フェミニズム以後のオタク2:「安全に痛い自己反省パフォーマンス」について

 前回の記事の続きを書こうと思ったのは、いただいたコメントのなかに、自分でもなんとなく感じていた問題点、というより既視感を指摘したものがあったからだ。いわゆる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」というものである。

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 安全に痛い自己反省パフォーマンスとは、評論家の宇野常寛がデビュー作『ゼロ年代の想像力』(2008年)のなかで展開した議論だ。これが既視感の原因だった。宇野は東浩紀による美少女ゲーム(いわゆる「エロゲー」)論を批判しながら、おおむね次のように論じている。

 宇野によれば、多くの異性愛男性オタクは「女性差別的な所有欲」(320頁)をもっており、エロゲーをはじめとする「レイプ・ファンタジー」にふけることでその欲望を満たしている。東はかつて、そんなエロゲーのなかにも、オタクに自己反省を迫る「批評的」な作品があることを指摘し、自著でくわしく分析した(東自身は「自己反省」という言葉は使っていない)。だが、宇野にいわせれば、その自己反省はしょせん、男性オタクの性的欲望それじたいの否定や断念にはつながらない、ただのパフォーマンスにすぎない。それどころか、女性キャラクターによる拒絶という「本当に痛い」自己反省の契機を奪い、家父長制的な「所有欲」をかえって強化・温存するものでしかない。これが、彼のいう「安全に痛い自己反省パフォーマンス」の内容である。

 この「パフォーマンス」は、宇野の考えでは、「セカイ系」をはじめとするゼロ年代前半のオタク文化のなかに広く浸透しており、サブカルチャー批評の世界でも「東の劣化コピー」たちにもてはやされていたという。「だがそんな不毛な時代は終わりにしなければならない」(241頁)と宇野は決意する。なぜなら、結論ありきの「安全に痛い自己反省パフォーマンス」は、文学の可能性を毀損し、「より単純化された思考停止」へとひとびとを導いてしまうからだ。

 前回の記事で私が主張したのは、オタクであれば「誰か(とりわけ女性)を不快にさせているかもしれない」という「感情的な加害性」を引き受けるべきであり、ひいてはそれによる内面の分裂や葛藤を抱えこむべきである、ということだった。これは宇野が批判する、「東の劣化コピー」そのもののようにみえる。というのも私は、じつをいえば、東の次のような記述を繰り返しているにすぎないからだ。彼は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)のなかで、オタクのもつ二面性についてこのように語っていた。

解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる。しかし、オタクたちの多くは、むしろ、その分裂を強引に埋め、アイデンティティを捏造している。[……]彼らは、二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねる。(316~317頁)

 女性キャラクターと疑似的な人生経験を重ねつつ、そのキャラクターをモノとして性的に「消費」もしくは「所有」すること。こうしたオタクの二面性をあくまで両義的なものとして分析した東、あるいはそれを自己正当化の論理へと流用したオタクたちに対し、宇野は痛烈な批判をぶつけている。いわく、それは女子高生と援助交際をしたあとに、罪悪感や後ろめたさを解消するために「こんなことしてはいけないよ」と説教をたれることに等しい、と。

 宇野の批判は、いっけんするとまったく正しく、それどころか正しすぎるようにも思える。女性に対する性的欲望を断念することのできない異性愛男性オタクは(だが、性的欲望を完全に打ち消せる人間というのはどれほどいるのだろうか)、彼の正論に手も足も出ない。私たちは女性を「所有」したい。モノのように「消費」したい。けれど、それは家父長制的で女性差別的な欲望であり、現代社会では強く批判されなければならない。だから「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を演じて、反省しているそぶりだけはみせておこう、というわけだ。

 じつをいうと私は、こうしたとらえ方の前提そのものにやや疑問がある。宇野は、フィクションの女性キャラクターを現実の女性そのものとほとんど同一視している。あるいは少なくとも、フィクションの女性キャラクターに対する異性愛男性オタクの「萌え」を、現実の女性に対する異性愛男性の性的欲望の発露と区別できていない(あえて区別していないのかもしれない)。いずれにせよ、そこには「想像」と「知覚」の微妙な混乱がある。

 けれども、人間が人間であるかぎり、この混乱はつねに生じる。ひとは絵や文字のかたまりでしかないキャラクターに同一化する。あるいは共感し、感情移入する。感情という乗り物に乗って、フィクションと現実の境界をやすやすと越えてしまう。

 前回の記事でもふれた『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(2017年)のなかで、北原みのりは残酷に扱われた少女の画像に感情移入し、「痛い」「怖い」「気持ち悪い」といった感情的反応を示していた。同じことが宇野にもいえる。彼は「所有」ないし「消費」されるべく描かれた女性キャラクターに同一化し、異性愛男性オタクを断罪する。「萌え」を可能にするまさにその同じ心的メカニズムが、ここでは逆方向に作用している。だからこそ、私は他者によるこうした「不快感」の表明を無視することはできない、すべきではないと考える。

 エロゲーをきっかけとした自己反省は、たしかに宇野のいうように「安全に痛いパフォーマンス」にすぎなかったかもしれない。けれども、ツイッターをはじめとするSNSを通じて、偶然視界に入ってきてしまう急進的なフェミニストのツイート、あるいはオタクを激烈に批判する女性のコメントは、異性愛男性オタクにとってつねに「本当に痛い」。オタクたちがあれほど激しく反発し、そのたびに「表現の自由」という最後の砦に立てこもってしまうのは、まさにこの「痛み」から逃れるためだ。

 とすれば、「感情的な加害性」を内面化し、それによる分裂と葛藤を生きることは、まさしく「本当に痛い」自己反省を実践することにほかならないのではないか。じっさい、宇野はそのような真の自己反省の契機として、『新世紀エヴァンゲリオン』劇場版のラストシーンを挙げている。シンジに首を絞められながら「気持ち悪い」と彼を拒絶するアスカは、それをみる当時のオタクたちに対して「本当に痛い」自己反省を始動させるだけのポテンシャルを秘めていた。にもかかわらず、宇野によれば、オタクたちは『エヴァ』の結論を受け入れることができなかった。自らの「気持ち悪さ」を認め、分裂した生を営むだけの覚悟が足りなかった。

 『エヴァ』劇場版にきっかけを与えられながら、オタクたちが受け入れられなかった「本当に痛い」自己反省。それは具体的にはどのようなものなのか。東のいう、分裂し解離した生における倫理とはいったい何を意味するのか。私はそれを、宇野の「安全に痛い自己反省パフォーマンス」という言葉の意味をあえてずらすことで、考えてみたいと思う。

 「パフォーマンス」という言葉は、ここではひどく否定的な意味合いで用いられている。演劇や映画、舞踊などに関する用法がそうであるように、ふつうとは違うことをしてひと目を引く、わざわざ目立つことを行う、という意味だ。「安全に痛い」という奇妙な形容詞は、言葉のこの用法と深く結びついている。自己反省ではなく、自己反省「パフォーマンス」。それは自己反省と同じもののようでありながら、じつは決定的に異なるものとしてとらえられている。

 けれども、英語ほんらいの「performance」という言葉には、演劇の上演や映画の上映とは異なる意味も当然含まれている。「performance」のもととなる「perform」という動詞は、「per(完全に、徹底的に)」と「form(形作る)」というふたつの要素からなる。パフォーマンスとは、そもそも「完全に+形作る」ことなのだ。

 「パフォーマンス」には、ものごとを「実行」する、「遂行」するという意味がある。それはいわば、ひとが頭のなかだけで思考していること、想像していることを「完全に」現実のものとして「形作る」ということだ。だからこそ、それは日常的な空間から浮かび上がり、それじたいで完結したひとつの行為となって、多くのひとの目を引く。

 とすれば、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にもまた、そのような「完全さ」に向けたベクトルがすでにはらまれているのではないか。それが「安全に痛い」ものでしかないのは、たんなる「パフォーマンス」だからではなく、むしろパフォーマンスとして不完全だからではないか。重要なのは自己反省をより徹底して「遂行」すること、現実のものとして「完全に+形作る」ことだ。それこそが「本当に痛い」自己反省であり、分裂した生を生きるということだろう。

 ここで私が具体的に念頭においているのは、たんにオタクが熱心なフェミニストになればよいということではない。あらゆる性的欲望を断念せよということでもない。そうではなく、フェミニズム的な現実と女性差別的なフィクションとの区別を徹底的に遂行してみせることであり、つねにそれらの差異を「完全に+形作る」ことだ。

 もちろん、多くのひとは、自分が現実とフィクションとを明確に区別している、できていると思っている。けれども、また多くの場合、それらの境界線は非常にあいまいで、私たちはたんなる絵や文字のかたまりに容易に同一化し、共感し、感情移入する。宇野によるオタク批判は、そのような現実のあいまいさに基づいている。私たちは十分に分裂した生を生きていない。オタクがたえず批判にさらされるのは、たとえば宮崎勤事件がそうであったように、現実とフィクションとを区別できていないのではないか、という嫌疑がかけられているためだ。

 だからこそ、女性キャラクターを性的に「消費」し「所有」するようなフィクションを受容する異性愛男性オタクは、つねに自らが現実とフィクションとを完全に区別でき、またじっさいに区別していることを示さなければならない。「安全に痛い自己反省パフォーマンス」は、ここにおいて真に遂行される自己反省となり、言葉の十全な意味での「パフォーマンス」となる。それは具体的には、みずからの愛好するフィクションとは徹頭徹尾対立する、フェミニズム的に「正しい」、あるいは道徳的に「善い」行いを実践することだろう。そのような分裂を、葛藤を真正面から引き受けること。それが、前回の記事で私のいいたかったことだった。

 かつて大塚英志は、「あんたもぼくもただのサブ・カルにすぎない。だが、幼女を殺さず、サリンをまかず、サブ・カルであり続けることは可能なのか」と問うた。それに対する私の回答は次のようなものだ。すなわち、いまやサブカルであるためには、オタクであるためには、現実においては幼女を殺さず、サリンをまかず、悪をなさないことが絶対の必要条件となる。おそらくそれだけが、オタクの「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を、真にパフォーマティブな自己反省に変えてくれるだろう。