできている。デ・ジ・キャラットじたいはさほど性的とはいえないが、「萌え要素」にはほんらい、異性愛男性の性的欲望が多分に含まれる。だからこそ、それらは異性愛男性オタクに対しては「萌え」を喚起するいっぽうで、少なからぬ女性からは「気持ち悪い」といわれる。これまでに炎上した漫画やアニメのキャラクターは、いずれも「乳袋」や「パンチラ」をはじめとする、オタクの好む「萌え要素」が問題となっていた。そこに「女性蔑視」や「女性の性的消費」がないといえば、嘘になるだろう。

 あるひとにとっては快だが、別のひとには不快であるような表現。オタク的表現とは、多くの場合、そのような両義的なものである。したがって、オタクであるということはつねに、誰かを不快にさせているという可能性を引き受けることでもある。この感情的な加害性は、もしかしたら、オタクのなかに罪悪感や後ろめたさを生むかもしれない。それによって素直にキャラクターに萌え、作品に没入することが難しくなるかもしれない。だが、フェミニズム以後のオタクの倫理というものがあるとすれば、それはこの葛藤を抱えこむことにあるのではないか。

 ちょうど戦後日本が戦争責任を引き受けざるをえなかったように、オタク文化が伸長した現代社会において、感情的な加害性を自己の責任として引き受けること。それはつまり、「オタクvs.フェミニスト」という対立ないし分裂を自分のなかに内面化するということだ。依然として男性中心のこの社会で、女性差別に反対するフェミニストでありながら、それと相反するかのようなオタク表現を愛好することは、このような困難を招き寄せる。

 だが、それでいいにちがいない。葛藤を忘れたオタクは、もはやオタクでもなんでもない。自分の趣味が、いや生それじたいが引き起こす「気持ち悪さ」につまずいてこそ、私たちは自分が傷つけているかもしれない他者の存在へと開かれることができる。アスカの首を絞め、「気持ち悪い」とささやかれるシンジのように。

『からかい上手の高木さん』とメタフィクション

 2019年7月、『からかい上手の高木さん』2期の放送がスタートした。これは山本崇一郎が『ゲッサン』で連載中の漫画を原作としたテレビアニメだ。

 『からかい上手の高木さんの構造はきわめてシンプルかつミニマルで、女子中学生の高木さんがクラスメイトの西片に思わせぶりなことをいい、動揺する彼の姿を見てよろこぶ、というものだ。どのエピソードも基本的に一話完結型で、同じパターンが延々と繰り返される。

 西片は毎回「ひょっとして高木さんにからかわれているのか?」とか「このままではまた高木さんにからかわれてしまう!」とかモノローグで煩悶するのだが、彼女を出し抜こうとする彼の試みはことごとく空振りに終わる。高木さんはといえば、西片のそういう反応を見ること自体が目的なので、最初から勝利を約束されている。

 この作品の重要なところは、西片がさまざまな可能性を模索しつつも、高木さんの挑戦にたえず敗北し続ける点だ。彼は負け続け、彼女は勝ち続ける。西片はからかわれていることを根に持っており、今度こそはと策略をめぐらすのだが、どうしても負けてしまう。この意味で『からかい上手の高木さん』は、昨今放送したアニメのなかで、もっともカフカ的な作品のひとつである。

 『からかい上手の高木さん』を見る私たちは、西片をからかう高木さんの動機が、彼への好意であることに気づいている。高木さんは、西片が好きだからこそからかう。西片はそのことにうすうす感づいてはいるようだが、いまひとつ確信がもてずにおり、そのためにいつもからかわれてしまう。そんな彼らの様子を見て私たちが楽しめるのは、かつて私たちもまた、似たような願望を抱いたことがあったからだ。

 もちろん、それはたんなる願望にすぎなかった。自分のことが好きだからからかってくるなどという都合のよい想定は、多くの場合、ただの妄想(フィクション)である。『からかい上手の高木さん』は、この妄想をそのままかたちにした作品でありながら、西片の「からかっているにちがいない」という執拗な疑念を通じて、妄想へのメタ的な批判をさしはさむ。「これは自分の妄想ではないか」という疑いが、『からかい上手の高木さん』というフィクションを成立させている。

  作家の森見登美彦は、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」と書いた。いわゆる「ラブコメ」の大前提となるのは、物語の結末としての恋愛の成就、つまり「告白」を無限に遅延させることだ。しかし、高木さんのからかいは、事実上の告白といってもさしつかえないほど露骨なものである。作中でも何度か言及されるとおり、第三者からすると、互いに好き合っている高木さんと西片が、登下校中、授業中、休み時間、放課後と、ずっといちゃいちゃしているようにしか見えない。

 それを「成就した恋」にせず、あくまでひとつのフィクションとして成立させているのは、西片の「からかっているにちがいない、からかわれたくない」という不自然なまでにかたくなな信念だ。

 この信念がどこからやってきたのか、過去になんらかのトラウマ的経験があったのか、作中で明らかにされることはない。いずれにせよ重要なのは、それがラブコメをラブコメとして、フィクションをフィクションとして成立させるために要請された身ぶりである、ということだ。そこには世界観の構築や視聴者との諸前提の共有といった約束事がほとんど介在せず、ただ西片の信念だけが、ラブコメとしての物語を延命させている。

 西片の信念が崩れ、恋愛が成就してしまった瞬間、この共犯的なコミュニケーションも終わりを迎える。作中で唯一、そのきざしが見えた回は「クリティカル」と題されており、それが文字通り、この作品にとって「クリティカル=危機的/批評的」な瞬間であることを暗示していた。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(10):沈黙する自然を翻訳する

 事物は人間のように音声言語によってではなく、魔術的・物質的共同性によって自己を伝達し合う。これが自然の沈黙であり、他方でベンヤミンによれば、この沈黙する自然を人間において音声言語へといたらせること、つまりは名づけることが、人間に課せられた「課題[使命]」なのだという。

 人間は名づけることによって、あらゆる事物との「非物質的で、純粋に精神的」(US: 3, 147)な共同性を実現する。ベンヤミンは自然と人間との関係について、次のように述べている。

すべての自然は自己を伝達するかぎり、言語において、とはつまり結局は人間において自己を伝達する。それゆえに人間は自然の主人なのであり、事物を名づけることができるのである。事物の言語的本質を通してのみ、人間は自分自身のうちから事物の認識へと到達することができる――すなわち名において。神の創造が成就されるのは、事物が自身の名を人間から得ることによってであり、ひとり言語だけが名において人間から語り出すのである。(US: 3, 144)

 人間は沈黙する事物を名づけることで、その事物の「認識」へといたることができる。ここで注目すべきなのは、同時にそのことが神の「創造」の成就であると言われていることだ。

 ベンヤミンは『創世記』の天地創造物語を参照しながら、人間の精神的本質を神の創造する「言葉」としてとらえ返している。

 神は言葉において自然を創造したのだが、しかし人間だけは言葉から造るのではなく、逆に創造の媒質としての言葉を人間のうちに解き放ったのだという。それゆえ、神の創造する言葉は「事物にあっては魔術的共同性によってなされる物質の伝達となっており、人間にあっては至福の精神のうちにある認識と名の言語となっている」(US: 3, 151)。

 そしてこの言葉は、人間においてはもはや創造する力をもってはいないものの、沈黙する自然のうちに宿っている神の言葉を「受容[受胎]」する力をもっているとされる。このことが人間による事物の名づけ、すなわち認識を可能にする。

 つまり、人間は沈黙する自然の言語を受容し、それを音声言語としての名へと移すことによって、自然の不完全な言語をより完全なものに、とはつまり神の言語に「翻訳」するのだ。これが名づけによる創造の成就であり、そこにおいてあらゆる被造物との言語的・精神的共同性が成立するとベンヤミンは述べる。

 ところが、人間が楽園から追放されたことで、完全な認識を可能にする楽園の「純粋言語」は、無数の言語へと分割されてしまった。そしてそのことによって、「自然のもうひとつの沈黙」が始まる。この沈黙が自然の「悲しみ」である。「もしも自然に言語が授けられたなら、すべての自然は嘆きはじめるだろうということは、ひとつの形而上学的真理である」(US: 3, 155)。

 このような自然の「嘆き」は、二重の意味を持つ。ひとつは話すことができないという嘆きであり、もうひとつは沈黙していることそれ自体の嘆きである。というのも嘆きとは「未分化で無力な言語表現」であり、そして「すべての悲しみのうちには、言語を欠いた状態へと陥っていく最も深い傾向が潜んでいる」(ibid.)からだ。

 このような悲しみの原因となるのが、楽園を追放された人間の諸言語による「過剰命名」である。自然は神の言語によってではなく、分割されたいくつもの言語によって過剰に名づけられている。そして、これをより高次の言語へと翻訳し、神の言葉へと近づけていくことが、人間に課せられた課題なのだという。

 ベンヤミンフーリエやシェーアバルトユートピア構想のうちに、こうした神学的・形而上学的プログラムを読み込んでいる。それはたとえば「自然による創造の子供たちの出産」や「被造物の解放」といった言い方からも明らかであり、「初期言語論」のおよそ20年後に書かれた「複製技術論」もその例外ではない。

 つまり、ベンヤミンマルクス主義的な革命を通じて、たんに資本主義の打倒と階級格差の廃絶を目指していたわけではない。そうではなく、あらゆる事物との言語的・精神的共同性を打ち立てようとしていたのだ。これが彼のいう「自然と人類との共演」の内実である。

 ただし「複製技術論」においては、沈黙する自然を「名づける」という言語論的なモチーフが後退し、代わりに自然との「遊戯」というモチーフが前景化している。ここにはどのような変化が認められるのか。自然との「遊戯」とは具体的に何を意味するのか。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(9):初期言語論における自然の沈黙

 ベンヤミンが目指す自然と人類との共演は、自然に言語を与えることと言い換えられる。これはどのような事態を指すのだろうか。彼は1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」(以下「初期言語論」)のなかで、きわめて神学的・形而上学的な言語論を展開している。

 ベンヤミンによると、生物と無生物とを問わず、あらゆる事物は言語を持っている。そして、それらの言語において自らの「精神的本質」を伝達するのだという。人間による事物の表象は、この伝達によって初めて成立する。「自らの精神的本質を表現において伝達しないようなものを、私たちは何ひとつ表象することができない」(US: 3, 141)と彼は述べている。

 つまり、ここでベンヤミンは、そもそも人間による「認識」を可能にする条件として、人間側の知覚や理解の枠組みを前提とするのではなく、事物の側に精神的本質の伝達可能性、すなわち言語の存在を認めているのだ。

 この精神的本質は、言語によってdurchではなく、言語においてin自らを伝達する、そのような自己であるとされる。ベンヤミンは精神的本質にあって伝達可能なものを「言語的本質」と呼び、そしてそのかぎりでの精神的本質が、言語において伝達されると述べている(ただし、後にこの二つは同一視されることになる)。

 たとえばランプの言語が伝達するものは、いま・ここにあるランプそれ自体ではなく、伝達可能なかぎりでのランプの精神的本質、つまり表現となった「言語―ランプ」(ランプの言語)である。したがって、事物の言語的本質とは、その事物の言語そのものなのだが、そうなると「どの言語も自分自身を伝達する」(US: 3. 142)[強調原文]ということになる。

 つまり、ベンヤミンにとって言語とは、自分自身において「自らを伝える=伝わる」もの、すなわち能動的であると同時に受動的でもあるような、いわば「中動態的なもの」にほかならない。

 ベンヤミンは言語を伝達の手段として、事柄を伝達の対象として、そして人間を伝達の受け手としてとらえる一般的な言語観を「市民的言語観」と呼んで批判する。彼にとって言語とは、たんなる伝達の手段ではなく、そこにおいて伝達そのものが生じる「媒質」なのだ。

 このように言語を定義づけたうえで、ベンヤミンは「人間の言語」をそれ以外の言語から区別する。人間の言語は他の言語とは異なり、「名づける言語」なのだという。

 ベンヤミンによれば、人間の言語的本質、すなわちその言語は名づけることであり、人間は事物を名づけることによって自らの精神的本質を伝達する。このとき精神的本質は、「名」において完全に言語そのものになっている。というのも「名とは、それによってdurchはもはや何ものも自己を伝達せず、それにおいてin自己が自ら、そして絶対的に自己を伝達するもの」(US: 3, 144)[強調原文]とされるからだ。

 したがって、人間が事物を名づけうるということは、人間の精神的本質があますところなく伝達可能であること、それゆえ人間の精神的本質が言語そのものであることを意味している。

 これに対して事物の精神的本質は、人間のそれとは異なり、完全に伝達可能なものにはなっていない。なぜなら、ベンヤミンの考えでは、事物は「純粋な言語的形成原理」としての「音声」を欠いているために、精神的本質を伝達する媒質として不完全だからである。

 事物は音声言語によってではなく、「魔術的」な「物質的共同性」によって互いに自己を伝達し合う。さしあたってこれが、ベンヤミンのいう自然の沈黙である。

 さらに、ベンヤミンは彫刻や絵画の言語といったものが、事物の言語、すなわち「名を欠いた非音響的な言語、物質からなる言語」に基礎づけられていることを指摘する。つまり、彼がファシズムによる大衆の表現を「芸術」と同一視するのは、それがより高次の音声言語へと翻訳されないまま、大衆を物質的・魔術的共同性のうちに呪縛するためにほかならない。

 これに対してベンヤミンが目指すのは、人間と事物とのより解放的な関係、すなわち言語的・精神的共同性を打ち立てることである。したがって「複製技術論」における「政治の美学化」と「芸術の政治化」、あるいはファシズムコミュニズムの対立は、「初期言語論」における二つの共同性をそれぞれ変奏したものと考えることができるのだ。