無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

 テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノとして埋め込まれている。テレビやパソコン、スマートフォンを操作してアニメを見ることは、したがって、そうした環境からの一時的な離脱ないし中断を意味しない。そうではなく、アニメを見ることはあくまで、私のこの日常の延長線上にある。

 テレビやパソコンの画面でアニメを見ながら、私はソファに寝そべり、菓子を食べ、ジュースを飲み、時折トイレにも行く。あるいは電車の座席に座り、揺られながら、眠りながら、スマートフォンでアニメを見る。同時に複数のウィンドウを開いてはそれらに目をやり、他人の感想を追い、時間を気にし、日々の雑事をこなす。アニメを見る私は、だらしなく、徹底的に、環境のなかに溶け込んでいる。アニメを見ること以外のさまざまな物事に、潜在的に注意を向けている。

 私は気の散った状態でアニメを見る――。これがアニメを見ることの第一の前提だ。私はテレビやパソコン、スマートフォンのひとつの画面に、完全に注意を集中しているわけではない。私の注意は環境中のあちこちに拡散している。このような知覚のあり方を「気散じ」と呼ぼう。

 18世紀ドイツの哲学者であるカントは、有名な三批判書の後に著した『実用的見地における人間学』(1798年)のなかで、気散じについて詳しく語っている。「気散じ[Zerstreuung](拡散)とは注意の分散によって、いま意識を支配している何らかの表象から他の異種の表象へと注意が転換される(抽象)状態をいう」(頁)。ひとつの表象から他の表象へと注意を分散ないし拡散させること。これがカントのいう気散じである。

 カントはさらに、このような状態を意図的な「気晴らし」と不随意的な「放心」の二種類に区別した。彼が後者の具体例として挙げるのは、小説好きの女性たちの「習慣化した気散じ」だ。カントの考えでは、小説を読みふけることは「放心状態[精神の不在Geistesabwesenheit](現在に対する注意の欠如)」をもたらし、日常生活にさまざまな悪影響を及ぼす。というのも、そこでは対象の表象がばらばらになり、悟性によって統一的につなぎ合わされることなく、心のなかで自由に「戯れる[spielen]」ことになるからだ。

 アニメを見る私もまた、表象を自由に遊ばせる。注意が散漫になり、放心状態になる。カントの時代、18世紀に小説に夢中になったヨーロッパの女性たちのように。だが、ここには明らかに否定的なニュアンスがある。カントは小説を悪しきものと考えた。アニメを見ることは、とりわけ気の散った状態で見ることは悪なのか。気散じについてのカントの議論をまったくの逆方向から捉え直した批評家がいる。20世紀ドイツを代表する批評家のひとり、ヴァルター・ベンヤミンである。