無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

 仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想をつづった「実況」投稿がタイムラインを流れていく。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトには、アニメのシーンを切り貼りした「MAD動画」があふれている――。2000年代後半の日本でふつうに見られた光景だ。

 それから10年以上が過ぎ、景色はしだいにさま変わりしつつある。スマートフォンやパソコンさえあれば、いつでもどこでも視聴できる動画配信サービスが一般化し、深夜にリアルタイムで、あるいは録画して見る必要性は減った。テレビアニメの人気を受けて総集編や劇場版が制作され、映画館で上映されることも増えた。深夜アニメそのものはいまなお大量につくられ続けているが、それらを取り巻く環境は刻一刻と変化している。

 このような状況を踏まえて、それでもなお「アニメを見る私」についての一般的な理論を立ち上げることができるだろうか。アニメを見るとはどういうことか。この問いに対する答えは、日常的にアニメを見ている者にとってはなおさら、あまりにも自明であるように思える。息をすることや食べること、歩くことと同じように、現代の日本社会においてアニメを見ることは、人間の生来の自然な行為でさえあるかのようだ。

 けれども、これは当然正しくない。アニメを見るということは、一見してそう思えるほど単純明快な行為ではない。それは文化的・社会的・認知的要因が複雑に絡み合った特殊な行為であり、ひるがえって、現代を生きる「私(たち)」についての反省的なまなざしを与えてくれる。アニメを見ることは、それを見る者自身のありようを問い直すことでもあるのだ。

 本稿では、アニメを見ることの複雑さ、豊穣さについて語る。それはアニメ自体の持つ複雑さ、豊穣さであると同時に、もしくはそれ以上に、アニメを見る私、そして私たち自身の性質でもある。アニメを見るとはどういうことか。アニメを見る私(たち)とは何者なのか。これらの問いをめぐり、20世紀ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンの議論に依拠しながら、アニメを見る複数の主体について語ること。これが本稿の主題である。はじめよう。