フェミニズム以後のオタク

 タイトルにつけた「フェミニズム以後」というのは、フェミニズムが終わったあとという意味ではない。そうではなくて、これはフェミニストによる批判を踏まえてなお、ひとがオタクであるとはどういうことか、どのようにあるべきか、という問いだ。

 オタクであることはしばしば、フェミニズムと敵対することだとみなされている。インターネット上には、オタクからフェミニストへの、そしてフェミニストからオタクへの罵詈雑言が無数に散らばっている。それらは多くの場合、まともな対話や議論のていすらなしておらず、たがいへの敵意と悪意だけがむきだしになっているように見える。

 じっさい、ツイッターフェイスブックをはじめとするSNSが普及して以降、オタクとフェミニストは幾度となく衝突してきた。たとえば、人工知能学会の学会誌の表紙が女性蔑視であると批判され、炎上したのが2013年。2015年には三重県志摩市ご当地キャラクター「碧志摩メグ」が炎上し、2017年には『週刊少年ジャンプ』連載の漫画「ゆらぎ荘の幽奈さん」がフェミニストの批判にさらされた。その翌年にはVtuberの「キズナアイ」がNHKノーベル賞特設サイトに起用されたことで物議を醸し、ライトノベル境界線上のホライゾン』の表紙が「きもちわるい」と話題になった。2019年にはアニメ『ストライクウィッチーズ』と自衛隊とのコラボポスターが批判を浴び、撤去されている。

 これらの出来事に対するオタクとフェミニスト双方の主張は、いまでもインターネット上で簡単に読むことができる。あえて単純化してまとめれば、オタク的な女性キャラクターの表現に対して「女性蔑視」や「女性の性的消費」といった批判を繰り広げるフェミニスト側と、「表現の自由」を盾に正当化をはかるオタク側という構図がある。両者の溝はいっこうに埋まらず、現在も新しいテレビアニメが放送されるたびに、似たような小競り合いが繰り返されている。それは今後も続くだろう。

 オタクである私はこのような状況そのものに関心をいだき、似たような問題意識を持つ人々とともに「サイゼリヤ自由大学#2:フェミニズムについての会話」というイベントを主催したことがある。

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 その「会話」のなかでは、「オタクvs.フェミニスト」という対立そのものがじつは見せかけにすぎないのではないかとも感じられた。というのも当然、オタクのなかにも女性はいるからだ。ところが、オタクとフェミニストの論争では、女性オタクの存在はほとんどないものとして扱われる。じっさい、「サイゼリヤ自由大学」の参考図書に挙げた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(2017年)という本では、女性オタクやいわゆる腐女子といった人々の存在がまったく無視されていた。

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 これと同じように、フェミニストの側も一枚岩ではない。オタク的表現をはじめとするフィクションにまで規制をかけようとする急進的なフェミニストは、目立ちこそすれ、必ずしも圧倒的多数派というわけではない。じっさい、日本の代表的なフェミニストのひとりである上野千鶴子などは、表現規制に明確に反対していることで知られる。

 そうだとすれば、「オタクvs.フェミニスト」という問題じたいが、真剣に向き合う必要のない、インターネット上でのたんなる憂さ晴らしにすぎないのだろうか。そうではない、というのが現時点での私の考えである。少なくとも異性愛者の男性オタクにかぎっていえば、「女性蔑視」「女性の性的消費」というフェミニストの批判は当たっていると考える。というのも、たとえ現実の女性に対してなんら危害を加えていないとしても、フェミニストがそうであるように、オタク的な女性キャラクターの表現によって「不快感」を抱く女性は現実に存在するからだ。

 もちろん、ただ「不快感」を与えているからといって、そうした表現を一律に規制すべきだということにはならない。しかし、自分以外の誰かを不快にさせている可能性があるという程度には、オタクは自分の趣味の「感情的な加害性」について認識しておくべきではないか。

 たとえば、先に挙げた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』では、少女をジューサーにかける絵などで知られるアーティスト・会田誠の作品に対して、著者のひとりである北原みのりから「怖い」「痛い」「イヤだ」などの感情的な批判が投げかけられていた。これは一般的に、オタク的な表現に対していわれる「気持ち悪い」という批判とほとんど同じものだ。

 オタク的表現の「気持ち悪さ」は、それに対する「萌え」と表裏一体である。思想家の東浩紀は、かつて『動物化するポストモダン』(2001年)のなかで、キャラクターを「萌え要素」の組み合わせとして分析した。そこで取り上げられるキャラクター「デ・ジ・キャラット」は、「触覚のようにはねた髪」「猫耳」「しっぽ」「メイド服」などの古典的な「萌え要素」からできている。デ・ジ・キャラットじたいはさほど性的とはいえないが、「萌え要素」にはほんらい、異性愛男性の性的欲望が多分に含まれる。だからこそ、それらは異性愛男性オタクに対しては「萌え」を喚起するいっぽうで、少なからぬ女性からは「気持ち悪い」といわれる。これまでに炎上した漫画やアニメのキャラクターは、いずれも「乳袋」や「パンチラ」をはじめとする、オタクの好む「萌え要素」が問題となっていた。そこに「女性蔑視」や「女性の性的消費」がないといえば、嘘になるだろう。

 あるひとにとっては快だが、別のひとには不快であるような表現。オタク的表現とは、多くの場合、そのような両義的なものである。したがって、オタクであるということはつねに、誰かを不快にさせているという可能性を引き受けることでもある。この感情的な加害性は、もしかしたら、オタクのなかに罪悪感や後ろめたさを生むかもしれない。それによって素直にキャラクターに萌え、作品に没入することが難しくなるかもしれない。だが、フェミニズム以後のオタクの倫理というものがあるとすれば、それはこの葛藤を抱えこむことにあるのではないか。

 ちょうど戦後日本が戦争責任を引き受けざるをえなかったように、オタク文化が伸長した現代社会において、感情的な加害性を自己の責任として引き受けること。それはつまり、「オタクvs.フェミニスト」という対立ないし分裂を自分のなかに内面化するということだ。依然として男性中心のこの社会で、女性差別に反対するフェミニストでありながら、それと相反するかのようなオタク表現を愛好することは、このような困難を招き寄せる。

 だが、それでいいにちがいない。葛藤を忘れたオタクは、もはやオタクでもなんでもない。自分の趣味が、いや生それじたいが引き起こす「気持ち悪さ」につまずいてこそ、私たちは自分が傷つけているかもしれない他者の存在へと開かれることができる。アスカの首を絞め、「気持ち悪い」とささやかれるシンジのように。