『天気の子』の見取り図

 新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。鑑賞者それぞれの感想に資するために、過去の「批評」や「評論」から使えそうな部分をピックアップし、かんたんにまとめておく。

 すでに多くのひとが感想を述べているように、『天気の子』は、2000年代前半に一部のオタク界隈で流行した、いわゆる「セカイ系」の図式をなぞるような作品だった。

 ここでいう「セカイ系」とは、批評家の東浩紀によれば、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力(『ゲーム的リアリズムの誕生』96頁)のことだ。

 この定義は、必ずしもセカイ系と称されるすべての作品には当てはまらないという批判もあるが、理念的なモデルとしては優れている。実際『天気の子』は、ヒロインと主人公、つまりは「きみとぼく」という小さな人間関係が(警察という中間項を積極的に描いているとはいえ)、文字どおり「決定的に世界のかたちを変えてしまう」物語だった。

 その一方で、かつてセカイ系に向けられた批判は、この作品にもまた当てはまるように思われる。「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される」(『ゼロ年代の想像力』97頁)とセカイ系について批判的に語ったのは、評論家の宇野常寛だ。

 いちどは「気持ち悪い」と拒否されながらも、結局はヒロインに全肯定される男性主人公。女性ばかりが世界の運命を背負って労働に従事し、男性はその結果を受けとめきれずに苦悩するという責任のあり方。ヒロインを救うために法律を破って都心を奔走し、あげく銃までぶっぱなす主人公の男性的なナルシシズム

 『天気の子』のこうした描写が、宇野のいうように「家父長制的なマチズモ(男性優位主義)」を強化する、と批判することも可能だろう。この作品をセカイ系批判から擁護しようとすれば、また別の視点、従来の図式からはみ出す部分への注目が必要になる。

 降り続く雨によって水びたしになった東京。これはかつてセカイ系的な物語の舞台となった「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な事態が、より具体的に、都市における「自然災害」としてとらえられていることを意味する。ここには、災害による危機とつねに背中合わせの微妙な緊張感や、それを受け入れるほかない諦観をみることができる。いわば、震災以後の日常感覚だ。

 作中でいわれるように、世界はすでに「狂っている」。ヒロインはそんな世界を正すために自らを犠牲にし、主人公はその自己犠牲的な選択をさらに拒否する。彼のこの選択は、たんに女性を所有しようとする男性的な欲望のあらわれであると同時に、「終わりなき日常」が成立しえないような狂った世界で、私たちが何を優先すべきなのか(もちろん法律よりも!)についての意思表明でもあるだろう。

 大人たちに殴られ、倒されながら、なおヒロインを追い求め、結果として都市を水没させた主人公は、世界と同じだけ「狂っている」。あるいは少なくとも、非合理的で、非理性的で、非常識ではある。だが、そのぶんだけ自己欺瞞的ではなく、罪悪感や後ろめたさすら感じさせない、すがすがしい狂気がみなぎっている。

 この世界を、そして私たち自身をどのていどまで非合理的な存在と感じられるかで、『天気の子』に対する評価は変わってくるだろう。世界の狂気とみえるものは、結局のところ、それと向き合う私たち自身の狂気なのだ。