てらまっとのアニメ批評ブログ

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あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

 あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。

 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。

 ツイッターなどで検索すると、展示初日からトリエンナーレの窓口はもちろん、県や市、協賛企業などに対しても、作品の撤去を求めるネトウヨのクレームが殺到している。

 私は初日に見てきたが、少女像の近くには警備員が常駐し、複数人のスタッフが待機しているなど、すでにものものしい雰囲気が漂っていた。

 だが、じっさいに少女像を前にすると、撤去を求めるひとびとの激烈な批判にくらべて、じつに素朴で地味な印象を受けた。

 少女は椅子に腰かけており、表情はやや固く、こぶしを握りしめ、肩には小鳥が乗っている。掲示されていた説明文を読むと、そうした細部にはひとつひとつ意味が込められていることがわかる。

 けれども、造形物としてはあまりにも素朴なので、私はいささか拍子抜けした。

 日韓関係の悪化の原因のひとつとされる従軍慰安婦問題。韓国におけるそのシンボルともいうべき作品は、こんなに地味なものだったのか。

 「平和の少女像」の撤去を求めるひとびとは、口々に、日本を貶める韓国の反日プロパガンダだと批判するが、そんな雰囲気はこの像そのものにはまったくない。それはおそらく、今回この少女像が、あくまで美術館の一室に展示されているためだろう。

 じつをいうと、私が「平和の少女像」を見るのはこれが初めてではない。

 数年前に韓国に旅行にいった際、妻といくつかの少女像を見て回っている。なかでもいちばん印象に残っているのが、今回展示されているものと同じかたちの、在韓日本大使館に設置された少女像だ。

 ちょうど「光復節」(日本からの独立を果たした日)のころで、少女像のまわりには大量の学生が集結し、昼夜問わず交代で像を守り、花を手向け、舞台を設けてトークライブを行っており、警察車両がその周辺を厳重に取り囲んでいた。

 「平和の少女像」は、まさにこの騒動の渦中にあった。だからこそ、それは従軍慰安婦問題を象徴する像として、圧倒的な存在感を放つことができた。そこには「オーラ」があった。

 これに対して、「表現の不自由展・その後」で展示された今回の少女像は、そういったコンテクスト(文脈)から完全に切り離されている。それどころか、たとえば昭和天皇の写真を燃やす画像などの過激な作品と並べられ、その造形的な素朴さがいっそう際立つことになった。そこには「オーラ」がない。

 じっさい、展示会場にいた子どもたちは、ほとんど少女像には関心を示さず、もっと過激な作品のほうに興味を抱いているようだった。

 けれども、ここでさらに別のコンテクストが接ぎ木されることになる。

 炎上したことによって、展示室には、右翼活動家が直接抗議に来るのではないか、という緊張感が漂っていた。じっさい、私の目の前で保守派と思しき中年男性が、少女像を小突くような素振りを繰り返し、スタッフとちょっとした言い合いになっていた。

 このピリピリとした緊張感が、むしろ「平和の少女像」を特別な像にしていた。日本では、炎上こそがかえって少女像を特別なものにしていたのだ。こうして「平和の少女像」は、逆説的に「オーラ」をまとう。

 素朴で地味な少女像をひとりの「アイドル」たらしめるのは、彼女を熱烈に支援する学生運動家たちであると同時に、熱烈に批判するネトウヨでもある。おそらく日本国内では、撤去されるそのときこそ、「平和の少女像」がもっとも光り輝くにちがいない。