てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

視界不良の楽園——『放浪息子』の風景について

かねてからPVで前評判の高かった『放浪息子』第一話が放映された。水彩風の柔らかい色彩と、精緻に描き込まれた風景のリアリズム——それはテレビアニメの限界をはるか越えていたと言っても過言ではないはずだ。志村貴子原作の繊細な描線と雄弁な余白が生み出す独特のリズムを、有能なスタッフたちは見事に——しかし原作とは全然ちがった仕方で——映像化することに成功したと言っていいのではないだろうか。今期のアニメが不作だ不毛だと吹聴していた連中は、こう言ってはなんだが、そろって首を吊……女装して街を駆け抜けるくらいのことはすべきである。それがたとえご褒美だとしても、だ。
個人的な感想はこのくらいにしておこう。監督の「作家性」や演出家の「技法」やアニメーターの「超絶技巧」やアニメ批評家の「理論」についてほとんど語る言葉をもたない、いわゆる「にわか」丸出しの僕としては、むしろ誰にでも分かるような、ちょっとした印象を分析することからはじめたい。今回のテーマも『まどマギ』と同じく、例によって『放浪息子』の「風景」についてである。はじめよう。
「ちょっとした印象」というのは、僕のツイッターのタイムラインに流れてきた、あるつぶやきに由来している。『放浪息子』のハッシュタグがつけられた、宛て先のないささやかな感想の内容は、およそ次のようなものだった——新海誠っぽい」。誰かの小さなコメントは一瞬で押し流されてしまったが、幸か不幸か、僕のしなびたアンテナにひっかかってゆらゆら揺れている。
放浪息子』は「新海誠っぽい」だろうか。たしかにそう言われれば、何となく似ているような気がしてくるし、さりとてまったく異なっているようにも思える。取り上げられる風景のモティーフ(桜、教室、リアルな街の景色…)やその細密な描写という点では「っぽい」が、しかし色や光の捉え方がぜんぜんちがうと指摘することもおそらく不可能ではないだろう。これについての最終的な判断は、視聴者ひとりひとりの印象にゆだねるほかはない——とはいえ、新海誠の風景と『放浪息子』の風景を比較する試みは、なかなか興味深い視点をもたらしてくれるのではないだろうか。少なくとも僕はそう思ったので、だからこうして描き散らかしているわけだ。
新海誠の風景とは何だろうか。前回も少し書いたが、それは一言でまとめるならば、遠景レイヤーと近景レイヤーに分断されたセカイである。美しくも精緻に描き込まれた果てしない背景と、ひとり残され煩悶するキャラクター。彼方にそびえ立つ真っ白な塔、あるいは宇宙の深遠へと旅立つロケットの白い噴煙が、両者を媒介しつつ切断する——近景から遠景へ、そしてまた遠景から近景へ、僕たちのまなざしは瞬時に揺れ動く。絶望的に遠い、にもかかわらずあまりにも美しいセカイが、キャラクターの孤独と相まって、僕たちの身体から気力と水分を搾取する。
ここで重要だと思われるのが、新海作品における徹底的な「見通しのよさ」である。彼が描き出す風景は、言葉の二重の意味で見通しがいい。どういうことだろうか。
まず第一に、新海作品の美しすぎる背景は、キャラクターの視界を決してさえぎることがない。僕の記憶がたしかなら——ありそうにないことだが——、彼らはいつも星空を見上げたり、高層ビルを見上げたり、あるいは心ここにあらずといった風な顔で、どこか遠いところを見つめている。見通しがいいというのはそういう意味だ。高い塔やロケットの航跡、高層ビルといったモティーフは、近景レイヤーにおけるキャラクターの——それゆえ僕たちの——まなざしを、遠景レイヤーへと誘導する役割を果たしている。キャラクターから背景へと上昇していくカメラの動きを思い浮かべてほしい。そして僕の考えでは、このまなざしによる風景の媒介=切断こそが、新海作品の本質なのだ。キャラクターの視点を借りて私たちは、セカイの絶望的な遠さを目の当たりにする。遠景レイヤーに干渉するどころか、せいぜい眺めることしかできないちっぽけな人間であり、近景レイヤーでちょこまか動き回るだけのキャラクターにすぎないということ。新海誠が私たちに突きつけるのは、凡庸な人生における——したがって絶望的な——見通しのよさにほかならない。これが二つ目の意味だ。
このような視点に立つと、『放浪息子』を形作る風景の特徴がはっきりと見えてくる。あるいは、見えてこないということが見えてくる。にとりんが疾走し佐々ちゃんが動揺しさおりんが——ああ僕のさおりん、だけど実を言うと、僕は同じくらいあんなちゃんも好きだ——激高し高槻くんが煩悶しまこちゃんがぼんやりする風景、それは見通しのきかない風景だ。したがってこの点で、『放浪息子』は新海誠のセカイとはかなり異なったレイヤー構造をもっていると考えられる。説明しよう。
桜。『放浪息子』第一話の風景を印象的に彩り、画面全体を白く淡く演出していた重要なモティーフのひとつだ。桜吹雪が、あるいは得体の知れない水彩風の霞のようなものが、キャラクターを風景のなかに混ぜ込み、遠景レイヤーと近景レイヤーのあいだに生じる空隙を消し去っている。どのような技術が駆使されているのか、僕には全然わからない。けれども『放浪息子』の風景には、無数に折り重なったレイヤー間のズレや認知的な不協和がほとんど見られないこと、そしてそれが特殊な色と光、桜の花びらと滲んだような霞のエフェクトによって実現されていることは明らかだ。要するに、新海誠が遠景レイヤーと近景レイヤーを垂直的なモティーフで媒介=切断し、かぎりなく見通しのいいセカイを作り出したのに対して、『放浪息子』はいわば「空気」を実体化することによって——この点で同作は、いわゆる「空気系」の議論とも接続しうるはずだ——、レイヤー相互の隔たりを私たちのまなざしから遮断したのである。
私たちの視界は露出オーバーの写真のように白く飛び、淡い色の雲が輪郭を離れて浮遊する。まなざしはふさがっている、しかし決して不快ではない。それどころか、まるでターナーの作品のような——言い過ぎだろうか、しかしテレビアニメでこんな表現に出くわすとは、正直思ってもみなかった——美的な快楽を実現している。
多層的なレイヤー構造が生み出す映像の不協和を色彩によって覆い隠し、乗り越えること。この点で『放浪息子』は、現在のアニメ表現におけるひとつの極北を指し示していると言っていいだろう。そしてその正反対の夜空にかかっているのは、言うまでもなく『まどマギ』である。後者が風景の/による暴力革命の記念日であるとすれば、前者は風景の楽園だ——エフェクトというキューピッドに導かれ、近景レイヤーと遠景レイヤーが互いに手をとって寄り添い、浸透し、色彩を交換し合う。そこで紡がれる物語は、いったいどのようなものになるのか。原作の熱狂的なファンのひとりとして、夢のように霞んだ風景を眺めながら、愛すべきキャラクターたちの——とくにさおりんとあんなちゃんの——一挙手一投足を見守っていきたいと思う。