本稿は2014年3月に開催されたイベント《日常系アニメのソフト・コア》での発表原稿をまとめた同名の評論集に「あとがき」として収録したものです。
評論集のダウンロードは下記サイトより
日常系アニメに関するイベントをやろう、という話が最初に持ち上がったのは、たしか2013年秋の文学フリマ会場でのことだったように思う。今回のパネリストのひとりであるnoirse氏(@noirse)との立ち話のなかで、都内某所にある秘密の映画上映スペース「visualab」を借りて、アニメのトークイベントのようなものを開催できないか、という話になったのが発端だった。そのときは具体的な進展もなく別れてしまったが、その後、Twitterでのやりとりを通じて、評論系同人誌『セカンドアフター』主宰の志津A氏(@ashizu)に声をかけ、またS治氏(@esuji)にも参加してもらい、日常系アニメを振り返るシンポジウムを企画することになった。
こうして2014年3月、visualabで《日常系アニメのソフト・コア》が開催された。シンポジウム当日の模様については、すでにtogetterにまとめられているので*1、詳しくはそちらを参照してほしい。このあとがきでは、そもそもなぜ日常系アニメに関するイベントを企画しようと考えたのか、その個人的な意図や動機を出発点に、昨今の「日常系アニメ以後」をめぐる状況を整理することにしたい。なお、シンポジウムおよび論集では、京都アニメーションを中心に日常系アニメの変遷について論じられているため、ここではやや異なった観点から、ポスト日常系アニメの物語=歴史を構築することを試みる。
日常系アニメのソフト・コアとは何か?
今回のシンポジウムの目的は、「日常系アニメのソフト・コア」というタイトル通り、日常系アニメの「壊れやすい核(ソフト・コア)」を救い出すことにあった。というのも、ここ数年のあいだに日常系アニメを支えてきた社会的・経済的・技術的条件が変化するにつれて、その繊細な核が脅かされているように思われたからだ。
では、日常系アニメのソフト・コアとはどのようなものか。ごく大雑把にまとめるなら、それは「ありふれた日常のうちに輝きを見出す」という価値観のことである*2。
日常系アニメのうちにこうした価値観が見出されることは、いまさら指摘するまでもないだろう。最近の事例をひとつ挙げるなら、たとえば2013年7月から9月にかけてテレビ放送された日常系アニメ『きんいろモザイク』のオープニング曲「Your Voice」では、冒頭から次のように歌われている。
ありふれた日々の
素晴らしさに 気づくまでに
ふたりはただ いたずらに時を重ねて過ごしたね*3
日常系アニメの基本的なモチーフは、まさにこの「ありふれた日々の/素晴らしさ」をアニメートすることにある。それは典型的には、仲の良い女子高生や女子中学生のグループが、部活や恋愛や学業などに熱中しすぎることなく、学校の教室や部室でたわいないおしゃべりを繰り広げる──とはつまり「いたずらに時を重ねて過ご」す──ことによって表現される。一見どこにでもありそうな「日常」の風景を、ありそうもない「奇跡」として描くこと。さしあたってこれが、日常系アニメのソフト・コアと言えるだろう。
「日常」を支える室内空間
では、この核が脅かされているとはどういうことか。危機の徴候はさまざまなかたちで表れているが、ここでは議論をわかりやすくするために、ある特定のカテゴリーに注目することにしよう。そのカテゴリーとは、少女たちの日常生活が営まれる「空間」である。
そもそも、日常系アニメの前提となる「ありふれた日々」を成立させるためには、たとえば戦争や災害といったさまざまな生の理不尽から、少女たちを徹底して遠ざけなければならない。さもなければ、ある日突然大地震に襲われたり、テロに巻き込まれたりする可能性が生まれる──とまでは言わなくても、彼女たちのおしゃべりのなかに、政治や社会、経済、宗教などの物騒な話題が入り込んできてしまうだろう。これらは「現実」のままならなさを視聴者に思い起こさせ、作中で描かれる「ありふれた日々の/素晴らしさ」に影を落とすため、可能なかぎり排除することが望ましい。
そこで、多くの日常系アニメでは、そうした面倒事から少女たちを隔離・保護するために、あたかも「繭」のような室内空間が用意されている。それが『らき☆すた』(2007年4~9月)や『けいおん!』(1期:2009年4~6月、2期:2010年4~9月)の教室/部室であり、また『ひだまりスケッチ』(一期:2007年1~3月、2期:2008年7~9月、3期:2010年1~3月、4期:2012年10~12月)のひだまり荘である。この安心・安全な空間は、彼女たちを優しく包み込み、外部からのわずらわしい情報を──まるで浸透膜のように──フィルタリングしてくれる。そこで描かれる「日常」は、作品外の「現実」と地続きのようでいて、(当たり前だが)実はまったく非現実的な「フィクション」にすぎないのだ。
にもかかわらず、2000年代後半以降、一部の日常系アニメが熱狂的な支持を集めたのは、おそらくそれがたんなる「嘘」ではなく、ある種の「夢」を体現していたからだろう。1990年代後半から続く深刻な社会不安や経済不況のなかで、少なからぬ人々がそうした「現実」から解放された「ユートピア(どこにもない場所)」としての「日常」を夢見たとしても、決して不思議ではない*4。
いずれにせよ、ここで強調しておきたいのは、日常系アニメの舞台となる教室や部室、さらにはアパートといった室内空間が、少女たちを生の理不尽から隔離・保護する繭として機能していることだ。そして、それは同時に、この空間がたんに作品内の内部/外部を隔てるだけではなく、作品そのものを外部環境から閉じる「枠」としても理解可能であることを示している。つまり、作中で少女たちを戦争や災害、あるいはそれらの情報から遠ざけることが、その作品をまるごと「現実」から切り離し、ひとつのフィクションとして自律させるのである。『けいおん!』の音楽準備室の分厚い防音壁は、作品外からの騒音を遮断するフィクションの防波堤でもあるのだ。
室内空間の解体──『進撃の巨人』
ところが、2010年代を過ぎた頃から、この安定した空間=作品構造がしだいに揺らぎはじめる。より正確に言えば、もはや安心・安全な空間を無条件に前提とするのではなく、むしろそうした空間の「破れ」や「綻び」に注目し、それに対処しようとする作品が増加しつつあるように思われるのだ。したがって、当然ながらそこでは、従来の日常系アニメとは大きく異なるタイプの物語および映像が生成されることになる。日常系アニメのソフト・コアが脅かされているというのは、このような状況認識を踏まえてのことである。
たとえば、おそらく2010年代最大のヒット作のひとつである『進撃の巨人』(2013年4~9月)は、文字通り「壁」の外側から侵入してくる「巨人」に立ち向かう物語だった。巨大な壁に守られてきた「日常」はあっけなく崩壊し、人々はなすすべなく巨人に食い殺される。「ありふれた日々」を支える室内空間としての城壁都市が、巨人によって体現される生の理不尽──さしあたって巨人が(自然)災害の隠喩、というよりほとんど直喩であることは明らかだろう──を、もはや押しとどめられなくなっているのだ。こうして少年/少女たちは、たわいないおしゃべりで「いたずらに時を重ね」る暇もなく、巨人との絶望的な戦いに身を投じていく。
その一方で、アニメ化された『進撃の巨人』では、自閉的な室内空間の解体にともない、より自由で解放的な運動が生み出されることになる。特殊な「立体機動装置」を装着した少年/少女たちは、建物の屋根や壁にワイヤーを打ち込み、まるでジャングルのターザンのように、あるいは遊園地のジェットコースターのように街中を自由自在に飛び回るのだ。教室や部室の壁に阻まれ、透明なカメラで少女たちの「日常」をこっそり覗き見ることしかできなかった視聴者は*5、いまや戦場の若い兵士の一人称視点を借りて、建物や巨人すれすれの空中を猛スピードで滑走する。
こうしためくるめく運動の快楽は、今日ではCG技術の飛躍的な発展とカメラの小型化・高性能化によって広く一般化しており、たとえば『スパイダーマン』(2002年)をはじめとするハリウッド映画から、ウェアラブルカメラ「GoPro」によるパルクールやマウンテンバイクの動画にいたるまで、さまざまな映像作品に見出すことができる*6。だが、とりわけ『進撃の巨人』の場合、それが室内空間の解体と密接に結びついていることに注目すべきだろう。
そもそも、日常系アニメの舞台となる教室や部室には、猛スピードで突進することを可能にするだけの十分な「奥行き」が不足している。だからこそ、『けいおん!』のオープニング映像では、カメラがまるで閉じ込められたハエのように、演奏する少女たちの周りをぐるぐると旋回し続ける(ことしかできない)のだ。つまり、『進撃の巨人』の目が回るような立体機動シーンは、舞台の書割のような室内空間を解体することで、はじめてアニメートすることが可能になったのである*7。
学校の外へ──『ラブライブ!』『ガールズ&パンツァー』
このような空間の変容は、たとえば『ラブライブ!』(1期:2013年1~3月、2期:2014年4~6月)や『ガールズ&パンツァー』(2012年10~12月)といった他の人気アニメにも見てとることができる。アイドルものと戦車ものという違いはあるが、どちらも学校を廃校の危機から救うために、少女たちが一致団結して「スクールアイドル」や「戦車道」の全国大会に挑む物語だ。とくに『ガルパン』では、少女たちの通う高校が空母の上に建てられており、彼女たちはいわば部室の代わりに戦車に乗り込むのである。
これらの作品からうかがえるのは、室内空間の不安定化(廃校の危機)に直面した少女たちが、ときに空間そのものを頑丈で移動可能な兵器に作り変えながら、積極的に外部(全国大会)へと進出している──あるいは、進出せざるをえない──ことだろう。そこに競争や努力、あるいは勝利の肯定といった日常系アニメとは相容れない価値観が見られるとすれば、それはこうした空間の変容ないし解体と無関係ではありえない。外皮を失った日常系アニメのソフト・コアは、さまざまな生の理不尽にさらされることで、しだいに硬質化しつつあるかのようだ。
もちろん、年間100本以上のアニメが放映される現在では、このような見立てはあくまで恣意的なものにすぎない。取り上げる作品やアプローチを少し変えるだけで、異なった歴史=物語をいくらでも紡ぐことができるだろう。
しかしながら、空間のあり方に注目して作品を読み解くことは、まったくのこじつけというわけでもない。その有力な手がかりを与えてくれるのが、2012年7月から9月にかけてテレビ放送されたギャグアニメ『じょしらく』である。というのも、この作品では、まさに日常系アニメのパロディを通じて、室内空間の破れが鮮やかに描き出されているからだ*8。
日常系アニメのパロディ──『じょしらく』
久米田康治原作の『じょしらく』は、五人の女性落語家たちが舞台裏の楽屋でおしゃべりを繰り広げる作品である。一見すると、よくある日常系アニメのようにも思えるが、この作品が決定的に異なるのは、久米田作品らしい社会風刺やブラックユーモア、パロディ、時事問題への言及などが随所に散りばめられている点だ。しかも、そうした話題がたんにセリフのなかに出てくるだけではなく、その話題に関連した不審者が毎週のように楽屋に上がり込み、彼女たちのおしゃべりに割り込んでくるのである。つまり『じょしらく』では、日常系アニメから徹底して排除されてきた「現実」のさまざまな面倒事が、きわどい話題や人物といったかたちで、やすやすと室内空間に入り込んできてしまうのだ。
これは言い換えると、少女たちを隔離・保護してくれるはずの閉じた空間=作品構造が、いまや決定的に破綻しつつあることを示している。実際『じょしらく』のあるエピソードでは、楽屋の壁がまるで舞台の書割のように外側に倒れ、また別のエピソードでは、大量のネズミが天井裏で楽屋の柱をかじっている(その上、畳の下にはなぜか力士が寝ており、壁紙の裏にはお札が何枚も貼り付けられている──不気味な空間だ)。さらに、オープニング映像では、女性落語家たちが『けいおん!』オープニングとまったく同じ姿勢・構図で、ハリボテのような楽屋をぶち破って外に飛び出していく。
だが、やはり最も印象的かつ論争的なエピソードは、「原発ピタゴラ装置」に関するものだろう。これは楽屋のなかから転がり出たボールが、まるでピタゴラ装置のようにさまざまな出来事を連鎖的に引き起こし、最終的に主人公の虫歯が抜けるというものだが、その途中で福島第一原発の建屋と思われる建物が爆発するのである。このあまりにもブラックなエピソードには、日常系アニメを支える自律的な空間=作品構造の解体がはっきりと刻印されている。ボールは室内空間=フィクションの内部と外部を貫通し、原発事故という「現実」の大事件を、虫歯の治療という「日常」に結びつけてしまうのだ。
こうして『じょしらく』は、閉じた室内空間=フィクションとしての枠を壊すことで、作中にわずらわしい「現実」を次々と侵入させ、日常系アニメの核となる「ありふれた日々の/素晴らしさ」をパロディ化する。しかも、猥雑な「現実」をただ露悪的に突きつけるのではなく、それによって汚染された「日常」を(ブラック)ユーモアによって笑い飛ばし、あくまで肯定してみせるのだ。
何が室内空間の解体を引き起こすのか?
このように、2010年代以降の少なくないアニメ作品が、日常系アニメを支える室内空間の解体ないし変容を描き出している。しかし、だからといって、すべての日常系アニメが無価値になってしまったというわけではもちろんない。放映される数こそ少なくなったものの、2010年代以降も先に挙げた『きんいろモザイク』や『のんのんびより』(2013年10~12月)など、バリエーションに富んだ魅力的な作品が制作され続けている。
その一方で、これらの作品もまた、それぞれの仕方で室内空間の不安定化に対応しているように見える。たとえば『きんいろモザイク』では、イギリスからの留学生(外部からの侵入者)を極端な日本好きの美少女に設定することで、異なる文化間の衝突や摩擦を回避している*9。また『のんのんびより』では、あちこち傷んでいる木造の学校(室内空間)を、理想化された安心・安全な「田舎」によってまるごと隔離し、不都合な「現実」の侵入を防いでいる*10。だが、そうだとすれば、いったい何がこうした空間の解体と再編を引き起こしているのか。
制作側の事情を別にすると、おそらく最もわかりやすい説明のひとつは、2011年に発生した東日本大震災および原発事故と関連づけることだろう。巨大な地震と津波、それに目に見えない放射線の脅威が、「ありふれた日々」を支える生活インフラを文字通り動揺させ、安心・安全な室内空間への信頼を打ち砕いたというわけだ。
もちろん、これは素朴に社会反映論的な見方であり、実際には複雑に絡み合った社会的・経済的・技術的要因のごく一部でしかない。この結び目を正確に解きほぐすためには、それなりに時間と手間をかけて統計的・実証的な分析を積み重ねなければならないだろう。だが、さしあたってここでは、考えられる要因をもうひとつだけ指摘するにとどめたい。その要因とは、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化である。
アニメ実況と情報環境の変化
2000年代後半の日常系アニメの隆盛を支えた要因のひとつに、いわゆる「実況」文化の普及がある。これは複数の人間が同じアニメ作品を視聴しながら、思い思いのコメントを書き込んで文字通り「実況」することだ。ネット掲示板からはじまったこの視聴スタイルは、2006年末のニコニコ動画のプレオープン、2008年のTwitterの日本サービス開始を経て、いまではアニメ視聴の主要な形式として完全に定着している。
アニメ実況の大きな特徴は、文字と映像という2つの画面、あるいは2種類の情報を目で追いながら、同時に手元のキーボードやタッチパネルでコメントを書き込まなければならないということだ。この複雑な処理のおかげで、視聴者は画面に集中して物語に没入するというよりも、むしろ気が散った状態で作品と向き合うことになる。そのため、実況コメントの大半は、物語の展開を長々と解説したり予想したりするものではなく、キャラクターの言動に対して反射的・感情的に反応するものになる。その結果、たとえば作品内のキャラクター同士のおしゃべりが、それに対する類型化された共感や反感、パロディやツッコミを通じて、作品外の視聴者同士のコミュニケーションへと連鎖していく。日常系アニメとの親和性の高さは明らかだ*11。
しかし、これは逆に言えば、アニメ作品の視聴体験が、それを取り巻くネット上の無数のコメントに大きく左右されるということでもある。したがって、何かのきっかけでコメントが「荒れる」と、作品に対する評価はもとより、視聴そのものが困難になりかねない*12。とくに震災の前後から、ネット上では原発の事故処理や再稼働、放射能汚染、領土紛争、ヘイトスピーチなどをめぐる議論が紛糾し、SNSやまとめサイトを中心に罵詈雑言が目立ちはじめていたが、そうした問題がアニメ作品に飛び火することも稀ではない*13。
いまやアニメを見ることは、部屋に閉じこもってテレビ画面に没入するのではなく、パソコンやスマートフォン、タブレットなどの複数の画面を通じて、部屋の外部から侵入するさまざまな情報にさらされることを意味している。これは言い換えると、アニメ視聴を支えてきた「現実」の室内空間そのものが解体しつつあるということだ*14。そうだとすれば、作品内で描かれる室内空間の破れや綻びは、そのまま作品外の視聴環境をめぐる変化としても理解することができるのではないか。実際『じょしらく』では(これは久米田作品すべてに言えることだが)、ネット上で話題になったさまざまな人物や出来事、スラング、ジャーゴンなどが、作中に数多く取り入れられていた。
もちろん、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化が、作中の室内空間の不安定化を直接引き起こしたとは考えづらい。素朴な社会反映論と同様、素朴な技術決定論に陥ることもやはり避けなければならない。とはいえ、そうした環境下にある視聴者の多くが、もはや「ありふれた日々」を夢見るだけでは飽きたらず、それを脅かす生の理不尽にまで関心を広げつつあるとしても、それほど不自然ではないだろう。安定した空間=作品構造の変容は、それを見る視聴者自身の状況を部分的に映し出しているというわけだ。
「日常」に守るべき価値はあるのか?
いずれにせよ、画面のなかの少女たちは、もはや視聴者に一方的に夢見られ、覗き込まれるだけのモルモットではいられない。なぜなら、いまや彼女たちも視聴者と同様、あるいはより緊急かつ大胆に、室内空間の不安定化に対処しなければならないからだ。こうして少女たちは、危機に対する自らの態度決定を通じて、ある根本的な問いを画面の外へと投げかけてくる。その問いとは、そもそもこの「日常」に守るべき価値などあるのか、というものだ。
フィクションとしての「日常」を維持するためには、当然ながら、室内空間=作品に入り込んでくる猥雑な「現実」を──ちょうど視聴者が不都合なコメントを「ブロック」するように──粛々と排除しなければならない。だが、そうすることの心理的・身体的な負担は、「ありふれた日々の/素晴らしさ」を謳う日常系アニメのソフト・コアを傷つける。というのも、この「日常」が誰かの犠牲の上に成立していることに気づいてしまったら、もはや「いたずらに時を重ねて過ご」すことなど不可能だからである。
そのため、多くの日常系アニメでは、不安定化した室内空間を補修することで「日常」を延長し、問題を先送りしているように見える。だが、いまや「ありふれた日々」を肯定的に描くこと自体が、良くも悪くも、すでにひとつの政治的・倫理的な態度表明にほかならない。なぜなら、少女たちに「日常」に対する疑問を抱かせないためには、その背後で作動する排除のメカニズム、つまりは室内空間の「壁」をいっそう強固にしなければならないからだ。
もちろん、すべての作品がこうした問題に無自覚であるわけではない。なかでも、2013年4月から9月にかけてテレビ放送された『とある科学の超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を支えるセキュリティの暴力が真正面から描かれており、その意味で日常系アニメの最も正統な進化系のひとつと見なすことができる。そこで最後に、この作品を取り上げてこのあとがきを締めくくることにしよう。
学校から路上へ──『とある科学の超電磁砲S』(1)
『超電磁砲S』は、人気アニメ『とある科学の超電磁砲』(2009年10月~2010年3月)の続編であり、超能力をもつ少女たちの戦いと友情を描いた作品である。強力な超能力者である主人公の御坂美琴が、友人たちと協力して「学園都市」の安全を脅かすテロリストに立ち向かうというストーリーだ。
これは一見すると、日常系アニメとは無関係のようにも思えるが、必ずしもそうではない。それどころか『超電磁砲』シリーズは、いわば「戦う日常系アニメ」とでも呼ぶべき作品なのである。というのも、このシリーズの最大の特徴は、凶悪なテロリストと渡り合う迫力満点の戦闘シーンの合間を縫うようにして、友人との買い物やおしゃべり、お菓子作りといった女子中学生らしい「ありふれた日々」が織り込まれていることにあるからだ。しかも、少女たちはこの引き裂かれた状況をごく当たり前のように生きている。つまり、彼女たちの「日常」には最初から、そうした「日常」を脅かすテロリストを掃討することが含まれているのである。
この自己言及的な「日常」設定は、室内空間の不安定さと深くかかわっている。『超電磁砲』シリーズでは、少女たちは学校の教室や部室ではなく、もっぱら学園都市のファミリーレストランでおしゃべりを繰り広げる。彼女たちはそれぞれ別の中学校に通っているため、互いに顔を合わせるには学校の外に出なければならないのだ*15。ガラス一枚を隔てて路上に面したファミリーレストランは、たとえば『けいおん!』の静謐な音楽準備室というよりも、むしろ『じょしらく』の猥雑な楽屋に近い。このガラス張りの室内空間では、内部と外部が視覚的に貫通しているため、学園都市にうごめくさまざまな事件や人物が目撃されることになる。そして、そのたびごとに少女たちは、たわいないおしゃべりを中断し、学園都市の路上へと足を踏み出していく。
こうした傾向に拍車をかけているのが、主人公の親友(白井黒子)の空間転移能力である。この超能力のおかげで、少女たちは学校やファミリーレストランから、遠く離れた事件現場まで一瞬のうちに移動することができる。つまり『超電磁砲』シリーズでは、安心・安全な室内空間がほぼ完全に無効化され、学園都市の路上へとさらけ出されているのである。だからこそ、彼女たちは自らの「ありふれた日々」を守るために、生身でテロリストと対決しなければならないのだ。
その結果、これまで室内空間が担っていた排除のメカニズムが少女たち自身に委託され、ほとんど剥き出しの暴力となって「日常」に回帰する。ここに現在の日常系アニメのひとつの帰結を見ないでいることは難しい。
セキュリティの暴力を引き受けること──『とある科学の超電磁砲S』(2)
さらに、このシリーズで注目すべきなのは、美琴たちと敵対するテロリストが、憎むべき悪というよりも、むしろ「ありふれた日々」から排除された生の理不尽を体現していることだ。彼女たちが生活する学園都市では、美しく整えられた近未来的な「日常」の裏側で、実は都市ぐるみの凶悪な犯罪や陰謀が横行している。ごく大雑把にまとめれば、こうした「闇」を告発し、また根絶するためにこそ、テロリストは暴力に訴えてまで学園都市に挑戦するのである。
したがって、彼らを追いかける少女たちもまた、学園都市の「闇」を目の当たりにすることになる。その結果、彼女たちは昨今のアメコミ・ヒーローのように、この「日常」が本当に守るに値するものなのかどうか自問しはじめる。とくに『超電磁砲S』では、学園都市でひそかに進行するおぞましい人体実験を止めるために、主人公自身がテロリストとなって関連施設を次々と爆破していくのである。
美琴を突き動かしていたのは、自分と瓜二つのクローン少女たちが毎日殺されているにもかかわらず、自分だけが「ありふれた日々の/素晴らしさ」を享受してきたことへの強烈な罪悪感によるものだった。こうして彼女は、これまでの「日常」の代償を支払うかのように、学園都市のセキュリティ・システムとの激しい戦闘に身を投じる。つまり『超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を守るヒーローとしての自己懐疑のみならず、ヒーローからテロリストへのラディカルな「転向」まで描かれているのだ。
それでも最終的には、主人公はテロリストとして学園都市を壊滅させるのではなく、これまで通り治安維持に務めることを再帰的に選択する。「闇」にうごめく生の理不尽に絶望してなお、友人たちとの「日常」を守るために戦い続けることを決意するのである。その選択の是非はともかく、おそらくここには、日常系アニメの最も正統な進化系のひとつがあると言えるだろう。なぜなら、彼女は日常系アニメが先送りし続ける問い──「この日常に守るべき価値はあるのか」──に対して、自分なりの答えを見つけ出したからだ。それはつまり、フィクションとしての「ありふれた日々」と引き換えに、セキュリティの暴力を真正面から引き受けることにほかならない。
魔法少女とは別の仕方で──『とある科学の超電磁砲S』(3)
美琴のこうした決断は、別の言い方をすると、彼女があくまで学園都市=フィクションの内部にとどまり、外部から侵入してくる「現実」と戦い続けることを意味している。これはたとえば、2010年代を象徴する作品である『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年1~4月)と比較するとわかりやすいだろう。というのも『まどマギ』では、最終的に主人公の鹿目まどかが、「日常」に侵入してくる生の理不尽(強大な魔女による街の壊滅、魔法少女の魔女化)を根絶するために、超越的=メタフィクショナルな「概念」(アルティメットまどか)となって作品の外部へと突き抜けてしまうからだ。
まどかは自らを犠牲にすることで、すなわちキャラクターをやめることで、いわば「外側から」作品を閉じる。だからこそ、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2014年)では、まどかとの「日常」を取り戻すために、親友の暁美ほむらが彼女を再び作品内へと引きずり下ろすことになるわけだ。
これに対して、美琴はやはり生の理不尽に直面しながらも、あくまで「学園都市の実験動物」、つまりフィクションのキャラクターであり続けることを選択する。彼女はテロリストとして「闇」を告発するのでも、また超越的な概念として「闇」を根絶するのでもない。そうではなくて、あくまでひとりのキャラクターとして、所詮は脆弱なフィクションにすぎない「ありふれた日々」を前向きに生きようとするのである。そのためなら、少女たちは「日常」を脅かすテロリストを力づくで排除することもいとわないだろう。
もちろん、美琴がいかに強力な超能力者とはいえ、たとえばアルティメットまどかのように、学園都市の「闇」をまるごと浄化しつつ救済する「神的」な暴力を行使できるわけではない。というよりむしろ、そうした絶対的な力に抗うためにこそ、少女たちは互いに連携してテロリストに立ち向かうのだ。なぜなら、「ありふれた日々」を断罪する神的暴力を追い求めるのは、たいていの場合、学園都市もろとも「闇」を根絶しようと企むテロリストの側だからである。
したがって、いまや美琴たちの戦いは、たんなる作中人物同士の争いを超えて、フィクションとしての「日常」を一刀両断する「現実」の暴力──「そんなことは現実にはありえない、あるべきではない」──に抵抗することを意味するだろう。作品外から降り注ぐこの道徳的な命法に対して、彼女たちはまさにフィクションそのものであるような力、すなわち「超能力」を武器に立ち上がるのだ*16。
ポスト日常系アニメのハード・コア──『とある科学の超電磁砲S』(4)
こうして『超電磁砲S』最終話では、超能力レベルに応じたヒエラルキーを打倒し、学園都市に「革命」を起こそうとするテロリストとの大規模な戦闘が繰り広げられる。巨大ロボットに乗り込んだ美琴は、友人たちの力を借りて成層圏へと上昇し、学園都市に飛来するミサイルの迎撃に向かう。守るべき「日常」を背中に背負い、渾身の右ストレートで撃ち出された大質量の超電磁砲が、迫りくるミサイルもろとも宇宙空間を一直線に切り裂いていく。
美琴の放つ超電磁砲は、押し寄せる生の理不尽をことごとく跳ね返し、テロリストの目論見を完膚なきまでに叩き潰す。だが、そうすることによって彼女は、この不安定化した空間=作品構造に恒常的な安定をもたらそうとしているわけではない。むしろ、不安定な室内空間をあくまで不安定なままにとどめつつ、内部から外部へと貫通する解放的な視野をもたらそうとするのである。なぜなら、そもそも超電磁砲とは、外部から侵入する「現実」を打ち払う力であると同時に、閉塞した「日常」を内部から突き破る力でもあるからだ。逆に言えば、教室や部室といった室内空間が破綻しているからこそ、彼女はそのポテンシャルをいかんなく発揮することができる。
超電磁砲のまばゆい閃光は、視界をさえぎるビルの外壁をやすやすと貫通し、路上を占拠するテロリストの集団を一掃する。こうして切り開かれた消失点の向こう側から、清々しい風が吹き込んでくる。学園都市に林立する風車がゆっくりと回転し、また束の間の「ありふれた日々」が訪れる。いまや美琴にとって、友人たちとのたわいないおしゃべりと同様、テロリストとの激しい戦いもまた、この「日常」を生きるに値するものへと変えてくれるにちがいない。だからこそ、彼女はそれらすべてをひっくるめて「ほんと退屈しないわね、この街」と言い放つことができるのだろう。
英雄的・宗教的な自己犠牲による最終解決を拒み、さまざまな矛盾や欺瞞に満ちた「日常」をあくまで肯定すること。そのためにセキュリティの暴力という十字架を背負い、フィクションとしての「日常」を脅かす「現実」と対峙し続けること……。
『超電磁砲S』に見出されるのは、もはや堅固な外皮に守られた「日常系アニメのソフト・コア」ではない。そうではなくて、さまざまな生の理不尽に脅かされ、鍛え上げられた「ポスト日常系アニメのハード・コア」とでも言うべきものである。
この硬質化したコアは、すでにいくつもの作品に受け継がれ、これまでの日常系アニメとは大きく異なった果実をつけはじめている。それが私たちにどのような滋養をもたらしてくれるのか、いまはまだわからない。
*1:《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》映像+まとめ #日常系ソフトコア - Togetter
*2:この点については、志津A「日常における遠景――「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」(『アニメルカ』vol.2、二〇一〇年、九~二〇頁)で詳細かつ説得的に論じられている。本論集に収録された志津A氏の論考と合わせて参照してほしい。
*3:なお、この曲はアニメオリジナルではなく、中塚武と土岐麻子によるデュエットをRhodanthe*がカバーしたものである。原曲は中塚のアルバム『GIRLS&BOYS』(2006年)に収録されている。
*4:日常系アニメと社会情勢のかかわりについては、たとえばキネマ旬報映画総合研究所編『“日常系アニメ” ヒットの法則』(キネ旬総研エンタメ叢書、2011年)の75~79頁で簡単に触れられている。
*5:『映画けいおん!』冒頭のミュージカルシーンでは、この透明なカメラの存在がはっきりと示唆されている。部室で踊る少女たちがさまざまな角度から描かれているのだが、その都度彼女たちが画面のこちら側に視線を送るため、まるでカメラが部屋中を飛び回っているかのように感じられるのだ。このミュージカルは最終的に、仮想的なカメラが部室の片隅にある鏡の前に回り込み、何も映らない鏡を正面からとらえて幕を閉じる。
*6:画面の奥へと突進する運動は、必ずしも現代のデジタル映画に特有の現象ではない。むしろ、リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)をはじめ、見世物的な要素の強い「初期映画」に頻繁に登場する。これについては、トム・ガニングの古典的な論文「驚きの美学──初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(濱口幸一訳、『「新」映画理論集成①』岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年、102~105頁)を参照してほしい。また、初期映画と現代の映画との親和性に関しては、ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画──公共圏のトランスフォーメーション」(瓜生吉則・北田暁大訳、『メディア・スタディーズ』吉見俊哉編、せりか書房、2000年、279~297頁)などがある。さらに、これらの議論を踏まえて、現代日本の映像環境渡について縦横に論じた渡邉大輔『イメージの進行形──ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年)も併せて参照すること。
*7:トーマス・ラマールは『アニメ・マシーン──グローバル・メディアとしての日本アニメーション』(藤木秀朗監訳、大崎晴美訳、名古屋大学出版会、2013年)のなかで、ポール・ヴィリリオのいう「シネマティズム」、すなわち可動式カメラによる奥行きへの運動に対して、複数のレイヤーを利用した側方からの運動の感覚を「アニメティズム」と呼んでいる。ラマールは一貫して、宮崎駿のアニメ映画などに見出されるアニメティズムを高く評価しているが、他方でアニメ化された『進撃の巨人』は、明らかにシネマティズムによって特徴づけられているように見える。そこでは壁(アニメティズムを生み出すレイヤー構造)がいたるところで巨人に突破され、キャラクターはデジタル技術を駆使したワイヤーアクション(シネマティズムの弾道的なカメラ)でこれに対抗するのだ。全編フルCGの『シドニアの騎士』(2014年4~6月)にも、『進撃の巨人』と似たような傾向が見出だせるかもしれない。
*8:『じょしらく』については、すでに別のところで何度か論じている。志津A氏との対談「震災後の遠景──アニメから見た二〇一二年の風景」(『セカンドアフター EX 2012』、2012年、6~26頁)および藤津亮太氏のメルマガに寄せた拙稿「どんでん返しのヘテロトピア――『じょしらく』に見る不安定な日常」(「アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門ブロマガ 第8号(2012/12/28号/月2回発行):アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門メールマガジン:藤津亮太のアニメの門チャンネル(藤津亮太) - ニコニコチャンネル:社会・言論」)を参照してほしい。
*9:もっとも、これは『きんいろモザイク』にかぎらず、さまざまなアニメやマンガ、ゲーム、ライトノベル、さらには広報戦略にまで広く見られる手法である。対象を萌えキャラ化することで、それに対する(主にオタク層からの)親近感を高めることができるというわけだ。しかし、その政治的な可能性の中心は、たんに商品の売れ行きを伸ばすことにではなく、生理的・文化的に受け入れがたい他者を受け入れ可能なものに変形することにあるのではないか。日常系アニメではないが、たとえば『這いよれ!ニャル子さん』(1期:2012年4~6月、2期:2013年4~6月)は、その最も印象的な事例のひとつと言えるだろう。この作品では、無貌の神「ニャルラトホテプ」をはじめ、クトゥルー神話に登場する禍々しい神々が魅力的な美少女キャラクターとして登場し、主人公とのラブコメが繰り広げられる。彼は少女の容姿や言動に惹かれながらも、その正体が人間ではないことを思い出して思い悩むのである。
*10:『のんのんびより』第1話では、まさにこの防護壁としての田舎によって、外部からの侵入者(東京からの転入生)が無力化され、視聴者とともに作品内へと受け入れられる。都会との文化的ギャップに戸惑う少女が、半ばステレオタイプ的に描かれた田舎の魅力(豊かな自然、ゆっくりとした生活リズム)に触れることで、しだいに現地の「日常」に溶け込んでいくのだ。この武装解除プロセスは、同時に、転入生に同一化する視聴者──両者とも作品/田舎にとってのよそ者という点で共通する──をストレスなく作中に招き入れる役割を果たしている。ところが、第2話では一転して、同性の「小さくて可愛い先輩」に対する転入生の異常な愛情が描かれ、視聴者は作品から半強制的に引き剥がされることになる。というのも、この一方的な愛着は、理想化された田舎に対する都会のまなざしであると同時に、外部から作中のキャラクターを覗き込む視聴者自身のまなざしでもあるからだ。つまり、そこでは日常系アニメをめぐる内部と外部の非対称性が作品内へと折り返され、ひどく誇張して描かれることで、視聴者の無反省的な没入が阻害されるのである。思えばすでに第1話から、最年少の幼女が「ここ、田舎なのん?」という自己言及的な疑問を繰り返し発していた。これらもまた、室内空間の変容のひとつのヴァリアントとして理解できるかもしれない。
*11:SNSの普及と日常系アニメのかかわりについては、たとえば前掲『ヒットの法則』の82~87頁などを参照してほしい。
*12:ニコニコ動画をはじめとする各種動画サイトで放送ないし(違法)アップロードされるアニメ作品には、その作品とほとんど関係のない差別的な誹謗中傷が多数書き込まれ、画面が埋めつくされることもしばしばである。作品を快適に試聴するためには、これらを一括してブロックするか、もしくはコメントそのものを非表示にする必要があるが、不快感そのものまで消せるわけではない。
*13:近年で最も物議を醸したのが、『さくら荘のペットな彼女』(2012年10月~2013年3月)第6話をめぐる原作改変問題だろう。これは原作ライトノベルで「おかゆ」と記されていた箇所が、アニメ化にあたってなぜか韓国料理の「サムゲタン」に差し替えられたことで、ネット上に蔓延する嫌韓感情を刺激し、いわゆる「炎上」にいたったものだ。後日ニコニコ動画で問題の第6話が生放送された際には、案の定、画面上がスタッフや韓国を揶揄する差別的なコメントで埋めつくされることになった。この問題の是非や真相はともかく、それが『さくら荘のペットな彼女』の視聴体験や評価に深刻なダメージを与えたことは明らかだろう。詳しくは、たとえば「さくら荘のペットな彼女原作改変問題とは (サクラソウノペットナカノジョゲンサクカイヘンモンダイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科」などを参照してほしい。
*14:とくに近年では、スマートフォンやタブレットが普及したことで、そもそも室内空間の外部──たとえば通勤・通学の途中──でアニメを見ることも一般化しつつある。
*15:名門の常盤台中学に通う美琴は、親友の白井黒子とともに、厳しくスケジュール管理された寮で生活している。彼女たちはこの寮をしばしば勝手に抜け出し、門限を破っては寮監に怒られており、ここにも室内空間の無効化というモチーフを見てとることができる。
*16:『超電磁砲』シリーズは、人気ライトノベル『とある魔術の禁書目録』からのスピンオフだが、両主人公の方向性の違いはきわめて興味深い。『禁書目録』の主人公である上条当麻は、魔術や超能力を打ち消す「幻想殺し(イマジンブレイカー)」と呼ばれる力をもっている。このメタフィクショナルな能力は、彼が「現実」にはありそうもない出来事、つまり「幻想」をことごとく「ぶち壊す」──それも道徳的な説教を垂れながら──という点で、本来なら作品外にあるはずの「現実」を体現していると言えるだろう。上条の存在は『とある~』シリーズにとっての理不尽そのものであり、だからこそ「これは現実ではない、フィクションにすぎない」ということを知っている視聴者の特権的なアバターとして機能しうる。これは『超電磁砲』の美琴があくまで「幻想」(フィクションとしての「日常」)の側に立つのとは対照的だ。