フィクションvs.フェミニズム:『宇崎ちゃんは遊びたい!』について

 2019年10月、日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボレーションした献血PRポスターがSNS上で「炎上」した。胸の大きさを強調した(しばしば「乳袋」と呼ばれる)衣装を身にまとった女性キャラクター(宇崎ちゃん)のイラストが、主にフェミニストから「女性を性的にモノ化している」と批判され、これに対してポスターを擁護したいオタクが反発するという、近年ではあまりにもよく見かけるようになった「フェミニストvs.オタク」案件のひとつである。この炎上自体はSNSを大いに賑わせたあと、ポスターの掲示期間終了とともにある程度沈静化したが、2020年8月現在も宇崎ちゃんと同じ体型だという女性アカウントがフェミニストと個別にやり合っていたり、宇崎ちゃんの大きな胸の形はリアルではなく男性の陰嚢と同じだ、という斬新な切り口で罵り合ったりしている。

 私自身は炎上当時、原作漫画を読んだことがなかったので、「これは女性の性的モノ化ではなく、むしろ胸の大きな女性をエンパワーメントするものだ(したがって問題ない)」という主張を唱えていた。大きな胸を誇らしげに突き出してみせる宇崎ちゃんの姿は、男性オタクの性的なまなざしに一方的にさらされるだけのたんなる「モノ」ではなく──あるいは「モノ」であると同時に──、もっと主体的で自立した存在として描かれているように思えたからだ。

 2020年7月、満を持してTVアニメ『宇崎ちゃんは遊びたい!』の放送がスタートする。相変わらず原作を読んでいない私は毎回とても楽しみに見ているのだが(声優さんの演技が大変素晴らしいと思う)、そのなかで、献血ポスター炎上問題をめぐるそれなりに重要そうな気づきを得たので、何番煎じかはわからないがここに記しておきたい。

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、基本的に「ぼっち」とされるセンパイが、彼を慕う後輩の宇崎ちゃんから執拗にからかい半分のアプローチを受けるという構造になっている。例のポスターには「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?」という挑発的なセリフが書き込まれていたが、アニメのほうも万事だいたいこの調子で、「センパイ、○○なんスか?」という宇崎ちゃんの「煽り」を受け続けるセンパイが、それに対して「うるせー」とかなんとか言いながら、結局は彼女のペースに巻き込まれていく様子がコミカルに描かれる。dアニメストアやニコニ動画でも配信しているので、未見の方はぜひ一度見てほしい。

 私がこのアニメを見てまず驚いたのは、宇崎ちゃんがどうやら自分の胸の大きさを自覚していないように見える、ということだ。宇崎ちゃんはしばしば、ちょうど胸の位置に「SUGOI DEKAI」とプリントされたラグランスリーブTシャツを着ているのだが、にもかかわらず、彼女の言動からは自分の胸が周囲の人とくらべてもいかに「でかく」、また男性からの性的なまなざしを集めやすいか、ということについての自己意識が欠落している(もしかしたらわざとそう振る舞っているのかもしれないが、そうだとすると、これは作品解釈上かなり重大な問題である)。この点で、例のポスターが「胸の大きい女性をエンパワーメントする」という私の主張はもろくも崩れ去ってしまった。残念ながら私は男性であり、いわば加害者側なので偉そうなことは言えないが、現実の胸の大きな女性がいかにそのことについて悩み、苦しんできたかを考えると、宇崎ちゃんの態度はまったく驚くべきものである。宇崎ちゃんのキャラクター造形には、彼女たちの苦しみに寄り添ったうえで、なおそれを自分の個性として力強く肯定してみせるという内面の屈託は感じられない。「SUGOI DEKAI」というコピーからは、むしろ、鑑賞者である男性オタクの性的なまなざしを「ネタ」として免罪するような意図さえ透けて見える。

 他方で、私がアニメを見て考えさせられたのは、宇崎ちゃんというよりもセンパイの描き方に対してだった。宇崎ちゃんに執拗につきまとわれるセンパイは、彼女に対して、基本的にたんなる大学の後輩か、せいぜい異性の友人として接しようとしている。言い換えれば、宇崎ちゃんを性的な対象としては見ていない、あるいは意識的にそう見ないようにしている。宇崎ちゃんのあまりにも天真爛漫な言動には、あからさまに性的な誘惑と受け取られかねないアプローチ(たとえば「センパイの家に泊まりたい」という発言など)が多数含まれており、センパイはその都度赤面したり動揺して口ごもったりする──そして鑑賞者はそれを見てニヤニヤすることが期待されている──のだが、それでも、彼は彼女をあえて邪険に扱うことで、性的な対象として見ることを一貫して拒否しているように見える(原作ではもっと仲が進展しているのかもしれないが、少なくともアニメではいまのところそうである)。要するに、センパイは例のポスター問題でフェミニストが批判するところの「女性の性的モノ化」を、なんとか避けようとしているように見えるのだ。

 これはかなり重要なポイントである。というのも、センパイというキャラクターはその言動を見るかぎり、フェミニズム的な価値観をある程度(完全にではないにせよ)内面化していると考えられるからだ。センパイは女性(宇崎ちゃん)を、自分の性的欲求を充足するためのたんなる道具や手段──つまりは性的な「モノ」──とはまったくみなしていない。それどころか、おそらく「女性の性的モノ化」を良くないことだと考え、意識的にそれを避けようとさえしている(たんに関心がないだけかもしれないが、少なくとも、彼の同期である金髪男性キャラのセクハラ発言とは対照的である)。宇崎ちゃんの大きな胸に思わず視線が行ってしまうことはあるが、センパイができるだけそういう目で彼女を見ないようにしているということは、実際に作品を見れば明らかである。だからこそ、すぐに二人が結ばれてめでたしめでたしとはならず、『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品自体がコメディとして成立する。

 逆にいえば、宇崎ちゃんは、センパイのそのようなフェミニズム的に正しい態度に挑戦する存在として描かれている。自分の胸の大きさを自覚せず、にもかかわらず「SUGOI DEKAI」などとアピールしてつきまとってくる小学生のような背丈の異性の後輩という設定は、現実的には(そういう体型の女性が実際にいるとしても)なかなか考えにくい。むしろ、宇崎ちゃんは徹底的にフィクショナルな存在であり、センパイが回避している「女性の性的モノ化」をアフォードするようなキャラクターとして造形されていると考えるべきだろう。つまり、彼女の「○○なんスか?」という煽りは、センパイに向けられたものであると同時に、フィクションからのフェミニズムに対する挑発でもあるのだ。

 このように考えると、例のポスターに対するフェミニストの批判は、まったく正当なものであるように思えてくる。そもそも宇崎ちゃん自身が、センパイのフェミニズム的な正しさを揺るがすためのフィクショナル・キャラクターなのだとしたら、当然、フェミニストは批判的に応答せざるをえない。彼ら/彼女らが見落としていることがあるとすれば(ポスターに描かれていないので仕方ないのだが)、少なくとも原作漫画やアニメには、宇崎ちゃんの「性的モノ化」への誘惑に耐える、あるいは受け流すセンパイというカウンターパートが存在することであり、さらにその様子をニヤニヤしながら眺める第三者としてのキャラクター(カフェのマスターとその娘)まで存在することだろう。例のポスターには、残念ながら、原作の持つこうした複雑な構造や文脈がまったく反映されていない。とくに問題なのは、宇崎ちゃんのアピールする相手がセンパイではなく、ポスターを見る鑑賞者自身になってしまっていることだ。

 アニメでも繰り返し強調されているように、鑑賞者はたんにセンパイに同一化するのではなく、宇崎ちゃんとのやりとりを第三者視点で「見守る」ことが期待されている。宇崎ちゃんが挑発するのはあくまでセンパイ相手であって、鑑賞者ではない。この構図にはフェミニズムに対するそれなりに辛辣な、屈折した見方がある。というのも、これは「女性の性的モノ化」を回避しようとするセンパイが、彼を挑発し誘惑し陥落すべく造形された宇崎ちゃんのような女性キャラクターに迫られても、果たしてフェミニズム的に正しい態度を維持できるのか──その顛末を鑑賞者はニヤニヤしながら眺めてほしい、というある意味で趣味の悪い実験だからだ。しかし、この趣味の悪さは『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品が、たんに「女性の性的モノ化」を肯定したり促進したりするためだけのポルノグラフィではない、ということの裏返しでもある。そこにはもっと高度な戦略がある。フィクションの力によってフェミニズム的な正しさを揺るがすという、悪趣味でしたたかな戦略が。