てらまっとのアニメ批評ブログ

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わたしのなかのハリガネムシ:ロニ・ホーン展について

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 先日、箱根のポーラ美術館で開催されている「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」展を見に行ってきた。

www.polamuseum.or.jp

 本展はアメリカの現代美術を代表するアーティスト、ロニ・ホーンの国内初となる美術館個展だ。といっても、現代美術にうといわたしには、恥ずかしながら初めて聞く名前だった。展覧会の公式サイトによると、彼女は1955年、アメリカ生まれのアーティストで、ロンドンのテート・モダンやニューヨークのホイットニー美術館といった世界有数の美術館で個展を開催し、国際的な注目を集めてきたらしい。そんな大物の国内初個展とあって注目度は高く、ポーラ美術館としても同時代のアーティストを単独で取り上げる初めての試みとのことだった。

 ロニ・ホーン展を鑑賞してわたしが最初に感じたのは「やっぱり現代美術はよくわからん」ということだった。これはもっぱらわたしに美術の素養がないせいだが、たぶんそれだけが理由ではない。今回の大規模個展には、1980年代初頭から現在にいたるまでの、およそ40年にわたるホーンの作品が展示されていて、当然ながら媒体も形式もバラバラだ。ガラスの彫刻、巨大なドローイング、連作の肖像写真、朗読映像……。もちろん「アイスランド」「自然」「水」などの家族的に類似したモチーフがないわけではないが、多様な展示作品すべてを一貫した「物語」に落とし込むのはかなり難しい。わたしの「わからん」という第一印象は、たぶんそのことに由来している。きれいとかかっこいいとかおもしろいとかいった美的な感覚を、どうやって意味づけたらいいのかよくわからないのだ。

 とはいえ、矛盾に満ちたひとりの人間、それもアーティストが半生をかけて生み出した作品群を、なんらかの「意味(意図)」や「物語」に回収しようとすること自体が、そもそも間違いなのかもしれない。かつて美学者の西村清和は、芸術作品を媒介として芸術家と鑑賞者が互いに精神的に交流する、コミュニケーションするという近代美学の枠組みを「精神の美学」と呼んで批判したが、このパラダイムは現代でもしぶとく(少なくともわたしのなかには)生き延びている。そこには他者を安易に「理解」できる、あるいは「理解」したつもりになるという、危険な思い上がりが見え隠れする。そうだとしたら、鑑賞者はただ虚心坦懐に作品を眺め、そこから得られる美的な感覚や印象を味わい、そしてそれ以上踏み込むべきではないのかもしれない。実際、公式サイトにはこんなふうに記されている。

本展では、[…]水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる彼女の作品のあり方を探ります。価値観や「正しさ」がめまぐるしく入れ替わるこの時代において、周囲に惑わされず、 川のように静かに絶えず本質を見つめながら制作を続ける彼女の作品と姿勢は、私たちに強く生きるヒントと、Reflection(内省)の時間を与えてくれるでしょう。

 ここで言われているのは、要するに、作品鑑賞を通じて作家の「精神」(内面とか世界観とか)にアクセスしようとするのではなく、むしろ作家の創作姿勢にならって鑑賞者が自分自身を見つめ直すこと、つまりは作品を一種の「鏡」として、自分自身へとまなざしを「Reflection(反省=反射)」することが求められている、ということだ。この自己啓発的な鑑賞態度は、たしかに「価値観や『正しさ』がめまぐるしく入れ替わるこの時代」には有効、というより必然なのかもしれない。作家の「意図」が明らかで解釈の余地がない、あるいは少ない作品よりも、ホーンの「水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる」作品のほうが、鑑賞者自身の価値観と作家のそれとが正面衝突しないぶん、多くの人に受け入れられやすいにちがいない。わたしのようにあわてて「意味」や「物語」を探し求めるのではなく、まずは作品から感じたことを素直に受け止め、自分自身を省みて「強く生きるヒント」(?)にすることが大事、というわけだ。

 一見したところ、これはもっともらしい考え方のように思える。けれども、鑑賞後にポーラ美術館のレストランで昼食をとりながら、いま見てきたものをぼんやり反芻していると、何か重要なことを見落としているような気がしてきた。先に引用した展覧会の導入文が間違っているとまでは言わないが、少なくともわたしにとってはミスリーディングな内容が含まれているように思えたのだ。以下では、あいかわらず「よくわからん」なりに、わたしがロニ・ホーン展について考えたこと、感じたことをかんたんに記してみる。

 先の引用文中の「Reflection」という言葉は、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」のもとになった英文「When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?」から採られたものだ。さらにこのフレーズそのものは、正確に覚えているわけではないが、本展に出品されていた映像作品《水と言う》(2021)に登場するものだと思う。これはホーンが日没の迫る夕闇の屋外で、十数人ほどの聴衆を前に「水」や「川」についての文章を朗読するという作品だ。ミニマルかつコンセプチュアルな展示作品が多く、鑑賞者の側に解釈の大部分が委ねられている──言い換えれば、作家の「意図」を汲み取りづらい──なか、この《水と言う》では、だいぶ思弁的ではあるものの、水や川といった主要モチーフに対する作家の思いがかなり率直に語られている。じつはわたしは前日夜ふかししたせいで、映像を見ながらときどき寝落ちしてしまい、断片的にしか覚えていないのだが、本展の根幹にかかわるようなエピソードがいくつか紹介されていた。

 いちばんわたしの印象に残ったのは、さまざまな文学作品や出来事を引きながら、川に身投げする人の話が繰り返し語られていたことだった。これらのエピソードと、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」をあわせて考えると、先の自己啓発的な導入文とは少し違った風景が見えてくる。たぶん力点が置かれるべきなのは、水面を鏡として自分自身を「内省(Reflection)」する(そして「強く生きるヒント」を得る)ことではない。そうではなく、文字どおり自分のなかに「水」を感じる、つまりは自分を超えたもの、自分にとってよそよそしいもの、自分ではないものを自分のなかに「認識する(Recognize)」ことが目指されているのではないか。わたしは寝落ちして見逃してしまったが、実際に《水と言う》には「水と一緒にいると/わたしの中に自分を超越した存在を感じる」という決定的なセリフがある、らしい。

 「Reflection」という言葉でわたしがまず思い浮かべるのは、ギリシャ神話のナルキッソスの物語だ。若く美しい青年であるナルキッソスは、あるとき神の怒りに触れ、水面に映った自分の姿に一目惚れし、そのまま衰弱して死ぬ(水中に落ちて溺死するバージョンもある)。ここでナルキッソスは、たぶんホーンとは異なり、自分のなかに「水」を認識していない。彼の目に映っているのは美しい自分自身だけであり、自分を超えるものや自分ではないものへの感覚が決定的に欠けている。ナルキッソスを死にいたらしめたのは、直接的には彼自身の美しさであると同時に、彼をはるかに超えたもの、つまりは神の怒りなのだが、そのことには気づかないまま死んでいくのだ。とすれば、ホーンが映像作品のなかで入水自殺のエピソードを繰り返し語ったのは、個々の自殺の具体的な動機や要因とは別に、彼ら/彼女らをときに死へと追いやる超越的なもの、他なるもの、不気味なものとしての「水」に注目していたからではないか。それは擬似的な鏡としてあなた自身の姿を映し出し、この鏡像の背後からあなたをひそかに突き動かす。あたかもあなたの自由意志の帰結であるかのように、あなたの死を偽装する。こうした存在を「認識する」ことが、ホーンのいくつかの作品の核心にあると考えることは、それほど的外れではないように思う。

 カマキリに寄生するハリガネムシという寄生虫は、繁殖のために宿主のカマキリを操り、川や池に飛び込ませる。帰路の箱根ケーブルカーに揺られながら、わたしはそんなことを思い出していた。最近の研究によると、ハリガネムシは水面の反射光に多く含まれる「水平偏光」という光のパターンを利用し、カマキリを誘導しているらしい。ハリガネムシに寄生されたカマキリは、いったいどんな気持ちで水辺を目指し、水面を覗き込み、そこに身を躍らせるのだろう。この六本足の哀れなナルキッソスは、わたしたちとどれほど違い、どれほど同じなのか。

 もちろん、ホーンのいう「自分を超越した存在」とは、ギリシャ神話の神々ではないし、ましてやハリガネムシのような寄生虫を指すわけでもない。彼女にとってそれはおそらく、繰り返し作品に現れるアイスランドの自然であり、また人体の70%を占めるという「水」そのものなのだろう。そこにはたしかに、自然を人間がコントロール可能な客体=対象と見なす、一昔前の西洋的・近代的思考とは異なる感性が息づいているように見える。しかし、だからといってホーンの作品を人間も自然の一部だとか、自然を大切にしようとかいった安っぽいメッセージに回収することはできないし、そうすべきでもない。むしろ彼女のいくつかの作品は、わたしたち自身のなかに、目覚めた意識には決して現れない暗い存在、わたしたちの身体の大部分を構成するにもかかわらず、わたしたちにとって永久によそよそしいものであり続ける「水」がたゆたっていることを、ひそかに告げ知らせてくれる。この「水」はわたしたちの意識の裏門から流れ出し、目の前の水面へと流れ込み、混ざり合って再びわたしたちのなかへと還っていく。ガラス彫刻の輝く水面も、大量の脚注が付されたテムズ川の水面も、そうやってわたしたちのなかのわたしたち自身とは異なる何か、果てしない「Reflection」の背後にいる見知らぬ誰かに向けて、解読不可能な合図を送り続けている。これはある意味で、裏返った「精神の美学」といえるのかもしれない。

 わたしのなかのハリガネムシが、わたしの後ろから見つめている。「強く生きる」とは結局のところ、やがて水辺に誘われ水中に沈むそのときに、まさにこれこそがわたしの望んだ生だったのだと、ハリガネムシに虚勢を張ってみせることなのかもしれない。

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