てらまっとのアニメ批評ブログ

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失われた過去の可能性:『映像研には手を出すな!』について

 2020年1月から放送されているアニメ『映像研には手を出すな!』の第1話には、宮崎駿監督が手がけた『未来少年コナン』(1978)を思わせるアニメが登場する。主人公の浅草みどりは、幼少期にこの作品を見たことがきっかけで、アニメーション制作の道を志すことになる。実際にアニメ関係の仕事に就くかどうかは別にして、かつて似たような思いを抱いていた視聴者も少なくないはずだ。

 けれども『映像研』には、それを見る私たち視聴者とは根本的に相容れない特徴がある。浅草氏をはじめとする主要キャラクターもまた、アニメであるということだ。彼女たちは「実写」ではない。私たちのように生身の肉体を持っているわけではない。『映像研』のおもしろさの一端は、アニメのキャラクターがアニメをつくるという、この自己言及的な構造にある。

 しかし、そうだとすれば、第1話の『コナン』は、はたして私たちがふつう考えるような「アニメ」なのだろうか。それ自身アニメであるキャラクターにとってのアニメとは、むしろ、私たちにとっての「実写」と同じ意味を持つのではないか。すべてがアニメーションで表現されるこの作品のなかでは、原理的に、実写とアニメの区別は成立しない。『映像研』の第2話では、映像研の活動方針をめぐって「実写をやれ」「やらない」という教師とのやりとりが描かれるが、そもそもこの作品がアニメとしてつくられている以上、作中で実写とアニメを厳密に描き分けることはできない。このやりとりは、したがって『映像研』の本質的なパラドックスに触れている。

 実際、浅草氏の外見は、シンプルな描線で漫画的にデフォルメされているという点で、コナンとたいして変わらない。アニメキャラクターとしての浅草氏と、彼女が見るアニメのキャラクターとのあいだに、表現上の、あるいはこう言ってよければ、存在論的な区別は存在しない。二人はともに、アニメキャラクターとしての身体を所有している。つまり、浅草氏が見る『コナン』は、彼女にとっていわば「実写」の、現実と地続きの『コナン』なのだ。

 これに対して、私たち生身の視聴者とアニメキャラクターとのあいだには、はっきりとした存在論的な区別がある。デフォルメされたアニメキャラクターを、生身の人間と混同することはふつうありえない。したがって、私たちは浅草氏が「実写」として『コナン』を見るのとは別の仕方で、つまりは「アニメ」としてそれを見る。生身の肉体に縛られた私たちは、アニメキャラクターとしての身体、すなわちアニメ的身体を欠いている。この欠如こそが、私たちにとってのアニメ視聴の前提となる条件だ。それは言ってみれば、他なるものの経験である。

 浅草氏は、自分でスケッチしたイメージボードの設定画を想像のなかで実体化し、さまざまなマシンに乗り込み、自由自在に空を駆ける。想像と現実の境目はかぎりなく曖昧にされ、わずかに水彩画風のタッチでその区別が示唆されるにとどまる。これは浅草氏がアニメキャラクターだから、つまりはアニメ的身体を持っているからこそなしえる表現だ。生身の肉体を持たない彼女は、まさにそのおかげで、自分が描いた設定画のマシンにそのまま搭乗することができる。そこには存在論的な区別がない。紙の上のスケッチと、自分の身体とのあいだに齟齬がない。

 けれども、これは私たちがアニメを見る経験とは異なる。私たちは欠如を抱えている。アニメをアニメとして見ることは、私たちがそこから存在論的に遠ざけられていること、原理的に区別されていることを承認することだ。アニメのなかではすべてが可能になる。一人乗りのプロペラスカートで空を飛ぶことも、邪魔なビルを爆破して風車を回すこともできる。だが、それを見る私たちは、いまやその可能性のほとんどを奪われている。どうしてこうなってしまったのだろう。いつから私たちは、このほろ苦い認識とともにアニメを見るようになったのか。

 かつて私たちは、生身の肉体とともに、アニメ的身体を所有していた。アニメキャラクターに憧れ、ごっこ遊びのなかで彼らを模倣するとき、私たちはたしかにアニメ的身体を生きていた。アニメは他なるものの経験ではなく、この私の、現実と地続きの世界として現象していた。肉体はキャラクターの生が息づく舞台であり、想像と現実の境界を超えて、コナンのように、あるいは浅草氏のように自由に飛び回ることができた。成長するにしたがい、いつしかこの身体は失われてしまったけれども、私たちはそれが『映像研』のなかに、浅草氏の無邪気で奔放な想像力のなかに居場所を得たことを、かすかな疎外感とともに感じ取る。『映像研』のアニメーションの快楽は、同時に、私たちのノスタルジックな感傷をかき立ててやまない。